漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「竜の学校は山の上」について

 九井諒子の漫画はみんな好きなんですけど、とりわけ好きなのが短編集「竜の学校は山の上」に収録されている表題作です。このお話は現代の日本に、生物としての竜が存在するという世界観において、大学の竜学部の学生たちと竜の関係性を描いた物語です。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20150409223546j:plain

 

 九井諒子の漫画は、その中で現実にはありえないものを描くとき、ありえないがゆえに現実との接合部分で齟齬が出てしまう部分に、現実にありそうなディテールを入念に足すことで、その背骨を補強し、それがあたかも現実に存在するのではないかというリアリティを与える作りになっていると思うのです。

 

 この世界の中では、竜は必要とされていません。絶滅危惧種となっている沢山の竜たちは、政府の補助金でかろうじて生きながらえているのが現状です。竜学部を卒業した学生たちにも、その専門知識をそのまま使える就職口はろくにありません。そんな中、大学の竜研究会の部長は、竜がこの世で生きていける方法を考えて奮闘します。卵や肉を食用に使えないか食べ比べてみたり、移動手段として活用する方法を考えたり、愛玩用としてはどうかを考えてみたりします。そうすることで、竜が補助金がなくても存続できる存在となるための、社会における龍の役割を見出そうとしているのです。そして、それらは全て失敗します。その時点では。

 

 生きていく上で大量の肉を食べなければならず、広い土地も必要となる巨大な竜は、生育に費用が掛かりすぎ、その割に特別美味しいわけでもないので、コストパフォーマンスが悪いとされます。食という分野における竜の評価は、逆説的に牛や豚や鶏がいかに肉を生産する上で優れているかを浮き彫りにすることしかできません。移動手段としてだってそうです。狩りのために空を飛ぶ竜は長距離の飛行に向きません。現代人が馬で移動することがないように、象やラクダで移動することがないように、現代では竜を日常の生活に溶け込ませるのは厳しいのです。そして、愛玩用として考えるには、大きすぎたり、可愛くなかったりします。現実にも爬虫類を飼う人はいますし、大きな動物を飼う人もいます。しかし、それは主流にはなっていません。同様に竜だってそうなのです。一部の好事家が手を出すだけでは、存続は難しい。

 このように竜は合理的な理由から社会から排除されます。彼らを守ろうとするのは非合理な行為です。それはある生物を絶滅させてはいけないという万物の霊長としての義務感や、竜が好きで竜をを生かしたいという単なる思い入れでしかないのかもしれません。

 

 この物語の終盤、竜の背に乗って空を飛ぶ部長の姿がとても美しく描かれます。大きな体で走り、翼を大きく広げ、雄大に空に飛び立ちます。ずるい話です。さんざっぱら役に立たない、居場所がないということを描写されてきた竜が飛ぶ姿は、果てしなく荘厳で美しく感動的なのです。

 役に立たないかもしれません。非合理かもしれません。しかし、それを美しいと感じます。それをなくしたくないと思わせるにはそれで充分ではないですか。ですが、それを生かし、存続させ続けるには、どうにかして社会に組み込むしかありません。そして、それは人が意志を持って、そうできるようにしなければいけないことだと思いました。放っておいたらなくなってしまうのです。なぜなら、役に立たない竜はいなくなるということが合理的なことだからです。

 

 この物語における竜という存在は、他の別の何かに置き換えることが容易だと思います。例えば、文楽を文化として保護しなければいけないという物語であったとしたら、文楽に興味がある人しか関心を持てないかもしれません。例えば、とある農村にある奇祭の保存を扱った物語であれば、その奇祭に思い入れがある人しか関心を持たないかもしれません。でも、竜はそもそも存在しませんから、それらより一段抽象的ですし、他の具象に置き換えやすいのではないかと思います。誰もが持っている合理的に存続させる理由に欠くものの、決して失われて欲しくないもの、それが象徴としての竜なのではないでしょうか。

 自分の家の近所の公園の、子供の頃から遊んだジャングルジムが、危険だからと撤去されようとしているとき、そこには「危険だから」という合理的な理由があり、そこに対するジャングルジムがそこにあるべき理由を合理的に説明することは難しいです。ならば、それが撤去されることをただ見ているだけのことしかできないのでしょうか?そこで遊んだ思い出は、上に登って見た風景には、何の価値もないのでしょうか?守りたいならば、守る方法を考えなければいけないのではないでしょうか?

 個人的な経験では、僕が小学校3年生ぐらいの頃に住んでた裏の山の公園で、すべり台を自転車で駆け下りればすごく加速がついて速く走れるんじゃないか??と思ってしまったということがありました。自転車を担ぎ上げて大きなすべり台の上まで登ったところ、そこからの光景に「これはヤバい」と気づいたものの、友達たちの手前引っ込みがつかず、ままよと駆け下りてみたのです。しかし、次の瞬間その加速に恐れおののいてブレーキを握り込んでしまったがために、その反動で宙を舞い、自転車ともども顔面から地面に落ちて顔をずるむけるというようなことがありました。この例では僕が十分に馬鹿だったので、すべり台のせいにはなりませんでしたが、あれが原因ですべり台を撤去とかならなくて良かったなあと思います(書いている途中にあんまり関係ない事例だと判明しました)。

 

 竜研究会の部長は、かつて竜が好きであるがために竜の社会における役割を評価する論文を書きました。しかしながら、その結果浮き彫りになったのは、なんと竜が社会に役になんて立たないというデータでした。竜を肯定したければ、それを隠蔽したり、データや解釈を捻じ曲げたりするという方法もあったのかもしれません。しかし、そうはされませんでした。それを堂々と公表し、その上で、竜が生きる道というものを探そうとしたのです。自分が作り上げた論理を自分で否定し、その世界に竜が生きる道を探そうとしました。

 この物語の終わりで、その道はまだ見つかっていません。しかし、彼らは諦めていません。諦めてしまうことは捨ててしまうことと同じだからです。彼らは竜を役に立つものとして人間社会に居場所を作ることで、気まぐれな保護ではなく、末永い共存を目指します。その意志が僕には大変輝いて見えてしまったのでした。

 

 この物語は、そのものが「もし竜が存在したら」というリアリティを掘り下げて描写する行為であり、それによって、むしろ竜が社会に必要とされていないという事実をくっきりと浮き彫りにすることになるという残酷な現実を描いてしまっています。つまりこの漫画自体が部長の論文と相似形なのです。この世に竜はいません。いたとしても居場所がありません。しかし、竜に憧れを抱く人々は、竜の居場所を探すのです。

 そういえば、最近話題になっている「ダンジョン飯」でも、主人公の妹を食べた竜の場所を目指して冒険を続けていますね。さて、あなたにとって竜とは何でしょうか(というとってつけたような雑な締め)。