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自分という物語の伏線としての呪いについて

 Wikipediaによると呪いというものは、

人あるいは霊が、物理的手段によらず精神的・霊的な手段で、他の人、社会や世界全般に対して、悪意をもって災厄・不幸をもたらす行為をいう。 

 ということなのだそうです。

 

 全てを「呪い」という言葉でくくっていいかはわかりませんが、このような物理的手段によらず他人の不幸を祈る行為は昔から世界各地に存在しています。それは何故でしょうか?科学が受け入れられていない時代や場所では、呪いのような理路が不明な儀式でも、本当に他人に不幸をもたらせると人々が考えていたからでしょうか?

 中島らもの「ガダラの豚」の作中では、呪いがある種の社会装置として機能する例が紹介されています。アフリカのある地域では現代でも呪術集団が存続しており、それらは他の部族の狭間における緩衝剤のような役割を果たしているのだそうです。AとBの二つの部族があった場合、Aが何らかの理由でBに恨みを持つと、Aは呪術集団に頼んでBを呪ってもらいます。不幸というものは放っておいても起こるものですが、そのうちAに呪われたと知ったBは、それらの不幸の原因を呪いに求め、呪術集団にAからの呪いを解いてくれと頼むのだそうです。つまり、ここでは呪術集団という抽象的な存在が介在することで、AとBが直接的に攻撃し合うという状況が回避されることになります。

 物事は作ることよりも壊す方が簡単です。争いが起これば、失われるものの方が多いです。これらの地域では呪術集団が存在し、呪いという直接的には実害がない手段を介在させることで、マクロな視点で失われるものを最小限にとどめていると解釈することができます。

 

 呪いはもっと直接的に他人に不幸をもたらすこともあります。それは、呪われている対象に、「自分は呪われている」ということを自覚させることです。例えば、自分がどこかの誰かに死を望まれていると思いながら生きることと、そんなことは知らずに生きること、どちらが精神的に楽でしょうか?

 占い師が「あなたは悩みを持っている。そして、それは人間関係の悩みだ」と言えば、多くの人が心当たりがあると答えるという話があります。全ての人間と上手くやるのは難しいですし、それが上手くいかないということは強いストレスになり得ます。あなたは誰かにこんなにも強烈に恨まれ、呪われているのだと知らせるだけで、呪いは一定の効果があるのです。

 

 しかし、これらの説明では上手に整理できない種類の呪いがあります。それは、相手に知られないようにこっそりと、呪術集団を介在したりもせずに行われる種類の呪いです。言葉にせず、心の中で思ったところで、誰にも知られないようにこっそりと儀式をしたところで、超自然的な力がない以上は、それで相手が不幸になることはありえません。では、なぜそのような呪いが存在するのでしょうか?他人の不幸を願ってしまうのでしょうか?

 

 僕が思うに、それは「物語るため」ではないかということです。

 

 以前、他の何かでも書きましたが、僕は原因と結果では、結果の方が先に存在し、原因の方が後に生まれるという考え方をしています。なぜならば、結果が存在しなければ、原因は事象自体は存在したとしても、原因として認識されないからです。それはまだ原因とは呼ばれないものなのです。つまり、人間の認識の中では、結果を認識した瞬間に、自分が納得できる原因が改めて選ばれることになるのだと思うのです。そこには本当の物理としての因果関係があるとは限りません。あくまで当人が納得できればいいのです。結果が抽象的であればあるほど、原因も抽象的になるのではないでしょうか?

 例えば「自分が不幸な原因は?」と問われたとき、「環境のせい」「遺伝子のせい」「親の育て方のせい」「社会のせい」「怠惰な自分のせい」「自分が不幸だと考えてしまう自分のせい」などなど沢山の抽象的な理由を考えることができると思います。そして、どれもが正解で、どれもが正解ではないのだと僕は思います。自分にとって都合がよいものを思ってしまうのは仕方がないと思いますし、しかしながら、その理由を解決しても多くの場合、不幸だと思ってしまうのは解決しないような気もしています。

 そのどれもが明確でわかりやすく、それを解決すれば幸福になれるような理由ではないのかもしれませんが、理由をもたず、漠然と不幸だと考えるよりは、理由を持っていた方が安心するかもしれません。そこには疑似的であろうとも因果関係が生まれるからです。無数のランダムな出来事を抱え、その中をたゆたうのではなく、ある大きな流れの中で自分が進んでいるという自覚を持つことは、安心ですし、希望が持てる話ではないでしょうか?

 

 さて、誰にも知られないで行われる呪いについての結論を言うと、それは前記のような因果関係の物語を認識するためではないかと思いました。つまり、恨んでいる相手に不幸が起こった場合、遡って選択されるその理由の候補に、「自分が相手を呪った」という事実が付け加えられることになるのです。不幸というものは、誰しもに訪れ、それはしばしば幸福が訪れる頻度よりも多いものであると思いますが、その原因不明の不幸に、呪いという理由をつけられることで、当該不幸を自分にとって都合のよい認識の中に取り込む事が可能になります。

 憎いあいつが不幸な目にあったのは、私に恨まれたからだ、私に恨まれるようなことをしたからだ、私に恨まれるようなことをしたあいつは当然の報いをうけることになるのだ、と世の中を認識することが、自分という物語を自分に都合良く紡ぐために便利なのではないかと思います。そうすることで、直接的に相手を不幸に陥れるようなことが避けられるのではれば、それは前述の呪術集団のように、世の中の緩衝剤となり得るかもしれません。

 

 これらはまるで、フィクションの物語にある、いつ回収されるとも知らない伏線のようだと思いました。いつか回収される見込みで、まだ描かれてもいない先の物語の伏線をとりあえず張っておく感じです。それは思惑通りに回収されるかもしれませんし、回収されないままに打ち切られてしまったりするかもしれません。

 

 「人を呪わば穴二つ」、他人を呪い殺そうとすれば、そこに必要になる墓穴は相手のものだけではなく、同時に自分の墓穴も必要になるということわざです。しかし、人間は誰もが死にます。いずれにせよ、二人の人間がいれば、相手を呪おうが呪うまいが墓穴はそのうち二つ必要になります。

 なので、呪ってもいいですし、呪わなくてもいいのではないかと僕は思います。呪いが他人を不幸に陥れるための手段ではなく、自分の心の持ちようの問題であるとするならば。