読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「雑草たちよ大志を抱け」と真面目な子、そして笑顔について

 学校の掃除を真面目にやる子供を見て思う気持ちみたいなのがあります。他の子供たちが先生が見ていないのでサボっているときに、一人でもくもくと掃除を続けているような子供です。

 そのような子供がそうしている理由は様々でしょう。見られていないからといってサボっていると気づかれると怒られるかもしれないと過剰にビビッている子供かもしれません。決められたことなのだからやらないといけないと自分の中でやるべき理由を見つけられている子供なのかもしれません。

 でもまあ、学校の掃除なんて、めんどうくさいじゃないですか。そして、周りはちっとも真面目にやっていないという、自分だってやらなくてもいいんじゃないかという状況なのに、それでも真面目に掃除をするという、その子供の在り方に、なんだか色々感じ入ってしまうことがあるんですよ。

 

 さて、今した話はこれからする話と通じていないようで僕の中では通じているのですが、この前、池辺葵の「雑草たちよ大志を抱け」の単行本が発売されました。これはFEEL YOUNGにたまに載っていた関西圏の高校に通う女の子たちを主人公とした連作短編なのですが、僕はこの漫画がとても好きなので、その話をします。

 ここからは僕の解釈含みのネタバレが入ってしまうので、まずは買ってきて読んでください。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20170225210910j:plain

 

 買ってきましたか?読みましたか?クリームを耳にも塗りましたか?

 

 それでは書きますが、この物語は、クラスの中心にはいない子たちのお話です。この物語の中で描かれていることは、僕が思うには、自分がありのままでどういう人間であるかということと、それは他人と比較してどうであるかということ、そして、他人との違いがあるときどのように振る舞うかということなんじゃないかと思います。

 

 物語の中心人物であるがんちゃんは、眉毛が太い女の子で、それを気にしています。ただ、眉毛が太いことを気にしているとは口にだすわけではなく、朝起きたとき、鏡を見て、手でそっと眉毛を隠してみてみるわけですよ。太い眉毛ではない自分の顔を見てみるわけです。気にはしているけれど、眉毛を整えたりはしなくて、そうしてしまうのはむしろ気にしているからこそ、そのままにしているんじゃないかと思います。そこに手を加えることは、自分のコンプレックスと正面から向き合うということだからです。

 がんちゃんは、自分の想いを相手に口に出すこともないままに失恋を経験したあと、その後も続いていく物語の中で、前髪を作って眉毛を隠そうとしたり、頑張って整えようとしたりします。でも、毎度それに失敗してしまうわけなんです。前髪は切り過ぎ、眉毛は抜き過ぎます。そして、それを周囲に指摘されて、驚かれたり笑われてしまったりもします。でも、がんちゃんはそれでへこたれたりしません。それは、そうできなかった自分から、そうしようとする自分に転換したからでしょう。変に思われるのは想像した通りで、それはだからこそ踏み出さなかったことで、でも踏み出すことに心を決めたのだから、他人の奇異な目があるのは仕方がないことです。

 この物語は、そんな控えめで、自分は物語の中心にある資格がないと思い込んでいるような、がんちゃんの周囲で起こる出来事で、そんながんちゃんだからこそ持ち得る優しさに包まれていることで、他の子たちも何らかの形で救われ、前に進んで行くことになります。

 

 中でも特に感じ入ることがあったのが2つ目のエピソードで、頑張って勉強して入った学校を、親の都合で転校することになり、それでも文句ひとつも言わずに、家事も勉強もこなす女の子、たえ子ちゃんの話です。しかし、彼女は太っていて、運動が苦手、このお話は、体育のマラソンの話です。このエピソードの主人公である彼女は、ほとんど言葉を発しません。読者は、彼女のそぶりから、彼女の心を推察する必要があります。

 マラソンを走る彼女の週には周囲には要領のよい子たちがいて、真面目に走るのではなく、先生が見ていないのだからと適当に抜け道をショートカットしていきます。その光景を見るわけですよ。でも、この子はちゃんと走るんですね、決められた道を。そういう子だからです。苦手なことだってルールを守るような子なわけです。

 そこで目にするのはがんちゃんたちです。がんちゃんたちも運動は苦手で、走りたくないし、走るのも遅いのに、ズルをせずに走っています。それを見て、この子は救われているのではないかと思います。他の自分よりも走るのが苦手ではない人たちが、当たり前のように手を抜いているところを、自分は手を抜くことができないということがあるからです。その感覚はもしかすると恐怖なわけですよ。

