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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

事件を起きる前に解決できない探偵関連

 事件を解決する物語の中の「探偵」の基本的な性質のひとつは「手遅れ」であるということです。探偵という存在を物語におけるを機能として考えると、何らかの事件が発生することでようやく、その解決のために出動要請がかかります。多くの場合、どんな有能な探偵でも、最低ひとつの事件が起こってしまうことを見逃さざるを得ません。なぜならば、事件が何ひとつ起こらなければ、解決は必要でなく、探偵には存在意義がないからです。もちろん、事件を企てている人をわずかな兆候から察知し、その事件の発生を未然に防ぐ探偵もいます。しかしながら、それらはやはり傍流ではないかと思います。

 

 探偵は探偵の役割があるゆえに、様々な最初の事件が起こることを見逃さざるを得ません。その事件の被害者には探偵の友人や親族、恋人などが含まれることもあります。探偵あるところに事件あり、その事実に一番傷つけられるのはもしかすると探偵自身かもしれません。

 

 さて、現実世界は物語ではないので、事件は未然に解決されることも多くあります。ただし、それらは未然に解決されているがゆえに事件であると知覚されないことが多いのではないでしょうか?

 事件という結果があるとき、常にそれに対応した事件の原因も存在するはずだと思います(なお、その原因はひとつとは限りません)。しかしながら、事件の原因は、ことの時系列には逆行し、常に事件の結果より後に生まれるものだと思います。なぜならば、結果が存在しなければ原因は原因として認識されないからです。

 例えばある設備の老朽化が進んでいたとしましょう。その老朽化した設備において、事故が起こらないままに廃棄されるまで設備寿命を全うしたとしたら、老朽化を放置したということは何かの原因となるでしょうか?老朽化が進んでいた設備を使い続けていたことは、とても危険なことですが、それによる事故が起こる前には、それが強く問題視されることは少ないかもしれません。しかし、一旦その老朽化起因による事故が起こってしまえば、「なぜ老朽化が進んでいた設備を運用していたのか?」と一転強く問題視されることになります。老朽化した設備の存在は、事故が起こったときも、運よく起こらなかったときも同様に危険です。しかし、それが糾弾されるかされないかは、それによる事故が起こったか起こっていないかによって全く変わってくる場合があります。同じ事象が結果によって、原因とされたり、されなかったりするということです。

 

 さて、良識ある事業者によって運用されている設備であれば、老朽化が進む前に、予防保全として部品が交換されると思います。これはまさしく事件を未然に防ぐ行為です。ただし、まだ悪い結果が出ていないものを交換するということには、場合によっては反対意見が出ることがあります。「それは本当に必要なことなのか?」と。もちろん、それは安全面から必要なことですが、どのタイミングで壊れるか分からない場合、チキンレースのように、壊れるギリギリまで使い続けられれば、交換費用を節約できるかもしれません。さて、そんなとき、みなさんはどうするでしょうか?

 定期的に新しいものに交換をするべきであると答える良識のある方もいるでしょう、でも、そう答えた人に質問があります。例えば、自宅の電球を交換する際、まだついているものを交換しているでしょうか?実は切れてから交換してはいないでしょうか?もし、そうであるならば、その実体験について質問があります。まだついている電球を、ついているうちに交換するのはもったいないとは思っていなかったでしょうか?それは、老朽化した設備を使い続ける危険な行為と不可分ではないのではないのではないかと僕は思います。

 何かが起こる前に、それを察知して、事前に対処しておくことはとても大変なことです(しかしながら素晴らしいことにそれをやっている人が世の中には沢山います)。もしかすると、交換したことがヤビヘビとなり、新たな問題を招いてしまうということだってあるかもしれません。だからこそ、今問題なく動いているものは、何か起こるまでは、できるだけ手を触れずにそのままにしておきたいという考えを持つ人も存在するのです(それが必ずしも間違っているわけでもありません)。

 事前に兆候に気づかず、対処しないでいると、うっかり電球が切れてしまい、電気がついて欲しいときにつかないという結果を得ることになります。そしてその不便さを得ることで、初めて、電球を交換する理由を持つことができたりします。そのように手遅れになった結果、電球を新品に交換をするまでの間には、電気がつかない不便な時間ができてしまったりするのです。

 

