漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「最終兵器彼女」を久しぶりに読み返した関連

はじめに

 最終兵器彼女を読み返しました。十何年ぶりだと思うので、細部を忘れていた部分も多く、たぶんまとめて一気に読み返したのは初めてなんじゃないかと思うので、連載と完結後に単行本で読んだときとは色々違うことを思ったような気もします。しかし、昔読んだときにどのように感じていたかをあまり思い出せないので比較ができません。

 

 ともあれ久々に読んでとても面白かったです。

 

(以下、ごりごりにネタバレありです)(あと、絵が似ませんでした)

f:id:oskdgkmgkkk:20160110222357j:plain

 

最終兵器彼女とは

 最終兵器彼女は北海道に住む、とある付き合い始めのカップルの彼女の方が、突如として最終兵器になってしまうという物語です。世界的な戦争が巻き起こり、その中で最終兵器として最前線で戦う彼女「ちせ」、そして、戦う力はなく、戦争にも参加しない彼氏「シュウジ」の恋愛が描かれます。彼女がなぜ最終兵器にならなければならなかったのか?そして、起こっていた戦争とは結局なんだったのか?については結局最後まで明確には描かれません。

 

最終兵器彼女の今回読み返した解釈

 この最終兵器彼女という物語とは何であったのか?ということについては様々な受け取り方があると思いますが、今回の読み返しで僕が思ったのは、「人はなぜ恋をするのか?」ということを描いたものなのではないか?ということです。

 この物語は「彼女が最終兵器になった」お話ですが、視点を変えれば「最終兵器が彼女であろうとした」お話でもあると思います。「彼女である」ということが何であるかというと、「彼氏がいる」ということです。戦争の中で、破壊と殺人を繰り返す存在になっていたはずであった最終兵器が、うっかり彼氏がいてしまったがために、最終兵器であるにも関わらず彼女であろうとしてしまったというお話です。そして、その狭間で数々の悲劇が巻き起こります。それは、ただの最終兵器であったならば起こらなかったかもしれない出来事です。その最終兵器の恋愛は、全人類を巻き込むことになります。

 

 この物語の中では、ちせは彼女であろうとし、シュウジは彼氏であろうとします。そして、その「彼氏彼女であろうとする」ということは、ある種の「無理をしている」ということでもあります。そして、その無理をお互いに感じてしまった彼らは、別れようともしますが、それでも別れなかったのです。それでも結局は相手を求めたというお話だと思います。

 なぜシュウジにはちせでなければならなかったのか?なぜちせにはシュウジでなければならなかったのか?その理由を、ちせが最終兵器になる前の、ほんのひょっとした付き合うきっかけに求めてよいのでしょうか?「ちせは幼馴染アケミの友達で、シュウジはそんなちせを前から可愛いと思っていたから、告白されたときに付き合おうと思った」というようなことが描かれていましたが、そんなことを理由にして、人類の存亡を天秤にかけるような選択をシュウジはしようとしたのでしょうか?

 それに関して、僕は違うと思ったのですが、それがどういうことかというと、シュウジのちせの関係性に理由を求める場所は、その馴れ初めではなく、その後の多くの困難の中において「彼氏彼女であろうとした」ということ自体が、つまり、その中で巻き起こったあらゆる葛藤を含めた上で「互いを求めた」ということ自体が、理由へと変化していったのではないかと思いました。

 シュウジくんはモテモテなのでお話の中で多くの別の選択肢が与えられます。先輩、幼馴染、後輩のそれぞれ別の女性に好かれ、モテモテでモテモテなシュウジくんには、最終兵器ではない彼女の方を選ぶことができるという可能性も提示されました。そして、徐々に戦場に生活の足場を移していくちせにも、そこで別の男性という選択肢が提示されました。しかし、それでも結局はシュウジとちせはお互いを選んだということ、何度も選び続けたということ、それ自体が彼らの「恋」ということだったのではないでしょうか?それは、理屈で説明されることではなく、行動で示され続けたということです。

