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「Life is Strange」における選択と責任について

 「Life is Strange」は、PS3やPS4、Steamで発売されているアドベンチャーゲームです。プレイヤーは、アメリカはオレゴン州のある学校に通う女の子、マックスとなり、彼女が突如として得た「時間を巻き戻す能力」を駆使することで、ある事件の真相を追うことになります。僕はこのゲームを先日クリアしたのですが、それはとても印象深く、面白い体験でした。

 

 このゲームがどんなゲームでは"ない"かというと、彼女が遭遇する数ある選択肢の中から時間を巻き戻しつつ正解を選び、関わる人々全員が報われる真なる結末を勝ち取るというゲームでは"ない"と思います。少なくとも僕はそう感じました。

 確かにマックスの能力を使えば、時間を巻き戻すことで同じ選択を何度も選び直すことが可能です。しかし、その行為が意味するところは、数ある選択の中から「間違いを排除」し、「正解を選択」するという意味ではないように思いました。マックスが何度も選び直せることが意味するのことは、つまり、選び直せることで「自覚を持ってある選択をした」ということの責任を引き受けることであると思います。

 プレイヤーは選び直す機会を持っているのです。だからこそ、その選択肢を選んだということは明確な意思の発露であり、他の選択肢を意識的に選ばなかったということになります。である以上、選び直す機会が与えられなかった場合に、なんとなくそれを選んでしまったということよりもずっと選択の責任は重くなるはずです。その責任を引き受けることこそが、僕がこのゲームをプレイする中で強く実感したことです。

 

 さて、僕の性格の問題なのですが、嫌な感じの人ともできるだけ仲良くしようとしてしまいます。相手がどんな人であれ、同じ場所にいるならば、最初の握手を求める手はこちらから出そうと決めているのです。たとえその差し出した手をを振り払われたとしても。

 それは僕にとっては儀式みたいなものなので、空気を読まずにやりますし、上手く行かないこともありますが、それで打ち解けられた人もいます。それは自分から求めなかったら得られなかったものでしょう。そうしないことで多くの可能性を失うかもしれないと思うからこそ、人付き合いが苦手でも、いや、人付き合いが苦手だからこそ、できるだけ仲良くしようと試みます。ただ、こちらが握手を求めたことで一時上手くいったとしても、向こうからも同様に手を出してくれくれるということがなければ、その関係は経験上長続きはしません。そういうものだと思います。僕はそれでかまいません。そして、誰かと仲良くしようと試みることは、僕の人のよさからくるものでは全くなく、ただの処世術です。

 

 そして、それはゲームの中の選択でも同じです。相手が、こちらに嫌がらせをしてくるようないじめっ子でも、僕はできるだけ仲良くできるようにするための選択肢を選んでしまいます。相手のしたことを赦し、理解しようとするような選択肢です。

 このゲームの優しいところは、それによって、相手の態度が軟化することも多いということでしょう。その結果を見て、僕は「ああ、よかったな」と思います。この嫌な人とも、もしかしたら仲良くなれるかもしれないという可能性を感じられるからです。そして、このゲームには、いじわるなところであり、同時にだからこそよいと思えるところがあります。それは僕が、そのような嫌な人と仲良くしようと試みることに対して、露骨に嫌な顔をする人もまたいるということです。それは、その嫌な人に嫌な思いをさせられていた被害者の人たちです。その人たちはプレイヤーのことを友人と思ってくれていたはずの人たちです。「なぜお前はそんな嫌な奴の肩を持つのか」と。「この裏切り者め」と。僕の選択は、友人だと思っていた人たちに、そんな軽蔑の目を向けられてしまうという結果に繋がったりもします。

 そうです。友人にいい顔をしても、嫌な人にいい顔をしても、どちらかの関係性を得るために、どちらかの関係性に傷をつけてしまうのです。このゲームには、そんなジレンマがあります。しかし、それでも僕はどちらかを選ばなければなりません。それがこのゲームを進めるための道であるからです。

 

 「Life is Strange」は全5章の構成ですが、2章の最後にまずひとつ、自分のそれまでの選択を強く試される場面がやってきます。プレイヤーはそこで、ある人物と対峙することになるのです。その人は、とても深く傷ついた人であり、建物の屋上からまさに飛び降り自殺をしようとしています。

 その人に対してプレイヤーが投げかけられるのは唯一言葉だけです。人生に絶望し、死を選ぼうとしているその人に対して、わずかな言葉を投げかける自由しかプレイヤーには認められていません。そして、そこで発する言葉の重みは、それまでの自分の選択によって裏付けられます。「自分はあなたの味方である」と主張しても、かつて「強く味方をしてやれなかった選択の事実」を咎められます。

 言葉がただ言葉だけなら重さがありません。重さがなければ慣性が効きませんから、ある言葉を発したあと、それとは真逆の別の言葉に切り替えるのに必要なエネルギーはゼロでしょう。しかし、行動はただの言葉に重みを与えます。自分の過去の行動を乗せた言葉はその慣性から容易には切り返せなくなります。そして、そんな重みの乗った言葉こそが相手を動かす力を持つんじゃないかと思います。

 「私はこう考えている」と相手に伝えるとき、そんな私のかつての行動が、その信頼性を裏付けてくれます。では、それまでのプレイヤーとしての自分はいかなる選択をしてきたのか?そして、それは時間を巻き戻し、別の選択に変えるチャンスもあったはずなのに、なぜそのままにしたのか?プレイヤーは、自らの選択の結果を、自分から相手に言葉を届かせる力の強弱として引き受けなければなりません。

 