 僕は「真面目であること」には、真面目でいなければならないと脅迫的に思い込まされていることと、真面目という生き方がたまたま自分に合っていることの2つの側面があると思っていて、それは自分が真面目な生き方をしていると思っている本人にも明確に区別がつかないことなんじゃないかと思っています。つまり、自分の抱える真面目さが「美徳である」ということに自信が持てないということです。

 だから、真面目な子が自分が真面目であるということに対する悩みを抱えるということがあると思っていて、自分はなぜこんなに真面目という生き方をしてしまうのかという葛藤を抱えてしまったりもするんじゃないかと思います。少なくとも、漫画を読んでいて僕が思ったのはそういうことで、自分の生き方を自分で真っ直ぐに肯定できないときに、あまりにも自然体で、同じ道を歩いているがんちゃんたちを見て救われるということがあるんじゃないかと思いました。

 

 がんちゃんの友達で、いつも無表情だけれど走るのが得意なひーちゃんは、周回遅れのこの子に声をかけていきます。背筋を伸ばして、胸を張って走るということを一声伝えます。たえ子ちゃんにとって苦手な体育、いつもビリになります。やりたくはないけれど、ズルはしない、最後まで走るということ。他人の目線を気にせず、自分が走っている方向を見るわけです。目の前に広がる空へと目を向けるわけです。へとへとになりながら走り切って、それはやっぱりビリなんですけど、それはいつものビリとは意味が違うことでしょう。自分が抱えているしんどさとの新しく、もう少し気楽な付き合い方を覚えて、彼女もまた少し先へと進むわけです。

 

 この物語に登場する人々は、皆それぞれ何かを抱えていて、それは他人からすれば、しょうもないことかもしれません。でも、そんなしょうもないことなのに、他人から言及されると、自分の心の中に楔のように刺さって抜けないことがあります。

 笑い方が気持ち悪いと一度他人に言われただけで、人間は笑えなくなったりするのです。

 

 体の特徴や、自分の好きなこと、性格、しぐさ、誰だって他の人とは違う部分を抱えていて、それが違うということを違うがゆえに気にしてしまいます。自分が他人と違うということ、それを誇ることが出来る人もいれば、押し隠して、ないもののようにしてしまうことだってあるかもしれません。人間である以上、他人と違うところはあります。それは、それぞれの人がそれぞれのやり方で、それらとの付き合い方を模索していくわけです。

 

 この物語の全体を包んでいるのは、がんちゃんの持つ優しさで、彼女の笑顔が言葉が全てを許してくれる力を持っています。彼女の持つ優しさは、ともすれば彼女の抱えてしまっているしんどさにも関係していることじゃないかと思っていて、自分のような人間が、あのきらきらとした人々と同じようなものを得られるわけがないという、最初から抱えた諦めによるところもあるのかもしれません。自分が持たざる者であるという自覚が、皆の抱えるものと同じ目線に立ち、味方するということに繋がっていて。

 単行本で追加されたエピローグには、そのがんちゃんの抱えているしんどさに対してかけられる言葉があるわけですよ。それがとてもよかったわけです。

 

 最近、人間の笑顔の絵はすごい力を持っているなとよりいっそう思うことが多くて、人間が笑っているだけの絵で感極まって涙が出てしまうことがあります。「雑草たちよ大志を抱け」の最終話が載ったFEEL YOUNGでは、「13月のゆうれい」も最終回で、両方とも笑顔で終わるんですね。もう、それがよくてよくて、雑誌を読みながら感情が昂ってぐずぐずになってしまいました。

 心からの笑顔は、人間が自分や他人を心から肯定することを示しているのかもしれません。そういえば、他人を笑わせないと呼吸困難になるゾナハ病というものが登場する「からくりサーカス」にも沢山のいい笑顔が登場しました。上手く笑うことができない人や、笑いという感情が分からない自動人形が、笑うべき時を知って、笑う場面がとてもよい漫画です。その中に登場する言葉に「笑うべきだとわかった時は、泣くべきじゃないぜ」というものがあります。

 そんな言葉を思い出しながら、人が笑う場面を見て、自分が泣いてしまうというのは不思議な話だなと思ったりしました。