 

 その関係性を試すように、シュウジとちせが彼氏彼女であらなければならない理由は、物語の進行に従い、その戦禍の中でどんどん剥ぎ取られていきます。ちせの心はどんどん最終兵器である自己に飲まれ、戦場に順応し、暗く残酷な側面を深めていくことになります。もはや、シュウジの知っているちせではない顔が見えるようになります。そして、抱き留めるその体からは体温が奪われ、人の形を保つことも難しくなり、人間として子供を作る能力もなくなります。

 物語のクライマックスの2人の初めてのセックス描写では、ちせはシュウジの子供を望みますが、しかし、その時点でちせの体は、かつてのちせの体に似せて一時的に取り繕われたものでしかなく、子を持つということは既に叶わぬこととなっています。つまり、セックスをしなければならない生物学的な理由も剥ぎ取られています。例えば2人が滅亡しつつある人類にとって次世代のアダムとイブであったのだとしたら、その子供を作るということには意味があります。大義名分があります。しかし、そういうことはありません。

 そこで求められているのは、肉体的な快楽なのか?あるいは、互いを求めあうという精神の快楽であったのか?ともあれ、彼らが互いを求めあった結果でしかなかったということでしょう。そしてそれで充分です。互いを求めなくていい理由が数多くに提示されたにも関わらず、それでも彼らはそうしたということです。彼らが求めあう理由は損得勘定のような合理的には説明できないにも関わらず、それでも彼らはそうしたということです。

 ちなみに、雑誌連載でこの下りを読んでいたとき、当時二十歳ぐらいの僕はかなりドン引いていた記憶があります。それは、そこにあったのが、2人だけの求めあう姿であり、読者としての自分は入り込む余地を感じなかったからではないかと思います。

 

最終兵器彼女の世界観

 さて、作中で起こっていた戦争については、明確にこうだとは描かれませんが、読み直してみるとその経緯は意外と丁寧に描かれています。戦争が描かれない理由は、それが恋愛を描くための添え物でしかないという理解も可能ですが、戦争の詳細を知ることができないシュウジと、その最前線で全てを知ってしまうちせという、2人を切り分ける境界線として重要に機能しているからではないかとも思います。

 漫画内で描かれている限り、多くの国が参加する新たな世界規模の大戦が起こり、その中で日本も攻め込まれ、多くの都市が失われてしまいます。その中で、何らかの理由でちせが最終兵器になることが選ばれました。それが事故のようなものであったのか、何らかの特別な適性が認められたからなのかは分かりません。描かれない以上、それを問うことには大した意味はないのでしょう。「寄生獣」において、「寄生生物たちを送り込んだ地球上の誰か」とは結局誰であったのかが分からなかったことと同じです。

 作中描写を見る限り、日本の戦争は南の方から始まっており、情報統制のせいで人々にはなかなか知らされませんが、物語の序盤の時点で既に北海道の都市以外は壊滅してしまっています。ちせを最終兵器にした人々もすぐに死んでしまい、残された人々は彼女をメンテすることしかできません。ちせは世界の脅威となり、多くの他国と戦い、殺します。しかし、これらの戦争はとても奇妙です。なぜならば殺すことが目的化しているように見えるからです。例えば、資源の利権を求めた戦いや、勝利して支配するということを目的とした戦いには見えませんでした。

 近代の戦争において、他国を国民全体を含めて殺さなければならない理由があるでしょうか?その戦争に勝ったところで何が得られるのでしょうか?

