漫画皇国

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お手軽な良し悪し判定法としての相対比較について

漫画の強さの比較表現

 「龍狼伝」という漫画があります。もう20年以上月刊少年マガジンで連載していますが、僕は子供の頃からこの漫画が好きなので、ずっと連載を追いかけています。龍狼伝は日本人の少年・天地志狼と、その幼馴染の少女・泉真澄が中国への修学旅行に向かう途中で龍と遭遇し、三国志の時代にタイムスリップしてしまうというお話です。龍とともに戦場に現れた彼らは「竜の子」と呼ばれ、劉備の軍に迎え入れられます。志狼は三国志の歴史の知識を使って計略を見事成功させ、その結果、竜の軍師と呼ばれるようになり、真澄は竜娘娘(竜の天女)と呼ばれることになるのでした。その後、志狼は仙人・左慈の師事を受けて肉体的にも強くなり、歴史は徐々に改変されつつ物語はまだまだ続いています。長坂坡の戦いでは、追って来る曹操軍を足止めするために一人で立ち向かう志狼や、劉備を慕い付き従ってきた民衆を虐殺され怒りに飲まれる志狼、そこでたった一人で曹操軍の虎豹騎の一軍を壊滅させる志狼など、強い怒りと破壊のカタルシスに、子供心をわし掴まれる展開があり、僕は夢中になったものでした。

 そんな風に戦いが面白い龍狼伝ですが、子供の頃読んでいた当時から少々気になる描写がありました。それは作中の強さが比較で表現されがちということです。主人公が敵対する司馬仲達の配下に虚空という男がいます。彼は非常に強い存在で、史上有名な赤壁の戦いでは敵のボスのような役割となるのですが、彼は呂布の弟という設定なのです。そして、仲達が虚空の強さに呂布を引き合いに出すと、虚空は「呂布のような弱者」などというような発言をします。呂布とは三国志において最強と呼ばれる武将です。その呂布を弱者と呼ぶということは、この虚空はすごく強いんだろうなあと僕は思いました。

 

 赤壁の戦いにおいて、志狼はボロボロになりながらも虚空を倒すことになるのですが、その後の志狼は、強敵が現れる度にその強さを虚空と比較し始めます。「虚空に匹敵する武力」とか「この一撃、虚空以上だ」などという感じにです。僕はこれを読んで、呂布よりも強い虚空に匹敵したりそれ以上だったりするということは、この敵はとても強いんだろうなあと思いました。しかし、いいかげん3回目ぐらいから笑ってしまうようになりました。同じことを繰り返されると笑ってしまうのです。芸人のガリガリガリクソンも「同じことを二回言うと何でもウケる」言っていました。吉本の養成所NSCでそう教わったのだそうです。

 このように、龍狼伝における強さ表現では「虚空は強い」ということを基準とした相対的比較表現が多用されています。

 

強さの絶対比較と相対比較

 そもそも「強さ」というものを、絶対的な基準のもとに比較できるものかどうかはあやしいところです。立ち技ルールで最強の人間がいたとしても、組み技ありのルールでは負けてしまうかもしれません。距離を詰めたインファイトなら敵がいないボクサーも、距離をとって戦うアウトボクサーを相手にすると負けてしまうかもしれません。戦いには相性がありますから、一概に強いの弱いのを決めることができません。

 リアルな戦いを描こうとすると、そのようになりがちではないかと思います。相手の得意な戦法を分析して、戦略を立て、有利に戦いを進めるのが現代スポーツとしての格闘技です。肉体の強さと洗練された技巧に、戦略戦術にコンディション、そしてメンタル、それらの総合的な結果が勝負の結果であり、それが強さを相対比較するための材料となります。

 しかし、それらの繊細な条件を全て無視して見せつけられる絶対的で圧倒的なパワー、誰とどんな状況で戦おうとも勝てる力、そのようなものに憧れてしまうのもまた事実です。「幽遊白書」の戸愚呂(弟)も言いました。「技を超えた純粋な強さ、それがパワーだ!」と。「ビックリマン」のブラックゼウスも言いました。「力こそパワー!」と。ごちゃごちゃした細かいことをねじ伏せるような絶対的で圧倒的なパワー、それに人は魅了されてしまったりするのではないでしょうか?

