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「D-ASH」を読んで思い出す無敵の小学生の話

 多くの人の場合、大人になると自分が今どれぐらいの速さで走れるかどうかにあまり興味が持たなくなると思う。そもそも全力で走る機会もほとんどない人も多いんじゃないだろうか。世界のトップレベルの話でもなければ、他人より何秒か速く走れることで、得をすることもないし、移動するときには車や電車に乗ればいいという話だ。でも、小学生は違う。小学生にとって足が速いかどうかは天地がひっくり返るかというほどの重要な問題だ。

 

 原作:北沢未也、画:秋重学の「D-ASH」は、足の速い男の子の物語だ(最近電子版で読み返しました)。それは特別な存在で、そんな特別な存在が、特別であるということを描いた物語だと思う。あるいは、そんな特別な存在は、未来永劫特別であってほしいという願いを描いた漫画かもしれない。

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 学校で一番足が速い少年は、最強で無敵だ。勉強ができなかろうが、下ネタを連発して顰蹙を買おうが、誰よりも足が速いというその一点だけで、誰しもが目を背けることができなくなる。主人公の司はそんな少年だ。事故で片足が不自由になった少女、紗英は、そんな少年の駆け回る姿に憧れる。少年もまた、そんな影のある少女に惹かれることになる。

「目ェつぶって…10秒数えて!」

 少年は少女にそう言ってのける。次に目をあけたとき、あの遠くの橋の上に自分がいるからと。その10秒の暗闇は魔法のような時間だ。たった10秒、息を止めて待ったその時間で、少年は言葉通り遠くの橋の上にいる。さっきまで目の前にいたのに、大声を出さないと声が届かないような遠くにいる。得意満面の表情でピースサインを決める小学生男子は、この世で最も無敵な存在だろう。

 

 そんな足の速い少年は、否応なしに多くの人々の注目を集め、その人生を駆け抜けていく。息を止めて待つ、その魔法の10秒が、近所の河川敷なのか、オリンピックの100m走の決勝トラックなのかはただの時間と場所の違いでしかない。

 

 さて唐突に僕が小学生だった頃の話ですが、学年で2番目に身長が低くて、そして、学年で4番目ぐらいに足が速かった(なので学校代表で陸上大会にリレーで出たりしました)。そんなしょうもないことを今でも憶えているのだから、身長が低くて困ったことと、足が速くて誇らしかったことは、小学生の僕にはとても重要なことだったのだろう。運動会の組体操では、何人もが折り重なった一番上に立ち(身長が低くて軽いので)、リレーでは追い上げの要員として順番を決められた(足が速い方なので)。

 だから、僕は運動会も、その前に延々続く練習も全然嫌いではなかったけれど、今思えばそうではない人たちがいたことも思い出す。友達のMくんはクラスで一番足が遅かった。全員リレーの練習では、Mくんが走るところで他のクラスの人たちにどんどん抜かれてしまう。その光景に、リレーで勝ちたい同じクラスの少年少女は、あからさまな溜息を漏らした。そして、そんなMくんは運動会の数日前から怪我で学校を休んだ。先生からは「釘を踏んだ」と聞いた。それが嘘だったのか、本当に釘を踏んでしまったのかを僕は確認しなかった。ただ、その報せを聞いたとき、クラスで起こったことを今でも憶えている。歓喜だ。同じクラスにいた、学年で一番足が速いTくんが、休みのMくんの代わりに2回走れることになった。そして、その年の運動会のリレーでは、僕たちのクラスは優勝をした。みんな喜んだ。僕も喜んだ。今思い出せば、それはなんとおぞましい光景だろう。

 

 それが直接関係したかどうかは知らないけれど、その後、リレーはクラス全員ではなく選抜で行うようになった。個人の徒競走も、障害物競走となって、大きなサイコロを振って出た数だけバットを視点にしてぐるぐる回ってから走ったりするようになった憶えがある。それはきっと、単純に走るのが早いということが、そのままレースの結果に繋がらないようにするための措置だろう。

 

 走るのが速い小学生は最強無敵だ。走るのが速い小学生はみんなの羨望を集めてしまう。そして、その光が強すぎるせいで、影もまた鮮明になってしまう。それを緩和するために、僕がいた小学校では走るのが速いことがあまり意味を持たないようになるルールが作られたのだと思う。ただ、運動だけでなく、勉強だってそうだ。僕が子供の頃には既にテストの順位を貼りだしたりはしなくなっていた。

 人の能力にはばらつきがある。人より秀でていることは素晴らしいことかもしれないが、その視点は、秀でていない大多数の心を傷つけかねないものだ。子供を取り巻く世の中は優しくありたいから、序列をつけないような方向に動いている。それはきっと正しいことだと今は思う。でも、じゃあ、あの頃、僕らの心にあった、走るのが一番速い少年への羨望の気持ちは間違っていたのだろうか?

