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根拠のない自己肯定感は信仰に似てる

 根拠のない自己肯定感が持てるとか持てないとかいう話、僕自身は近年持っていると自覚しているのですが、なぜ持てている感じなのかというと、あるとき持つことにしたからです。以前、以下のような文章を書きました。

 

mgkkk.hatenablog.com

 さて、根拠のない自己肯定感とは、根拠がないものです。しかし、それを持ちたいと言う人と話すと、「自分が根拠のない自己肯定感を持てる理由」という「根拠」を探してしまっていることも多いと感じています。あるいは、根拠のない自己肯定感を持とうとしても、それを封殺するほどの根拠のある自己否定感が現れてしまうという話も聞きました。それも分かる話です。

 根拠のないものを使って、根拠のあるものに対抗しようとするのはとても難しい。「ただ信じる」ということは、そのような逆風の中でいざやろうと思っても意外と難しいことです。とりわけ「科学」という疑うことを根本に据えた考え方にどっぷり浸かっていると厳しくなります。

 僕はアカデミックな場所に籍を置いていた時期の経験から、自分の主張がどれほどの実験的根拠を添えれば、同じ分野の識者の人々に妥当と判断されるかということは常日頃から考えてしまったりします。そして、人々を納得させられるだけの根拠を得られるには、かなりの労力が必要ですし、可能な限り実験をしたつもりでも、論拠の弱い部分を指摘されてさらなる追加実験を求められたり、主張に対して実験が不十分であるとリジェクトされたりすることも経験的に実感しています。

 

 このように、ある事象が事実であるということを証明することはとても労力のかかることで、どれだけ労力をかけたつもりでも結果に繋がることは保証されませんし、とても面倒で難しいことです。なので、生活している中で得た知見などは、ほとんど科学的実証を伴わない仮説のままです。そして、そのような仮説は仮説のまま運用され、比較検討するほどの精度を持たない実証結果を元に、いい加減に判断されて運用され続けます。

 僕はそれは科学の話ではないので、科学の話ではないと思えばある程度は仕方ないと思っていますが、では、科学でないとすればそれは何なのでしょう?それらは科学的に実証されていないことを根拠にしつつも、信じられていることです。つまり、十分に疑われることなしに、ただ信じられていることであり、それはともすれば「信仰」に分類されるのではないかと感じています(ちなみに、僕は信仰という言葉を「ただ信じるために信じること」という同語反復の意味で使っています)。

 

 さて、世間一般で科学だと思われているものの中には、「科学的態度の元に検証されているもの」という意味ではないものも多いのではないでしょうか?

 科学的とはつまりは「疑う」ということです。疑って疑って、疑い切れなくなったもののみが当座の事実として認定されるという態度が科学の根本にあります。その疑い方は技術の進歩によって、高精度化したり、新し方法が生まれたりしますから、ある時代では科学的事実とされたものが、それから先の時代の新しい疑い方で疑われてしまい、事実ではないと認定されてしまうことも当然あります。そのように未来永劫疑い続けることが科学なのだとしたら、「無根拠に信じる」という態度はその真逆にあります。

 つまり、科学的態度を実践しようとする人ほど、何かを無根拠に信じることはとても難しいことなのではないでしょうか?そして、その科学的な考え方を実践しようとする場合に陥ってしまいがちなのが、「自分という人間には果たして値打ちがあるのだろうか?」という疑問に根拠を持って答えることが難しいという問題なのではないかと僕は思っています。

 

 そのため、僕にとっての自己肯定感とは信仰に分類されるものとして捉えることとしており、その点において僕は科学的態度を全く放棄しています。僕は個人的にそれでかまわないと思っていて、ただし、「それは決して科学的ではないし、あらゆる他人と一般的に共有できるものではない」ということだけは意識しています。

 以前の文章にも書いたと思いますが、僕は自分に生きる価値があると思うことについて、明確な根拠を求めていけばいくほどに、不都合の方が増えると感じていて、不都合が増えると弱るので、僕は自己利益のために放棄することを選択しています。

 例えば、自分に価値があるという根拠を、自分が他者よりも優れているからという部分に求めたとき、優れてい続けるために労力を払い続けることになったり、相対的な優秀さの獲得のために他人を劣っているなどと乱暴に認定する必要が出てくると思います。あるいは、誰か権威ある人に認めてもらうということに根拠を求めたとき、たとえ自分の好むものに反していたとしても、その人々に評価されるように振る舞わなければならないことになるかもしれません。そういうのがダルいと思っているので、それを放棄することにしているのです。

 

 僕のこれらの感覚の根本にあるのは、「人間は皆平等である」という思想です。他人を自分と同じように尊重するためには、「自分は他者と比較して特別優れている」という思い込みは邪魔になりますし、「誰かに認められることに価値がある」というのは、認める主体に価値を多く見積もり過ぎているので、同様に平等という考え方に反します。では、そもそもなぜ人間は平等であると考えるかというと、僕にとってはそれも信仰なので無根拠です。そう捉えることにすると僕が個人的に決めただけです。実際、世の中では人間の価値が不平等に扱われることが蔓延しています。もしかすると「人間は不平等である」ということの方が明確な根拠を見つけやすいかもしれません。