 何かが起こる前に対処するということは、電気がつけられない時間を最小に収める努力のことです。僕が思うに、世の中では、既に結果に繋がったものと、まだ結果に繋がっていないものを比較すると、繋がったものの方が重要視される傾向があるのではないでしょうか?なぜならば、結果というものは具体的であり、重要さの算出が容易であるために、誰の目にも分かりやすい理由となるからです。

 であればこそ、世の中には理由としての事件を、事故を、悲劇を求めてしまう人がいるように思います。その人たちは、自分たちの側に悲劇が起こることを悲しみながらも、その事実を便利な道具として使ってしまいます。そして、僕はそれが気に喰わないと思っています。

 なぜ、気に喰わないかと言うと、例えば死亡事故が出たことを強い理由に改善が進むなら、改善を進めたければ死亡事故が出た方が効率がよいことになってしまうからです。その状況では悲劇が起こった方がよかったとならないでしょうか?理想を言えば、事故が起こらなくても改善が進む方がよいはずです。でも、そうはならないとすれば、誰かが犠牲になることで、ようやく前に進む糸口が得られたということになります。

 これに関しては、人柱のことを思い出します。人柱に選ばれた人が生贄として死ぬことと、例えば、川に上手く橋がかかることなどに関係性を見出すことは僕にはできません。その人柱は無意味だと思います。そして、それまで危険視されていたものが危険であることについても、死亡事故が出ようが出まいが、その危険性自体には本来変わりはないはずです。しかし、人が死んだことでようやくことが動くということがあるのだとしたら、それは人柱と似たようなものなのではないでしょうか?より悲劇的な理由を持たなければことが動かないのだとしたら、悲劇は世の中を駆動するための燃料です。世の中が動くためには、より多くの生贄が必要とされるということです。その世の中はよい世の中でしょうか?

 

 結果に繋がってしまった悲劇的な原因が、優先的に解決されうる状況では、自分たちの側に被害がでたということをアピールすることが重要になってきてしまうのではないでしょうか?それは、とても辛いことではないかと感じてしまいます。そしてそのような悲劇的であるがゆえに耳目を集め、目立ってしまう事例の下に、山ほどの起こる前に解決されている事件があります。本当はそうあるべきだと僕は思っています。しかし、それらは起きる前に解決されているがゆえにあまり注目されません。

 これは悲劇が起こることで必要とされる場が生じる、物語の中の探偵の悲しみと似ているのかもしれません。真に有能な探偵であれば、事件を最初から起こさずに話を終わらせることができるはずです。しかし、それでは物語にはなりにくい。

 

 消防士の漫画「め組の大吾」では、主人公の大吾は、火災がめったにおこらないめでたいめ組と呼ばれる、めだかヶ浜出張所に配属になったことに落胆を覚えます。出動が少ないことはつまり、自分の活躍の場が少ないからです。しかし、その火災が少ないということは、ただ運がよいわけではなく、そこにいる消防士たちの日々の火災を起こさない努力が成したものであって、火災なんてそもそも起こらない方がよいということがわかります。これはとても正しいことだと思います。

 しかし、大吾は通常のルールが通用しないような火災の中で特異な能力を発揮する人間であり、命の危険を賭して様々な人命救助を行います。それは、常識的に考えればやってはならないことだらけです。しかし、大吾はそれをやる人間であるのです。そして、自分が必要とされるには何らかの災害という悲劇が必要であり、それらがなくなることを望みつつも、もし完全になくなってしまえば自分の居場所がなくなるのではないかという恐怖も抱えます。

 これはとても悲しい話です。物語は事件を求め悲劇を求め、ヒーローはそれがなければ必要とされません。

 

 では、事件が起こる前に解決するということをよしとする物語はないのでしょうか?もちろんあります。

 例えば、ゲームにはよくあります。「かまいたちの夜」には、数々の選択肢を選び、事件を解決する方法を選んだ先に、雪山のペンション内で事件が起こる前に解決してしまうシナリオが存在します。これは、あらゆる悲劇が起こったことを体感したのちに、起こらなかったことにでき、事件という盛り上がりがありつつも、最終的に人が死なずに終わるというとても気持ちがよいお話です。

 

