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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

桃太郎とドラゴンボール

 「桃太郎」は五大昔話に数えられる、日本で最も有名な昔話のひとつ(英語直訳的表現)です。桃太郎に関する代表的な本であるところの柳田國男の「桃太郎の誕生」を読んだ限りでは、桃太郎には、本筋は共有しつつ細部の異なるヴァリアント(異文)が大量に存在し、分布も北から南まで広くに渡っています。

 さて、今回でっちあげるのは、鳥山明の「ドラゴンボール」を、そんな桃太郎のヴァリアントのひとつとして捉えてみようというお話です。

 

 ドラゴンボールの主人公、孫悟空は、実は惑星ベジータで生まれた戦闘民族サイヤ人であり、宇宙の地上げ屋のようなものを生業とするサイヤ人の先兵として、幼い頃に地球に送り込まれた存在でした。しかし、不慮の事故で記憶を失ってしまい、山奥に住む独居老人、孫悟飯によって育てられるのです。孫悟飯はほどなく亡くなってしまいますが、孫悟空はその後、その形見であるドラゴンボールをきっかけに外の世界に出ることになります。ドラゴンボールは7つ集めると何でも願いが叶う玉、それを巡る摩訶不思議な冒険が始まり、悟空は友や師を得て、ついには大魔王ピッコロを倒すことになるのです。

 

 まだ物語は全然半ばですが、これを桃太郎と比較してみましょう。

 

 悟空は人が一人入るぐらいの小さな丸い宇宙船に乗って地球にやってきました。それを発見した老人が、自分の子供として育てることになります。成長した悟空は、ドラゴンボールを巡る旅の中で多くの仲間を得て、大魔王を倒すことになりました。

 宇宙船を桃、ドラゴンボールを黍団子、大魔王を鬼に置き換えると、これは桃太郎の物語に似ています。もっと言うと、サイヤ人の利用する科学力は同じ惑星ベジータに住んでいたツフル人のものを奪ったものであるという説明がアニメではされています(原作には登場しない微妙な設定ですが)。サイヤ人が野菜をもじったものであるように、ツフル人はフルーツをもじったものです。果物の名を冠した宇宙民族が作った丸い宇宙船、これは桃との関連が深いのではないでしょうか(強弁)。

 ドラゴンボールと桃太郎には、外の世界からきた正体不明の存在が、この世界の悪を倒してくれる物語であるという共通点があります。

 

 さて、このようにドラゴンボールを桃太郎の派生形のひとつとして考えた場合、ドラゴンボールの中にはもうひとつの桃太郎の物語が存在することに気づきます。それはピッコロ大魔王の物語です。

 彼もまた宇宙人、ナメック星人であり、ナメック星の異常気象による大量絶滅からたったひとりで逃され、地球にやってきた存在でした。そして、彼もまた自分が何者であるかを忘れてしまっているのです。悟空との決定的な違いは、彼の着陸したユンザビット高地は食べ物もろくになく、人が住んでいなかったという点にあります。つまり、ピッコロ、厳密には後にピッコロを生み出すことになる今となっては名前もわからないナメック星人には、親代わりとなる老人が存在しなかったのです。お爺さんとお婆さんに拾われなかった場合の桃太郎の物語がここにあります。

 こちらの物語では、桃太郎は誰かが来るのを長い間ひとりで孤独に待っていたものの、そのうち諦めてその地を去ることになります。旅の果てに桃太郎は神の領域に足を踏み入れることになりますが、その神に心の中の悪を見抜かれてしまいます。桃太郎の心の中の悪とは、旅の中で人間と出会ったことによって生まれたものなのでした。修行の末、遂に身の内の悪を追い出巣ことに成功した桃太郎は次代の神になりますが、一方、追い出された悪はピッコロ大魔王という鬼になります。それは人に害を成す存在です。

 つまり、善も悪もない、外からやってきた無垢であったはずの存在が、強大な鬼を生み出したのは、実は人間たち自身の影響であったということになるのです。この物語では桃太郎は鬼を殺せません。なぜならば、鬼は自分自身であるから、自分で自分を殺すことはできないからです。

 

 悟空とピッコロの戦いは、つまりは桃太郎同士の戦いです。片方は人の愛を受け、もう片方は人の悪を受けました。本来人間を滅ぼす悪としてやってきたはずの悟空が善なる存在の側につき、本来邪心を持たないはずのナメック星人が強大な悪となってしまったのは皮肉な話です。

 

 ピッコロ大魔王は悟空に倒され、死ぬ前に自分の分身を残します。卵から生まれたそれは、言うなれば再び桃から生まれた桃太郎でしょう。彼は相変わらずの悪ですが、後に優しい心を持つことになります。それは悟空の息子であり、悟空の育ての親と同じ名前をもらった孫悟飯との交流を通じて得たものなのです。生まれ変わったピッコロは今度は人からの悪ではなく愛を得ることができました。それが悟空と同じく孫悟飯という名前の人間からであったのは果たして偶然でしょうか。

 

 星野之宣の「宗像教授伝奇考」における「桃太郎連説」では、五大昔話における「桃太郎」「花咲爺さん」「猿蟹合戦」の混じりあうヴァリアントを元にして、その背後にある「犬と猿の戦い」というテーマを見出します。ここで考えてみると、「桃太郎」は老夫婦の元にやってきた少年が「犬」「猿」「雉(鳥)」を従えて鬼と戦うお話ですが、残りの四大昔話にも、「花咲爺さん」に恵みをもたらす犬、「猿蟹合戦」に害なす存在としての猿、「舌切り雀」に人に良いものと悪いものの選択を迫る雀(鳥)が登場し、「かちかち山」には虐げられる老夫婦が登場します。その意味で桃太郎は日本の昔話の象徴と言ってよいかもしれません(強引)。そして、この物語では共通の敵である鬼が登場することで、犬猿の仲であるはずの両者が共闘するのです。

 これをドラゴンボールに置き換えてみると、猿とは当然、満月を見ると破壊的な猿の本性が露わになるサイヤ人、それは地球人に害なす存在です。犬とは、何故か犬の姿をしている地球の国王であると考えられます。本来は戦いあうはずであった犬(地球人)と猿(サイヤ人)が、鬼(ピッコロ大魔王)を前に共闘する。これはまさしく桃太郎そのものではないでしょうか。

 では、残りの雉(鳥)とは何でしょうか?それは、舌切り雀の雀(鳥)が、恐ろしいものが詰まった大きなつづらと、価値あるものが詰まった小さなつづらの二択を提示したように、恐ろしいものが詰まった桃太郎(ピッコロ大魔王)と、価値あるものが詰まった桃太郎(孫悟空)を提示した、作者の"鳥"山明のことではないかと思います。

 社会の外部から来た存在を、鬼にするも英雄にするも、それらを受け入れる人間自身にゆだねられているのです。

 

 さて、しょうもない駄洒落がでたので終わりです。あと老夫婦の件は思いつかなかったので忘れてください。それでは、とっぴんぱらりのぷう。