 

 僕が活用している考え方の中には、このように論理や根拠をあえて避けている領域があって、それは論理や根拠によってねじ曲がらないようにするためにやっていることです。他人からどんな論理や根拠をもって説得されたとしても、決してその考え方を変えなくて済むように、そんなものなしにいきなり結論を得ています。

 とにかく世の中には、頭のよい人が合理的に他人を自分にとって都合よく動かすために、それらしい理屈を説くことが多いです。それらの話を聞いていると、結果的に自分自身が損をするような行動ですら、やらなければならないと思い込んでしまって、言うことを聞いてしまったりします。僕は自分をそういうものにかかりやすい性質だと認識しているので、そうならないための楔を打っているのです。それが今持ち合わせている自己肯定感ですし、僕の信仰です。

 

 僕はこのような考え方になってから、宗教という存在の役割を自分なりに感じるようになりました。宗教は科学ではないので、「教祖が言っていた」とか、「経典に書いてあった」ということがすなわち結論になる場合もあります。このようないきなり得られた結論は、合理によって押しつぶされてしまうような弱さを抱えた人間にとって、それに立ち向かうための盾となり得ます。しかしながら、他人を攻撃する武器ともなり得るので、良いとも悪いとも一概には言えないかもしれませんが。

 ただ、僕は自分自身の考え方の中に、ある種の信仰を意図的に取り込んでいるので、他人が抱えている信仰や宗教的なものを咎めるような気持ちはなくなりました。なぜなら、僕は人間が平等という信仰を持っているため、自分が持っているものを、他人も持っていて何も悪いことはないと思うからです。

 もし、それに反対する場面があるとしたら、他者の持つ信仰が、僕の持つ信仰を否定してきたときでしょう。なぜならそれは平等ではないからです。そして、僕は自分の信仰が他人の信仰を否定することも平等に反すると思うので、そこがぶつかってしまう場合には、その場を去るということしかできません。いや、同様に相手が自分の信仰を変えないままに去ってしまった場合でも、破綻はしませんね。つまり、住み分けるということです。

 

 さて、僕はこのように科学と信仰を都合よく使い分けて、生活をいい感じにしているのですが、みなさんはいかがでしょうか?

 世の中には信仰とあまり認識されていないけれど信仰と呼べるものが沢山あると思います。例えば、「○○は××だ!」という文章がインターネットに書きこまれていたとします。それを事実だと考えるでしょうか?その文章には事実であることを裏付ける証拠が一切ないにもかかわらず、「そうか○○は××なんだ…」と事実だと信じてしまう人もいます。インターネットに書かれていたのを見ただけで、それを事実だと思ってしまうということ、それは経典に書かれていたことを事実と思ってしまうこととどれほど違うのでしょうか?(もちろん違う部分はありますね)

 見方によれば、それは信仰かもしれません。そして、インターネットコミュニティという名前の宗教であり、書き込みされた文章は経典であると捉えることができるかもしれません。

 

 自分が知っていることの中で、科学的な態度で検証されたものはどれほどあるでしょうか?十分疑わないままにそれを事実と捉えるのであれば、それらは科学でなく信仰かもしれません。例えば、ある分野に対するある結論に至った論文が発表されたとして、そこに書かれている内容は元論文を読めば論拠不十分と思えるようなものかもしれません。しかし、ときとして、その見出しを見た時点でそれを事実だと思ってしまうことがあります。それは科学的な態度でしょうか?

 自分が何を科学的に捉えていて、何を信仰として捉えているかということは、自分自身がいかなる人間であるかを認識する上で重要な手がかりであると僕は思っています。

 僕が注意深く避けているつもりなのは、自分の中で信仰であるものを科学であると誤認することです。科学的であり続けることには大変な労力がかかり、また、少なくとも現時点では科学的手法では説明しきれない領域もあります。それを無理矢理、科学のふりをした信仰で埋めてしまうことは、自分の頭の中にしかないものを、まるで世界で共有されるべきものと誤認してしまうことであり、結果として、それが他人との境界で軋轢を生み出す火種になりうると思っているのです。

 

 根拠のあることは重要ですが、根拠をいくら探してもなかなか見つからないものもあります。しかしながらそれが必要であるならば、根拠などなくても得ることもできます。僕はそれを信仰と呼んでいて、自分の都合に合わせていくつか抱えているわけなのです。

 「自分が生きていることには、自分にとって大変価値があることだ」という感覚はそのひとつです。そこには何の論理も根拠もないものとして受容していますから、他人からどのように「お前には生きる価値がない」と論理的に説明されようが、「お前に生きる価値がない百の理由」が提示されようが、ちっとも関係ないことになります(ただ、実際そういうことを言われたら、すごく嫌な気持ちにはなるでしょうが)。

 と、このようにとても便利なやり方なので、信仰、守っていきたいですね。

 

(ちなみに、この文章のタイトルは↑THE HIGH-LOWS↓の「青春」の歌詞「心のないやさしさは敗北に似てる」と掛けようとして失敗したやつです)