 ただし、このようなゲーム的な物語構築を逆手にとったゲームもあります。

 あるゲームでは(タイトルを明言しないことでネタバレでありつつも何のネタバレであるかを隠匿するテクニック)、並行世界を渡り歩くことができる人々によって、ある惨劇が未然に解決されるというエンディングがあります。そのエンディングに至るまでに、真犯人によって用意された無数の罠によって、何人もの人々が殺され、またあるときは互いに殺し合うように仕向けられ、人間を狂気に追い詰めるほどに、非人道的な犯行が行われた時空が存在しました。並行世界を渡り歩ける人々は、それらの惨劇を潜り抜けてきた人々です。場合によっては自らの手を汚してまで生き延びてきた人々です。彼らが持つのは怒りでしょう。真犯人対する怒りです。人を人とも思わない残酷な犯行を行った真犯人を許せない怒りです。

 そんな怒りを抱えた彼らは、誰も死なない時空に到達し、まだ犯行を起こす前の真犯人に詰め寄ります。真犯人を断罪しようとします。しかし、その真犯人は主張します。彼は並行世界が存在することを知っていると、そして、この世界にいる自分は犯罪者ではないのだと。彼はただ、実際に実行しうる凶悪な罠を沢山用意しただけであり、それを実際に使ってはいないのだと主張します。その言葉はとても正しい。少なくともこの時空の真犯人は、法で罰されるべき、凶悪な殺人を起こしてはいないのです(犯行可能な準備を進める過程における何かしらの罪はあるかもしれませんが)。さて、見事事件の起こらない時空を獲得した人々は、その真犯人に罰を与えることは可能でしょうか?そして、それは正しいことなのでしょうか?

 プレイヤーが最終的に回避と思われる悲劇的な物語は、ただこの場がそうではないというだけで、別の時空では実際にはあったことだと感じるのです。最終的に誰も死ななかったとして、真犯人の企てたことは許されるべきであるのか?という疑問をプレイヤーに突き付けます。

 

 これは、最終的には幸福に終わったんだからいいじゃないかという言い訳を潰されるので、たいへん厄介な気持ちになってしまいます。

 

 あと、事件が起こる前に問題を解決することに対する考え方でいうと、「ドラゴンボール」も示唆がある物語のひとつですね。人造人間編では、ドクターゲロが人類を滅ぼす人造人間を生み出すということを、未来からやってきた少年トランクスに教えられます。主人公の悟空たちには選択肢があります。ドクターゲロが凶悪な人造人間を生み出す前にやっつけてしまうという方法です。

 しかし、まだ事件を起こしていないドクターゲロを攻撃することを悟空は望みません(なにより人造人間と戦ってみたいという理由もあります)。これが悟空のよさであり、悪いところでもあるように思います。もちろん人造人間たちは倒され、人類は滅亡の危機に瀕することはありませんが、これが現実なら、起こる前に解決した方がよかったのではないかと思ってしまいます。

 実際、トランクスは、現代の人造人間セルに対しては、育つ前に殺すという方法をとります。トランクスにそれができるのは、その後におこる惨劇を誰よりも知っているからではないでしょうか?トランクスは悲劇が起きてしまった未来の住人です。悲劇が起こる可能性がなくなるということの重要さを誰よりも知っているのです。

 そして、直近のアニメ映画「復活のF」では、悟空が同じ状況に追い込まれます。復活したフリーザに止めを刺すことを躊躇した悟空は、フリーザに地球を破壊されてしまうのです。その結果、破壊神の従者であるウィスの時間を戻す能力によって、もう一度のチャンスを貰えた悟空は、今度は躊躇なくフリーザを殺すという選択をします。それは結果を、その喪失を知ってしまったからでしょう。それは、かつては持ち得なかった、事件が起こる前に解決するということの重要さを獲得した悟空の姿でした。

 

 何を書こうかちゃんと考えずに書きはじめたので、思いついた方向のことを書きまくって、話がえらい散漫になりましたが、物事は問題が発生する前に解決するのが一番いいと僕は思っているものの、「悲劇が起こるかもしれない」という想定は、「悲劇が起こってしまった」という事実の前では、あまり大きな力を持てないことが多いのではないかと思います。その最良の手段が最良と認識されにくいことを悲しく思います。

 そして、その悲劇こそがドラマであると感じたりもします。現実に被害のないフィクションであるならば、そのような悲劇をむしろ求めてしまうということもあるかもしれません。それはそうなのかもしれないけれど、だとすると辛い話だなあと思ったので、そういうことが言いたかったという感じでした。

 

 ともあれ、そのような事件が起こることでようやく必要とされる探偵は、ある種悲しい存在ではないかと思いました。