漫画皇国

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唯一無二の正解をかき集めることで逆に息苦しくなる関連

 世の中には沢山の人がいて、僕がするような経験を先にしている人がいたりする。そういう人たちから、色んな知見を教えて貰えることがある。それは例えば、自分のときはこうだったので、あなたもこうすればよいという内容で、僕はそれをありがたく聞くけれど、大抵の場合、そのままその通りにしたりはしない。なぜなら、それはあくまでその人たちの経験であって、僕が今いる状況とあらゆる条件が完全に一致しているわけではないからだ。条件が異なれば、回答も異なるはずだと思うのだ。

 だから、同じやり方をしたところで、僕も上手くいくとは限らない。話自体はありがたく聞かせてもらうけれど、結局、僕自身がどうするかは改めてイチから考える。そこで行きついた結果が、結局聞いたものと同じやり方になることもある。でも、それはきっと全然意味合いが違う。僕は「自分で考えて選ぶ」ということにこだわっていて、それこそが自分が生きる上でとても重要なことだと感じているのだ。

 

 僕はあまり器用な方ではなく、何かを習得するのに、普通の人よりも倍ぐらいの時間がかかることが多い。子供の頃から、みんなが終わってさっさと次に行っているときに、同じ場所に留まったまま試行錯誤を続けていたようなことが沢山あった。

 皆はとっくに帰っているのに、僕はひとり教室に残って、何かにずっと取り組んでいたりしていた。皆が先に帰ってしまうと、不安な気持ちにはなるし、小学生のときは、おしっこに行きたいようなそわそわした気分によくなった。ひどく落ち着かない気持ちで、早く僕も次に行かなくてはと思いながらも、でもまだ行けるとは思えないというような葛藤があった。

 中学生や高校生になれば、自分の不器用さにもある程度慣れてきたし、ある種の諦めもあった。僕は普通の人よりも同じことをするのに時間がかかるのだから、他の人より倍の時間がかかるなら、倍の時間がかかることを最初から見込んでおけばよいだけだと思うようにした。そんなだから、当然、他の人たちと歩調は合わないし、ひとりで黙々と、皆がとっくに終えたような何かに取り組んで過ごすことも増えた。

 でも、それでも、僕には自分で納得いくまでやって習得できたという実感の方が大事だったのだと思う。

 

 体育なんかでもそうで、例えばバスケットボールのフリースローなんかでは、投げ方に納得いくまで放課後にひとりでずっと練習していた覚えがある。僕は球技は全般あまり得意ではなかったけれど、高校のいつだったか、フリースローが何本入るかを先生がチェックするときに、その時は確か10本中7本入れた。先生からは本当にそんなに入ったのか?と失礼なことを聞かれた覚えがあるけど、それは本当だったし、そのとき上手く行ったのはきっと、他の人よりも何倍もの量を投げていたからだと思う。

 ただし、それはあくまで同じ場所から同じ角度でなら成功するというだけのことで、バスケに必要な他のことは当然全然練習が足りていない。だから、その練習をしたことは試合ではあまり役に立たなかった。でも、その時間は僕にとってはとても重要な時間だったと思う。ジャンプの高さや肘の角度、力の入れ具合、腕の軌道、それらを少しずつ変えて、上手く行ったときと上手く行かなかったときの差を考えて、延々と繰り返す。結局どういうやり方が最適かは上手く言葉にならないけれど、なんとなく「一致した」と思う感覚が得られるときがあって、そういうときに、成功率という数字で目に見えて良くなってくる。

 その瞬間がとても報われた気持ちになる。そういう体験が僕の人生の中ではとても重要だと感じている。

 

 そういえば、数学の試験なんかでも、物覚えが悪かったので、必要な公式をなかなかちゃんと覚えられず、あやふやなまま使うという不安を抱くことがあった。なので、僕がどうしていたかというと、テストが始まるととりあえず問題用紙の空きスペースで公式の証明をしてみて、記憶の中の公式が正しいらしいことを確認してから解いたりしていた。単純な暗記には実感が伴わなかったけれど、証明の方法という手続きには実感が伴っていて、自分の中でより信頼がある方法だったからだろうと思う。

 

 不器用ならば倍の時間をかければいい。倍の時間をかけさえすれば人並みになれるんだということが僕の信仰だ。それは今でもそうだ。

 

 このやり方が通用しにくいのは、他の人と同じ練習時間しか与えられないときや、数を繰り返すためにパートナーが必要だったりするときだ。例えば、運転免許の取得なんかでは苦労したと思う。なぜなら、教習所の規定の時間よりも多くの時間をかけないと上手くなれないと思うのに、追加でお金を払わないと回数を増やせなかったりするからだ(追加でお金のかからないコースもあったけど)。結局何回かは余分に講習の料金を払った覚えがある。あとは、他の人の車の運転にのるときに、どう動かすかを横でイメージトレーニングをしまくったりしてカバーをした。

 誰かに練習を付き合って貰わないといけないときは、地獄のような気持ちになった。僕が下手くそなせいで他人に迷惑が掛かってしまうことに辛さを覚えてしまうからだ。最初は気にしないと言ってくれていた人も、同じところで何度も間違える僕を見ると、みんなだんだんイライラしてくるのが分かる。一方でゲームなんかがよいと感じるのは、コンピュータさんは僕がどれだけ失敗しても一切イライラしないということだ。だから延々と回数をこなすことができる。

