漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

ミュシャ展に絵を見に行った話

 始まってから何回か行こうとして六本木まで行くのがめんどくなってやめてたミュシャ展に、そろそろ終わると思ってあわててこの前の日曜に行ってきました。開催終了期日を翌日に控えた日曜日なので、完全に混雑が予想されましたが、朝の8時40分ぐらいに乃木坂駅国立新美術館に繋がる出入り口に行くと、9時頃には館内に通してもらい、9時半から繰り上げて開場(本来は10時開場)、そこからはほどなく入場できたので、意外と待つこともなく見ることができました(とはいえ、よく考えたら開館までの時間を含めて1時間以上は待っているので結構待っているのかもしれません)。

 

 入り口を入るなりスラヴ叙事詩という連作の大きな絵が沢山あって、めっちゃよかったです。進んでいくと見知った感じの小さめの絵もあって、下描きや修作などもあって、めっちゃよかったですし、総じてめっちゃよかったなあと思いました。

 

 オタクと言えばミュシャの絵が好きなことでお馴染みで、僕はオタクなので、ゆえにミュシャの絵が好きということが分かります。僕は漫画のオタクであって、美術に対する造詣は全然ないんですけど、ミュシャの絵は漫画っぽいなあと思うところがあってそこが好きなんじゃないかと思います。

 もちろん、ミュシャの絵は100年以上前の絵なので日本の漫画の隆盛よりもずっと昔のものですし、ミュシャに影響を受けた漫画家も沢山いると思うので、「ミュシャが漫画っぽいのではなく、漫画の絵の方がミュシャっぽいんだよ!」というと、そうなのかもしれません。ただ、直接的な影響というよりは、生態系における似た立場や環境にいる生物が、系統は異なっていても似たような形質を獲得する、収斂進化のようなものを感じたのです。

 その共通点とは、ここではつまり、「線に対するこだわり」ではないかと思いました。

 

 線によって絵を描くということは、鉛筆やクレヨンを持てばみんな当たり前にやることなので、当たり前に受け入れていると思いますけど、結構特殊なことだと思います。なぜならば、自然の中に線で構成されているものはあまりないからです。色と色の境界や、物が形作る光のさえぎりである輪郭などを概念としての線に落とし込み、場合によっては本物の形から崩してデフォルメすることで、物を描きます。それは写真のような直接的で具象的なものではなく、もっと間接的で抽象的なものです。

 抽象的であるということは、線で描かれた絵を見るとき、そこで描かれているものを理解するには、何かしらの解釈が必要だということです。

 つまり、線で描かれた絵が発しているメッセージとしては、「描いた対象そのもの自体」だけでなく、同時に「それがどのような種類の解釈を要求しているのか」ということもあるのではないでしょうか。対象を絵に変換するときに、どのような理屈によって線に落とし込んでいるかによってその絵を描いた人の流派というか、出自というか、これまで何を見て影響を受けてきたかのようなものを読み取ることができます。それはある種の圧縮アルゴリズムの提示とも考えることができるでしょう。そのような形式で圧縮されたものは、正しい手続きによって展開されなければなりません。

 つまり、線で描かれた絵は、その描き方によって、それを描いた人が属する部族と、それをどの部族に見せるために描いているかの情報も含んでいるように思うのです。

 

 なので、例えば1970年代の漫画の絵は、多くが1970年代の漫画の線で描かれているので、絵を見ると、1970年代の文法で描かれたような絵だなあと思うでしょう。そのような絵には、その時代の絵に慣れ親しんだ人しか読み取れない情報が込められているかもしれません。そして、そのような絵から古い時代性を読み取って拒否する人もいれば、むしろ今の絵よりも好きだと思う人もいるでしょう。

 今の時代でも、それらの時代の絵を先祖がえりのように描く人もいます。そこにはその線で描かねばならない何らかの文脈があるのではないでしょうか。つまり、線で描かれた絵というものは、何かしらそれを見る人に解釈を要求し、それゆえに見る人の種類を限定する要素を持ち得るということです。

 となれば例えば、オタクが好むような文法で描かれた絵があれば、それは描いた人がそのような文化に慣れ親しんでいるという表明でもあり、それを好むことは、自分もまたその文化に属しているという表明でもあります。オタクっぽい絵に対する拒否感を持つ人がいますが、それはつまり、そのような絵による表現の授受を行う行為は、そのような文化に属するということも意味するからだと思っていて、何らかの絵柄を好む好まないということはある種の社会的立場の主張のひとつでもあると僕は思っています。

