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過去や未来や異世界を舞台にした物語に現代の常識が紛れ込む問題

 例えば過去や未来や異世界を舞台にした物語の中で、なぜか現代の日本の常識を持った人物が登場するということがよくあります。それはなぜでしょうか?

 

 結論から書くと、それはその物語の想定読者が現代の日本の常識を持った人間だからだと思います。

 

 人間の常識、つまり「言わずとも当たり前である共通理解」は、時代や場所によって異なります。もちろん、同じ人間である以上、それらを超えて理解できる部分はあるでしょう。でも、例えば、食の問題一つをとってみても、タコを食べる日本人を理解しない外国人もいれば、犬や猫を食べる外国人を理解しない日本人もいます。

 極端な例で言えば、食人の習慣のある人々がいたとして、人間を食材にした料理が食卓に上がったとすれば、そのような常識を持たない現代の日本人からすれば狂気に溢れる光景のように見えるかもしれません。しかし、何らかの機会には人を食べることもあるという常識を持っている人々がそれを見たとしたら、それをよくある風景と思ってしまうかもしれません。同じ光景を見たとしても、見た主体の持つ常識によって全く異なる理解をしてしまうのです。

 

 あらゆる伝達手段には、発信者と受信者の間で握っている暗黙の了解があります。そのような了解があるからこそ、言葉や文字に意味を込めて情報を伝えることができます。もし、それがなかったとすればどうでしょうか?例えば、地球人と何も前提を共有していない宇宙人から、何らかのメッセージが地球に届いていたとして、それが何かを意味するかを解読することは困難です。そして、そのメッセージを解読した結果も地球人にとっては意味不明で理解不可能なものかもしれません。

 

 つまり、「現代の日本の常識を持った人が物語に登場する」ということは、少なくともその登場人物の主観の部分においては、現代の日本の読者にも理解可能なものがあるということです。

 その登場人物が、訪れた過去や未来や異世界に存在する別の常識に触れたときに持つ違和感は、読者が持つ違和感と同じものになるはずです。異文化を描くときには、このように現代の常識を持つ人物を登場させる方法がよく使われます。その物語に登場する異文化は、読者の持つ常識とどのように違うのか?そこで相互理解に至るにせよ、理解不能と言う結論に至るにせよ、その差を認識するために効果的な方法です。

 

 さて、現代のある場所で作られる物語は基本的に、現代のその場所に生きる人々に向けて描かれているものです。なぜならば、それらの物語は誰かが読むために作られているからです。その誰かが「既に亡くなった遠い昔の人」であったり、「まだ生まれていない遠い未来の人」であったり、あるいは「自分とは一切かかわりのない遠い世界の人」である物語があるとしたら、それらはかなり特殊なものでしょう。

 なので、その物語の舞台が過去であれ未来であれ異世界であれ、物語を「何かを伝達するもの」と認識する以上は、現代のその場所に生きる人々のために作られていると考えられます。であるからこそ、現代のその場所に生きる人々に理解可能な常識をその中に内包する必要があるのではないかと思っています。

 

 例外的なもので言えば、過去の異国で描かれた物語を、現代の日本人が読むというような場合でしょう。なぜなら過去の異国で描かれた物語は、過去の異国に住んでいた人々を読者として想定して描かれているからです。そのような本を実際に読んでみると分かりますが、意味がとれない表現が沢山でてきます。

 例えば、「不思議の国のアリス」では、様々なジョークがその物語の背後に存在していますが、それらの意味は説明なしには現代の日本人には分からないことが多いはずです。帽子屋(The Hatter)は、頭のおかしい言動を繰り返すキャラクターですが、彼は「as mad as a hatter」という当時の慣用句を元に作られているそうです。しかし、そのような言葉を日常使うことがない現代の日本人にとっては、解説なしには理解することは困難です。

 自分が想定読者として含まれていない本を読む場合、このような意味のとれなさはよくあります。しかし、例えば外国の物語が日本に向けて翻訳されたものを読むのであれば少しはましになります。なぜなら翻訳者が、翻訳先である日本の常識に合わせて内容を変換してくれることが多いからです。そのせいでむしろ本来の意味が分かりにくくなることもあるかもしれません。しかし、少なくとも全く意味の分からない言葉は分かる言葉に置きかえられて表現されるようになっているはずです。

 

 では、これが地域ではなく時代、例えば過去の日本であればどうでしょうか?僕は100年ぐらい前の本をちょいちょい読んでいるのですが、文章の意味を上手くとれないことがよくあります。

mgkkk.hatenablog.com 例えばあることを肯定的に書いているとして、それを本当に肯定的に主張したいのか、皮肉でそういうことを書いているのか、あるいは、なんらかの意味を持ったジョークとして言われているのかを明確に区別する方法を持ち合わせていません。

 そのような分からない中で、似たような本を大量に読んでいると、その時代の常識が段々と蓄積されてくるので、なんとなく意図が分かったような気になることもあります。しかしながら、それらはやはり、限定された書物の中から得た常識でしかなく、当時の人々が持ち合わせていた常識と完全に一致しているという保証はないわけです。いったい、その時代のその本の読者は、何を思ってその本を読んでいたのか?それは不確実な認識のもとにしか理解することができません。

 

 同じ時代の同じ常識を共有している人ですら、ある本を読んだ結果の認識は様々です。時代や場所が異なればなおのことでしょう。過去の人々が過去の人々のために描いた物語の中には、読者として想定されていない自分では上手く受け取れない何かが含まれています。そして、自分を読者として想定した現代の人々が描いた物語にも、この時代のこの場所の人間にしか分からないようなものが含まれているはずです。それが、過去や未来や異世界を舞台にした物語の中にも存在したとして、否定されるべきものでしょうか?

