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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「こども・おとな」と自分を形作る他人の話、ほか

 福島鉄平の漫画には、情緒の機微のとっかかりにガンガンとフックをひっかけられて揺さぶられてしまうものが多いのですが、この前単行本が出た「こども・おとな」もまたそのような感じでした。

 作中で描かれる日常の風景の、ぱっとしか見なけば平坦に見える表面には、指でなぞれば確かに分かる絶妙な山なりが描かれており、それをただただ静かになぞり続けていくような感じの読感で、たいへん良かったです。

 

 このお話の中では、ある少年と、その周囲にいる人々の関係性が描かれます。少年はまだまだ無垢な感じであり、世界はそれに比べれば普通に猥雑です。そんな無垢と猥雑が接触すれば摩擦が生まれます。無垢な少年は、その摩擦にビックリしてしまいますが、その経験を通して、それらとの付き合い方を学んでいきます。無垢な少年はいつしか猥雑さを抱えた大人になります。しかし、だからといって、子供の頃に持ち合わせていた無垢な部分が、その胸の中から全くなくなったわけではありませんが。

 

 僕が思うに人間が成長するということのひとつの意味は、自分の中に他人の居場所を作ることです。そして、そんな「自分の中の他人」は、いつしか、自分自身と溶け合っていくものだと思っています。

 この人は何でこんなことを言ったんだろう?この人は、こう言ったらどう思うだろうか?そんなふうに他人のことを考えるとき、自分の中にはその他人をモデルにした不完全な立像が作られます。多くの人と出会い、共に過ごすことで、それらの多くの人を形作った像が、自分の中に増えていきます。そして、そのような「自分の中の他人」と、「自分自身」の境界は、時間とともに曖昧に溶け合ってしまうのではないでしょうか?そのような過程を経て、いつしか、自分の中に沢山の他人が取り込まれていることに気づいたりもするものだと思います。

 

 個人的な体験では、大学時代の恩師のことが思い当たります。在学中は特に仲が良かったわけではなく、研究の報告以外で話をしたことなんて、出張中に一回二人で飲んだきりぐらいの間柄でした。しかし、学部四回生から大学院卒業までの3年間、毎週の研究報告の際、内容にコメントされること、そして事前準備として、何をコメントするだろうか?ということを先回りして想定して資料を作っていたことが、僕の中にその先生の立像を形作っていたのだと思います。何かの問題について考えるとき、その考え方の中に、先生から受け継いだものがあることに気づきます。

 卒業後しばらく経ってから、自分がその先生に大いに影響を受けていると気づいたとき、ああ、あの人は僕の恩師なのだとやっと実感しました。手取り足取り教えて貰ったことは一度もありませんし、むしろ環境と課題だけ与えられてあとは放っておかれるような関係性でしたが、僕は先生から多くのことを学び、それらがこの身の中に生きています。

 このように、僕を形作っているもののほとんどは、おそらく、自分が直接的に間接的に触れてきた人々の欠片の寄せ集めなんだと感じています。

 

 「こども・おとな」のお話の中には絶対的な正義はないように思いました。ここでいう正義と言うのは、「そうすべきこと」のことを言っていて、正解と言い換えてもいいかもしれません。正解というものはときに厄介です。なぜ厄介かというと、正解が存在すると、そうでないもの間違いということにされてしまうからです。少年の周囲にいる人々の行動は、全肯定はできないことも多いですが、でも、それは間違いではないのだと思います。少年と周囲の人々は、良くも悪くも関わりあい、そして、少年は周囲から色んなことを学び、得ていきます。

 例えば、第一話で、少年はある女の子が邪魔なところに立っていることに「バカ」と言い放ちます。なぜ少年がそんなことを口にしたかというと、自分の家にいるとき、お兄ちゃんが自分が邪魔なところにいることに対して「バカ」と言うからです。少年は邪魔な場所にいる人について「バカ」と言うものだと学びますが、一方その行為は先生に咎められてしまいます。少年には分からなくなってしまいました。誰かが邪魔なとき、「バカ」と言ってよいのかよくないのか。

 色んな人の色んなやり方が自分の中に入ってきます。無垢な、言い換えればまだまだ空っぽな少年は、その空っぽの器の中に、色んなものをどんどん取り込みます。その中には矛盾するものもあるでしょう。でも、自分の中にそれを置いておくと、矛盾していた部分もいずれ整理され、馴染んでいきます。それがどろどろになるまで溶け合ったとき、それは自分になるんだと思います。このお話の中で描かれているのは、そういう光景なんじゃないかと思いました。

 色んな人がいます。そこには、必ずしも正しいとは言えない人もいます。また、その行動の中に、一見分からなくとも、少年に対する大きな愛情が含まれていることもあります。その、まだ空っぽの器には、清も濁も区別なく注がれます。

 そんな色んな人との出会いと、共に過ごす時間を経て、少年は大人になります。誰だってそうでしょう?僕は、誰だってそうだと思うので、僕だってそうだと思います。だから、僕はこのお話を読むことで自分の中のそういった記憶を思い出し、胸の中に今まで出会ってきた人たちとの記憶と、その人たちから受け継いだものが蘇るのを感じます。僕は住む場所を次々と変えているので、今まで出会ってきた多くの人たちのほとんどとは、今はもう日常的に会うことはありません。でも、その人たちの欠片は今も、きっとこの先も自分の中に残っているのです。

