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「人喰いの大鷲トリコ」で感じたコミュニケーションの話

 少年が目を覚ますと、そこには巨大な生物がいた。その生物は鳥のようにも猫のようにも犬のようにも見えた。少年は鎖で繋がれたその生物を解き放ち、食べ物を与えた。そこがどこかもわからない場所で、自分がなぜそこにいるのかも分からない状態で、少年とその巨大な生物は外に出るための冒険の旅に出る。その巨大な生物の名はトリコといった。

 

 

 人喰いの大鷲トリコを買うまで、僕はそれがどのようなゲームであるのかをほとんど調べなかった。いくつかの発表映像を見たことはあったけれど、特に何度も繰り返し見たわけではなく、ただ、それを遊べる日を心待ちにしていた。買うことは最初から決めていたのだ。なぜなら、前々作と前作の「ICO」と「ワンダと巨像」がとても面白かったからだ。

 僕は大学生のとき、夏休みの大学の部室で「ICO」をクリアした。夕日の差し込むその部屋で、冷房もない蒸し暑さの中で一人汗をかきながら、物語の終焉を見届けた。その後、その日の夜だったか数日後だったか記憶が定かではないが、先輩に会って、「ICOをクリアしたんですよ!」という話を熱っぽく語った覚えがある。

 一方、「ワンダと巨像」はみんなでクリアした。友達の家に集まって、みんなで交代交代にプレイしながら、夜中までかかってクリアした。失敗しては声をあげ、次の友達が挑んではまた上手くいかず声をあげる。何度も繰り返し、物語は終盤に向かう。その最後を見たとき、あれだけ騒いでいたみんなが神妙な面持ちで無言でその様子を見守っていた。エンディングが終わったあと、その解釈について、ぽつぽつとみんなで話し合ったと記憶している。

 

 そして「人喰いの大鷲トリコ」である。本当に出るのか出ないのか分からなかったけど、ついに出たので発売日に買った。ただ、既に「FFXV」を始めてしまっていて、その後に「龍が如く6」もやっていたので、本腰を入れたのはようやく正月気分が終わってからになった。

 

 

 遊びながら3D酔いをしまくったり、攻略に詰まってふてくされたりして、遊んだり休憩したりを何度も繰り返しながら、この前の日曜日にやっとクリアをした。とても良かった。様々な感情が渦巻いてしまって、涙を流しながらエンドロールを眺めた。

 

 このゲームが何のゲームであるかというと、コミュニケーションのゲームなんじゃないかと思う。それは少年とトリコとのコミュニケーションであると同時に、彼らがいたあの場所とプレイヤーたる僕のコミュニケーションでもあったのではないだろうか?

 「ICO」や「ワンダと巨像」もそうであったように、この「人喰いの大鷲トリコ」にも、説明は必要最低限しか出てこない。だから、わけがわからないと言えば、わけがわからないことも多いし、説明してみろと言われれば、上手く説明できないことも多いと思う。ただ、僕はこの冒険の舞台となった場所と、トリコや少年自身との数限りないやり取りを通じて、それをおぼろげながらに理解できた部分があると思う。それは僕の勘違いも多分に含んでいるだろうけれど、それがコミュニケーションであって、それは言葉で行われたものではなく、触れ合いで行われたことだと思った。

 

 どこに行けばいいのか分からない、何をすればいいのか分からない、ゲームを遊びながらそんな状況に何度も陥ることがあった。それは不親切なことだろうか?そうかもしれない。確かにこの前までプレイしていた「龍が如く」シリーズでは、「ヤクザの事務所へ行け!」などというメッセージとともに、地図上に目的地が表示されたり、ナビゲートしてくれたりして親切だった。ちなみに僕はこっちも全然好きです。なにしろ分かりやすいし、迷う必要がない。迷いたいわけでなければ、その方が簡単で親切で便利だと思う。でも、人喰いの大鷲トリコでは、そのような便利で親切な指示がでないこともいいと思った。なぜなら、それはコミュニケーションだと思うからだ。どこに焦点が当たっているかという違いがある。

