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幸運のエミュレータ的解釈について

 ゲーム機のハードウェアをソフトウェアで再現する「エミュレータ」には、ゲームの進行状況のメモリ状態をそのまま保存する機能があることが多く、例えばニンテンドー3DSのVC(バーチャルコンソール)にも、「まるごと保存」という名前でその機能が実装されています。それは、個々のゲーム内部に用意されているセーブ機能とは異なり、いつでもどこでも状態を保存でき、いつでもどこでもその状態を再開できるという便利な機能なので、それにより、ゲームの開発者が意図したものと異なるようにも遊ぶことができるようになります。

 例えばドラクエで、倒せば高経験値が得られるもののすぐに逃げられてしまう「はぐれメタル」が登場したときに、その状態を一旦保存しておき、逃げられたら前の状態から再開、逃げられたら前の状態から再開というのを繰り返せば、そのうち倒せるときがやってくるはずです。つまり、何度も繰り返すことで本来は低確率でしか得られない事象を、なんと確実に達成することができるようになるのです。これをすることによってゲームが楽しくなるかつまらなくなるかは場合によると思いますが、ここで気になるのは、ゲーム内キャラクターに自我があった場合の主観です。プレイヤーがエミュレータの状態保存機能を駆使しているとき、ゲーム内のキャラクターの主観からすれば、もしかすると「はぐれメタルは確実に倒せる存在である」と感じてしまうのではないでしょうか?なぜなら、ゲームの状態がある地点に巻き戻るということは、キャラクターの記憶も巻き戻るということであるはずだからです。ゲーム内のキャラクターには、その上位概念であるゲーム機やプレイヤーなどの外部の存在を知覚することができません。つまり、本来的に考えれば異様なほどの幸運を、「当然」と考えてしまう存在となってしまうということになりました。

 

 これを「幸運のエミュレータ的解釈」と呼ぶことにします。

 

 さて、この週末で「兎 野性の闘牌」を最初から最新刊まで読み直していたのですが、この麻雀漫画の中には特徴的な運の概念が存在しています。本作において、人間の運とは、「絶対強運」「絶対弱運」「相対強運」「相対弱運」「変動性相対運」という5つの概念が存在しており、「絶対強運/弱運」は常に配牌が良かったり、「相対強運/弱運」は相手によって運気を吸い取ったり奪われたりします。最後の「変動性相対運」は普通の人であり、運が良かったり悪かったりするという感じです。

 

(以下、兎のネタバレが若干含まれてしまうので、未読の方は避けた方がいいかもしれません)

 

 これらの概念が存在する世界観において、ある血族の人々は生来の絶対強運により、ルールを憶えた程度の初心者でも、あらゆる実力者が敵わないほどの麻雀の強さを発揮することになります。この運の概念は徐々に大きく拡大していき、現時点でラスボスと目されている存在は、「カウントダウン」という能力を発揮するのです。「7」と呟けば、7巡目に上がることができ、「6」と呟けば6巡目に上がることができ、数字はひとつずつ小さくなり最後は「0」となって天和で上がってのけます。このような現象は一般的な幸運不運で測るには、あまりにも幸運のレベルが高すぎ(運というには複雑過ぎ)、そして、その能力者は「それを当然と考えている」という異様さがあります(ちなみにこの漫画はこれだから面白いという感じです)。しかし、このような幸運は先述のエミュレータ的解釈で説明できるのではないかと思いました。

 

 つまり、絶対強運の持ち主は無意識にエミュレータの機能に干渉できるということです。確率によって広がる無数の多世界の中から、都合の良いものだけを選んで前に進むことで、その幸運を力技で実現します。もしかすると、「7」と呟いたのに、7巡目で上がれなかった世界もあったかもしれませんが、それは実はその時点で巻き戻されていると考えられます。これらの可能性世界は漫画内で描写されなくても、実は無限ループで実行されており、たまたま都合良くいったときのみが描画され、物語が綴られていると考えられるのです。

