漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

刃牙相対性理論:烈海王不変の原理

 刃牙シリーズでは、「強さ」とはという命題が繰り返し語られており、その最小単位は「我が儘を通す力」であるとされます。肉体的な力が劣っていたとしても、その自分より格上の相手に対して我を通し切ればそれは強さなのです。暴走族の柴千春は格闘技の鍛錬のない脆弱な肉体であるにも関わらず、その強烈な意地を相手に通し切るのが強くてカッコいいですし、主人公の刃牙は、暴力という意味ではまだまだ及ばない父親の範馬勇次郎に対して、我を通すことで地上最強として認められることになります。

 そこには数値化された戦闘力の、単純な大小比較のような分かりやすい指標はなく、誰と誰が戦い、そして決着するかによってようやく浮き上がってくるものがあると思っていましたが、最近、最新作の「刃牙道」を読んでいて、そこに一つの指標はあるのではないかと思いついたので、それについて書きます。

 

 その指標とはタイトルの通り烈海王です。

 

 烈海王といえば刃牙シリーズに登場する中国武術の使い手です。「バキ」以降、コミカルなシーンもあり、面白おじさんとしての側面もありますが、彼が強いということに対して異論のある読者は少ないのではないでしょうか?ここに烈海王の指標としての優秀さがあります。つまり、烈海王に勝てれば強いですし、烈海王に負ければ弱いのではないかということです。

 

 例えば、古代の岩塩層の中から現代に降り立った超野生人間のピクルに対し、烈海王は対峙し闘うことになりました。その際の彼の役割は人間が長年培ってきた武術という技術体系の象徴です。自然状態で強いピクルと、彼と比較して脆弱な肉体しか持たない人間が武術を得ることで、一方的な殺戮ではなく、戦いになるのです。この戦いにおいて、烈海王は負けてしまい、片足を喰われてしまうのですが、それにより、ピクルの強さが強調されることとなります。

 

 例えば、空手界の最終兵器という名とともに登場した愚地克己の評価にも烈海王が深く関係しているように思います。彼は武神と謳われる愚地独歩の子(養子)として登場し、その圧倒的な身体能力を見せつけた存在です。恵まれた素材に、独歩直伝の神心会空手、強くないはずがありません。そんな彼は、花山薫にすら勝ってみせます。しかし、その後、そんな愚地克己は烈海王には負けてしまったのです。そこからが味噌の付きはじめです。その後の彼は、勝ったり負けたりを繰り返しますが、読者としての僕の印象はというと、どうにも強者とは思えなくなってしまいました。

 彼の名誉が回復されるのは、彼もまたピクルと対峙することになったときです。そこには烈海王の助力もあります。つまり、烈海王によって弱き者の烙印を押されてしまった克己の名誉は、烈海王に認められることによって回復の糸口を掴むことになるのです。

 

 例えば、アメリカのボクシング界です。そこに中国武術の技をボクシングのルール内で使用することで殴り込んだ烈海王は、その力でなんとチャンピオンまで登りつめます。刃牙シリーズは昨今、その中に登場するキャラだけでの戦いが多くなっていますが、この事実は、彼らの強さが世間一般の格闘家と比較してどれほど強いのかということを示す指標となりました。

 

 このように烈海王は、彼と戦った人々の評価に対して深く関係しているように思います。彼に敗れたタクタロフやマウント斗羽、ドリアンやドイル、孫海王や寂海王には、もはや強者としての認識はありません(僕の偏見内で)。一方、勝ったピクルや刃牙には依然として強者の印象があります(当然僕の偏見内で)。そのため、僕は、これらのキャラの強さ弱さを判別する上での特異点となったのが烈海王ではないか??と考えるに至ったのでした。

 ちなみに作中でも、鎬昂昇が「今の私は烈海王にだって勝てる」と指標扱いしているシーンがありますね。

 