 主人公の少年にはどんな行動がとれるのか、最初のうちには分からなくて、右往左往をする。いくつかの簡単なパズルを解いて行けば、少年に何ができて、トリコに何ができて、この場所にはどんな仕掛けがありそうかという関係性がだんだん見えてくる。それが分かるようになるまでが辛いけれど、なんとなく分かるようになりさえすれば、この場面ではどうすればいいのかの察しがつくようになる。この建物のどこをどうすれば先に進めるかが想像でき、そのためにはトリコがどのように動いてくればいいかがわかり、そのためには僕が動かすこの少年がどのように行動しなければいいかの察しがつくようになる。分からないものが分かるようになる。それは直接的に説明されていないのに、経験から察せられるようになる。それはある種のコミュニケーションだと思う。そして、コミュニケーションには付き物のアレもある。アレとはつまり「誤解」のことだ。

 

 壊れるほど愛しても三分の一も伝わらないと歌ったバンドがいるけれど、自分の考えが、自分の想いが、自分以外の相手に正確に伝わることはまれな話だ。同様に他人の考えを自分が正確に把握できることもまた、まれだと思う。分かるか分からないかで言えば、結局分からないのかもしれないけれど、それでも分かろうとすることがコミュニケーションなんじゃないだろうか?

 分かったような気になって、分かっている前提で話を進めてしまうこともあって、でも、途中で実はなんにも伝わっていなかったことが発覚しててんやわんやしたり、なんで分かってくれないんだ!とか、そんなに沢山言われなくても分かる!とか思ってしまうこともある。それを何度繰り返したところで、100%の理解には届かないのかもしれないけれど、それでもできるだけ100%に持っていこうと試みることがコミュニケーションなんじゃないだろうか?分からないと諦めないということで、また、分かったと過信しないということで。

 

 僕はこのゲームの中で沢山のコミュニケーションをした。そこには沢山の誤解もあった。天上からぶら下がった鎖を見て「ははーん、これを登れっていうことだな」と登ってみたけれど、そこには先にいく道がなく、でも「あるはずだ!」と思い込んでいた僕は、そのあたりを歩き回っては先の道がないことに弱ったりもした。実はそのときの本当の順路は別の方向にあったのだった。ちなみに、その鎖はずっと後で別のときに使うことになるのだけれど、そのとき僕はかつて誤解でこの鎖を登ったことを思い出した。なんであのときはまずあっちを探さなかったのだろうと、すぐそこにあった正解にちっとも辿り着かなかった間抜けな自分のことをフフフと思い出すことになった。

 順路がどちらか分からないことは何度もあった。トリコの背中に乗ってさあ飛んで!と指示するのだけれど、本当はそっちに行く道なんかなくて、トリコは決して飛ぼうとしない。僕はトリコのことが最初はよく分からないので、「なんで言うことを聞いてくれないの!」と悲しくなってしまったりする。でも、トリコは賢いから、そっちには行く道がないことが分かっていて、だから動かないだけだった。トリコは気まぐれで、放っておいたら、いきなり正解の道に動いていってくれることもある。でも、そうでないこともある。僕が正解とにらんだ道があって、実際にそっちが正解なんだけれど、トリコがちっともそっちに動いてくれないなんてこともあるのだ。僕はゲームをしながら声が出てしまう。「トリコさん、何で動いてくれないの…」なんて弱々しくつぶやいてしまう。

 トリコには自分の意志があるように見える。少なくともプレイしている僕は、トリコを実在の生きている存在として取り扱った。そう考えれば色々なことは当然の話で、トリコはトリコ自身のために生きているのであって、僕のために生きているわけではない。トリコが僕のためにわざわざ動いてくれるいわれはないのだ。だから、トリコが僕の行きたい方向に動いてくれたときには、感謝の気持ちを示そうと思う。言葉が通じないトリコの体をなでまくり、感謝の気持ちを伝える。お腹を空かせているのなら、食べ物を持ってきてあげる。それが、僕がトリコに伝えられる精一杯の感謝の気持ちだ。

