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「高3限定」と人柱について

 うらびれた田舎町にある全寮制の一貫校、その閉鎖的な世界に生きる少年、小野はある噂を耳にする。「高3限定」、教師の池田が毎年ひとりの生徒と、高校3年生の1年だけを限定に恋人関係になっているという話だ。池田は綺麗な顔をした男性で、そして、いつも怪我をしている。その怪我は、その1年だけの恋人の手によるものだと囁かれていた。傷ついた池田に憐憫の情と、恋心を抱いていた小野は、そんな高3限定に立候補する。

 

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 これが梶本レイカの「高3限定」の冒頭部分だ。そして、この冒頭部分からは思いもよらない方向に物語は展開する。そして、物語を読み終えた後でも、何が真実であったのかが曖昧な部分がある。それは、この物語が各々の主観でのみ語られたことで、そして、主観とは時に矛盾するものだからだと思う。つまり、誰かが嘘をついていたのかもしれないし、誰も嘘をついていないのに、別の真実が見えていたのかもしれない。

 例えば、小野にはとても綺麗な男に見えていた池田が、その友達のトミーの回想によれば、怪我の後遺症で無残な姿の男として語られる。それは、小野に仄かな感情を抱いていたトミーによる嘘かもしれない。あるいは、小野とトミーには本当に別々のものが見えていたのかもしれない。

 

 この物語では、徹底的に痛みと喪失が描かれる。池田はかつてある出来事によって、沢山のものを奪われてしまった男である。その喪失は背中に残るアイロンの形のやけどが象徴するように、痛々しい形で池田の肉体に刻みつけられている。そして、何より悲しいことは、池田はその痛みに意味があると思っているところだ。義眼となっている片目にも、若くして総入れ歯になっている口にも、それらの喪失には意味があったと思い込んでいる。そして、物語が進むにつれて、その思い込みが、この池田町という異常な町を支えているという事実が見えてくる。

 

 この物語が許容するリアリティの線引きは、比較的曖昧だ。何が登場することは許されて、何が登場することは許されないのかが曖昧なままで物語が進行する。例えば、死んだはずの犬が再登場したとき、それは実は死んでいなかったのか、別のよく似た犬だったのか、あるいは死んだ犬がなんと生き返ってしまったのかを上手く区別することができない。何があり得て、何があり得ないかがよく分からないからだ。

 だからこそ、物語の後半に起こることの意味を僕は初読では上手く捉えられなかった。物語の終結を間近に控えるあたりになって、ようやく僕はそこで巻き起こった出来事の意味をおぼろげに感じることができたように思う。

 

 池田の異常な思い込みが生み出した誇大妄想のように思えるものを、小野は高校生の純真な眼差しで解き放とうとする。読者である僕の視点は小野と同じで、池田が何にこだわっているのかがまるで理解できない。僕の目線では、その思い込みは思い込みでしかなく、閉じた目を開くように、純然たる事実だけに目を向ければ、囚われていたことが無意味に思えるようなことだと思えたからだ。

 池田は自身が受ける痛みに意味があると思っている。何かの願いを叶えるためには、その代価として痛みが必要なのだと思い込み、だからこそ、その痛みを受け入れて耐え続ける。小野にはそれがまるで理解できない。小野の純真な池田の幸せを思う心は、池田の人生からその痛みを取り除こうとする。そして、それはとても正しいことであるかのように思う。にもかかわらず、小野の思う通りに行動しない池田のことを、なんて無意味なことに囚われている哀れな人間なのであろうかと思ってしまう。

 

 けれど、この物語において、少なくともその時点では、その痛みに、喪失に、犠牲に意味はあったのだ。そんなものに意味があってしまったという悲しい話なのであって、それを否定してしまうということは、そこに存在したおとぎ話を瓦解させてしまうことになる。痛みを代価として池田の願いがある。それが無意味だという事実を池田が受け入れたとき、かろうじて辻褄が合っていた世界が崩壊してしまう。その結果、小野は池田を失ってしまうのだ。奇しくも池田の犠牲という事実によって、小野はその先の生を得てしまうことになる。呪いは解けたが、まだ解けてはいないのだ。

 歳を経て大人になった小野は、その喪失を埋め合わそうとやっきになってしまう。それこそが、また、別の呪いであり、小野もまたその地に伝わる因習の巻き起こす呪いの渦中の人物となってしまう。これによって、トミーのように、その呪いに囚われていない人間から見れば、小野はひどく曖昧な存在になる。はっきりとその目の前にいるのに、その実在も分からないような曖昧な存在である。それは小野にとっての池田のような存在であると言えるかもしれない。

