漫画皇国

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僕の人間関係不得意の話(2017年初頭の状況)

 とにかく対人関係が苦手である。

 

 それでも生きていくためには他人と関わらないといけないので、どうにかこうにか工夫をして沢山の人間の中で暮らしている。そもそも自分はなぜ他人の存在がが苦手なのだろうか?ということを昔からずっと考えているのだけれど、今現在の結論としては、「他人を意識し過ぎてしまっている」ということだと思う。同じ空間に他人がいるとき、その人が何を考えているのかを想像し過ぎてしまうのだ。

 例えば道を歩いているときに、前にいる人が一瞬こちらを振り返ったとして、「なぜこの人は今振り返ったのだろう?」と考え始めてしまう。これがひとりならまだ平気だけれど、人数が増えれば増えるほど、色んな人のことを同時に考え始めてしまう。そうすると自分の頭がパンクしてしまう。つまり、その場にいる全員の所作を確認して、何を考えているのかを想像して、それに合わせて問題が出ないように行動をしようとしてしまうのだけれど、たくさんの人間がその場にいる場合には僕の脳の処理能力が限界になり対応できなくなるのだ。その場にいる人が何を考えているかの想像を十分にできないと、どうすればいいか分からないので(周りが全て地雷原であるかのように思ってしまうので)行動ができなくなる。だから黙り込んでしまう。動けなくなってしまう。そこから抜け出そうと頭をフル回転させるので、とても疲れてしまうし、それでも結局足りないので上手く行動できない。

 このようにして、とてもしんどくなってしまうので、最終的にはその場を去ってしまうか、場の隅っこに移動して存在を消すように心がける。上手く周囲を把握できなくても、自分の行動が周囲を断絶しているならば問題は起こらないからだ。

 

 なぜ、他人の考えていることを想像してしまうかというと「失敗をしたくないから」だと思う。その恐怖がある。目に見えていることだけを頼りに何かの行動をしてしまうと、目に見えていない他人が実は考えていたことを見落としてしまい、結果的に間違った行動をしてしまうことがある。それをとても恐れているのだ。自分が良かれと思ってした行動が、その見落としによって悪い行動になってしまう可能性を考えて、もしそうなったら嫌だと思っている。

 面倒なのでできるだけ行動をしたくないのに、それでも行動した結果がプラスではなく、ゼロですらなく、マイナスになってしまうのならば、最初から何もしなければよかったんじゃないかと思ってしまう。怖い。今でもまだまだ全然怖いので、失敗しないように他人のことを見て、他人が何を思っているかを考える。このように失敗しないためのことを考え過ぎてしまうのでとてもしんどくなる。

 だからこそひとりでいると、とても解放的な気分になる。そのため、ひとりの時間を生活の中にできるだけ作ろうとする。

 

 近年は、他人と一緒にいるときに、目の前の人が何を考えているかを把握したり、把握しなくてもいいことに対しては適切に感覚を鈍化させてなんとかするという技術が多少熟達してきていて、2人や3人程度であればあまり辛さを感じないでいられるようにはなってきた。でも大人数になるとやっぱり限界を迎えて黙ってしまうことも多い。

 困るのは大人数の前で喋る仕事などをしないといけないときで、その場合は、全身の感覚を一生懸命鈍化させて、目の前の人々を感じないように努力し、まるで壁を相手に喋るように徹することになる。そうすれば、やり過ごすことができる。しかし、その帰り道などで感覚をまた鋭敏に戻ったとき、それまで無意識に知覚していた他人を認識する感覚が遅れて津波のように襲ってきたりする。それを一気に引き受けてしまうことで陰鬱な気分になる。あらゆる後悔が始まってしまう。だから、この手の仕事はできるだけしたくないと思う。

 

 ここ1年ちょっとぐらいは、通っている仕事場の立地の関係で満員電車に乗ることも増えた。満員電車はとてもつらい。例えば、電車の加速減速で右の人に押されてしまったとき、その勢いで左の人を押してしまうことがある。それは不可抗力だけれど、左の人からすれば、僕が押したと思うかもしれない。満員電車は毎日のことなので押された方も慣れてはいるだろうけれど、それでもいい気持ちはしないだろう。だから僕は吊り革をぎゅっと掴んで、他の人に体が当たらないように注意するし、吊り革が空いていなければ、なんとかバランスをとって当たらないように頑張ろうとする。それも当然疲れてしまう。

 ただ、満員電車に乗る時は周囲が知らない人ばかりであることで多少救われる。なぜならその場限りだからだ。その場をやり過ごせばそれで済むからだ。これが知り合いであったとしたら、そこでしたことは、長い付き合いの中に組み込まれてしまう。だからより必死に、他人に不快感を与えないように接しようとしてしまう。それはさらに疲れてしまう。なので、できるだけ時間を調節して満員電車に乗らないようにしているし、乗らざるを得ないときには、上手く自分がストレスを感じないように、それはつまり他人にストレスを与えてしまったという実感を得ないように工夫をすることになる。努力がなんとか緩和してくれる。

