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漫画の中の恋愛に読者が第三者的な妥当性を求めてしまう関連

 漫画の主人公って、モテがちじゃないですか。色んな異性と付き合ったり結婚したりする可能性が提示されるわけです。ただ、可能性は沢山あれど、物語の結末はその中で1人だけが選ばれるものになりがちです。ここで気になるのは、では誰が選ばれるのか?という問題と、選ばれなかった人はどうなるのか?という問題です。

 

 これはゲームで言えばドラゴンクエスト5における、ビアンカとフローラのどちらと結婚するか問題と通じるところがあります。

 以下は、以前に話をしていて揉めた記憶です(ご参考まで)。

 

 

 このようなゲームやら漫画やら内の恋愛模様について、読者としては第三者目線での妥当性を求めてしまうことがあるんじゃないかと思います。つまり、「選ばれるのがその人でなければならない」という妥当性です。妥当性の根拠とされがちな代表的なものとしては、「最初に出会った相手である」というようなものがあります。

 例えば、「子供の頃に結婚の約束をした相手と遂に結ばれる」というような結論が「しっくりくる」というような理由で選ばれがちではありませんか?全30巻の漫画があったとして、29巻目で初めて登場したヒロインと主人公が幸せになり、それまで登場した数々のヒロインがないがしろにされる展開があった場合、読者は納得するでしょうか?

 人間と人間の間のことは、客観的に見てしっくりくるかどうかとはあまり関係ないと思うんですけど、こと物語においては、読者の視点から見てしっくりくる相手になってほしいというような気持ちになることがあると思います。

 頼まれてもいないのに作中の登場人物たちの保護者視点になってしまいます。まるで自分の息子や娘が、このような人間と結婚するのはまかりならんと意見するような気持ちを持ってしまったりはしないでしょうか?

 

 これだけならまだいいですが、より面倒くさい問題もあります。それは、最終的に選ばれなかった女の子たちや男の子たちのケアも必要ということです。なぜならば、その人たちが選ばれなかったことによって不幸になってしまえば、主人公は悪いことをした人になってしまうからです。選ばれなかった以上、なんらか傷つけてはしまうでしょうが、主人公が悪くなり過ぎないような形にならなければなりません。

 ここで非常に面倒くさいのは、選ばれなかった人々とはいえ、読者の中にはファンもおり、これもまたポッと出のキャラクターとくっついたりすると文句を言ってしまう人が出てくるということです。

 では、結局どうなるかというと、主人公の男の子と、最終的に付き合う女の子がいた場合、それらにそれぞれフラれた形の男の子と女の子同士が、あまりものをくっつけるというような形で付き合ったりすることもあるのです(「みゆき」とかで示唆されたやつですね)。

 これ、物語ではいいですけど、なんか理屈としては嫌じゃないですか?実際に自分が誰かにフラれたときに、別方向で同じ立場の異性がいたとして、余り者同士をくっつけたらしっくりくるよ?って言われたら最悪だなあと思ったりします。

 

 学生時代とかあるじゃないですか。そういうわけではなく仲良くしている異性との関係を、周囲が勝手に気をまわして付き合うようにもっていこうもっていこうとするやつ。あれ、やられるとそれまで仲良かった人とぎくしゃくしてしまったりしますし、ホント嫌だなっていう気持ちになるんですよね。

 

 とにかく、作中の誰と誰が付き合うか?といった場合、「誰だったらしっくりくるのか?」というような概念があり、それに見合わないとおそらくなんらか批判が生まれます。

 「あずみ」なんかでは、結局あずみというスーパーヒロインに対して妥当な男が見つからなかったのか、あずみのことを好きになった男たちが次々に死んで行きます。その後、続編の「AZUMI」では、坂本竜馬とその時代のあずみが惹かれあうという展開があり、「なるほど!あずみに匹敵できるのは、同じく小山ゆう作品の主人公であった竜馬か!」と膝を打ったものですが、竜馬も結局死ぬので(史実なので)、結局あずみに対する適切な伴侶という概念は定まらぬままです。

 

 男が主人公ならば、次々に浮名を流しても読者に許容されがちな気もしますが、女が主人公の場合はなかなか難しいことです。その主人公が完璧であれば完璧であるほどに、どんな男も妥当と判断されないかもしれません。

 ここに食い込むのは「ハッピーマニア」のシゲタだと思うのですが、シゲタは理想の恋人を探して、様々な男と付き合います。その傍らにはずっとタカハシというシゲタのことをずっと想っている男がいます。シゲタはなぜタカハシではダメなのだろう?と僕が高校生ぐらいのときには思っていました。それはきっとタカハシならしっくりくると当時は思っていたからです。

 しかしながら、シゲタはハッピーの探求者として、タカハシを選ぼうとせずに、他の男の方にばかり走り、そして失敗し続けます。で、最終的にはタカハシに行きつくわけじゃないですか。妥当なところですよ。でも、それに対する疑問を抱えたままお話は終わるわけじゃないですか。そして、この前描かれた「後ハッピーマニア」はそんなタカハシの浮気(というよりは本気)によって離婚するかどうかという話になります。

 しっくりくるかどうかなんて客観的な話でしかなく、主観的にはいかにそれが一時運命のように思えたとしても、いずれ破綻したりもするわけです(もちろんしないこともあります)。

 

 「運命の相手」の存在の否定ということは、青年誌では割と描かれがちな主題です。「シガテラ」では、主人公は高校生時代には恋人とゆくゆくは結婚し、一生添い遂げるような想像をしていましたが、最終話ではお互いに別々の相手を見つけ、別々の幸せを獲得しようとしています。

 「この人でなければならない」ということは、一時そう思うことはあったとしても、本当に永遠にそうであるかどうかとはきっと関係ないのではないでしょうか?やっぱり、そうでない!と思ったら別れればいい話ですし、そう思ったときにそうできない方が不幸であったりもすると思います。

 ハッピーマニアで言えば貴子の立場です。自分の人生には「正解の選択」が存在するものであり、やっと見つけたその選択に必死でしがみつかなければならないという幸せの獲得方法は、その時点で不幸の入り口なのではないでしょうか?