 

 物語のクライマックスにおいて、小野は自身の命を代価として、再び交渉の場に立つことになる。彼が望むことは唯一、池田の救済であって、それは、池田の持ち合わせていた「痛み」と「願い」の等価交換を否定することを目的としたものである。つまり、その犠牲に意味を持たせないということだ。何かの願いが叶うことは、決してそれに相当する痛みや、喪失や、不幸があるからではない。小野が池田に示したかったのはそういうことで、だから、これはとても優しいお話だ。

 何かの願いを叶えるために、犠牲となる生贄のイケダを必要としてはならないという、戒めのようなお話だ。

 

 世の中のそこかしこに、不幸を燃料にして駆動するような地獄の機械があると思う。何かの変革をもたらすには、相応の大きな根拠が必要だと思われがちであるからだ。僕個人の体験レベルで言えば、例えば、壊れかけた機械を補修しつつぎりぎりの人数で動かしているとき、にもかかわらず、それを根本から刷新することがなかなかできないことがある。その刷新には大きなお金や労力がかかり、今まだかろうじて動いている機械をそのまま動かし続けるということには、それだけのお金を使える根拠がないからだ。

 いつか壊れることが分かっていて、それは決して遠くないことで、しかも、壊れたら多くの人が困るということも分かっていて、でもぎりぎりで動いているからそのままになる。そして、それがいざ壊れたら途端に問題視される。そこに損失が生じるからだ。動いて当たり前であると思われていたものが動かなくなったとき、なぜ壊れることを予期していなかったのか?という疑問が挙がり、早急に対策が講じられる。それまでどれだけ頑張ってギリギリで動かしていても、どれだけ必要性を訴えて説明しても、変えることができなかったことが、ひとつの大きな不幸の存在で一転する。

 ならば、必要なのは不幸だったのだろうか?それまで無関心であった人々の目を、そこに向けさせるために必要な不幸がそこにあったことが重要だったのだろうか?そのような不幸が根拠となり、ようやく無理のあった状況にメスを入れるきっかけとなることもしばしばだ。本当は、そんなものが起こる前に手を打つべきだったのだろう。しかしながら、何も起こっていないときには、それをするに足る根拠がない。十分な根拠がなければ何かを変えることは難しい。

 誰かの不幸によってようやく状況が変わるのであれば、この世が上手く回るには生贄が必要だ。

 

 例えば、AとBの対立する集団があったとする。そして、Bの集団にAの一員が傷つけられたとき、Aの集団の一部が喜んだような行動を見せることがある。なぜならば、それによって大義名分が手に入るからだ。Bの集団にAの一員が傷つけられたという事実は、Bの集団を糾弾するために十分な根拠となる。身内の不幸を餌にして、AはBに対する優位な立場を得ることになる。

 前に進むために誰かの不幸が利用される。その燃料となるための不幸が暗に求められているんじゃないか?という疑念を抱く。不幸に価値があるのなら、その価値ある不幸は無くすどころか望まれすらするだろう。しかし、その不幸を一手に担うはめになる存在はどうなのだろうか?多くの人々にとって有用に働いたその人の不幸は、何によって償われるだろうか?その後、よりよい世の中に変わったとして、尊い犠牲であったなどと評されるのだろうか?その生贄になった人自身にとって、その事実は本当に何かの意味があるのだろうか?

 

 犠牲を糧にしなければ変わらない状況を維持するという世の中の在り方が、その不幸に意味を付与してしまい、価値あるものに仕立て上げてしまうとするならば、それはとても悲しいお話だ。橋を立てるために、人柱を立てたという昔話と変わりなく、その不幸は無意味だが、必要であったという話になる。

 この物語は、そのような悲しさに向き合った話で、そこから意味を剥ぎ取り、そんな哀れな生贄の存在が、ただただ救済されることだけを願ったお話だと思う。それは世の中を変えるほどの大きな根拠の伴わない、無力でしかない願いかもしれないが。

 ただ、この物語が最後まで描かれたことにとても意味があるように感じた。

 

 それはそうと、最近よく聞いているamazarashiの「命にふさわしい」という歌の歌詞が、この「高3限定」の物語とちょっと似てるところあるなと思いました。歌詞は書かないのでググってみてください。