読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

最近の僕の宗教観について

はじめに

 最近、宗教について考えているので、その話を書きます。宗教は昔からあって、今もあるものですが、それはきっと多くの人が必要としているから続いているということでしょう。では、その場合、宗教とは人間にとって何なのかということが気になります。

f:id:oskdgkmgkkk:20150608223420j:plain

 

宗教の最小単位

 「範馬刃牙」では「強さとは何か?」ということが描かれるのですが、その中で「強さの最小単位」は「わがままを通す力」のことだということが述べられます。つまり、その理屈の中では、どれだけ自分がボロボロになっていて、相手がピンピンしていたとしても、自分のわがままを相手に通しきれてしまえば、それは強さだというのです。一方、「耐える強さもある」などという言葉もありますが、その耐えた結果、自分の何かのわがままを相手に飲ませられなければそれは「強さ」ではないということになるのがこの理屈です。明快な基準だなと思いました。

 僕はこの「最小単位」という考え方がとても気に入ったので、これを応用して、「宗教の最小単位」とは何なのかを考えてみることにしました。理路は省くとして、今のところの僕の結論としては「宗教の最小単位は、ルールを設定し、それを守ること」だと考えています。そして、そこでいう「ルール」はトートロジー(同語反復)でもよいのです。つまり、「そのルールは重要である。なぜならば重要であるからである」というようなもので十分だということです。

 

 古今東西、多くの宗教が存在し、その中には唯一神を崇めるもの、八百万の神を崇めるもの、精霊を信仰するもの、自然そのものそれ自体に畏敬の念を抱くもの、亡くなった偉人や現人神と呼ばれる人のの言葉を守るもの、あるいは空飛ぶスパゲッティモンスターを信仰の対象とするものなどなど、多様な形態が存在します。そして、それら多様な宗教の在り方に共通する最小のものは、「何かしらのルールを持っている」ということではないかと思ったのです。裏返せば、何のルールもなく、それを守る必要もないものは宗教ではないのだと思います。

 しかし、このような形で宗教の最小単位を定義してしまうと、この世の中にあるあらゆるものもまた宗教として認識可能となってしまいます。試合に勝つためのゲン担ぎとして前日の晩には毎回トンカツを食べるということも宗教的、道路の白線の上だけを歩いて帰ることも宗教的です。なぜならば、そこにはルールがあって、そのルールを守るという意志があるからです。そして、僕が思うに、それは本当にそうなのではないでしょうか?実は、道路の白線の上を歩く宗教と、唯一神を崇める宗教の間に、人の心として大きな差はないのではないでしょうか?

 

日本人と宗教

 僕は特定の宗教に入信していません(ちなみに実家は真言宗)。また、自分を含めて日本人の多くにはある種の「宗教に対する忌避感」があるのではないかと思っています。それは90年代に起こった宗教テロや、その後も起こる宗教関連の事件、そして古来より起こり続ける世界中の宗教戦争などに見出す悪印象や、路上で、自宅訪問で、学校で、病院で行われる宗教への勧誘に対する辟易とした気持ちがその源泉ではないでしょうか(僕の経験の範囲の話ですが)。

 一方、そんな日本では宗教由来の伝統的な様式(葬式や七五三、厄払いなどなど)を受け入れたり、クリスマスやバレンタインなどの土着の信仰ですらない宗教由来のものを進んで取り入れようとしたりもします。さらには、先祖を祀ったり、物や現象に人格のようなものを見出したり、死者の霊に対して思いを馳せたりもするのです。不思議なのは、にもかかわらず、「自分自身は無宗教である」と認識しがちであったりもします。

 つまり、日本では宗教に対する懐疑が大きくありながらも、一方で、宗教的な態度も多数見出すことができるのです。これはどういうことかというと、現代の日本語における「宗教」という言葉が意味する範囲が非常に限定的であり、自分自身も宗教的な範疇にいながらも、自分自身が忌避したいものだけに宗教という名前をつけて排除し、整理しているという態度ではないかと思いました。「自分が信じているものは宗教ではない、なぜならば悪いものではないから」「彼らの信じているものは宗教である、なぜならば悪いものであるから」ということです。しかし、僕の考えでは、その間は綺麗に切り分けられるほど明確なものではないのではないかと思います。なぜならば、それは結果から演繹して良し悪しを判断する態度でしかないからです。その判断がされるとき、何かを信じるということそれ自体は、実は俎上にないのではないでしょうか?