 

 「ドラゴンボール」がバトル漫画として長けていたのは、この強さの絶対的な表現力ではないかと思います。高く跳ぶ、重い岩を動かすというようなところから始まり、岩を砕き、地面に底が見えぬほどの穴をあけ、建物を吹き飛ばし、そして遂には惑星を切り裂き、破壊し、太陽系を消し飛ばすほどのエネルギーの戦いになります。誰かと誰かが戦った結果として発見される「相対的な強さ」だけでなく、その破壊表現によって、どう見ても確実に強いという「絶対的な強さ」を見せつけてくれるのです。

 ドラゴンボールではさらには、戦闘力という数値表現や、力の出し方のパーセンテージの表現も取り入れました。このように、強さを数値として表現することは、その数値を比較することで、闘ったことのない相手同士でも、どちらが格上であるかを容易に理解できるようにできます。このような戦闘力による絶対評価の結果が、圧倒的な強さの差のある敵との戦いという表現を生み出し、お話に緊張感を生み出すのです。

 

 もし、フリーザと悟空の肉体的な強さが大差がない程度であり、フリーザは右ストレートを打つ瞬間に無意識に左手が下がるので、その一瞬をついて防御が外れた心臓を打つのだ!というような展開であった場合、それはそれで面白いかもしれませんが、あのフリーザと悟空のバトルで感じたような感覚は再現できなかったでしょう。ドラゴンボールにおける強さ表現とは、人対人の相対的な力比べだけでなく、その周囲への余波影響を含めた絶対的な表現としての戦いの拡大にあるのだと思います。

 ちなみに、この表現の拡大路線自体はセル編あたりまでで終局を迎えています。悟空の息子の悟飯に追い詰められた人造人間セルが、自らがかつて否定したはずの力だけのパワーアップをして放ったパンチは、せいぜい地面を凹ませたぐらい、絶対表現としては惑星を破壊したフリーザよりも強いようには見えませんでした。絶対表現としての戦いの拡大路線は、惑星を容易に破壊できるような力を持った時点でそれ以上は絵にすることが難しく、ほぼ終わっているのです。

 

 その後の展開が面白いのは、魔人ブウのようなバラバラになっても復活する倒しても倒しても倒し切れないような、戦いを単純な力比べでない戦いの方向に舵を切ったことや、ブウとサタンの交流のような、戦いによる決着でなく心の交流による変化を持ち込んだこと、そして、最終的に導入される強さの超相対表現です。

 今適当な言葉を作って使いましたが、超相対表現とは、キャラクター同士の合体という要素を取り入れることで、強さ表現では極大化してしまったそれぞれのキャラクターを、互いの戦力の合計値による戦いに持ち込むということです。

 例えば潜在能力を覚醒した悟飯に対し、魔人ブウはピッコロとゴテンクスの能力を吸収して立ち向かいます。悟飯の強さを100とし、魔人ブウの力を80とした場合、ピッコロの10、ゴテンクスの60を魔人ブウに足せば、150となって勝てるというような簡単な足し算です。最終的には悟空とベジータの合体したベジットと、悟飯をも吸収した魔人ブウの戦いに展開します。このような手法は、ひとりひとりの強さ表現がもう限界であっても、それらを足し合わせることで伸びしろを確保し、ドラゴンボールの中の強さ表現として極大値を迎えます。

 その後、ブウと最終的な決着をつけた際の悟空は、ベジットであった状態よりも弱くなり、そして完結を迎えます。強さのピークは、最後の戦いよりも少し手前にあったのでした。このように、漫画としての強さの表現は、相対絶対を含めて、ドラゴンボールの枠組みの中でやれるものをやりきってしまっていると考えられるので、あれ以上連載を続けることは難しかったのではないでしょうか(とはいえ、アニメでの続編は続いていますが)。

 

面白さの絶対的判定が難しい話

 さて、このように何かが「スゴイ」と思ったということを絶対的に表現し続けることはとても難しいです。例えば何かの本が面白いと表現したいときに、「力の表現」として「岩を砕く」ような分かりやすさで、それを体験していない他人にとっても、それが「スゴイ」ことを分からせるには、相応の表現力がなくてはいけません。「それをあなたに書けますか?」と僕が問われれば、「自信がないです」と答えざるを得ません。せいぜいできるのは自分が感じたことをできるだけ丁寧に言葉に変換することだけ、それが他人に十分伝わるかどうかまでは分かりません。

 では、別の分かりやすい方法として、戦闘力のように数字を使った表現ならばどうでしょうか?これもまた塩梅が難しいと思われます。「10年に一度の名作」と表現したものがあったとして、その1年後にそれよりもすごいと思える名作が出てきたら、「20年に一度の名作」などのようにより長い期間で表現しなくてはいけません。これを繰り返してしまうと、下手すれば、ある10年の間に100年に一度の名作や、1000年に一度の名作などという表現が生まれてしまうかもしれません。ボジョレーヌーボーの褒め文句が枯渇しているようなものです。