 気になったのは「この星」という言葉をちせは序盤から使うことです。ここに少々の違和感が付きまとっていました。国と国との争いではなく、地球を宇宙規模で見た脅威があることを示唆していた言葉であるかのように思います。それらはもしかすると、地球という星自体の終焉を知った人々が、最後のノアの箱船の乗員のような立場になるための戦い、つまり、自分たちが生き延びるために自分たち以外を殺すということを目的とした戦いであったのかもしれません。それゆえ、その戦争は奇妙であり、和解の条件はなく、死という目的のために進んでいたのかもしれません。だとするならば、とても悲しい戦いです。

 

最終兵器彼女のラストシーンについて

 この物語のラスト、もはや人の形をしていないちせは、その身の中でシュウジの心の中に残るちせの情報を利用して、自身の幻影を作りだします。ちせをちせたらしめていたもの、ちせがそうありたいと望んだ姿は、シュウジの中にありました。「彼氏」という存在がいることで初めて生まれた「彼女」という姿がそこにあったのだと思います。それはもしかすると、ちせそのものとは異なっていたのかもしれません。彼氏の理想の中にあった姿が「彼女」であり、ちせはそんな「彼女」になるということに成功します。

 そして、最終兵器であるという存在に自分自身を変えられ失われようとしていたちせは、かつて人間であった部分をほとんど失ってしまいました。ちせがかつて人間であったという証拠は、ちせの中にではなくシュウジの中にのみ残っていました。

 ちせの肉体は宇宙船に変化し、シュウジを物理的にその中に取り込みます。ちせの精神はシュウジの中にあったちせの姿を取り込んで形を保ちます。それぞれ独立した個ではなく、互いが存在することで影響し合い、その存在を変化させ、そして完成した何かは、死にゆく星を背に宇宙に飛び立ちます。

 これはハッピーエンドなのか、バッドエンドなのかはしばらく考えてみたのですが、よくわかりません。ただ、これは全七巻かけてたどり着いた「結果」です。おそらく彼らは目的を完遂したのだろうとだけ思いました。

 

まとめ

 久しぶりに読んで、読み終わったあとしばらく考え込んでしまいましたが、この物語を言葉で上手く説明しようとすればするほどに、なんだかしょうもないものになってしまうような気がしていて、それは言葉が因果を説明する手段には割と向いているものの、そうでないものを表現するにはあまり便利ではないとも思うからです。例えば、カレーのおいしさをカレーを一回も食べたことのない人に言葉で説明して、説明を受けた人が初めてそれを食べたときに、「ああ、言葉で説明された通りの味だ」と思えるかというような話です。言葉はかつて食べたことのある人の記憶を刺激することは容易でも、体感したことのない人に容易に体感を伝えられるほどには便利な手段ではありません。

 何かが好きであるということを説明するのはとても難しいことです。ついつい分かりやすい理由を探してしまいますが、それは説明をするためにわかりやすい理由でしかなく、本質とは異なるかもしれません。ある絵が素晴らしいということを表現するときに、「何億円もの値段がついている」というのはわかりやすくすごさを伝えられる理由ですが、その絵自体が持つ素晴らしさとはまた別のものです。何かの素晴らしさを正面から説明するということは、とても難しいことです。

 最終兵器彼女では、「恋愛」を主題として、それをやろうとしたお話なのではないかと思いました。誰かを好きであるということ、その素晴らしさは確かに感じているものの、理由がついた瞬間に陳腐になってしまうかもしれません。なので、ちせとシュウジが惹かれあうということそのものは明確な理由がなく、めまぐるしく変わりゆく状況の中で、言い訳として使えるあらゆるものを剥ぎ取った上で、そこになお残ったものをもってして、それを表現しようとした漫画なのかな?と思いました。

 ということで、長々書いてきたものの、まだなお読後の僕の胸中にはもやもやとしたものが残っているのですが、それを言葉で上手く説明することができず、誰とも特に共有できないままなので、読んだ人はみんなこんな感じなのかなと思いますし、それぞれの人の中にあるそのもやもやと残る何かはひとりひとり違うかもしれません。

 多分、昔読んだときの自分のそれとも違うんじゃないかと思いますし、いつかまた読み返したときもまた違うかもしれません。

 よくわからないですね。よくわからないので終わりにします。