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「螺旋じかけの海」について

 「螺旋じかけの海 音喜多生体奇学研究所」はアフタヌーンに不定期連載中の漫画で、先月、第一巻が出ました。この漫画は他の動物の遺伝子が混ざった人間たちが住んでいる、とある街が舞台となっています。そこでは、それらの人たちが保持する他の動物の遺伝子が、ふとしたきっかけで発現してしまったりするのです。この漫画のキモの部分は、「ヒト種優生保護法」により、15%以上の割合で他の生物の遺伝子が混入した人間は、もはや人間としてみなされず、ただの動物として、人権が剥奪されてしまうという部分にあります。遺伝子を基準として人間と人間以外の境界に位置する人たちが多数存在するその場所では、「では人間とは何なのか?」ということが現実の社会よりもよりいっそう具体的に問われることとなります。

 この漫画の主人公、音喜多は、その身に通常では考えられないほど多くの他の動物の遺伝子を持った男です。彼は常に、ふとしたきっかけで体の一部が他の生物由来の姿に変化してしまう状況の中で生きています。彼は自分自身の肉体を使った人体実験を繰り返し、その結果、高度な遺伝子治療の技術を持っています。彼は、人間と人間以外の狭間にいる別の存在と接し、治療をほどこすことで彼ら彼女らを助けたりします。そして、助けられなかったりもするのです。

 

 たとえフィクションの中だとしても、「人間が人間である」ということを定義することは難しい問題です。大きく分ければ、そこには「見た目」「人格」「遺伝子」の3種類の基準があるのではないかと思います。

 例えば、人間のような見た目であり、人間の遺伝子を持っていても、意思疎通ができず人間を襲う存在であるゾンビは人間とみなされないかもしれません。

 人間のような見た目で人間のような人格を持っていても、その正体が全く別の生物であるような宇宙人が出てきたとき、それは人間とみなされるでしょうか?

 そして、人間の人格と人間の遺伝子を持っていても、病気や怪我などで人間に見えないような見た目になってしまったとき、人間としては接して貰えないということもあるかもしれません。

 

 「頭が良い動物だから殺してはいけない」というのはある種の動物保護活動者の意見ですが、これは、真面目に考えるとどこで線引きするかに、かなりの決断力を必要とする問題です。例えば人間の基準で「頭が悪い」からといって殺して食べてもいいのか?という問題がまずありますし(そもそも頭のよしあしも人間視点の勝手な基準です)、頭が良いというものにも段階があります。例えば、日本語を話し、会話ができる牛がいたとして、その牛を食料として食べることが可能でしょうか?これはなかなか難しいのではないかと思います。

 この辺りを描いた漫画が、藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」です。牛型の宇宙人が、人間型の宇宙人を食料とするという惑星にやってきた地球人のお話です。自分と同じ見た目の人間が、牛に食べられることとなり、そして、それを誇らしいことのように話します。地球人の常識としてはおかしな光景です。残酷な光景です。しかし、それはその惑星では常識であり、そして、地球人も牛を食べて平気な顔をしています。彼らを残酷だと罵るとき、自分たち地球人もまたその罵りの範疇に足を踏み入れてしまいます。何ならば食べていいのか、何ならば食べてはいけないのか、その線引きを求められるのです。

 意思疎通がとれれば「人間」なのでしょうか?例えば、イルカは言語の形態が異なるだけで、人間と同じように豊かな考えをもち、仲間とコミュニケーションをとりながら生きているのかもしれません。もし、それが日本語に翻訳できたとしたら、殺してはいけないことになるのでしょうか?言語の形態が異なるなら別種と判断していいのだとしたら、自分とは違う形態を持つ母国語の人間は殺しても問題ないのでしょうか?世界が今よりもさらに細かく分断されていた昔は、そういう常識もあったかもしれません。しかし、現代の人間社会ではそれはしないということが一般的に共有されているのではないかと思います。

 となれば、「人権を認める必要がない」ということは、「遺伝子が人間と異なる」ということがきっかけとなりうるのでしょうか?この漫画ではその部分に対する問いかけがあります。昨日まで同じ人間として接していたのに、遺伝子が人間と異なると分かっただけで人権が剥奪されてしまう社会です。そして、それを望む人間もいます。人間でないのならば、人間だからこそしている配慮をしなくて済むからです。

 人間だからこそ禁じられている人体実験や、人間だからこそ禁じられている奴隷制度のような、かつて存在し、今もまだ存在している重大な人権侵害を、「だって人間ではないから」という堂々とした後ろ盾のもとに行うことができるようになります。「人間は平等だ」というのは建前かもしれません。それを嘯きながらも、同時にある種の他人を一等低いものとして見下してしまうこともあるのではないでしょうか?しかし、その建前は最後の砦です。その建前さえ失えば、人間は人間でありながら、同じ人間を自分たちの都合で蹂躙することの歯止めがなくなってしまいます。

 

 例えば、「家畜人ヤプー」の作中では、日本人が実は人間ではなかったということが未来の常識として描かれます。日本人とは、人間に似ているだけのヤプーという猿であり、であるからこそ、人権は無視され、未来の世の中で人体改造を施され、道具として利用されます。物語の中心である白人女性は、日本人の恋人を持っており、白人も日本人も同じ人間であるという現代的な価値観を当初は持っています。しかし、未来人たちに連れ去られ、日本人は人間ではなくヤプーであるということを吹きこまれ、その世界で暮らすことで、かつての日本人と付き合っていた自分を汚らわしいとすら思うように変化してしまいます。

 果たして、人間とは何をもって人間であるのか?それは昔から存在する問いかけであり、物語の世界の中では、より戯画的に分かりやすく語られます。さて、そのような物語の中でも「螺旋じかけの海」は、人間ではなくなる人という存在の、その心が情緒性豊かに描かれます。

