漫画皇国

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「響〜小説家になる方法〜」について

 スペリオールで連載中の「響〜小説家になる方法〜」を楽しみにしているので、その話を書きます。この前、第2巻が出ました。

 

 この漫画は、ある小説が純文学の新人賞に送られてくるところから始まります。その小説は、原稿用紙に手書きで書かれた、応募規定をまるで満たさないもので、住所も連絡先も書かれておらず、唯一名前だけが書いてありました。編集者はその小説を読んで驚きます。なぜなら、その小説は、かつて読んだことのないような素晴らしいものであったからです。鮎喰響、その名前だけを手がかりに、編集者はその小説を書いた人間を探し始めます。この小説を世に出すために。

 一方、その頃、高校に入学したての少女がいました。彼女の名前は鮎喰響、髪はぼさぼさで眼鏡をかけ、愛想はなく、唯一喋るのは幼馴染の男の子だけ。趣味は小説を読むこと。そして、その好きな小説も読まずに、高校入学前の春休みをかけて書き上げた小説を、純文学の新人賞に送ったばかりなのでした。応募規定すら読まずに。

 

 この漫画が「何の漫画か?」と僕が感じているかというと、「(純文学)小説は、その読者に強い影響を与えるほどに面白い」ということを巡る物語だと思います。響の書いた小説は、様々な人に影響を与え、そして、響はまだその事実を知りません。漫画の読者だけが全てを知っているのです。そこに素晴らしい小説があることを。それを書いたのが、この少女であることを。そして、予感します。その事実が近い将来、多くの人々に知られ、その多くの人々が影響を受けるであろうことを。近い将来、打ちあがるであろう大きな花火を待ち続けるワクワク感です。そして、それは、作中で響の小説「お伽の庭」を何の気なしに読んだ編集者の心情に重なります。

 

 素晴らしい本に出会い、強く影響を受けるということは、本を読むのが好きな人には何度も経験があるはずです。その経験があるからこそ読み続けているのだと思います。個人の読書体験において、本にとって最も重要なことは「読んで面白いこと」です。そして、この漫画の中ではそれが揺るぎない正義として機能します。どんな捻くれた人間も、どんなにエゴイスティックな人間も、「この小説が面白い」という力強い正義の前では敗北し、素直になります。この「お伽の庭」というマクガフィンが駆動する小説賛歌に、本を読むのが好きである僕の心がビンビン刺激されてしまうのでした。そうだ、本は面白い。面白いから自分は影響を受け、そして、今も読んでいるのだと。

 

 響は変わった女の子です。響が変わっているのは、自分の中に揺るぎない正しさを持っているところです。揺るぎない正しさを持っているということは、接するあらゆる人間と揉め事を起こす可能性があるということです。なぜなら、揺るぎないほどに強い正しさは、他人に合わせて自分を変えるという能力を人から奪うからです。普通の人間はそうではありません。周囲の人間の持っているそれぞれの正義とバランスをとりながら、上手くやっていくように心がけます。なぜならば、そうしなければ孤立してしまうからです。

 響は高校の文芸部で、高校の先生と、出会った編集者や小説家と、次々に揉め事を起こします。なぜなら自分だけの正しさを持っているからです。しかし、そんな響もまた小説の前では素直です。読んで面白かったということ、それが響の中での確固たる正義として機能しています。だからこそ、面白くない小説が許せませんし、面白くない小説が面白いと言われることも許せません。それは、つまり響が、ただただ厄介な人だということです。そして、そんな人間であるからこそ、誰にも書けない小説を書けたのだと思わされます。

 

 現実の本を巡る周辺にはなんだか面倒くさいことが多いと思います。本の内容、それ自体が面白いかどうかだけではありません。どのようにマーケティングされているかや、今どの本を褒めれば格好良く、どの本を褒めれば格好悪いかなど、様々な立ち位置による力学が発生していることを感じたりします。

 そもそも自分がなぜ本を読むのかに立ち返ったとき、文学の賞を誰がとるべきかとかどうでもいいのです。その本を読んでいることを他人に知られたときにどう思われるかとかどうでもいいのです。出版業界の将来がどうとか、本を紹介することで注目を集められるか?とか、アフィリエイトでお金が入るか?とか、まるで本当にどうでもいいのです。

 ただただ、面白い本に出会えるか、そして、その本を読んで素晴らしい体験ができるかこそが、本を読み続けている原動力であったということを思い出したいわけですよ。そして、この漫画は、そこを肯定しているように思えて、それがとても心地よく感じます。

 紙に書かれている文字や絵を見て、その意味を解釈することで、鳥肌がたつほどの衝撃を受けたり、感極まって泣いてしまったり、読んでいる間、頭の中をそれで一杯にし過ぎてしまって、現実に戻ってきたときに呆けたり、様々な現実の節目に際して、読んできた本のそれに関連する部分を思い出したり、そういう体験を繰り返してきたこと、そして、それがまぎれもない自分の人生の一部であるということを、これまたこの漫画を読んで思い出すわけです。

 

 現代の世の中には本が溢れています。本だけではなく様々な情報がもっと溢れています。さしたる苦労をせずともそれは手に入るということは、もしかすると、読む理由を探すことよりも、読まない理由を探すことの方が重要なのかもしれません。読む理由を探し始めれば、際限なく本が見つかり読み切れませんが、読まない理由を探し始めれば読まなくていい本が沢山みつかるので、手元に十分読める量の限られた本だけが残ります。

 でも、それでいいんでしたっけ?ということが頭をよぎります。面白くない本を読みたくないのではなく、面白い本を読みたかったわけです。そして、それは、誰にも発見されず、まだ読んでいないかもしれません。そしてそれに出会いたいと思うのです。

 

 などということを読んだあと、ぼんやり思ったりしました。この漫画も、当初ぼんやり読んでましたが、いつのまにか毎号連載が楽しみになっていました。読まない理由を探さなくてよかったなと思います。

 

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