 

 これはただのゲームだろ?と言われたら、まあゲームなんだけれど、それを言いだしたら漫画や映画にだって感情移入もできなくなる。物語の中の登場人物は実在しない。そんなことは分かっているわけですよ。でも、それを実在しているかのように思い、感情を動かすことは、僕にとっては大切なことだ。そもそも、現実に存在している人のことだって、何にも分からないじゃないかと思う。仮に僕の周りにいるのが、全員精巧なロボットだったとしても、僕は気づけやしないだろう。僕は今だって周囲の人たちとやりとりしたわずかな手がかりから、その人がどうやら人間らしいと推定して生きているだけなのだ。

 

 トリコは僕を助けるために戦ってくれたりする。その体は剣で斬られたり、槍がささったりしてしまう。戦いを終えたトリコはボロボロになったりする。それは僕がどんくさくて、余計に傷つけてしまったのではないかと思ってしまう。責任を感じてしまう。でも、ゲームの中の僕にはろくに戦う力がないから、僕にできるのは、戦いを終えて傷ついたトリコに刺さった槍を抜いてやり(駄洒落だ!)、血だらけになって羽毛もけばだった部分を一生懸命撫でてやることだけだった。

 

 

 そんなことを繰り返すうちに、僕はなんとなくトリコと仲良くなった気がしてくる。トリコは僕の言うことを素直に聞いてくれることが増えたように思う。僕のお願いの仕方も変わる。ゲーム的に意味があったのかなかったのかはよく分からないけれど、トリコに指示をだしたとき、僕は一緒にトリコを撫でる。それは僕のわがままなお願いを聞いてもらうために、トリコを喜ばそうとしているからだ。

 ただ、それでも言うことを聞いてくれるとは限らない。例えば、僕がいくら言っても聞いてくれなかったのに、僕がトリコの背中から降りた瞬間に水の中に潜って、一人先に行ってしまったこともある。「なんでよ~…」ととても悲しくなってしまったけれど、すぐに戻ってきてくれた。僕はまた背中に乗り、首筋を撫ででトリコトリコと名前を呼びながら、また潜って先に行こうとお願いしたのだった。そうすることで、やっと今度は僕のお願いを聞き届けてくれた。

 少年である僕と、トリコには役割分担があった。僕は狭い所に入れるし、身軽に色んなところを渡ることができる。様々な仕掛けだって動かせる。でも、高い所には登れないし、戦う力もろくにない。トリコは、その大きな体で高い所に背が届くし、戦う力がある。そして、その伸びやかな肢体を躍動させて大きくジャンプすることだってできる。

 僕とトリコは良いコンビで、助けたり助けられたりした。僕は臆病なので、鎧兵が襲ってきたら、なすすべもない自分の非力が怖くてしかたがなかった。逃げ回ることしかできない。体当たりをしたって大して効きはしないんだ。戦うにはトリコの力がいる。だから、トリコのいる場所を離れるととても怖くなる。トリコの大きな体では、自分の後ろをついてこれない道に入ったのに、意味もなくトリコの名前を呼んだりしてしまうようになった。

 

 

 色んな冒険をした。傷ついていたトリコは段々と元あった様子を取り戻しつつあり、色んな姿を見せてくれるようになった。その中にはとても感激してしまう光景もあった。僕が一番助けて欲しいときに現れてくれるのもトリコだ。そして、僕はトリコに食べ物を運び、トリコの苦手なものを排除し、そして、感謝の気持ちを込めて撫で回し続けた。

 

 物語の終盤に何が起こるかはあまり具体的には書かないようにするけれど、僕にはとても辛いことがあった。(具体的ではなくともネタバレがあるのでご注意ください)

 