 ここでいう宗教的という言葉は僕が定義したものなので、一般的ではありませんが、自分は宗教を信じてはいないが、実は何か別の根拠不明のものを信じているというのはよくあることなのではないでしょうか?

 

道具としての宗教(個人的宗教観

 さて、宗教というものを「ルールを守る行為」として考えた場合、明確なメリットが存在します。それは、あらゆる行動において「そのルールを根拠として提示することができるようになる」ということです。

 根拠のある選択肢と、根拠のない選択肢があった場合、圧力として根拠のある選択肢を選ばざるを得ないことが多いのではないかと僕は考えるのですが、しかし、根拠があるからといって、自分のとって良い選択とは限りません。そんなときに活躍するのが宗教です。相手がどんなに沢山の根拠を持ち出してきたとしても、こちらの宗教的な理由で拒否というジョーカーを持つことで受け入れずに済むのです。これは便利なので、僕も一枚持っておきたいと思っています。前述のように宗教的ルールの一歩裏側には根拠がなかったりもしますが、それゆえに自由、何でも根拠にできるとても便利なカードなのです。

 

 ということで、最近は根拠はないけれど、守りたいルールというものを宗教ということにして、教祖自分の信者自分という最小構成の新興宗教を多数立ち上げている感じです。そうすることで、生活が大変しやすくなるのでオススメです。

 直近で立ち上げた宗教と言えば、「新しいゲームが発売されたからといって、今やっているゲームをあわててクリアしようとしない教」です。これはルール化しておかないと、新しいのに手を出してしまう自分を戒めるための宗教です。宗教化し、戒律として縛っておかないと、うっかりそれをしてしまい、攻略サイトを見てとっととクリアしてしまったりするのですが、それは、ゲームをプレイするという行為に対する長期的なマイナスなのではないかと感じていて、それもなんとなくそんな感じがするというだけで、「今のゲームがこう面白いよ~」などと他人から言われてしまったら、すぐ心が揺らいでしまっていたのですが、今は信者なので大丈夫、戒律なので破りません。破れません。

 あとは健康教というもの立ち上げていて、毎日最低6時間寝るという戒律や、ラーメンは週に2回までにするという戒律、毎日1万歩以上歩くなどなど様々な戒律を守って生活しています。健康教は便利なもので、既にラーメンを2回食べてしまっているときに、3回目のラーメンに他人から誘われたとしても「宗教上の理由で食べられないのです」と答えることができるという良さがあります。これが「健康を考えて控えているのです」だとしたら、相手は経験上多くの場合ずんずんこちらに踏み込んでくるので、「ちょっとぐらいいいだろう」とか「そんなちまちましたこと考えるなよ」などと言ってきたりします。そこを「戒律を守らねば天罰が下るのです」などと主張することで、向こうもヤバいものを見たという感じで退いてくれますから、これはとても便利と思いました。

 

論理的な判断と宗教的な判断

 論理的な根拠があるものは強いです。同じジュースが、80円で売っている店と、100円で売っている店があった場合、80円のものを買ってしまうでしょう。なぜならば安いという根拠があるからです。ただ、僕はここにある種のおそろしさを感じているのです、それは、根拠があるものに根拠がないものが押しつぶされてしまうというおそろしさです。

 製品名には駄洒落が多いような気がしませんか?僕が思うに、そこには駄洒落という根拠があるからだと思います。社内を説得する際には根拠がある方が進めやすいはずです。しかし、そこは何の根拠もないわけのわからない名前をつけるという自由が奪われてしまっている世界です。

 僕は以前、自分が開発しているもののプロトタイプに「松風」という名前をよくつけていたのですが、この名前をつけると、偉い人に「なぜ松風なの??」と何度も聞かれるというめんどうくささがありました。実際は根拠がちゃんとあって、「発明将軍ダウンタウン」というテレビ番組由来なのですが、これを根拠として提示するには理由が足りない(怒られそう)ので、説明や説得が面倒であるがために、最近は何かそれっぽい名前をつけています。例えば、機能をアルファベットにして頭文字を良い感じにとると何かの聞き覚えのある単語っぽくなるみたいな感じのやつです。でも、それつまらないと感じています。つけられる名前の幅が狭くなってしまうからです。