 ただ、以前バイオハザード5をネットのCO-OPで知らない人と一緒に遊んでいたとき、僕があまりに失敗ばかりするので、相手から「Wait!」と声をかけられ、僕を放置して勝手に攻略されたことがあった。僕があまりにどんくさくてイライラしたんだと思う。あと、タイミングよくボタンを押すQTEを失敗しまくったときは、先の「Wait!」の件もあって、ネットの向こうの人がイラついていないか気になって気になってしまい、プレッシャーで余計にミスをしてしまったような気もする。

 その日はそのまま手伝ってもらってクリアまでいった。最後に相手からは「お疲れ様でした」とメッセージがきたので、「ありがとうございました!」と返した。その言葉に偽りはない。でも、僕の心には、失敗をしてはいけないという緊張感からようやく解放されたという強い安堵も大きかった。

 あれは貴重な体験であったと思うと同時に、これからはネットで知らない人と一緒に遊ぶときには、ある程度上手くなっておこうという気持ちを新たにした。

 

 自分の無能を補うために使える十分な時間や環境がないと、なかなか生きることが難しい。僕のどんくささにイラついた人が、一足飛びに正解を教えてくれて、そうしろと言うこともある。でも、僕は頑固にそうしないし、申し訳ないけれどと思いつつも、僕にとっては、そういう自分でなんとか答えを見つける生き方を続けることが大切だ。

 

 そういえば、仕事を始めて最初の上司が、「君は最初は何も覚えているように見えず、非常に心配になったが、いつの間にか全部できるようになっていて不思議だった」というコメントをくれたことがある。僕はどんくさい人間なので、学習曲線が最初は全く動いていないように見えるのだと思う。そして何より、僕自身がそんな自分を認めて許してしまっているので、そこから無理に変えようとしていないし、それがなおさら拍車をかける。

 優秀な人たちの、すぐに目に見えて上昇する学習曲線を見慣れている人にほど、僕のどんくささは心配をかけてしまう。でも僕はそのうちできるようになるんですよ。ただ、倍の時間はかかります。

 

 さて、世の中には「正解」を教えてくれる人が沢山いる。冒頭にも書いたように、それを教えてくれること自体はありがたいけれど、僕は別にその通りにすることはない。それはその人の辿り着いた正解であって、僕の辿り着いた正解ではないからだ。僕が思うに、他人の言う正解を沢山集めても、場合によっては自分の正解を探す機会がなくなるだけで、あまりよくないんじゃないだろうか?

 そして、教えてもらったそのひとつしか正解がないと思い込んでしまうことはよりしんどい話だ。

 

 唯一無二の正解は、それ以外のやり方を全て不正解にしてしまう。ネットで検索でもすれば、色んなことについて沢山の「唯一無二の正解」である言説に行き当たることができる。けれど、それらをいくら集めても、自分のとりうる選択肢の大半に不正解のレッテルが貼って消すはめになるだけで、実はむしろ不自由になるんじゃないかと思う。

 例えば「○○のときは××するのが正しい大人としての態度だ」というような正解の言葉があったとき、いざ○○になったとき、××以外のことをすれば正しくない大人になってしまう。だから、××をせざるを得なくなる。そして、本当に××をすることは自分にとって正しいことなのだろうか?という疑問が頭をよぎる。

 

 ひとつの正解を生み出すために他の全てを不正解にするような言葉を、僕はあまり集めたくない。それはきっと息苦しいからだ。つまり、僕が欲しいのは別解であって、無数にある正解の中で、自分が知らない種類のものを教えて貰うならば助かる気持ちになる。もちろん、その別解を選ぶとも限らない。けれど、選んでもいい可能性を得られることについて助かるという気持ちになる。僕は今の選択肢を手放した方がいいと気づいたとき、新しくそちらを選んでもよくなるからだ。

 

 何かをする上で選択肢を狭めるように働く、唯一無二の正しい答えについては、僕はいくら教えて貰えても拒絶気味だ。その代わりに、今あなたが思っているやり方だけでなく、他にはこんな別の正しさのある答えもあるんだよと教えてくれるものは優先的に受け入れている。

 僕がこのように考えているということは、別に正しいやり方と思っているわけではない。ただ、僕に都合がいいやり方であるというだけでしかない。

 

 生きていく上で、「自由」と「実感」が何より大切と感じてしまう。なので、より自由な方向に、より実感のある方向に向かった行動をするように生きている。それは誰かが教えてくれた唯一無二の正解を信じて生きていくこととはおそらく真逆にある。

 「二兎追うものは一兎も得ず」という言葉もあるけれど、「一石二鳥」や「一挙両得」というような言葉もあるわけです。二兎を追ったために失敗することもあるからといって、二兎を追ってはいけないということもないでしょう。好きにしたらいいと思う。好きにできることが重要だ。

 

 ただ、こんなことを言っていられるのも、ある程度余裕があるときだけかもしれない。自分で納得いくまで答えを考えるためには十分な時間が必要だし、それよりも先に決断を求められることもある。あと、僕は実感のために大量の時間を使うので、同じ時間を生きてきた他の人よりも、何かをやってる範囲が非常に狭いかもしれない。なぜなら、時間は誰にも平等だからです。

 でもいいじゃないですか。皆がポテトハーべスターでガンガンじゃがいもを収穫しているような中で、家庭菜園で小ぢんまりと育てたジャガイモを、たまに蒸かして食べて一生を送るという正解もあると僕は思っているわけなんですよ。