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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

キャラ立ちの向こう側

 「キャラが立つ」という言葉がありますが、その言葉が意味するところはどういうものであるのか?というのを自分なりに考えてまとめたことがあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ざっくり言うと、キャラが立っていないというのは、「そのキャラクターが物語を決まった通りに展開させるための役割をのみ背負っていて、物語の都合上求められているふるまいのみをしている」ということです。そして、キャラが立っているというのは「お話の都合で動かされているわけではなく、一個の意思のある存在として読者が認めることができる」ということではないかと考えています。

 例を挙げるなら、「主人公に倒されるためだけに登場する悪」などは立っていないキャラの典型例です。さらに具体的に言うなら、物語の序盤に主人公の性格や強さ(あるいは弱さ)を読者に紹介するために、大した理由もなく因縁をつけてくるヤンキーキャラなどです。彼らは多くの場合、その役割を果たすと退場してしまいます(ただ、それが悪いということではないです)。

 「お話の都合」というものがあまりにも見え隠れしてしまうと、それに沿って行動するキャラクターたちの葛藤も幸不幸も、全て作者の考えたお話の都合でどうにでもなることだと認識してしまいます。だからこそ、物語上立ち現れる様々な出来事の渦中のキャラクターたちがどうなるのかを見守る上で、キャラクターが自分の足で立ち、自分の行先を自分で決めているかのように思えることはとても重要なことだと思います。

 

 さて、キャラクターが立っていると、そのキャラの人となりが自分なりに理解できますから、あるシチュエーションを与えたときに、そのキャラがどのように振る舞うか?ということを読者は想像しやすくなるはずです。

 これは漫画の作者以外の手による二次創作が盛んであるということとも繋がっていると思っていて、キャラクターを立たせるということがそう簡単にはできないことだとすると、とりわけページ数の少ない同人誌などでは、そのために紙幅をとることも難しく、既に立っているキャラクターを他所から持ってくるというのはひとつの合理的な方法と考えられます。

 これはまた例えば、歴史ものの漫画などでも同じだと解釈できます。キャラの立った戦国武将をゼロから考えるのは困難ですが、織田信長ならば、読者に既に共有されている人物像やエピソードをそのまま利用することができるでしょう。さらに、多くの二次創作を経てきた歴史上の有名人たちならば、史実には本来は持っていなかった属性が付与されたりすることによって、より戯画化され、利用しやすいキャラとしての属性が付与されたりします。その逸脱が、史実とは異なると責められることもあるでしょうし、より二次創作的に扱いやすいキャラとなったことを喜ぶ人もいるでしょう。

 

 このようにその存在が実在の人物像のように認識される(あるいは元は本当に実在した人物であった)キャラクターは、「そのキャラクターらしさ」というものを身にまとい始めます。例えば、原作を知らない人が描いた二次創作が、キャラクターの特徴を掴み切れておらず、そのキャラクターが原作ではとらないような言動や行動をとったとき、原作を知っている読者はきっと違和感を覚えるでしょう。

 それはきっとキャラクターが立っていれば立っているほどにそうであるはずです。逆を言えば、一度も喋らず、登場コマ数も少ないモブキャラであったならば、そういう違和感は持ちにくいでしょう。つまり、キャラの立ち方に「強さ」というものがあるならば、その強いということは、そのキャラクターの個性が広く具体的に共有されているという意味ではないでしょうか?それによって、そのキャラクターが何らかのシチュエーションに遭遇した時に、どのように行動するかについて多数の読者の間で共通の理解が生まれやすくなるのではないかと思います。

 

 しかしながら、このキャラであるならば、こういったときにこのような行動をとるはずだという共通理解は、そのキャラ立ちの強さを示すとともに、反応がパターン化されてしまっていると考えることもできます。「○○はそんなことを言わない」という指摘がされる一方、そういった二次創作的なネタとしては「○○は××なとき△△という」というような扱われ方をしてしまったりします。これらはキャラに限らず、有名人がモノマネされるときなどにも起こっています。

 ここで疑問としてあるのは、キャラクターに自我があるように思うことがキャラ立ちであると思っていたはずが、その個性を強調するあまり、いつの間にか、キャラクターが特定の行動しかとらないという、まるで自我がないようなところに収斂してしまうことがあるということです。そういった認識は、「大阪人がマクドナルドをマクドと呼ぶ」という認識が、いつの間にか「大阪人だからマクドナルドをマクドと呼ばなければならない」に変化してしまい、なんとなく大阪に住んでいるとマックとは言いにくくなるような窮屈さを生じさせるのではないでしょうか?

 

 では、キャラが立ちつつもそうならないということはありえるのか?キャラ立ちの強さにキャラの固定化という限界があるのだとしたら、その向こう側とは何なのか?という疑問が湧いてきます。長い前フリでしたが、今書いている文章の目的は、そのひとつの答えが、今月のエレガンスイブに載っていた「ちひろさん」の最新話ではないかと思ったということです。

 ちなみに、ちひろさんについては、前にこういう感想を書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 今月号で何が起こったかは具体的には書かないんですけど(雑誌で読むか、単行本を待って読んでください)、それまでのちひろさんならやらなさそうだと僕が思っていたことをやっていました。しかしながら、いざそれをやっているちひろさんを見ると、あまりにもちひろさんだなあと思えたということで、それこそがちひろさんの持つ「存在の強さ」だなあと思ったのです。

 やる前にはそんなことをするとは想像もしていないのに、やった後には、この人であるならば、やりかねないことだとしみじみ思えるということが、強いキャラクター性を持ちながらも、固定化されてしまわないという、キャラ立ちの向こう側と呼べるものなのではないかということです。

 

 つまりは実在の人間、それもメディアを通した有名人などではなく、近所に住んでいるような人と同じように思っているということではないかと思います。キャラ立ちの向こう側とは、すなわち現実のことなのかもしれません。

 そして一方、現実にいるはずの人間が、なんらかの個性を追求するあまり特定の型にはまったキャラっぽくなり、むしろキャラ立ちのこちら側に来てしまうことがあったりするのもなんだか不思議で、面白いことだなあと思っています。