 

 「他人にどう思われるかを考え過ぎてしまう」というのは、やめようやめようと思うけれど、自分の性質に深く食い込み過ぎてしまって、どうにも排除することができない。僕にできるのは、自分がそういう人間であるということを受け入れた上で、そのままで社会との間に感じてしまう軋轢をどれだけ減らすことができるかということだ。

 

 基本方針はひとつである。他人と深く関わらないことだ。他人との接点をなるべき希薄にし、その場その場の一瞬をやり過ごせばいいだけに仕向けることで、対応しなければいけない状況を限定的にする。これだけでかなり楽になる。そして、空いた時間は漫画や映画やゲームに耽溺する。これらのいいところは、こちらを見てこないことだ。僕がそれらをどれだけ見たところで、他人の目線を気にしなくていいのはありがたい。

 ただゲームがこちらを評価してくることはある。でも、相手がゲームの場合は低評価だからといって大して気にならない。それは記号的なもので、人間を相手にしたときのように気にしてしまうことはない。ゲーム内の評価が低ければ練習をしたり戦略を考えたりして少しずつ上達していけばいいと思う。自分の能力が別に高くないことは分かっていて、評価が低いこと自体は認識の通りだから全然辛くは感じない。

 困るのは、その低い評価を根拠に他人に何かを言われてしまうことだ。他人が求める結果を出し続けないといけない状況になると辛くなる。それに頑張って応えないといけないんじゃないかと思ってしまうからだ。元来不器用な自分が、ちょっとずと改善を積み増して、できなかったことができるようになる過程自体は楽しいので、それだけなら続けることはできるのだけれど、そこに他人の存在が関わると全然別の話になる。その時その場で、他人に求められているほどの結果を、すぐに出せないことが辛くなる。だから他人と強く関わるネットゲームなんかは続いた試しがない。

 

 承認欲求という概念をいまだに実感をもって理解することができない。褒められるのも貶されるのも僕の中では似たようなもので、その他人が提示した基準に、自分を沿わせることが求められていると感じてしまう。それを見てしまうと、自分がやりたいことを横においておいて、他人により貶されず、より褒められることをしようとしてしまう。それは欲求ではなく、追い立てられるようなものだと感じている。それが怖いので、他人からの承認はできるだけされたくないと思ってしまう。

 趣味で絵を描いたり文章を書いたりするけれど、特に反応は必要ではないし、あってもあえて見ないことが多い。より多くの人に評価されることが、生きていく上で有利になるように繋がっているのなら、それは仕方ないし、仕事ならばそんな感じなのでちゃんと見て反映するけれど、趣味は別だ。趣味はそれをすることが楽しいのであって、他人にどう思われるかを考えたくないと思ってしまう。他人の目を意識してしまうと、趣味が仕事のようになってしまう。しかも、他人の目に則しても代わりにお金はもらえないので、仕事よりしんどい面倒な何かということになってしまう。だから誰からも大した反応がないのがいい。他人の注目が大きく集まってしまったとき、僕はそれを止めることになると思うからだ。

 

 逆説的に言えば、自分が他人に影響を与えてしまうというのも辛い。自分が他人に何かを伝えたことで、その人の行動や考えに影響を与えてしまった場合、その動向を見守ってしまうことになる。上手く行ったときにようやくゼロでほっとする。そして上手くいかなかったときには、そのマイナスの責任を勝手に感じてしまう。

 だから僕が言ったことに誰も影響を受けないで欲しいと思うし、それゆえに、本を読んでも映画を観ても、ゲームをしても、それの批評みたいなことをしたくないと思う。僕の意見は世界で一番ちっぽけで、誰にも何の影響も与えないのであればいいのにと思う。それはとても楽だからだ。

 

 でも、そうばかりも言ってはいられない。社会的な立場も年齢や経験に従って変化するし、僕は他人に指示を出すことも増えてしまった。自分の考えはあるし、理由を積み上げてそれがきっと良いはずだと思ってはいるのだけれど、その内容を他人に伝えるときにとてもしんどくなる。他人に指示を出して作ってもらったものが、僕の考える良さにそぐわないときに、やり直してもらう依頼をするのにとてつもない苦痛を感じてしまう。僕の抱えている正しさには、他の誰も別に寄り添わなくていいと思っているはずなのに、その自分が嫌悪している行為をせざるを得ないことになる。だから、他人に頼まずにできるだけ自分の手でやろうとしてしまったり、やってもらったことはそのまま残しておいて、その間を繋ぐアダプタのようなものを自分で用意して、なんとか辻褄を合わせることに終始してしまいがちになる。

