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漫画皇国

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完全無欠の少年が欠点(コンプレックス)だらけの大人になる件について

「完全無欠な少年は、欠点(コンプレックス)だらけの大人になります」

 これは「南国少年パプワくん」の最終巻の作者コメントにあった言葉なのですが、これを初めて読んだ中学生の頃、僕にはこの言葉の意味がよく分かりませんでした。完全無欠なのに、なんでコンプレックスだらけになってしまうんだろう?と。

 

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 その後、僕自身が大人になってやっと意味が分かったような気がしました。完全無欠な少年というのは、自分が完全無欠であると思っている少年のことなんじゃないかと思います。子供の頃は男の子は概してそうであることが多いのではないでしょうか?しかしながら、人間は誰しも決して本当は完全無欠なんかではないのです。

 大人になる過程で、完全無欠なはずの自分が、実はそうではないと思い知らされるシチュエーションに沢山遭遇するはずです。自分自身を完全無欠だと思っていたがゆえに、実はそうではないということ見せつけられてしまうことは、そのギャップの大きさがとても残酷です。そして、自分が完全無欠ではないことに気づいてしまった後では、そんな風に思えていた過去の自分を疎ましく思ってしまうかもしれません。自分は特別な存在ではなく、沢山の凡人の中のひとりでしかないという現実に向き合う過程で、数限りなく出会った挫折を、人はコンプレックスとして抱えてしまうようになるんだと思います。

 

 南国少年パプワくんの中では、パプワくんは完全無欠の少年です。そして、シンタローは今まさにコンプレックスに向かい合わんとする、少年から大人になる過程の存在です。そんなシンタローは、重たい現実を目の前に、パプワくんに泣き言を吐いてしまいます。大人になれば強くなれると信じていた、歳をくうほど弱くなるなんて知らなかった、泣きたいことばかりなんて知らなかったのだと。

 そこでパプワくんはシンタローに問います。泣くのは悪いことか?と。完全無欠のパプワくんはかつて泣きませんでした。育ての親であるじいちゃんが亡くなったときも、大人になれば死ぬことが分かっていたヒグラシのエンドウくんとの別れのときも、ひょんなことから出会った少女、くり子との別れのときもです。しかし、パプワくんは言います。シンタローが一度島を去った別れのとき、自分は泣いてたんだと思うと。そして、「僕は強くなったぞ」という言葉をシンタローに投げかけます。

 

 「完全無欠な少年は、欠点(コンプレックス)だらけの大人になります」、この言葉には続きがあります。「でも、欠点(コンプレックス)を克服できるから人間はおもしろい」。一度現実に気づいた少年は弱くなりますが、それはまた、強くなるためのチャンスでもあります。自分の弱さに気づいた大人は、それを克服して強い大人になります。

 絶海の孤島パプワ島で暮らす、赤い秘石の一族の唯ひとりの生き残りであるパプワくんは、言葉を喋る奇妙な生物(ナマモノ)たちの中で、少年ながら、リーダーのように彼らをまとめあげ、そして人間離れした強さを見せつけます。そんな楽園の中で育った完全無欠のパプワくんは、外からやってきた男、パプワくんが接する初めての人間、シンタローと出会い、共に過ごすことで成長します。そして、南国少年パプワくんの物語は、今まで自分の約束を守り続けてくれたシンタローへの感謝の気持ちから、皆を救うため、自ら別れを選ぶパプワくんの行動により終わりを迎えます。

 

「完全無欠な少年は、欠点(コンプレックス)だらけの大人になります。でも、欠点(コンプレックス)を克服できるから人間はおもしろい」

 

 この言葉は後に続編の「PAPUWA」のラストで、もう一度繰り返されることになります。そこで、パプワくんはその特別な力を全て失い、普通の人間の大人になるのです。

 

 さて、僕は人生の前半は、生活環境の関係で、子供の世話をしながら生きてきたような感じだったのですが(自分自身もまだ子供だったものの)、それで慣れているので、子供の相手をするのは今も嫌いではありません。最近も、知人の子供の相手などをしていて思うのですが、子供の世界には自分しかないんだなあと思うことが多いです。そして、それに救われる気持ちになることがあります。