 つまり、絶対強運の持ち主は、そのやり直しのループをどれだけ回すことができるかでその強運の程度を測ることができるかもしれませんし、相対豪運の持ち主は、目の前の相手が回せるループの数を横取りすることができるという解釈になるのかもしれません。つまり、読者が目にする闘牌は、結果的なものでしかなく、本当の運気の勝負はそれよりも一段なメタレベルで行われているとも考えられるのです。

 これはゲームのタイムアタックなどで行われるTAS(Tool Assisted Speedrun)と同じようなものと考えることができます。TASとは、ゲーム上で実行できる内容ではあるものの、ゲーム内の偶然性を規定する乱数の監視や、やり直した結果の繋ぎあわせを含めて、異様な幸運の条件を満たした上でのタイムアタックです。これらは理論上は可能なはずですが、人間の普通のプレイでは再現がほぼ不可能な種類のものです。

 つまり、兎の中での麻雀対決は、TAS利用者と一般プレイヤーの戦いになぞらえることができるかもしれません。そう考えれば、能力者の手助け不在では勝つことがほぼ不可能ということになります。作中で、デジタルな確率を重視する麻雀の打ち手を馬鹿にするような描写があるのですが、それも当然の話で、なぜならば、彼らはサイコロを良い感じの出目になるまで何度も振ることができると言えるからです。確率というものは、サイコロを一回しか振れず、その出目がなんであれ、それに従うしかないような人々のための物差しであり、そんなものは何度もサイコロを振れる彼らの視野からすれば運というもののごく一部の領域における、とても不完全な捉え方でしかないと思えるのではないでしょうか。

 

 ただし、これらのルールを考えたときに、やり直しの起点とはどこかということが気になります。普通に考えれば伏せられた牌は混ぜられ積まれたあとには確定的ですから、何度繰り返したとしても、結果は同じということになってしまいます。ひとつは最初まで戻ってやり直していると考える方法がありますが、もうひとつ、本作において伏せられた牌は、あたかも量子力学のように不定状態であり、ツモられた瞬間に中身が確定するという理屈もぶっこめます。

 これはとてもおかしなルール想定ですが、昔のコンピュータの麻雀ゲームは実際そんな感じだったと聞きます。相手の牌は最初の時点でテンパイしており、あと一枚の当たり牌をどのタイミングでツモるかということで強さを規定していたのだそうです。伏せられた牌は、コンピュータの都合によって入れ替わりますし、プレイヤーはその掌で踊るしかありません。ゲームセンターのスーパーリアル麻雀では、コインを入れたらCPUが天和であがってしまい、何もボタンも押さぬまま100円を失うという大変ひどいこともありました。これに勝つか負けるかという話をするときには、確かに捨て牌から相手の手を読んだり、確率を考えたりするのは茶番であるかもしれません。

 

 兎には、カンをすればドラが乗るキャラ、役満をあがりまくれるキャラ、花牌を異様に引けるキャラなどの、確率的に考えればおかしい人々が多数登場します。これらも、この世界が何者かによってエミュレーションされたものであり、その外に干渉できる権限を持った人たちの能力バトルと考えれば、納得がいくような…これに似たような設定の漫画がこの前まで近代麻雀で連載されていたような気がします(微妙なネタバレ回避)。

 

 このように、漫画の中にすごい幸運の人が出てきたとして「こんなの実際にはありえないよなー」と思うのではなく、この後ろには実は何千何万回の運悪く負けたり死んだりした可能性世界があり、その果てに到達した境地なのではないかとか想像したりするとまた別の面白さも生まれてくるかもしれないなあと思ったという話です。

 

 あんまり関係ない話ですが、僕が漫画の中で見た非常に大きな幸運の持ち主といえば、確か竹内桜の短編集に収録されているはずのお話の中で、たまたま全身を構成する原子の全てが同時に量子テレポーテーション状態になったおかげで事故を避けられたという人ですね。おわり。