 ゲーム雑誌・ファミ通クロスレビューでは、長年レビュアーひとりあたり10点満点でゲームに点数をつけていますが、おそらく昔に比べて現在は点数の高いゲームが増えていると思います。なぜならば、昔9点がつけられたゲームより面白いゲームがあれば、そのゲームには10点をつけざるを得ないからです。数値として残り、時代を越えて比較対象とされてしまう時点で、点数はこのように上ぶれする傾向を持つはず。しかし、10点より上の点が設定されていなければ、多くのものが10点のゲームとなってしまいます。

 体操の演技の採点も10点満点が出にくいのはそういう理由があるそうです。ある選手の演技が10点満点だとした場合、その後にもっと良い演技をする人が出てきたら、その人の方が良いのに同じ10点満点になってしまいます。であるため、最初に採点される選手は後のことを考えて、点数を低めにつけられてしまったりするそうです(「ガンバ fly high」情報)。

 これらは点数による絶対評価のように見えて、その実、相対評価を数字に落としたものと言えるかもしれません。なぜならば、その点数によって相対的な立ち位置を決められてしまうからです。しかし、既に存在するものを並べ替えるのではなく、次々に新しく現れるものが加わる状況に対して、バランスよく点数を決め続けることは困難です。真摯に向かうなら、採点基準の見直しや、点数の再調整を延々と続けなければなりません。

 

面白さの相対的判定が行われがちな話

 このように、何か面白い漫画やゲームや映画なんかがあったときに、それがどのように面白いかを絶対的に上手に表現することは難しいわけです。しかし、世の中には誰でもできる簡単な面白さの表現方法があります。それは、既にコンセンサスとして評価が固まったものを利用して相対評価をすることです。そう、それはつまり「龍狼伝における虚空の存在」と同じです。新しく現れた敵が強いことは、あれだけ強かった虚空を比較対象とした相対評価を用いれば簡単にできます。

 

「この武力…虚空に匹敵する…!」

 

 概ね誰が見ても面白かったものや、概ね誰が見てもつまらなかったものがあった場合、それらは他の何かを評価するための便利な道具として使われます。最近の映画で言えば「マッドマックス 怒りのデスロード」が良かったものとして、「デビルマン」が悪かったものとして取り上げられがちです。「デビルマン」の映画は最近ではないのでは?という意見もあるかもしれませんが、それより一個前は「シベリア超特急」だったような気もするので、それと比較すれば最近です(便利な比較表現)。

 

例えば、

などというように、評価がある程度固まっている映画をベンチマークとして利用すれば、面白いかつまらないかということを、表現のディテールの描写なしにお手軽に表明できます。

 もう少しだけ手間をかけて細かく描写したいならば、それら面白いものつまらないものと、比較対象となる作品との共通点を抜き出していけば簡単です。誰もが認める面白いものとの共通点が多いからこれは面白いもの、誰もが認めるつまらないものとの共通点が多いからつまらないものです。

 

 このような手法は漫画原作の映像化が評価されるときなどにも多用されます。つまり、「原作とここが同じだからよい」「原作とここが違うから悪い」という方法です。

 「原作が面白い」という評価がある程度固まっていれば、映像化作品が面白かったと評価したい場合には「原作のここが再現されていた」と言えばいいですし、つまらないという評価を下したい場合には「原作とここが違うから悪い」と言えばいいのです。特に実写では、漫画表現を完全に再現することはできませんから、差異を探すことは簡単です。その映像化作品が、「面白い理由と面白くない理由」を、「共通点と相違点を探す」ということのみによって簡単に説明づけることができます。この手法を使えば、なぜ面白いか面白くないかという理屈を考えなくても理由になるので簡単です。そして、簡単な方法だからよく利用されているのではないかと僕は考えます。

 

 また、この手法は、しばしば目にする「何かを褒めると同時に何かを貶す人」の行っている行為と同じではないかと思います。つまり、何かを褒めたいと思ったときに、その「褒める」ということに説得力を持たせる方法を、「何か悪いものを踏み台にする」ことで実現しているのではないかということです。そうでなければ、なぜそれがスゴイのかという理屈を構築しなければなりません。それがなぜ面白いかを、それを体験していない人にも分かるように順序立てて説明しなければなりません。それはなかなか面倒で難しいことです。

 何かを褒めると同時に何かを貶す人については、以前は「この人は気に食わない何かを貶す道具として面白いこれを引き合いに出しているだけなのでは?」と疑っていたのですが、確かにそういう人もいるかもしれませんが、どう見ても悪気がなさそうに同様の行為をしている人がいるのを目にすることも多いので、それだけではないと思いました。

