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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

自分の好き嫌いを表明することと価値観の闘争について

 何かが嫌いなのは仕方ないよなあって思っています。例えば、何かを食べて「不味い!」と思ってしまったら、それを美味いと思う人にどんなに丁寧にその美味しさを説明されても、「やっぱりこれは美味い」と心変わりすることは難しそうだし、そういうのは個々人の持つ特性なんじゃないかと思うからです。

 何かの漫画を面白いとか面白くないとか思うとして、それを理屈っぽく説明することは可能ですけど、物語の構造を分析して因数分解のように要素に切り分けて整理したとき、どうしてもそれ以上分解できない素因数に行き当たるでしょう。例えば、その素因数が「親子の愛を肯定的に描いている」とかの場合、それを「素晴らしい」と思う人もいれば「おぞましい」と思う人もいるはずです。それを良いと思うか、悪いと思うかはそれぞれの人の経験や嗜好によるものであって、容易には乗り越えることができないと感じています。

 このように個人の特性によって、良いと悪いは一概に決められないものであって、同じ個人でも立場や状況や経験によって、それらは変化するものではないでしょうか?

 

 ただし、「個人の特性は仕方ない」とは言っても例外的なものもあって、そのひとつには先入観が関係しています。以前、探偵ナイトスクープであった実験で、おいしい「たまご豆腐」を「プリン」だと偽って提供したところ、食べた人々が顔をしかめて不味いと言ったのですが、実はそれはたまご豆腐であると教えられたあとに再度食べたところ、美味しいという結論に変化しました。

 ここには先入観による期待があったと思っていて、プリンは甘くて美味しいものだという期待に対して、別に甘くはないたまご豆腐がきたことから、あてが外れてしまったことを不味いと表現したのでしょう。このように嗜好はそれに何を期待しているかによっても変化する曖昧なものです。間違った先入観を持ってしまうと、美味いものも不味いと思ってしまうこともあると思うのです。

 

 何かを好きでもいいし、何かを嫌いでもいいと思います。それらはそれぞれ尊重されるべきことです。しかし、それらが両方尊重されるべきこととした場合、その好き嫌いを心の中で思うだけではなく、「外に向かって表明する」ということに発展すると、人々の間に軋轢が生まれる可能性が高まります。なぜならば、何かを好きとか嫌いとかいうことを自分の中だけのこととして慎重に言葉を選んで表明するならばまだしも、そうはならないことの方が多いと思うからです。つまり、他人の好き嫌いに、自分の好き嫌いが干渉してしまうということが発生します。

 それらはどちらも尊重されるべきものと思いますが、ぶつかってしまえばどちらかが否定され、あるいはどちらも互いに否定しあうことになります。それを回避したい人は、うかつに好き嫌いを表明しないこと、あるいは言い方を工夫するなどをしています。

 

 何かに対する世間の評価が、自分の中の評価と一致しないとき、世間の評価を自分の評価に一致させようとしてしまう感情の動きは誰しも多かれ少なかれあるのではないでしょうか?そう思ってしまう人から、ネガティブな発言を引き出すための手っ取り早い方法は、その人があまり良いと思っていないものを目の前で手放しで絶賛しまくるのことです。

 これは逆の立場でも同様で、何かが好きな人の前で、その好きなものを思いっきり貶せば、なぜこの良さが分からないのか?という反応が返ってくるでしょう。このような心の動きは誰しも多かれ少なかれ在るものだと思っていて、それが表に出てくるほどに強い人と、そうでもない人がいます。

 

 誰しも自分は特別だと思っているでしょう。少なくとも自分にとって自分は特別な存在であるはずです。その特別な自分の特性である「好き嫌い」はとても重要なことです。自分が何が好きで、何が嫌いかを把握することは、日々の生活をナイスな感じに送って行く上で大切です。言葉にすれば簡単な話で、生活の中で好きなものを増やし、嫌いなものを減らすように行動すると非常にナイスだと感じるからです。

 

 世間一般の風潮が、自分の好き嫌いと合致していれば幸運なことでしょう。自然に振る舞うだけで好きなものが好き、嫌いなものが嫌いという感じに自分の周囲に現れてきます。しかし、逆だったら辛い話です。自分の好きなものが世間で否定され、自分の嫌いなものが世間で賞賛されています。そういったとき、世間から一定の距離をとって、これが好きでしょう?これが嫌いでしょう?という圧力を自分の芯の部分まで届かないように防御することが必要です。

 もし、世間の好き嫌いの干渉を受けてしまえば、自分の好きを嫌いと言い、自分の嫌いを好きと言うことを強いられます。それは自分の特性とは異なった生き方です。

 そうなった場合、例えば、食卓に上がるものが嫌いな食べ物ばかりだとして、それを好きと言うことを強いられます。好きと言うからにはそれは食卓に優先的に上がり続けますし、毎日我慢しながら食べ続けなければならないでしょう。そして、好きな食べ物を嫌いと言うことを強いられることで、本当な好きな食べ物が食卓に上がることがなくなります。それは自分が周囲の雰囲気にのまれ、自分の手でそういう選択をしてしまったことがきっかけになってしまったことですから、救われません。

 自分はこれが好きじゃない、自分はこれが嫌いじゃないと、いい加減その状況に限界に近づいたときに叫びのように表明しても、「でも、これまで自分で選んでただろう?」というある種の慣性が、そこから抜け出すことを困難にします。

 

 であるからこそ、自分が何を好み何を嫌うかを正確に把握し、それに必ずしも合致しない環境の中で、いかにそのスタンスを崩さずに居続けることができるかということを考える必要があると思っています。そして、自分のスタンスを崩さないために、他人の好き嫌いにうっかり干渉してしまうならば、それは同様のことを自分もされ得るということです。万人の万人による好き嫌いの闘争の中で、傷つき傷つけられながら生き延びていくということです。中には生き延びれない人もいるかもしれません。

 

 僕個人の好みとしては、他人に関しても放っておく代わりに自分も放っておいて欲しいと思うので、基本的にそうしていますが、もし他人に自分の好き嫌いに干渉されたときは、最近は受け入れる気が完全にないので応戦することにしています。そうでなければ具合が悪いからです。一方、世の中には周囲の人間の好き嫌いを、自分と同じに合わせていくということを好む人もいるでしょう。僕はそういう人と一緒にいると前述のように応戦をせざるを得ないので、あまり無防備に近づかないようにします。

 

 どのようなスタンスで自分の好き嫌いと、自分以外の好き嫌いを住み分けるかは人によると思います。僕は自分に干渉されると応戦せざるをえないですが、そうでなければあとはみんな好きにすればいいと思います。ただ、自分の好き嫌いが、自分だけの好き嫌いではなく、周囲に影響を与える形で表明されるとき、それは戦いのゴングになり得るということだということは何時もまず意識しています。好きで語るのも、嫌いで語るのも、根本的には違いはありません。

 

 今日もまたどこかで誰かがゴングを鳴らしている音が聞こえます。