 

 司は、走るのが速い。見た目も格好いい。彼は色んな人の好感と羨望を集める。それが、多くの人の反感も買ってしまう。けれど彼はそのまま生きるのだ。ワガママで傲岸不遜である。ただ、目の前には困難も立ちふさがる。傷ついたり、失ったりもする。しかし、それでも彼は求める。そして手に入れてしまう。それは彼が特別な存在だからで、なぜ彼が特別かというと、走るのが速いからだ。無敵の小学生が、大人になっても無敵のままに生きようとするのがこの物語なんじゃないだろうか?

 

 GOING STEADYの「青春時代」という曲では、子供の頃のかつてのヒーローが、普通の大人になっていくことについて歌われている。

「PKを決めて 英雄だったあいつが 今じゃあちっちゃな町の郵便屋さんさ」

 世の中は多くはそういうもので、ほとんどの人は、普通より遥か上の一握りの特別な存在にはなれやしない。たまたま学校で一番だったからといって、広い世界に出れば、井の中の蛙であることの方が多いはずだ。だから、あの頃、特別な存在に見えていた人も、歳をとるにつれて普通の範囲に収まって見える。かつて、あの特別さを持っていた、走るのが速いということで、学年中の誰もからの注目を集めて居続けていた日本中の学校の一学年にひとりずついた特別な彼らも、ほとんどは普通になってしまうんじゃないかと思う。

 

 では、あの特別さは何だったんだろう?あの特別さが失われないままに続いたとしたら、それはどこに繋がるのだろう?そんな司はついにはオリンピックに行くのだ。あの頃の無敵の少年のままで。

 

 一方、「D-ASH」には、もう一人の印象的な登場人物がいる。彼は三木という名前の男で、司の後輩だ。そして、司よりも走るのが速い。彼はあとからやってきて、司を追い抜いてしまう。走ることが速い司が、三木の前では走るのが遅い司になる。一度は腐ってしまった司だが、立ち直り、三木はライバルであり仲間となる。

 

 三木は走るのが速いにも関わらず、司のような人気者にはならなかった男だ。走るのが速くて目立つ一方、一番になっても無表情で、人付き合いも疎遠だ。三木は速くありたかった男だ。なぜなら注目を集めたかったからだ。自分が速く走ったときのみ、周囲の人間は三木に関心を持つ。三木は走るのが速い小学生が持つ無敵さに、誰よりも憧れた男かもしれない。三木はその静かな表情からは窺い知れぬほどに、走ることで人々を熱狂させたかったのだ。

 だから彼は速くあり続けなければならない。日本人として100m走を9秒台で走る記録を作るため、周囲の人間も、彼に速くあることを望む。速くあり続けるため、より速くなるため、彼はドーピングに手を出してしまう。

 三木は司よりも速かった男だ。しかし、司のような、速く走れる小学生が持つような、特別な無敵さをついぞ得ることができなかった男だと思う。彼が迎えた結末は悲しいものだ。三木は自分よりも遅い司に憧れていたように思う。だから三木は、司がコーチに渡された、筋肉の消炎剤と偽られたドーピング薬を飲もうとしてしまうのを半狂乱になって止める。そんなものに頼って得られるものは偽物だからだ。それはつまり、三木がその時点で手に入れていたものは全てまがい物であるという苦しみであったのかもしれない。

 司の持っている、本物の特別さに憧れた三木は、それが傷つくことに耐えられなかったのかもしれない。だとすれば、三木こそは司になれなかった人々の最先端だ。

 

 「南国少年パプワくん」にこう書いてあった。 

「完全無欠の少年はコンプレックスだらけの大人になります」

 しかし、もし完全無欠な少年のままで大人になった男がいたとしたらどうだろうか?

 「エアマスター」に登場する坂本ジュリエッタは、一度は敗れながらも再び立ち、愛する摩季の視線を感じながらこう言った。

「俺は好きなコの前で張りきる小学生だ…さっきの倍の力はでるぞ」

 好きな子の前で張りきる小学生はこの世で最も強い存在のひとつだ。

 誰だって多かれ少なかれ無敵の小学生の時代があったんじゃないだろうか?その中の頂点が、走るのが速い小学生男子なんじゃないかと思うわけです。「D-ASH」はそんな無敵の小学生の漫画なんじゃないかと思っていて、だから、陸上のシーンは今読めば、そのリアリティが曖昧でおぼろげであるようにも読めるけれど、そこで描かれている気持ちは本当で、最強で、それがそう思えるのは、僕にも最強の小学生であった時期があって、そして、自分よりもずっと最強で無敵な、走るのが一番速い小学生に憧れる気持ちがあったからなんじゃないだろうか?

 それに価値があったのであれば、それはずっと価値あるものであってほしい。小学校で一番足が速かった男の子に無敵の価値があるならば、それはオリンピックの100m走における決勝トラックだったとしても、絶対無敵のままであってほしい。

 

 「D-ASH」はとても好きな漫画で、それは僕の中にそんな気持ちがあるからかなと思ったりしました。