 なので、その人は「何かを褒めたいときには、そのスゴさを、何か悪いものと比較することしか表現する方法を知らない」と考えれば、その無邪気さにも説明がつきます。美味しいラーメンを食べたときに、その味がどのように美味しいかを食べたことのない人に分かるように説明するのは困難なことですが、「インスタントラーメンより美味しい」というように比較表現することは簡単だからです。人類には簡単に何かを褒めたり貶したりするためのとても便利な道具として、相対比較があるのです。しかし、そんな相対比較にも弱点はあります。

 

相対比較の弱点=本部

 本部以蔵は強いのか弱いのかということを「刃牙道」の読者は気にしています。なぜならば、彼は相対比較では強さを測りきれない存在だからです。本部以蔵は実戦柔術の使い手として強そうに登場したものの、範馬勇次郎に負けます。ただ、範馬勇次郎刃牙シリーズのなかで最強の存在なので、それだけで弱いとは決めつけられません。しかし、最大トーナメントでは一回戦で本部は横綱・金竜山に負けてしまいます。相対比較とするならば、金竜山以下、そして金竜山は二回戦アントニオ猪狩に負け、さらにアントニオ猪狩は三回戦で刃牙に負けます。結果、相対比較なら、本部はかなり弱い位置に置かれてしまうことになりました。そして、その後の本部は解説役という立場を得て戦うこともなくなります。

 しかし、最凶死刑囚編において、本部は死刑囚の一人、柳龍光を圧倒的な力でねじ伏せました。柳龍光は特殊な戦法とはいえ、刃牙に一度は勝っているのです。ここで、単純な相対比較が破綻してしまいます。相対比較で本部を認識していた読者は混乱します、いったい本部は強いのか弱いのかどちらなのかと。

 そして、最新シリーズの「刃牙道」が開始して、本部は大活躍をします。現代に復活した宮本武蔵から「仲間たちを守護(まも)りたい」のだと。本部をあなどっている読者は、本部に守護(まも)ってもらわなくても、他のみんなはもっと強いだろうと思ってしまいます。しかし、本部は郭海皇の邪魔にあいつつも、烈海王とのいい勝負をし、刃牙範馬勇次郎を翻弄して見せます。本部は言います。素手による単純な力比べならば、刃牙の強さを120点とすれば自分は80点以下、しかし、武器の利用を含めた総合力ならば自分は300点以上だと。

 そう、強さの軸はひとつではないのです。何を強さとして考えればいいかの軸が増えるほどに、比較が複雑になり、ある評価軸だけにおける大小では、一概に誰が強いかを決めつけることができなくなります。本部のような人間を対象としたとき、相対比較しか手段がない人間は、その強さを語ることができなくなってしまいます。

 

 「本部以蔵が強いか弱いか」という命題について、他のキャラの名前を一切出さずに説明することが可能でしょうか?少し考えましたが、僕には今のところ無理です。

 一方、範馬勇次郎や花山薫については比較的可能です。それは彼らには絶対的な強さの描写があるからです。雷を受けても平気、笑った拍子にソファの肘かけをもぎ取る、寝転がった状態からパンチでアスファルトをえぐりながら殴る、高いビルから車の上に落ちても全然平気、強化ガラスをそのまま直進して通り抜ける、絶対評価でこいつは絶対に強いだろうという描写があるのが範馬勇次郎です。そして、両膝を撃ち抜かれても立ち上がり、その握力はトランプの束を引きちぎり、ドアのノブを握りつぶし、両手の強い握力で握り込むことで人間の四肢を破裂されるのが花山薫です。彼らには絶対的な強さの描写があります。それゆえ対戦者が誰であろうとも、その強さには背骨があります。決して、相対比較だけで強さのレベルが落ちない、ゆるぎない絶対的な背骨です。

 範馬勇次郎や花山薫には、その描写における絶対的な華が沢山あるためにその強さを語りやすいですが、本部以蔵にはそれがありません。それゆえに強さを語ることが難しいのです。

 

まとめ

 何かが良いとか悪いとか、強いとか弱いとかを筋道立てて語ることは難しいことです。難しいですが、それをしたいときにはお手軽な方法として、相対比較という方法があります。何かコンセンサスのとれている良いものや悪いものと比較してしまえば、対象が良いとか悪いとかをとても簡単に述べることができます。

 しかし残念!この世には、本部以蔵のような男がいます。本部以蔵は単純な相対比較では語ることができません。何にでも使える完璧な方法などないのです。皆さんは本部以蔵が強いか弱いか、他のキャラとの比較なしに語ることができますか!?もし、それができるなら、その人はきっと、何でも理路整然と語れる素晴らしい表現力を持っているのでしょうね。