 

 それは正しい相手を選ぶ正しい恋愛です。「ボンボン坂高校演劇部」では終盤に差し掛かり、主人公を好きと言っていた女の子たちが次々に新しい相手を見つけだし、正ヒロイン然とした先輩が残ります。それが悪いわけじゃ全然ないんですよ。でも、正しさのある恋愛だなということを思います。

 一方、「いちご100%」では、一番の正ヒロインオーラを出していた東城ではなく、西野が選ばれました。この選ぶ選ばないという概念も、選ばれるとされてしまう側からすればよくないものだなとは思うのですが、今はそれはいいとして、この選択は、物語の「しっくりくる」という圧力から主人公が抜け出して、自分の意志を表明したようなところがよかったように感じました。

 先日掲載されたスピンオフ続編の「いちご100% EAST SIDE STORY」では、その後の東城が描かれるわけですが、安易に別の男と付き合わせるということも難しいのか、選ばれなかった側の立場と気持ちの供養が大変というようなものを読み取ってしまいました。

 

 読者としてしっくりくるかどうかというのは、何らか持ってしまうものではないかと思います。「究極!変態仮面」で主人公の狂介が、最終回で愛子ではなく春夏と結婚していたことに、なにかしっくりこないものを感じたりしませんでしたか?(なお、文庫版ではこの経緯が加筆されています)

 ただ、そのとき、胸のうちにあるのは、主人公たちがそれで幸せかどうかではなく、あれだけ色んなエピソードをやっておいて、結局違うんかい!?という妥当性の話でしかないんじゃないかと思います。

 

 現実の恋愛とかにそういう妥当性みたいなものを適用しようとすると、ホント気が重くなるような気持ちになるじゃないですか。個人の気持ちはないがしろにされ、第三者視点からの正しさで結論を導かれてしまうのはおそろしい話です。

 

 この辺の面倒くささを凝縮したのがビアンカ・フローラ問題だと思っていて、ビアンカは十分妥当な理由を持っていて、さらにビアンカを選ばなかった場合、ビアンカはひとりで生きることが示唆されます(一方、フローラにはアンディがいる)。誰を選ぶか?にも選ばなければどうなるのか?にも、ビアンカを選ぶのが妥当そうな条件がそろっているわけです(リメイク版では子供の頃にフローラと出会うエピソードの追加や、3人目としてデボラが追加があり、若干緩和されている向きもありますが)。

 自らの意志で好きな相手を選ぶなら、ビアンカを選んでも、フローラを選んでも、デボラを選んでも、全て正解だと思うんですけど、唯一、妥当性や同情心を根拠にビアンカを選ばざるを得ないということは間違いなんじゃないですか?というのが、冒頭のツイートで30代男性が3人(当時は既婚1人、独身2人)集まって揉めていた内容です。選ぶということも、自分と結婚しなければ不幸になるというような認識も、実は傲慢な話かもしれません。

 ちなみに僕は息子と娘の髪の色が金になるのがよかったので(スーパーサイヤ人みたいでカッコいいので)、ビアンカ一択という選択でしたが。

 

 漫画を読んでいて、お話の中で誰と誰が付き合ったり別れたりをしていると、色々思うところがあるんですよ。それは自然に思ってしまうことがあるんですけど、それはあくまでなんとなく、第三者視点で適当に妥当性を勘案して思っていることなので、お話の進行はそれに従わなくていいよなあという気持ちがあります。

 「モンキーターン」で波多野が、幼馴染で、家が隣で、窓を開けばお互いの部屋が見えるような正ヒロイン然とした澄ではなく、競艇の学校で出会った青島の方を一時選んでしまったとき、結局、最後は澄のところに戻ってくるものの、青島を選んだところで、好きになってしまったことそれ自体は悪かったわけではなかったと思うんですよ。それがばれたときに澄の目がめちゃくちゃ怖かったですが、だとしてもですよ。ただ、嘘をつくのはよくないですが…。

 

 「からくりサーカス」では、白銀と白金の兄弟の両方がフランシーヌを好きになりますが、白銀と惹かれあうフランシーヌを見た白金は、暴力的にフランシーヌをさらってしまうわけじゃないですか。そのときの理由を覚えていますか?「フランシーヌは僕が最初に好きになったんじゃないか、それを横からとるなんて、ダメだよ、兄さん」ですよ。ここが妥当性ですよ。

 先に好きになったかどうかということは、当人同士の恋愛には何の関係もないことです。白金の心の中だけにあるストーリーのしっくりくる感じだけに寄り添った感覚です。そこで、白金は自分の中だけにある正しさを優先させ、他人の気持ちをないがしろに扱ってしまったわけじゃないですか。そして、これをきっかけとして、とてつもない不幸を世に生み出してしまったわけじゃないですか。

 

 そういうことを思い返しつつ、漫画を読みながら、ようし、僕にも色々思うところはあるが、君たちは好きに恋愛をしろ!!と思ったという話でした。