 

 誰にだってある、子供の頃の何も知らない自分と、今ある自分の狭間にある、出会ってきた沢山の人々について思い出すような漫画だなと思いました。そして、自分に注がれていた愛情に気づくのは、注がれていたとき、その瞬間ではなく、タイミングが随分とずれていて、その愛情の伴う行為を自分の中に発見したときにであるかもしれません。そういうことを思いました。

 

 さて、感想はここまでとして、別のことを書きます。

 漫画も商品です。商品においては、言葉にすれば一言でその良さが表現できるものというものが重宝されるという傾向があります。なぜなら、この漫画は何の漫画であるか?を一言で言い表せることは、宣伝や口コミによる伝播を期待するときには重要な要素だからです。あるいは言葉でなくとも1コマ見れば面白さが分かる漫画も同様です。

 でも逆に、言葉にすれば、元の作品の何倍もの量になってしまうというような漫画もあると思います。作品に込められたものは充分圧縮された形をしていて、読んだ自分の中には、それ以上の量のものが広がってしまうからです。また、1コマではなく、コマの連なりをじっくり読むからこそ、初めて表現できるものもあると思います。

 そんな指で触って初めて分かるような細かく繊細な起伏は、読めば感じ取れるものだとしても、それを語るのに、より多くの言葉を必要としてしまい、むしろ語られることを聞くより、元の作品を読んだ方がてっとり速いような気がするかもしれません。僕が思うには、「こども・おとな」はそっちの方の漫画なんじゃないかと思います。

 

 曽田正人「昴」に、主人公の昴と、トップバレリーナのプリシラ・ロバーツが、同時期に同じ「ボレロ」で舞台に立つというエピソードがありました。昴のボレロへのアプローチは、自分が踊っているときに入っているトップアスリートのみが到達できるようなZONEに、観ている人々をも引き込むということです。そして、一方、プリシラ・ロバーツは、踊りの動きの中に音を取り込み、徐々にフェードアウトしていく演奏を感じさせず、無音のはずの空間において観客たちに音がまだ鳴ったままだと思わせるというようなことをやってのけます。

 プリシラ・ロバーツは、初回の舞台ではまだ上手くそれをコントロールできませんでした。その結果、観客たちは夜寝る頃に、鳴ってもいないボレロの音楽が頭に響い続けてしまい、たいへんなことになってしまいました。しかしながら、それも結果的に功を奏し、プリシラ・ロバーツの舞台は大盛況となります。なにせ、演奏されていない音楽が頭の中に鳴り響くという不思議な舞台なのですから。連日沢山の人がその舞台に詰めかけます。

 一方、昴の舞台は、そこまでの社会現象は生み出しません。しかし、大量のリピーターを生み出すことになるのです。昴の踊りを見れば、人々は個人の力では入ることができない領域に引き入れられてしまいます。その状態は誰一人上手く言葉にすることはできませんが、喩えるなら麻薬的です。昴の舞台の魅力に憑りつかれた人々は何度も何度もその舞台に足を運びます。社会現象にはなりませんでしたが、昴は昴でとんでもないことをやってのけました。そして、その事実に気づいたプリシラ・ロバーツは、自分以外の才能に気づき笑みを漏らす(ちなみに、雑誌連載版では多少表現が異なっていて、戦慄する描写だった)のでした。

 

 僕は、漫画もこのような特性の違いがあるんじゃないかと思っていて、人々の中に伝播する能力が高い漫画と、そうでもない漫画があると思います。特に昨今は、企画の段階でSNSなどの口コミによる伝播を意識している漫画が沢山あるように思えていて、その手の漫画は、どのような漫画であるかの個性を短い言葉で言い表せられるようになっていると思います。そして、それは分かりやすくてとてもよいことだと思います。

 一方、同時に、そうでもない漫画も沢山あるというのが日本の漫画出版のよいところだと思っています。本作もそうですが、最近で言えば福島聡の「ローカルワンダーランド」なんかも、一言で何の漫画と言えばいいかなかなか難しいですが、とても良い連作短編集でした。

 それらを無理矢理言葉にすることはできるんですけど、それは結局、元の漫画が持っている多様性の中から、ひとつだけを切り出すだけの行為に思えてしまい、確かにこういうものだと言えるとは思うけれど、それだけじゃないんだよなあと延々と文章をこねくり回し続けて、最終的に上手くまとまらず諦めるということになったりします(というか実際僕が書こうとして書けなかったんですが)。

 でも、読んで「良かった」と思った気持ちは、間違いないのです。そういった種類の漫画がどのようにしたら皆に広く早く伝わっていくことができるのかということは分かりませんが、それは別に読者でしかない僕の仕事ではないと思うので、その辺は誰かすごい人が頑張るんだろうなと思っています。

 

 ちなみに、そういった漫画にありつける一番よい方法は、雑誌を購読して全部読むことです。なので、合法なドラッグのような漫画を読みたいジャンキーであるところの僕は、今日も漫画雑誌を読み続けるのでしたとさ。

 おしまい。