 ただ、それは自分の仕事を無限に増やしてしまう行為で、関わっているものの規模を鑑みた立場上、そればかりをしていては回らないような状況になってしまった。それがこの1年ぐらいの話だ。だからこの弱った状況をなんとかしようとしてとても頑張っている感じです。

 自分の社会生活に向かない心性を、どうにか社会に適応させるための工夫を山のように積み増して、なんとか自分が関わっているものを思い通りの形に組み上げることに全力を傾けている。この前、そのうちのひとつが、外から見れば何の滞りもないように完成を迎えた。僕はほっと胸をなでおろしたのだけれど、その過程で必要に迫られて自分の精神の構造改革をめちゃくちゃにやってしまったので、年末年始は無数のその場しのぎの工事を行ってしまったつぎはぎの精神を立て直さなければならなくて、ひたすらダラダラと過ごした。

 30代も半ばにさしかかると、もっとずっと大人になっていることを10年前は期待していたけれど、確かに精神的な成長は遂げている実感はあるものの、その階段は一歩一歩自分で登らなければならなかったもので、とても疲れるし、まだまだ全然道半ばで、どこまで登らなければいけないのかと気が遠くなる。

 

 ただ、自分が今まで登ってきた階段を振り返って見下ろすと、ここまでは登ってこれたという実感があり、救われる気持ちになる。例えば、20代半ばの頃は、外食店の忙しそうな店員さんに「お会計お願いします」と言いだせず、手が空きそうなタイミングまで黙って待っていて、しかも、店員さんの方を見てしまうと、気にするかな?と思うので目はそちらを向けないように意識し、その状態で外食後無意味に十分ぐらい居座っていた(余計に迷惑だろう)、そんな頃の自分を思えば、今ではだいぶ人間らしくはなったのではないかと思う。

 もう少し色んな工夫を取り入れて、あと5年ぐらいかけて、人の集団の中でものつくりをする中でも平気に振る舞えるようになれればいいなと思っている。

 

 人と接するとき、僕の心の中では色んなことが起こっているのだけれど、他の人からみればそこまで変には見えてはいない場合もあって、本当にそんなに人間が苦手なの?と聞き返されることがある。精神は直接比較できないので、僕がどれだけ人間が苦手かを一般的に語ることは難しいのかもしれない。でも、そのように振る舞うためには上記のように無数の努力をしているのは事実だし、感覚としては、そのようにすることでなんとか人間社会にしがみついているわけなのだ。

 また、人間が苦手という割に、自分から他人を遊びに誘うことも結構あるのだけれど、それだって平気でやっているわけではなく、そのようなことを自分がしてもいいのか、都度ものすごく悩んでいることが多い。なぜ自分から能動的に人に声をかけるかというと、僕の精神の性質上、素直に振る舞い過ぎると、世間から完全に孤立するのが目に見えているからだ。孤立し過ぎると色々難しくなるので、何らかの意味で尊敬している人や、接しても平気だったタイプの人とは出来るだけ自分から仲良くしようとしている。ただ、僕がそうしていることがその人にとって迷惑ではないのかな?とずっと考え続けてしまうのはやめることはできない。

 

 他人は僕の思う通りにならなくていいと思う。他人を変えるぐらいなら自分を変えるか、その場を去りたいと思う。でも、それはしんどいからやりたくないだけで、とりわけ仕事上の役割としては、「他人を変える」ということをやった方がいいと思うような状況にもここのところぶちあたっている。技術のなさを運動量でカバーするようなことは、もうこの先続けられないかもしれない。だから、どうにか人と関わって関係性を構築して行くべきだろうと思う。ただ、それは僕にとってとても難しいことだ。

 無人島でひとりで暮らせるぐらいのパワーがあれば、こんなものは悩みではないのかもしれない。他人を意識しなくても生きていけるからだ。でも僕はとても脆弱なので、社会に寄生しなければ生きられない。寄生しなければ生きられないくせに、そこが辛いと思ってしまうのが、とても残念な身の上だと思う。でも、だからといって黙っていても、誰かがうっかり助けてくれるのを待ったとしても、何も解決しないという経験がある。人と会いたくないからといって人と会わなくても十分生活できるのは、何かしら状況に恵まれている人だけだろう。僕のいる状況はそんな風ではないし、何もせずに待っていたら、たぶんこれまでのどこかでのたれ死んでいたに違いない。

 

 この先も社会の中で生きていたいし、そのためには他人と少なからず関わらないといけない。別に誰も嫌いじゃない(ただ嫌いな行為はある)、むしろ好きな人が多い。でも、好きな人にうっかり嫌われたらいやなので、いっそ関わりたくないとか思ってしまうこともしばしばだ。弱ったなあと思いながら生きているわけですが、これはもう仕方がないと思っているんですよ。人間が苦手でも社会の中で生きていくためには技術が必要で、それらを習得するために、日々変化をしていかないといけないと僕は思っていて、だから、おっかなびっくりそうしようとしているわけなのです。