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「コオリオニ」と悪人正機

 「アナと雪の女王」が好きで、ブルーレイを買って何度も見ています。どこが好きかというと、雪の女王ことエルサのLET IT GOのシーンが好きという普通な感じです。

 それは、氷の魔法という他の人とは異なる特性を持ったエルサが、普通の人の中で暮らすためにその事実を取り繕って隠し、無いものであるかのように生きなければならないという強い抑圧のもとで生きているという苦しみの辛さと、その事実がついに暴露されてしまったことで人の中から飛び出し、雪山をひとり歩くという姿に心を打たれたからです。それは悲しいことなのかもしれません。モンスターと呼ばれ、人の中では暮らせなくなってしまった哀れな女王。そんな悲しい悲しい雪の女王が、高らかに歌い上げる歌が、あまりにも自由に満ち、力強かったということに非常に心が打たれたのです。

 彼女は普通の人からすれば危険な怪物に見えるかもしれません。それは望んで得たものではなく、生来の特性です。エルサは彼女らしくあるために、社会を離れ、雪山に作った氷のお城でたったひとりで暮らすことを決意します。

 アナ雪の物語では、エルサはその特性を上手くコントロールできるようになり、人の中で生きていくという結末を迎えます。そこには妹であるアナの自己犠牲的な奮闘もあり、エルサのアナを想う自己犠牲的な行為もあり、ついに人々に受け入れられ、エルサをモンスターと呼んだ男の方がむしろ排斥されることになります。

 エルサの生まれ持っていた氷の魔法の力は、普通の人々が持ち合わせないものではありますが、決して邪悪なものではなく、それを上手くコントロールしさえすれば、人々の中でも上手くやっていけるというお話です。とても優しいお話です。

 

 しかし、もしその特性が決して人の中で生きていく上で許容されないものであったとしたらどうでしょうか?人の中に生まれた、人が決して許容できないバケモノ、それはきっと、優しい優しいアナ雪の物語にさえも指の間をすり抜け取りこぼされてしまう、哀れな哀れな人々で、そんな人々を描いた漫画が梶本レイカの「コオリオニ」だと思います。

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 警察の威信をかけたノルマ達成のために犯罪に手を染めた刑事の鬼戸と、その鬼戸に情報やブツを流すヤクザの八敷、彼らは異常者として描かれ、彼らのその生来の特性は、他人の犠牲を伴う犯罪行為として表出します。

 彼らの生は、すなわち誰かの害です。彼らが生きたいように生きることは、別の誰かが生きたいように生きることを阻害し、その行為は明確な犯罪として描かれ、それゆえ彼らは社会のどこにも居場所がなくなってしまいます。

 

 鬼戸は、警察組織の不正を受け入れなかったために道を断たれた父を持ち、ああはなるまいと思って生きてきました。組織の異分子となり、そこに居場所がなることを恐れ過ぎるあまりに、不正行為を拒否せず受け入れ続けます。つまり、彼はその場において誰よりもまともであろうとしたために、組織でトップクラスの不正を働く男となり、そして、その何も拒否しない姿はもはや「異常」であると評されてしまいます。誰よりもまともでありたいと願ったのに、その願いこそが、彼を警察組織でトップクラスの異常な不正警官に押し上げる結果となりました。そして警察は、そんな尽くして尽くした彼を切ることを決断します。

 鬼戸は元からまともな人間ではなかったのかもしれません。まともであるかどうかということを、他者の言いなりになることでしか判断することができなかったのですから。鬼戸は、彼の前の敷かれたレールを踏み外さないことが、いかに異常であったかということを、もはや引き返せなくなったところで痛感します。

 

 八敷は、どこにも逃げられなかった男です。吹き溜まりのような地域で生まれ、父親からの虐待を受けて育ち、そこから逃げ出そうとしても、逃げ出す道すらなく転げ落ちるようにヤクザになります。

 八敷は可哀想な男です。少なくとも八敷の主観において、彼はあまりにも可哀想で行き場がなく、その犯罪行為に釣り合うと思えてしまうほどの喪失と不幸を背負っているように見えました。彼は相棒の佐伯に身も心も捧げていました。自分を父親から解放してくれた佐伯を慕い、彼のためならどんなこともするいじらしい男です。

 しかしながら、それらはあくまで八敷の主観的な話です。

 他者の視点を経由した八敷は、自由奔放に他者を蹂躙し、佐伯に尽くすというよりも、佐伯を利用して自己の欲望を解放している異常者のように見えました。彼の欲望はついには佐伯を飲み込み、自らの手で佐伯の頭を撃ち抜くという結末に至ります。

 

 この物語は鬼戸と八敷の物語です。この2人の異常者が、出会い、その生を肯定しようとするために巻き起こる、様々な事件の物語です。

 彼らは本当に悪かったのでしょうか?いや、きっと間違いなく悪いでしょう。彼らの犠牲になって理不尽に不幸落とし込まれてしまった人々が存在するのですから。彼らが自分らしく生きようとすることは罪なのでしょうか?いや、きっと間違いなく罪でしょう。もしそれが罪でないならば、彼らに不幸に叩き込まれた人々は、何に怒り、償いを求めればよいのでしょう?