 

 世の中では正しいことが主流ですから、正しいことをするために色んな先人の知見が提示されています。こういう場所ではこうやってはいけない、こういうときはこうやるべきだと、ゲームプレイ前に攻略本を熟読させられるように、それを提示され、それを守ることが正しいと思わされます。そして、それは実際それなりに正しいのです。なにせ先人の知恵ですから。

 しかし、僕は最近それをとても窮屈だと感じているのです。それをはねのけるための重要な武器が宗教だなというのが最近の自分の中の流行なので、それをやっています。そこには何の根拠もいらないのです。こんな便利なものがあるでしょうか。

 また、その正しさというものは多くの場合、現在の自分たちの得ている情報の範囲での正しさでしかありません。もっと新し別の情報を得たときには、それは正しくないことになってしまうのかもしれないのです。例えば科学的な定説が覆されたとき、それまでの正しさは雲散霧消してしまいます(めったにありませんが)。なので、正しさは正しいので受け入れるのですけれど、それに完全には依拠しないでいるという最後の一線を保っておきたいという気持ちがあります。そのための手段として宗教という概念が便利に使えると思いました。

 

漫画と宗教

 例えば、これらの正しさに押しつぶされるということを漫画の話に適用すると、良い漫画とは何か?という問いがあったときに、そこに誰かの考えた「正しい答え」が提示されたとしましょう。そして、それが、多くの人がそれに同意するような素晴らしい答えであったとしましょう。それが一般的になった瞬間に、漫画はその答えの条件に合致しているかどうかで判断されるようになるんじゃないかと思います。

 例えば「平凡な少年が成長し大人になる物語というのが素晴らしい少年漫画の条件だ!!」という理屈が登場した瞬間に、それに合致しない漫画は機械的に素晴らしくない漫画の烙印を押されてしまいます。そういう便利で正しそうな言葉は多くの可能性を奪うのではないかと思います。「何だか知らんがとにかくよし!」、そういう無根拠の確信が、正しそうな言葉に対する最後の抵抗になるのではなかと思います。そして、それはきっと宗教っぽいんじゃないかと思うのです。

 そういう意味で僕が漫画に求めているのは、「是非とも入信したい宗教」っぽさだなと思いました(というのがまた新しい正しそうなルールとも解釈できるので、この言葉にも縛られないように心がけます)。

 

まとめ

 何が言いたかったかというと、「宗教という概念が良くないものとして扱われがちなことに対する違和感」の表明で、なぜならば自分自身を顧みるに、自分はかなり宗教的な人間であると思うからです。全く根拠のないルールを掲げて、それを守るという人生の縛りプレイをよくやっているのです。

 そういった感覚があるため、「宗教」という言葉がどのように使われているのかという自分の認識を、言葉の裏側を少し細かく書いてみることで、その言葉の構成要素におけるどの部分が自分にとってどのように作用しているのかということを明らかにしてみようと思いました。僕にとっては宗教とは方便です。正しそうな理屈に対する抵抗するための盾なのです。ちなみに、盾なので、それを他人に押し付けようとする気持ちはありません。

 また別な話、深夜の無人のお墓を歩いているとき、僕は怖くなって足を速めてしまうことがあります。僕は少なくとも心の表面上は幽霊を信じていませんが、胸のうちが恐怖でいっぱいになってしまうのです。それは正しさで言えば、科学的根拠のないものを信じてしまっている無知蒙昧と表現できるかもしれません。自分がこう感じていることは間違っていると思ってしまうかもしれません。しかし、感じていることは事実なので、その気持ちが確かにあることを守るための盾が、少なくとも今の僕には必要なのだと思うのでした。

 今後も特定の宗教には入信する予定はないですが、自分自身の日々の生きやすさのために根拠のないものを信じること、それが僕の宗教なのではないかと思いました。

 

 最初もうちょっと違うことを書こうと思っていたのですが(社会における宗教の役割とか)、書いていたら興が乗ってきたせいで、またよく分からない話になってしまったので、この件に関しては、そのうちまた書くような気がします。