 

(以下、ネタバレが入りますので、漫画を読み終わってから読んだ方がいいのではないかと思います)

 

 とりわけ僕が好きなのは、第一巻の最後に収録されているワニになった人のお話です。彼は、ワニの遺伝子が発現してしまい、人間とみなされなくなってしまったことから、人体実験の被検体として扱われます。彼の体からは、どんどん人間であった痕跡がなくなり、人間とは思えない見た目に変化します。彼はある出来事により、偶然その研究所から逃げ出すことに成功し、音喜多と出会うのです。音喜多の遺伝子治療でも、彼の体の大部分を占めるワニの部分を取り除くことはもはやできません。音喜多の提案から、彼はむしろ残った人間の部分を失くすことを決断します。彼は人間の脳みそを持ちながら、どこからどう見ても完全なワニの姿で暮らすことになるのです。

 

 彼は音喜多と約束をします。「もし、自分が人間の心までも失ってしまったら、殺してくれ」と。

 

 人間の心のありようは、心そのものだけで決まるものではないのではないかと思います。人間の心は環境に強く作用され、そして、肉体の欲求にも強く作用されます。彼はワニの姿でありながら、自分を人間だと思っており、そして人間であろうと努めました。しかし、その肉体は、もはや人間ではなく、まぎれもないワニのものであり、ときに人間の理性とは相反するワニの欲求を突き付けます。彼は、正確に言うならば彼の肉体は、人間を食べ物だと認識してしまうようになるのです。彼の人間としての理性は日に日にあやふやになり、人工声帯での発声も不明瞭になります。彼の人間であろうとする心が刻一刻と壊れていく様子が、丁寧に、それゆえに残酷に、描かれていきます。そして、遂に彼は禁忌を犯してしまいます。彼の心は人間でありながらワニであるという矛盾に耐えきれなくなります。

 もはや人間の遺伝子はろくに残っていないワニである彼には、かつて人間であったことなど忘れて、ワニとして生きていくという選択肢もあります。そこにある抵抗は、自分が人間であるという自己認識です。自分が人間のままでいようとすることが、彼をその場に留め、そしてその矛盾によって彼の心をひどく傷つけ続けます。もし、彼が人間でなかったのだとしたら、彼を人間としてみなさなず実験に利用した人間たちの行為は正当なものであったのでしょうか?猿やモルモットを実験動物として扱うことのように。彼はもはや人間ではなくなった自分であったものが生き続けるということを忌避し、死を望むようになります。

 

 しかし、音喜多には彼を殺すことができません。彼が死ぬ理由は彼が人間であることです。人間でありたいと望むことの結末が死しかないのであれば、それでは人間であるとは一体何なのでしょうか?

 決断できない音喜多に、もはや言葉の通じることのなくなった一匹のワニが襲い掛かります。その瞬間、彼は本当にワニだったのでしょうか?あるいは、彼は人間でいるために獰猛なワニを演じ、もはや人間でない存在と見なされることで、殺される大義名分を音喜多に与えることを望んだのでしょうか?であるならば、彼は人間であるために、人間ではなくならなくてはならなかったのです。

 彼の命は、音喜多ではなく、もう一人の人間、音喜多のように他の動物の遺伝子が混じった者ではなく、一部の混じりもない完全な人間の手によって葬られることになります。ワニの死に、音喜多は、いつか自分もまたそうなってしまうのではないかという姿を見ることになるのです。

 

 精神と肉体の間のどうしようもない矛盾の中で、自分が望む自分であり続けるためには、彼は自らの命を手放すことしか選択肢が残されていませんでした。彼は耐え、もがき、諦め、そして決断をしたのではないでしょうか?

 かつて人間の姿を失い、完全なワニの姿を手に入れたばかりの彼は、そのワニの混じった姿から、人間として扱われず、差別されてきた状況から解放され、森の中で誰の目も気にすることなく生きられることに自由を感じました。彼は人工声帯で歌をうたいました。彼が言葉を喋ることは、どこからどう見てもワニでしかない彼が、人間であった証拠です。彼は歌うことが好きでした。それは自分がかつて人間であった証拠です。それは限られた時間ではありましたが、幸福な日々でした。誰の目も気にしない、自分が他人とは違うということに傷つかない、彼にとってのつかの間の幸福な日々は、彼を理解してくれる音喜多とたまに会うだけの、森の中の孤独の中にだけ存在したのです。

 

 人間が人間であるということは、自分が人間であるので疑いようなく当たり前です。しかし、それが危うくなる状況を与えられると、普段当たり前と考えているがゆえに急に恐ろしくなります。根拠の必要がなく肯定できたものは、いざそれが否定されたときに反論する準備がまるでないからです。この物語の中では、それが描かれます。それをとてもおっかなく思い、そして悲しく感じました。

 

 第一話にこんな台詞があります。

「自分達を区分してラベルをつけて少しでも違えば責め立て合う、人間はそういう習性なんだ。嫌な思いもするだろう。それでもお前が生きていくにはヒトの中に交じらないといけないんだ…私はずっとお前といられない。ヒトの中でお前のラベルを決めるのは自分だぞ」

 誰かが引いた境界線によって傷つけられることがあるかもしれません、自分が引いた線によって誰かを傷つけるかもしれません。それでもその人間の中で生きていきていくということは、たとえ人間の姿をし、人間の言葉を喋り、人間の遺伝子を持っている同士でも同じことなのかもしれません。僕はワニになりながら、このお話を読みました。

 

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 先月号のアフタヌーンに新作の前編が載っていました。今月号が出て後編を読むのが楽しみです。月刊アフタヌーンは毎月25日発売です。