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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

最終回のない物語について

 物語には始まりがあって終わりがある場合が多いと思われますが、世の中には最終回を迎えず、終わらない物語もあります。例えば掲載誌が休刊して続きが載らなくなってしまったとか、作者が病気で描けなくなってしまったとか、作者が亡くなってしまったとか、予算がなくて続きが作れないとか、物語の途中で何故か急に載らなくなってしまったとか。様々な理由で終わらない物語が生まれます。始まりのない物語はありませんが、終わりのない物語はあります。なので、物語は終わった数よりも、始まった数の方が多いものだと思います。

 

 例えば、ある漫画家さんには、連載開始は読んだような気がするものの、どうにも最終回を読んでないような作品が色々あるような気がすることが多く、あれが終わってないのに新しいのが始まっている!と思って毎度びっくりしたりしていました。ただ、ちゃんと追っていくと、放り投げたわけではなく、ゆったりと同時に不定期に連載しつつ、徐々に終わらせていたりもするので、いずれ全部終わるのかもしれないなどと思いながら読んでいます。

 

 今連載形式であったり、続編へと繋がる謎を残し続けて進められている物語の多くは、まだ終わっていない物語です。今進められている物語の数だけ、終わっていない物語があり、それがどこかのタイミングでちゃんと終わるものもあるでしょうし、ちゃんと終わらないままに人目に触れなくなっていくものもあるでしょう。

 

 沢山の物語に接していると、どうしても終わらない物語に接することも増えます。あれはどうなったんだろう?と思いながら、その物語に対して頭の中に作った、続きを受け付ける窓口を開いたままにしています。終われば閉じてしまえるので、人によっては終わらない物語によってその窓口を開いたままにされてしまうのはストレスでしょう。でも、開きっぱなしにしているうちに、なんとなくその窓口の存在は薄くなってきてしまって、遂にはあったことすら思い出せなくなるようなものかもしれません。

 僕は続きが来ない物語について、割と慣れてきました。続きが来ないのではないかと思ったりしても、作者死亡などで続きがもう決してないことを知りながらも、窓口を開いたままにしています。別にそれで構わないのです。

 

 ゲームの「シェンムー」がとても好きなのですが、シェンムー2のラストでは、これからとんでもないことが起こりますよという感じの状態でエンドロールが流れます。そして、その後シェンムー3は発表されませんでした。おそらく商業的なコストとリターンの問題から、3を作ることの折り合いがつかなかったのではないかと想像しています。そういうことはよくあるので、あれで終わりということにして窓口をクローズしていてもよかったのですが、僕はなんとなく開けたままで、たまに続きこないかなと思っていました。

 すると、去年、急にシャンムー3の製作が発表されました。僕はとても喜んだので、シェンムー3のためにクラウドファンディングに300ドルほど投じることにしました。発売はまだ先ですが今はそのときを待っています。

 

 このように待っていれば再開されることもあります。「冒険王ビィト」も、作者の病気で連載が中断していましたが、先日再開しました。待っていれば良いこともあります。僕はまだ「バスタード」や「コータローまかりとおるL」や「黒鉄」や、そして、最近また休載に入ってしまった「ハンターハンター」のことを待っています。「ヘルシング」の外伝や「ガンマニア」の続きも待っています。他にもたくさん待っています。待つのはあまり苦ではありません。なぜなら、他にも楽しみにしていることも沢山あるからです。その隙間を埋めるものを沢山持っているので、再開しないことにあまりやきもきしません。それは少しさみしいことなのかもしれませんが。

 

 最近は、「物語が終わるということ」、そのものも、そんなに重要なことだとは思わなくなりました。今読んでいて面白ければそれでいいのです。今読んで面白く、次号を楽しみにして、次号を読んで面白い。それが続くのが物語の楽しみの基本となっていて、それがどのような結末を迎えるのかは、そんなに重要なことだとは思っていません。

 

 「シュトヘル」という漫画にこういう言葉がありました。「死に方は生き方を汚せない」。僕はこの言葉が本当に胸にきたので、何度も何度もその言葉が登場する回を読んだのですが。例えば、人が無意味で無残な死を遂げたところで、その事実はそこに至るまで彼らが生きてきたこと、その中で成してきたことを毀損するものではないということです。彼らが生き、そして成し遂げてきたこと、それまで引いてきた線が、最後の点でしかない死に方ひとつで台無しになるのだとしたら、人の生には価値がないことになってしまいます。

 「いつも生が死の先を走る」、生あってこその死です。その物語の終わりがどうあったとしても、それまでの価値は失われません。そして、それが結末に辿りつかなかったとしても、そこまで読んできたことは無意味ではないと思います。最近はそういう気分で物語を読んでいます。

 

 終わる物語は、綺麗に閉じた物語で美しく、終わらない物語は、開いたままでいて自由です。大作RPGのラスボスの手前、クリアせずにやり込み要素を延々やり続けてしまい、ついにはクリアせずに終わるように、古本屋で読んだ本の最終巻だけ見つからず(最終巻は発行部数が少ないので)結末を知らぬまま長い時間を過ごしたり、毎回楽しみに見ていたアニメの最終話をうっかりなぜかそのときだけ見逃したりします(見逃し配信などがない時代)。それはそれで悪くなかったのではないかと思っています。自分の中では終わっていない物語の中では、登場人物たちは、まだ迎えるべき結末が不確定のままで、なんだかわからないまま漂っています。それも悪くないのです。結末を見てしまったとき、それが自分の中で終わったことで、失われてしまう何かもあるのではないかと思います。もちろん、得られるものはそれ以上にあるかもしれませんが。

 

 綺麗に終わったはずの物語が、何らかの事情で作られた続編によって、また開かれてしまうこともあります。前の物語の結末で、その後の「彼らは幸せになりましたとさ」と、めでたくめでたく終わっていたのに、新しい物語を描くためには、幸福な彼らだけを描くわけにはいかず、幸せになったはずの彼らが再び悲劇的な状況に追い込まれる姿を目にしてしまったりします。それを悲しく感じることがあります。しかし、彼らに再会できたことが嬉しくもあったりします。良いこともあれば、悪いこともあります。

 

 終わってもいいし、終わらなくてもいいです。一度終わった物語が、また再開してもいいですし、再開しなくでもいいです。僕はどちらでも楽しめる感じになっているからです。

 

 「極限脱出 9時間9人9の扉」、そして「極限脱出 善人シボウデス」の続編であり、完結編である「ZERO ESCAPE 刻のジレンマ」を昨日クリアしました。「善人シボウデス」のラストには、様々な謎が残っており、そこで明らかになる新たな謎もあり、続編の存在が示唆されていたのですが、なかなかその製作が発表されず何年も経ち、どうなんだろう?と思いながらもぼんやり待っていました。それが、先日発表され、発売され、そしてクリアしました。

 過去作に残っていた謎はほとんど解決され、クリア後に開放されたテキストでエピローグが描かれ、残ったものも解釈次第で納得できそうな感じです。彼らとそしてプレイする僕が至った結末にも納得しています。終わったなあと思い、満足感とともに、寂しくもなってしまいました。ただし、この物語は、あらゆる問題を解決した上での、完全なる幸福の頂点で物語が終わるわけではありません。彼らにはまだこの先にも立ち向かうべき困難が待ち受けている状態です。それが物語が閉じたように見えて、少し開いている感じで、その余韻が個人的になんだかよい塩梅だったと思うので、なんかそういうことを思ったということを書きたかったという話です。

 この先があってもいいですが、なくてもかまいません。そういうことを色んな物語について最近は思っています。