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「晴れ間に三日月」を読んだ関連

 イシデ電の「晴れ間に三日月」を読んだのですが、面白かったのでその感想を書きます。

 

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 このお話は、ある女の人が彼氏(バンドマン)を、幼馴染の親友に紹介したところ、その彼氏がその幼馴染に一目ぼれしてしまい、目の前でフラれてしまうというところから始まります。そして、実は既に子供を身ごもっていたその女の人は、妊娠の事実を告げることなく、町を離れ、水商売をしながら一人でその子を育てることにしたのでした。さて、その息子も中学生になるほど時間が経ったあるとき、その女の人は祖母の経営するパブを継ぐために、また生まれ育った町へと帰ってきます。

 そこには、かつて自分から恋人を奪った幼馴染が、その元恋人と子供二人と、温かい家庭を作っているのです。会いたくないですよね。会いたくないでしょう。でも、再会してしまうお話なのです。さて、彼女たちはその後、どのような人間関係を構築していくのでしょうか。

 

 冒頭のあらすじを読むと、どろどろとした陰鬱な物語なのかと思ってしまいそうですが、必ずしもそういうものではありません。そのようなことが「かつてあった」ことを前提に描かれる、日常の中のお話ではないかと思います。そして日常のお話でありながら、その背後にはそういうことがあったということ、それがなかったことではないということだと思います。

 

 もし「正しい人付き合いの仕方」というものがあったとして、「それに沿う人を正しい人」、「それに沿わない人を間違っている人」としたら、僕が思うに大半の人はなんらかの部分で間違っている人なんじゃないかと思います。そもそも何をもってして正しいとするかという問題がありますが、例えば、全く無理をせず自然体で過ごしながら、周囲にいる人たちに理不尽な負担をかけることなく助け合い、毎日楽しくやっていくということを「正しい」としたら、僕自身はそれを満たして生きている自信がありません。

 誰かと付き合うために何らか無理をしていることもしばしばですし。自分が自然体で付き合って楽しいと思っていても、相手に知らずに負担をかけているかもしれません。その辺は本当に自信がないんですよ。だから僕は自分は多分間違っている側の人だと思います。そして、それは気づいたとしても、自分でも簡単にはどうにもなりません。

 

 このお話の中にも、多くの間違っている人がいると思います。そしてそれは特殊なことではないとも思います。誰しも多かれ少なかれ間違っていて、このお話では最初から色々な間違いを発見することができます。恋人がいながら別の女性に心を奪われてしまった間違い、親友の恋人を奪ってしまった間違い、もしかすると、それによってひとりで町を去ったということも間違いかもしれません。

 人間関係における正しさというものが僕にはどうにもよく分からず、もっとよい方法があったのではないかと常に考えてしまいます。そしてその考えは、自分が間違ってしまったんじゃないかと思ったときに一番よく頭をよぎります。

 

 僕の経験的な感覚として、多くの人間はあまり自由に生きておらず、自分が背負っている役割などが求めてくるものの方が、自分の意思よりも強く自分の行動を決めているように感じたりします。朝仕事に行くのは自分の意志ではなく働き手を求める仕事の意志でしょう。夜にご飯を食べるのは自分の意志ではなく生きるための肉体の意志でしょう。やることを求められているため、それに応えているだけのように思うのです。

 でも、普段はあまりそれを意識していません。そして、意識せずにいられることはある種の楽な状態なのかもしれません。ただ、時折、その背負った役割ゆえの行動が、役割を持ち合わせていなかったと想像した場合の自分と、すごくギャップがあるように思えて驚いてしまったりもします。

 自分は自分の意思でこのようなことをしているつもりだけれど、ふと立ち戻って考えたとき、そもそもそれは自分のしたかったことなんだろうか?もしかしたら、そうすることで誰かが喜んでくれるから、あるいは、そうしなければ誰かが怒ったり傷ついたりするから、そのようにしようと思っているだけなのではないかと思ってしまうのです。

 

 この物語は、自分の本当の意志に気づける人と、自分の本当の意志に気づけない人を取り巻くお話であるように思いました。でも、その差は100と0のような明確ではなくて、60と40のような微妙な違いのように思います。それは当たり前のことで、自分の意志しかない100の人も、自分の意志がまるでない0の人も、傍からみればある種の異様な人です。なので、そうではないことは普通ということです。

 多くの人間は普通で生きていくしかありません。普通の生活では、日々揺れ動く自分の意志の割合が表に出てくるレベルになったり、表に出てこないレベルになったりして変動します。それが葛藤でしょう。それに決着をつけるのが、なんらかの人生の節目ではないかと思ったりします。

 

 この物語の最後では、そのような節目を迎えます。

 

 裁定者のような目線を得て、誰かを間違っているとすることは可能で、誰にだってなんらかの間違っている部分を探すことができます。そして、そんな間違っている部分はその人を気楽に責め立てるとっかかりになりやすいものです。そういうことはいくらでもできます。でも、じゃあ、それを気楽にできるほどに自分が間違ってはいないのかというと、自分にも全く間違っている部分があると思ってしまいます。だからといって、他人の間違いを見過ごすことが正しいかというと、それもよく分かりません。

 そんな曖昧な状態で、日々生活は続いて行くようなものだと僕は感じているのですが、このお話ではある種の節目に至りました。それは重要なひとときで、鮮烈な場所です。そして、だとしてもその先も続いていくものです。

 

 この物語における、日々の生活に曖昧に埋没しない感じ、かといって、なんらかの客観的な正しさで他人を塗りつぶそうとはしない感じ、そして、それが全ての終わりではない感じがとても心地よく感じました。

 この漫画をまた読んで感じた色々を、頭の中でぐるぐるさせながら、昨夜は小雨の降る夜の道を、喫茶店から家までてくてく歩いて帰ってきました。