 つまり、そのような現代の常識が紛れ込んだ場合については、その物語は、現代の人間が理解しやすいように翻訳して描かれているというふうに理解すればよいはずです。もちろん、外国の本を原書で読むように、自分に向けて描かれていない物語を異文化を理解する気持ちでそのまま読むという体験もよいものでしょう。ただ、それが唯一の正しいものであるとは僕は思いません。

 場所や時代の常識に反する表現が物語の中に登場したとして、それは物語を通じて伝えたいものを伝えやすくするため、想定する読者の理解に寄り添うために登場しているものであって(とはいえ単純な考証不足の場合もあるでしょうが)、間違っていると呼ばれるものではないと思うのです。

 

 そして、過去や未来や異世界の常識を、そもそも僕らは持ち合わせていないという問題もあります。例えば、「300年前の人々はこんな常識を持っていた」という話があるとして、それは事実でしょうか?おそらくそのような話を口にしてしまうとき、300年前に書かれた書物を大量に読んだ結果得た常識を元に類推しているのではなく、「300年前の人々はこんな常識を持っていた」と書かれた本を1冊2冊読んだというような根拠しかなかったりはしないでしょうか?それは本当に事実であると語るに足る証拠でしょうか?

 いい加減なことが書かれたと思われる書物も沢山あります。「過去にはこういうことがあった」ということを事実として断定するには、かなりの証拠集めが本来は必要なはずです。でも、薄弱な根拠をもとに、分かったような気になってしまっていることがあります。そのような根拠とは、おそらく、現代に描かれた過去を舞台にした物語なども含んだ様々なものを今まで読んできたことの集積でしょう?でも、それはやはり、過去の事実と完全に一致することはないのではないでしょうか?

 一度立ち返って、自分は何故その時代にはそういう常識があったと思っているのかを探ってみる必要があるかもしれません。そのとき、実は「ある本にそう書かれていたから」以外の理由が見つからないのであれば、そのわずかな手がかりを、事実と置き換えて認識しているということです。それらの参考文献もまた、現代の人々に対して翻訳して描かれていたものであるかもしれません。事実を語るのは非常に難しく、それが事実であるのかどうかを検証するのも一筋縄ではいきません。

 過去の事実や感覚についてどれだけ忠実に再現しようとしたとしても、そもそも正解を読む側である自分が把握しておらず、また、その物語が現在において現在の人々に対して描かれたものであるならば、その中には現在の感覚で分かるものが混ぜ合わされるものだと思います。そして、分かるものをとっかかりにして分からないものにも手が伸びるという作りになっているのではないでしょうか?

 

 さて、不思議の国のアリスの帽子屋は当時の慣用句を元にしたと上で書きましたが、その話は不思議の国のアリスがモチーフとして登場する漫画の「ARMS」が好きで好きでたまらなかった高校生のときに読んだ本に書かれていたもので、実際にそのような慣用句が日常的に使われていたかどうかの証拠を僕は持ち合わせていません。

 もし、この文章を読んでいる人がその話をさっき初めて知ったとして、それが事実であると信じたでしょうか?Wikipediaで検索してみれば、同様の話が出てきますが、それを持って事実であると思えるでしょうか?もしそうなのだとしたら、ある本やブログにいい加減なことを書いた人が、注目されにくいWikipediaの項目にそれを反映したとして、その両方を目にしたとき、それを事実ではないと見抜くことができるでしょうか?何が本当に事実であるかを断定的に語ることは、真摯に取り組もうとすることは、前述のようにとても手間がかかることです。

 自分が生まれ育った環境以外の常識を正確に把握するのはとても難しいことです。

 

 まとめると、現代の日本の常識が、過去や未来や異世界などの別の常識が存在する場所に紛れ込むのは不自然です。しかし、読者である自分が現代の日本の常識に基づいて生きている以上、それを全く排除した場合、物語として自分が理解できるとっかかりが失われてしまうかもしれません。言葉や常識、感覚が異なる場所では、必ずしも現代の日本人が理解して納得できる物語として成立しない可能性があるからです。

 筒井康隆の「最悪な接触(ワーストコンタクト)」では、地球人とは感情回路の異なるマグマグ人が登場し、彼らの感情論理に基づいた行動をとります。それは地球人には全く理解不能なものとして描かれていて、行動をしっくりくる形で受け取ることができません。その物語がマグマグ人のために描かれているならよいでしょう。あるいは、この物語のように理解しあえないということが主題であれば納得できます。しかし、そうでないならば、やはり、なんらかの形で現代の日本の常識は物語の中に紛れ込むはずです。

 綿密な取材と考証によって、過去をできるだけ再現した物語であったとして、それはその中への現代の常識の埋め込み方がさりげなく、やり方が上手いということであって、現代の日本の常識がそこから完全に排除されたということではないのではないでしょうか?そして、そのさりげなさに、別の常識の方を精緻に把握できていない読者は気づくことができないかもしれません。

 なので、僕が思うには現代の常識が紛れ込む不自然さと、同じくそれらが盛り込まれているはずなのに自然に見えるものとの差は、表現したいことを何としているかに基づく手法の選択の問題であって、作品の出来の優劣を決める要素とは異なる話ではないかと思います。

 

 本当に現代の常識が入らない物語を読みたければ、過去や外国で作られた物語を原書で読むという方法もあります。僕はたまにやっていますが、それらは現代の日本の常識ではないものに基づいて描かれているために「わかんねえ~」という気持ちを抱えたまま読み終わることになることも多いです。そして同時に、それでも「わかる~」という部分もあるのが、場所や時代を超えて同じ人間であるという共通点を感じて面白いところですね。