 

 繰り返しになりますが、線を使って絵を描くということは、線ではない写真などの場合と異なり、その解釈に何らかの文脈を要求するものであり、ここに漫画とミュシャの絵を結び付けるものがあるのではないかと思いました。

 

 余談ですが、「線で描く」ということが、「どのような線を選択するかという文脈を要求する」ものであるのだとしたら、線を使わない絵であれば、文脈の要求がそれよりも少なく、普遍性を持ちやすい効果があるということになります。なので、線を使わない代表的な表現である写実的な絵画は、その時代性を感じにくく、対象が写真であった場合もまた同様でしょう。

 また、デフォルメしつつ線を使わない画風といえば、最近では「いらすとや」の絵などが線を極力排した絵で表現されています。もしかすると、だからこそ絵柄に対する拒否感を与えにくく、色々な場所で広く使われやすいのかなあとか適当なことを思ったりしました。

 

 さて、前述のようにミュシャは線で絵を描く人ではないかと思っていて、それは演劇の広告で世に出てきた人であることと不可分ではないのではないかと思いました。つまり、印刷技術の制約によって、カラーの絵を量産する技術がまだ限定的であった時代に練られた画法なのではないかということです。油絵のようなカラーのグラデーションをおいそれと使えない制約の中で生まれる技法は、白黒印刷を前提とした日本の漫画における技法と求められる要素が近い可能性があります。

 ただし、異なる点もあります。日本の漫画が最初からデフォルメされた絵を前提として発達していることとは異なり、ミュシャの絵は実在の役者を線で表現するというところから始まっています。なので、のらくろや初期の手塚治虫の漫画などとミュシャの絵を比べれば、さほど似ているとは思わないでしょう。

 しかしながら、漫画の画風が時代の流れに従って写実性を取り込み始めると状況が異なってきます。つまり、ミュシャは具象から抽象に向かう動きであり、漫画の絵は抽象から具象に向かう動きを見せていて、それらがぶつかる特異点のひとつがあの画風なのではないかと思いました。これはつまり、出自は違っていても、目的地が似ているために、似たような表現に到達したということです。

 もちろんこれはかなり乱暴な言い方で、「日本の漫画の絵」というものは多種多様な要素を含んでいるので、一概にこうと言えるものではありません。現代では写真をベースに絵を起こすことも一般的ですし、美術的なデッサンの方面から漫画にやってくる人たちも沢山います。このように、ミクロであれば異論は沢山思いつけますが、ざっくりとしたマクロな方向性の話として続きを書いています。

 

 共通するものが見て取れるからといって、日本の漫画でよく使われている線を使って抽象的に具象的なものを表現するという技法が、全てミュシャに由来するものであるとは思いません(無論影響を受けた人たちは数多くいるでしょうが)。しかしながら、それぞれの時代時代の日本の漫画家が試行錯誤して作り上げ、その読者であった人々が漫画家となることで、さらにそれをベースにして作り上げ、練り上げられてきたと思われる、現代の漫画の「線で絵を描く技法」のうちの多くのものが、おどろくべきことに100年以上前のミュシャの絵の中で沢山見つけることができたりします。なので、これ、ひょっとして「正解」なんじゃないですか?みんなが試行錯誤しているときに、実はずっと前にとっくに「正解」が提示されていたわけじゃないですか?とか思いました。

 ともあれ、そんな感じに、ミュシャの絵と漫画の絵が、なぜか同じ形質を獲得しているという様相が、面白いというか、ミュシャおじさんはたった一人で漫画の歴史を体現するのかよ!とびっくりしてしまったりするのです。ただし、僕が同時代の作家に詳しくないので、一人でそこに到達したのかどうかの部分は本当にそうか認識があやしく、もしかすると、昨今の日本の状況のように様々な試みと切磋琢磨があったのかもしれません(近い時期の線画による表現では、ロートレックも印象的です)。

 

 初期の広告用の絵とは異なり、テンペラや油彩で描かれたスラヴ叙事詩は線画ではありませんが、その画法の中に沢山の線を読み取ることができます。線は最終的に消えてしまっているものの(一部残っている部分もありますが)、その元に線があったことを想像できる絵作りになっているように感じました。

 それは例えば、大きな絵の中の小さな一角のみを切り取ってみたとき、そこにあるのが平面に見えたりするというところから推察できます。線画の場合、線の描かれていない領域は平面だからです。にもかかわらず、全体を見てみると立体として見て取ることができます。絵には奥行きがあり、そして浮き上がるように描かれたレイヤ構造もあります。