 烈海王はちょうどよいのです。信頼に足る強さのバックボーン(中国四千年)と、尊敬できる人格と茶目っ気があり、それでいて、勝ったり負けたりします。相対的にちょうどよいのです。これが地上最強の生物こと、範馬勇次郎ではこうはいきません。彼は絶対的に強いのです。作中でも、勇次郎が生まれた瞬間に、地球上のあらゆる生物が、強さのランキングを一つ降りることになったと表現されています。勇次郎に対峙すれば、誰もが弱者となる一方、烈海王に対峙すれば、そのキャラが強いか弱いかが分かることになるのです。

 

 そして、今「刃牙道」では、バイオテクノロジーと霊媒によって現世に復活した宮本武蔵の、その強さを測るための指標として、再び烈海王が選ばれ、挑もうとしているのでした。

 

 さて、それはそれとして、対武蔵以上に今注目しているのは、その前に立ちはだかっている柔術家・本部以蔵です。本部以蔵は、範馬勇次郎と戦える男として登場したものの、強いのか弱いのかいまだによく分かりません(絶対指標の勇次郎には当然負けます)。地下闘技場のトーナメントでは、金竜山に負けてしまい、一見弱いというポジションに収まったかと思いきや、死刑囚編では数々のキャラが苦戦をした柳龍光を圧倒してのけます。そんな彼が武蔵の登場に際し、ここしばらく不穏な発言を繰り返しているのです。武蔵という存在から皆を守護(まも)らねばならないと。強いか弱いかイマイチよく分からない彼のこの発言を、僕はどのように受け取っていいのかが分かりません。

 

 僕は、人間の性質として、「他人を格付けしてしまう」というのがあると思っているのですが、それは漫画のキャラに対しても同様だと思います。そのキャラが強いのか弱いのかというのはとても重要な指標です。

 本当は強いキャラAがその強さを隠しているとき、他のキャラBがAを侮っていると、読者はワクワクします。その後、BはAの強さを知って愕然としたりする展開が待ち受けていることが多いからです。Bの「Aは弱い」という認識は間違っていて、読者目線の「Aは強い」という真実がそれを上書きします。間違いが正せるとき、観測者としての読者には快楽が生まれます。

 逆に、本当は強いAが、Bに侮り続けられ、その真実が明らかにならないとき、読者はイライラしがちなのではないでしょうか?つまり、そこには読者の中の格付けと、作中の格付けの間に齟齬が生まれているのです。誤解が誤解のままで放置されていることにはストレスが生まれるのだと思います。

 筋肉少女帯の「機械」という歌の一節に、「彼女だけが一人、男を信じた」というものがあり、そこが感動的な部分ですが、その理由は、その「彼女」だけが観測者たる自分が知っている、「誰にも愛されぬ彼が、たった一人で人々を救おうとしていた」という認識に寄り添っているからです。多くの間違った認識の中、たった一人正しかったということが強く響くのです。その「正しさ」というものは、「自分と同じ認識」ということです。

 

 また、これと同様の心理作用により、自分が「弱い」と認識しているキャラが、「まるで強いかのように振る舞う」ということに対しては嘲笑が生まれると思います。なぜならそれは観測者にとって間違っているからです。強そうに振る舞うキャラを引きずり下ろす手段としての嘲笑です。

 友達と話している限り、本部以蔵に対してはこちらの反応が多いような気がしました。彼らはその本能的な格付け機能により本部以蔵を「弱者」として断じているのです。本部以蔵を強いと認識しているなら、彼のビッグマウスは相応のこと、同じ発言を範馬勇次郎がしていると考えてみれば、そのまま受け入れられるはずです(勇次郎は守護るなどと言わないと思いますが)。ちなみに、僕は判断を保留しているので、ただやきもきしています。

 

 そして、昨日発売したチャンピオンにおいて、本部以蔵は、宮本武蔵に挑もうとする烈海王の前に立ちはだかりました。雰囲気からして、本部以蔵が勝つことはなさそうなのですが、指標としての烈海王と対峙することで、僕はようやく本部以蔵が強いのか弱いのかの答えを得られそうな気がしています。なので、よかった!烈海王がいてくれてよかった!と思いながら、来週のチャンピオンを楽しみにしている感じなのでした。