 僕はかつてその自殺しようとしている人が、別の人に脅されていた光景を目にしました。僕はきっと助けてあげるべきでした。しかし、僕がそこでとった行動は、その場面の写真を撮ることでした。なぜなら、僕はその先のことを想像していたからです。後日この行動を咎めるとして、言った言わないの話になったとき、その写真を残すことは有効な証拠になると思ったからです。しかし、その人がしてほしかったのは、その場で自分の味方をしてくれることでした。だからこそ僕はその人に不信感を持たれてしまいます。僕は「助けられたのに、助けてくれなかった人」になってしまいました。

 僕は、屋上でその人を前に、必死で弁解する選択肢を選びます。自分はその人の味方であると。この世界は、儚んで去るほどに悪いものではないと。僕はあなたに生きていてほしいと。そう思われるような言葉を選ぶことを繰り返します。僕の場合、そこで問われた最後の選択は、あるものに気づいたかどうかでした。それは、かつて傷つき落ち込んだその人の部屋を訪れたときに見たものです。僕は探索パートでそれをちゃんと見ていたのです。だから分かるわけです。その人が大切にしていたものが何であるかを。だから、その選択肢を選びました。自信を持って。そして、少しの消せない不安も抱えつつ。

 

 僕はその人の自殺を止めることができました。その時の僕の心情は大きな安堵です。プレイしていたその時点では、ゲームのシナリオ上、その人が自殺してしまうという結末に至る分岐があるのかどうかを僕は把握していませんでした(あとで調べたらあるそうです)。でも、そんなことはさほど重要なことではありません。僕がプレイしながら、もしかしたらこの人は死んでしまうかもしれないと思い込んでいたことが重要なのです。その人を助けたいと思ったことが重要なのです。ゲームはゲームなので登場人物は非実在です。そこに実在するかのような何かを見出すのは人間の想像力でしょう。そして、その想像力によって魂の実在を勘違いするからこそ面白くなるのだと僕は思います。

 このパートでは、それまで便利に使えていた時間を巻き戻す能力が無効化されます。ひとつひとつの言葉は丁寧に選ばなければなりません。そして、過去に選んできたことはもう変えることができません。試されるわけです。自分が今まで本当に納得のいく選択をしてきたかどうかということを。そして僕は、自分は確かにその人の味方をしてきたのだということを、その人の生を勝ち取ることによって証明することができました。

 

 このゲームを"面白くなく"プレイする方法のひとつは、ゲームの背後にあるフローチャートを意識することだと思います。なぜなら、フローチャートを年頭においた物語の解釈には、そこに登場する複数の選択肢が等価なものに見えると思うからです。そこでは自分が選んできた一本の道に対する敬意が欠けています。自分で選んできた、自分の頭の中に一本につながって生まれた世界こそが重要なのです。

 多くの選択を迫られるこのゲームでは、選ばれた物語はプレイヤーによって異なることが多いでしょう。物語全体の大きな流れは変化しません。しかし、プレイした人の数だけ、細部が異なる物語があるのです。これは、自分で操作し、自分で選択してきたというゲームという形式でしか物語れないものではないかと思います。プレイヤーの選択をもってして、この物語はプレイヤーの頭の中で完成し、それは個々のプレイヤーだけの体験となります。

 

 この物語の最後では大きな選択を迫られます。このゲームではネットを通じて収集した、世界中のプレイヤー達がそれぞれの選択肢を選んだ割合が表示されるのですが、僕が選んだ最後の選択はその時点で少数派のものでした(とはいえ、ほぼ半々に分かれているのですが)。その選択が何であったかは書きませんが、僕がそちらを選んだ理由は消極的なもので、もうひとつの選択肢をどうしても選べなかったからです。そして、それが自分という人間の性質なんだと思いました。その選択は自分が考え続けた結果至ったものです。ゲームをすることで自分がどのような人間か分かります。

 

 もう一度ゲームをプレイすれば、もうひとつの選択肢を選んだ場合の結末も見れると思います。しかし、今のところまだ僕はそれをしていません。それは、自分の選択の重さが、もう一度のプレイをまだ拒んでいるからです。選択し、その結果を引き受けたはずのことを、もう一度選び直すということが意味するのは、散々考えて至った結論を覆すということです。そして、自分が望まなかった先の展開を見させられるということでもあるかもしれません。それが重いと感じるので、今のところは、再プレイはせず、ただ余韻に巻かれているだけなのでした。

 

 さて、僕はいい歳こいたおっさんですが、このゲームを始めると気分はアメリカ人の女子学生になっていました。それは、このゲームに登場するキャラクターたちがとても魅力的であり、ゲームの中にどっぷり浸かってハマる上で充分であったことも重要な要素でしょう。それは、ゲームの探索パートで、友人の部屋を調べまくるときに、こんなプライベートなものを勝手に見たら怒られないかな?などと考えてしまったことからも見て取れます。彼ら彼女らを、ただのゲームのキャラではなく、実在する人のように感じて遊びました(あえてそう心がけたということもあります)。

 中でもクロエと過ごした時間はとても充実したものでした。あまり積極的なことはない主人公のマックスに自己投影した僕は、不良になった幼馴染であり、自分をぐいぐいと引っ張っていくようなクロエに付き合って様々な行動を起こします。彼女のことを知り、彼女とともに多くの体験をします。これはゲームですが、僕の思い出でもあります。プレイしたのは丸二日という短い時間ですが、僕はゲームの中でゲームの登場人物たちと過ごしました。

 そこにまた立ち返りたければ、また最初からゲームをすればいいと思うのですが、前述のようにしばらくはやる気がしないので、つい最近のことなのに昔のことを思い出すように、クロエたちと過ごした日々のことを考えたりしています。そして、そう思ってしまうのは、自分で選択し、自分で獲得した物語がそこにあるからなのかなと思いました。

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