 線で区切られた領域は何も描いてないので平面なんですけど、線を重ねることで、平面の領域を細分化し、その疎密によって立体感を生み出すことができます(メビウスの画法にも通じるところがあり、こちらも漫画の絵に強く影響を与えていますね)。スラヴ叙事詩の絵では、なんかそういうことをしているように思いました。そんでもって、なんというかこう、空間を描いたというよりは、奥行きごとに描いたレイヤを何枚も重ねたような印象があって、手前、中央、奥というように大きく分類され、それぞれに別の解像度と立体感が設定されて描かれているようで、そのために必要な最小限の描き込みがされているという印象を持ちました。そして、もうひとつ印象的なのが、画面の中に黒ベタがないんですよね。

 僕とかの場合、絵を描くときに黒ベタを入れたくてたまらないんですけど、なぜなら、黒ベタは上手く形をとれないときにごまかす上ですごく便利なやり方だからです(上手な人はそういう使い方をしないと思いますが)。黒をベタっと画面に置いてみるとと、そこが落ちくぼんだように見えるので、簡単に画面に手前と奥を表現することができるのです。なので、立体感を演出したいときには、とにかく、その正確性は無視って暗くなりそうなところを塗りつぶしてしまったりします。その黒ベタはベタっと塗っているだけなのでディテールは一切ありませんが、周囲に細かくかいておくと見る人が勝手に見えないディテールを補って想像してくれるので便利です。でも、ミュシャの絵にはそういうところが一切ありません。陰となる部分にも丁寧に書かれた詳細があり、その情報をもって立体が表現されています。

 

 人間の目は明暗に非常に敏感にできているので、白いところと黒いところがあると、目の前にある光景の関係性を忖度して、むしろ誤解を深めてしまったりします。そのよい例が、以前デイリーポータルZであった、人が座っている手前に黒い丸のシートを置くと浮いているように見えるというやつなのですが、なんとなく黒いところを見て、これが影なんだなと思い込んで、これが影だと言うことは、その上に見える人は浮いているんだなというような解釈をしてしまいます。

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 それは錯覚なので、本当は間違っているって話なんですけど、でもそう見えるということが面白く、こういう細かい誤魔化し方を使って僕なんかは絵をちゃんとした形もとらず、影も計算せず、雑に描いているんですが、そのときに便利なアイテムである極端な白と黒を封じられたら、そういうごまかしができないわけで、ミュシャの絵はそんな感じに極端に白いところも黒いところもなしに描かれていて、すごいなあ、上手いなあと思いました。

 ただ、それは別にミュシャだけの特徴ではなく、ちゃんとした絵を描いている人ならできることだと思うので、ただただ僕がちゃんとしてないという事実が分かっただけかもしれません。

 

 そういえば、僕は中村明日美子の絵がすごく好きなのですが、中村明日美子も平面なのに立体で、奥行きをいくつかの平面に分けたレイヤ構造のようになっているのに、そのレイヤ同士が騙し絵みたいにぐんにょり繋がっているというような不思議な絵で、ミュシャとは画風は違いますけど、方法論には共通する部分があるんじゃないかなあと思ったりしました。

 

 線を使って絵を描くことで、写実とは異なる、解釈を求める絵が出来上がります。そして、そんな線を使って写実を取り入れた絵を描こうとすると、平面と立体を取り持つような不思議な絵が生まれると思います。

 それは、単純化と詳細化が作者の意図によってコントロールされている、見せたいところとそうでないところを区別した、「伝えるための絵」になっているのではないでしょうか。そして、線で描かれた絵はある種の暗号なので、それを解釈するための素養と言うか、共有すべき文脈があると思います。そんな中、現代の日本人は漫画の読者であることでそれを既に持っている人も多く、ミュシャの絵も十分に解釈して受け入れることができる能力が子供の頃から鍛えられているんじゃないかなと思ったりしました。

 

 絵を見ながら、こういうことをごちゃごちゃ思って、それが頭の中をごちゃごちゃ流れていったりしました。そんでもって、そのうち何にも考えずに、近くで一部をしげしげと見たり、離れて全体をぼんやり見たりして何時間も見続けていたんですけど、人が沢山いなければ、もっと長時間いれたなあという気持ちがあり、また、沢山の人が絵を見たくて美術館に来てるというのもよい光景だなあという気持ちなどがあり、とにかく会期ギリギリでも行ってよかったなあと思ったりしました。

 よかったよかった。