 彼らは自分らしく生きることが社会における罪悪となってしまうような異常者です。いっそエルサのように社会を捨て、雪山に逃げ込むようなことができればよかったのかもしれません。しかし、現代社会では世捨て人のように生きることは困難です。彼らは社会の中で生きなければならず、そのありのままを受け入れてくれる人々もいないのです。

 

 鬼戸は自分の苦しみの理解者を、八敷は自分の欲望を具現化するための口実を互いに求め、そこには彼ら2人だけの氷のお城が現れます。どこにも行き場のない異常者によって作られた異常者のためのお城です。その中にいる限り、彼らにかかった氷の魔法は解けるのです。一方、その外の世界とは終わりのない戦争が続いてしまうのでした。

 城の外から見れば、彼らは凶悪な犯罪者であり、多くの人を不幸に陥れた悪に違いありません。そして、その城の中に足を踏み入れてしまえば、彼らは理解可能で弱く哀れな人間であるように思えるのです。

 どれだけ人が異常に見える行動をしていたとしても、彼らの主観には「それをすることこそが、今の自分にとって一番正しいことである」という理屈が存在していたりします。彼らにとって一番正しいことが悪となってしまったとき、彼らには救われる未来は存在するのでしょうか?いや、彼らも救われるべきであると彼らを取り巻く社会は思うことができるのでしょうか?

 

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

 

 「悪人正機」の言葉です。仏の教えは自発的に善なる行為を行える者よりも、悪なる行為に身を落としてしまうような者のためにこそあるという話です。

 しかしながら世の中では、悪は悪であるがゆえに、救済される必要がないという結論が導かれがちです。何か不幸な出来事があったとき、その人物が善と認定されるか悪と認定されるかで扱われ方が変化しています。例えば、渦中の人物の行動の中になんらかの瑕疵が存在した場合でも、「自業自得」という言葉が投げられることも多いのではないかと思います。他人に投げかけられる自業自得という言葉はつまり、自業自得であるからこそ、その人は救われる必要はないと突き放す言葉です。

 では、誰から見ても異論なく救われるべき人というものは、世の中にどれほどいるのでしょうか?そして、世の中に救われるべき人と、救われるべきでない人がいたとして、それを判断できるのは誰なのでしょうか?そこにもまた、誰に物言いをつけられることもなく判断出来る人と出来ない人がいるのでしょうか?

 

 鬼戸と八敷は、客観的に見れば救われるべき人だとはきっと思われないでしょう。それを思うには彼らは罪を重ね過ぎていて、そんな彼らが救われるのであれば、彼らによって不幸に落ちた人々に向ける顔がありません。

 道理から言えば、彼らは社会から排斥され、地獄に落ちるべきであると思われるかもしれません。ならば、彼らが迎えるべき道理のある結末は破滅しかありません。

 彼らは社会に害悪な異常者として生まれたがゆえに、破滅的な結末を迎えることこそ正しいと思われ、そして、異常者であるがゆえにそれこそが妥当であると思われるでしょう。善なるものが肯定され、悪なるものが否定される、正しい考え方にてらせばきっとそうです。

 そして、この物語の結末は、それとは少し異なります。

 

 それこそがこの物語の持つ優しさであり、救おうとしても誰しもの手からこぼれて落ちてしまうものにすら向けられた目線ではないでしょうか?

 

 マリー・ローランサンの詩にこのようなものがあります。

退屈な女より   もっと哀れなのは  悲しい女です
悲しい女より   もっと哀れなのは  不幸な女です
不幸な女より   もっと哀れなのは  病気の女です
病気の女より   もっと哀れなのは  捨てられた女です
捨てられた女より もっと哀れなのは  よるべない女です
よるべない女より もっと哀れなのは  追われた女です
追われた女より  もっと哀れなのは  死んだ女です
死んだ女より   もっと哀れなのは  忘れられた女です


 「コオリオニ」は、悲しく不幸で病気であり、捨てられよるべなく追われた人々のお話です。彼らは死して忘れられればより哀れでしょう。しかしそうはならない。このお話がそうはならないことで、読んでいる僕もなんだか救われたような気持ちになるんですよ。

 

 それはそうと、梶本レイカの新作「悪魔を憐れむ歌」の第1巻が明日発売です。僕は買います。