 大人になると、色んなことに雁字搦めになったりするからです。まだ何にも縛られていないという、その自由さに憧れの気持ちを抱いたりします。それは自分がその境遇から、割と早い段階でとうに失ってしまったものだからです。そして同時に、こんなに自由で完全無欠な子供も、またどこかで壁にぶち当たるのだろうなと思います。そして、それを無事に乗り越えられますようにという祈りの気持ちがあります。

 僕の身内で言うと、上から三番目の妹がそんな感じでした。僕が完全に甘やかしていたので、たいそうワガママで、どんなときでも自分の意見を通そうとします。それが可愛かったのですが、同時に、この子は自分を受け止めてくれる人以外を相手にしたときに、上手くやっていけるのだろうか?と不安になってもいました。が、今では成長し、それなりにやっているようなので、まあよかったと思っています。

 

 一方、大人の言うことをよく聞く素直な子供もいます。僕は、そんな子供を見ると、悲しくなることがあります。子供なのに、既に色んなものに縛られてしまっているからです。自分が面白いと思うことより、大人が喜ぶこと、大人が怒らないことを選ぶことが自然に身についてしまっているからです。こういう子供の成長は比較的安心です。周囲の状況を鋭敏に察知し、それに合わせて問題を避けながら生きていくのでしょう。でも、まだ子供なのに、まだワガママでも許されるだろう時期なのに、そうならないということに対して、見ていて悲しくなります。なぜなら、そんな時期は今を除いてもう来ないかもしれないからです。なので、そういう子を見ると、すごく甘やかしたくなります。もう少し完全無欠でいてもいいのにと。

 以前、ショッピングモールで知人の子供(こんな感じの子)の面倒を見ていたとき、甘やかそうと思って、欲しい物をなんでもひとつだけ買ってあげると言いました。すると、その子は目を輝かせて色んなものを見て回るのですが、その子が最終的に言ったのは、「やっぱり何も買わなくていい、お金がもったいないから」という言葉でした。僕は、こういう言葉を聞いてなんだか泣きそうになってしまったのですが、なぜかというと、僕もこういう感じの子供だったからです。「お金のかからない子供こそが良い子供だ」という認識が周囲の環境に植え付けられていたからです。だから、常にお金のかからない選択をして、そして、その認識を植え付けた大人たちに対して、自分はお金がかからないでしょう?良い子でしょう?というアピールをします。僕にかかったその呪いのようなものは、結局自分自身で十分なお金を稼げるようになり、しばらく経つまで消えることはありませんでした。

 

 自分が王様の自分だけの世界で一生を過ごせるほどに、能力があり、環境に恵まれていることはごくまれではないかと思います。なので、世の中の完全無欠の少年たちのほとんどは、おそらく遅かれ早かれコンプレックスだらけの大人になります。そして、そのコンプレックスは完全に克服できたり、できなかったりするでしょう。

 僕が感じるところでは、どうせ失うことになるとはいえ、完全無欠であった一時期というのは、とても大切なものなんじゃないかと思います。コンプレックスだらけになったとしても、それを抱えて克服するということが、生きる上での重要な足がかりになるように思います。

 

 「中二病」という言葉がありますが、この言葉には色々な意味があるとして、基本的には中学二年生ぐらいの時期に、自分が「良い」と思ってやったことが、他人には「悪い」と判断されてしまうということのギャップに根源があるように思います。子供の頃なら笑えた話が、段々と笑えなくなるのが中学二年生ぐらいの時期ということではないでしょうか?大人としての態度が求められ始めるからです。そして、そのギャップを埋めるために、世間の良いこと悪いことの基準に合わせて自分の行動を制限するようになります。それが大人として行動するということの第一歩ではないでしょうか。

 しかし、僕が思うのは、世間がどうであれ、そのとき良いと思ったものは、自分がただ良いと思ったものだということです。なので、充分大人になったのなら、自分の中の完全無欠の少年を、自分の外面のコンプレックスを克服した大人が守ることで自由にさせてやれないものかと思っています。最近は少しずつそれができるようになって生きているような気もします。

 

 小さい子、特に男の子を見ていると、色々思うことがあるのですが、その完全無欠さがとても愛おしく感じます。それがいずれ失われるであろうことを含めて、そのときの格好悪さを含めて人生…という感じがするからです。そして、願わくば、抱えるコンプレックスを克服できますようにと祈るような気持ちになるのですが、それはそうと、自分もまだまだコンプレックスまみれなので、他人のことを心配できるような大層な立ち位置ではないなあと思ったりなどしている感じなのでした。