 僕はある段階で、この物語はもう終わりかなと思って、夜との境にさしかかる時間、美しい太陽を見つめるトリコを見て、なんだかとても感激していた。とうとうこの旅は終わるのだと思って、最後にトリコの前進をなで回した。毛羽立った羽も、血の染みも全部綺麗にして、全部綺麗になったのにまだ首の後ろや頭の先をなで回し続けた。それは僕なりのこの旅が終わることを受け入れるための儀式のようなものだった。

 

 しかし、物語にはまだ続きがあった。そこでトリコはとても傷つけられてしまう。さっきまで一生懸命に綺麗にした毛並みは、また血にまみれ、ボロボロにされてしまうことになる。何より辛かったのは、僕の察しが悪く、そのトリコが傷つく光景を長い間見続けなければならなかったことだ。僕はトリコを傷つける存在に向かって立ち向かおうとするけれど、僕の力はあまりにも無力だった。そちらに攻略の順路はない。その場において、僕とゲームとのコミュニケーションは失敗している。

 だから、それは完璧に無力なことで、完全に無意味な行為だった。トリコを必死で守ろうとしたけれど、それが叶わないということ自体はすぐに分かったけれど、どうすればいいのか分からない。自分という存在はなんと無力なのかを思い知らされることになった。「やめて…もうやめて…」と泣きながら無意味に走り回り、立ち向かおうとしてははね飛ばされるようなことを繰り返す時間が過ぎた。

 

 気づくべきだったんですよ。この物語を集結に向かわせるためのヒントは、ものすごく目立つ感じに光り輝いていて、ただ、僕が見るべきものを誤解してしまっていたがゆえになかなか気づけなかっただけだった。僕のコミュニケーションが拙いせいでやってしまった無意味が行動がなければ、あのトリコが傷つき続ける長く心の痛い時間はなかったのかもしれないと思う。それを打ち破るとっかかりを見つけてしまえば、破綻していたコミュニケーションは連鎖的に繋がり、それは物語のクライマックスとなった。

 

 エンディングの光景はとても美しく、そして、ここまでで培って来たものに思いを馳せる時間であった。上手くは行かないプレイだったような気がする。でも、それが重要だったんじゃないかと思う。正解ばかりではない、誤解含みの迷ってばかりのプレイが、どうにかちゃんと結末まで辿り着くことに成功した。間違ってしまったことは沢山あるけれど、それは分かろうとしたということだろう。分からないまま終わらせずに、動いて、試したという軌跡なわけです。分かることが難しいからこそ、分かろうとすることは尊いのではないかと思ったりもするんですよ。

 上手くいかなかったことも、重要な体験だと思う。最初から正解なんて出せない自分の不器用さは、分かろうとする前に止めてしまうような結果にだって繋がったかもしれないはずだ。でも、それでも投げ出さずに、少しずつ理解しようとしたことで、前に進んだということなんじゃないかと思う。そこにそうしたいだけのものがあったからだ。そして、その分からないものを分かろうとコミュニケーションをとろうとし続けたことこそが、僕がトリコに対して感じていた絆の正体であったのかもしれない。

 それは、見ているだけの物語ではなく、コントローラーを通じて僕自身が理解し、干渉しなければ先へと進めないゲームという媒体であるからこそ、体感できたことなんじゃないかと思う。このゲームが終わるとき、トリコとの別れを迎えなければいけないことを、僕はとても寂しく思った。

 

 さて、この写真は、僕がまだトリコと上手くコミュニケーションをとれないときに、こちらを半分だけ見て微動だにしないトリコさんですが、「魔法陣グルグル」に登場した「ミグミグげきじょう」という、やけに気になる何かがこちらをじっと見続けて敵の行動を縛るやつっぽくて、1人でめっちゃウケてたときのものです。ウチのPS4の中にはこのようなトリコとの思い出が山ほど残っている。

 これはゲームだけれど、僕の人生の中の思い出のひとつにもなったと思った。