読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画読書と人間の認知について

 原因があって、結果があるということに異論を持つ人は少ないのではないかと思います。しかし、こと人間の認識においては、結果は原因よりも先に来ることが多いと思います。なぜならば、結果がなければ、原因が何であるかということを考えるきっかけがないからです。机の上にコップがあったとして、これが割れれば、割れた原因を考えることができますが、コップが割れていない場合、割れた原因を考えることはできません。

 割れたという結果が発生した瞬間に、その原因は考えられ、例えば、別の物をとろうとした腕をうっかり当ててしまったという原因が生まれます。そして、僕が思うに、その瞬間に想像された原因というものは、しばしば本当の原因とは異なることがあるのです。本当の原因とは、つまり、その原因さえなければその結果は起こらなかったという特異点となるものです。

 

 例えば、机の上のコップに自分の腕が当たらなかったとしても、別の人の腕が当たってしまったかもしれません。あるいは、急に地震がきてコップが落ちて割れたかもしれません。そうなると、本質的な原因というものは机の上という不安定な場所にコップが置いてあったことと言えるかもしれないのです。その時に腕が当たろうが当たるまいが、コップは割れたかもしれませんし、コップを割らないためにどうすればよかったかを考えると、瞬間的に辿り着いた、言い換えれば脳内で辻褄を合わせるために選択された「原因」は、起こった「結果」とは大きく関係していないのかもしれないのです。

 

 数学や物理の問題のように、条件が非常に限定された閉鎖系では、ある事象が起こった原因を一意に特定することが容易かもしれませんが、実際の世の中には無数の原因足り得るものがあるために、ある事象が発生した原因の候補は無数に選ぶことが可能になります。人間の認識は、その中で納得感の高いものを選びとり、それを整理するものだと僕は考えていますが、その多くは擬似因果だと思うのです。つまり、それをなくせば全てが解決していた本当の原因を特定しているというよりは、そう考えることで事象を因果関係という物語に落とし込み、自分の記憶容量を削減するという圧縮技術なのではないかということです。

 

 例えば、本能寺の変が起こった原因は?というと、明智光秀織田信長に対する怨恨であるという説を子供の頃から当たり前に聞いていて、そういうものだと思っていましたが、僕は明智光秀にそう聞いたわけではなく、仮に聞いたとしても本心を話してくれるとは限りませんし、人間の認識は自分自身も騙す場合がありますから、話してくれた本心が事実とも限りません。では、なぜその説を受け入れていたかというと、そう考えると納得感が高いと思っており、それに反する歴史的な資料も見たことがなかったからです。近年、「石谷家文書」から発見された書状からは、明智光秀の謀反は四国征伐回避のためではなかったか?と考え得る資料が発見されており、もしかすると後年にはこちらの説が有力な常識になるかもしれません。ただし、それにしたって、そう考えることが納得できるというものであり、本当にそれがどうだったのか?仮にタイムマシンがあったとして、それを修正すれば歴史が変わったのかを検証することは不可能なのです。

 

 ここで言いたいのは、何も信じられないということではなく、世の中のあらゆる情報を手に入れ、実験検証できない以上は、何かを確定的に信じることはできないということです。そして、人間はある起こった結果から、そのような不安定で信頼感のない原因を勝手に推察して、あたかも確定的な事実のように取り扱うことで生きているのではないかということです。

 

 さて、このような能力は漫画を読む上では大変重要です。映画の技法モンタージュというものがありますが、これは、複数のカットを繋ぎ合わせることで、ある映像に別の意味を持たせるものです。例えば、無表情な人のカットの前に食べ物のカットをいた場合と、棺のカットを置いた場合では、同じ表情であるにもかかわらず、前者に「食欲」を感じ、後者に「悲しみ」を感じるというように、繋がりの中に関連性を見出すことで、その表情の原因を推察しているのです。これは最初に説明した因果関係を推察する能力と同じではないかと思います。

 

 漫画の場合、映画のように1つのカットの中で物語を進行させることは難しいですから、必然的にコマごとの全然異なるカットを、読者の頭の中で繋ぎあわせることで、そこに描かれている物語を推察することになります。拳を振りかぶっている人のコマと、ふっとばされている別の人のコマを並べて描けば、殴られたことを推察することができます。しかし、殴られている瞬間は描かれていないので、その「殴られている」ということは作者が描いてもいないものを、読者が勝手に脳内で補完しているという、読者の脳内の想像力に過ぎません。それが作者がそう想像させようと意図したものと一致しているからこそ、漫画はコマの連なりで物語を表現することができるのです。

 

 これはともすれば不安定なもので、例えば、漫画の同人誌を編集したり、漫画雑誌を裁断スキャンしようとしてバラバラにしたとき、ページの順番を間違ってしまうことがあります。また、たまに雑誌でも乱丁でページが入れ替わったりしていることがありますが、読んでいた読者の僕はそれに気づかないこともあります。それは何故かというと、ページの順番を並べ替えても、自分の頭の中でそれを繋ぎあわせ、作者の意図とは異なった別のストーリーを作り出すことが出来ているからだと思います。これをもし、さらにコマごとにバラバラにしてしまって渡されれば、もしかするとそれらを組み上げて、全く新しい物語を作ることができるかもしれません。そして、その事実に、その新しい物語を完成させた読者は気づかないかもしれないのです。

 

 読者にとって「漫画を読む」ということ、もう少し大きく言えば「物語を読み解く」ということは、作者から与えられたように見えて、自力で生成しているものなのではないかと思います。なぜならば、物語の大半は、実はコマとコマの間に働いた自分の想像力がキモとなっているからです。シャムシェイドは「壊れるほど愛しても1/3も伝わらない」と歌いましたが、作者がどんなに一生懸命何かを伝えようと物語を紡いだとしても、その中から読者の頭に伝わるのは、とても部分的なもので、その大半は読者自身の想像力にかかっており、作者の頭の中と読者の頭の中は1/3も一致していないかもしれません。僕が思うに、物語を読むということはそのような勘違いとすれ違いを楽しむということです。

 

 これらの想像力による物語の解釈の勘違いは、もっと規模の大きな部分でも通用します。「からくりサーカス」では、作者のインタビューなどによると、この物語の背後にある錬金術の設定が、連載開始当初にはなかったのだそうです。途中からのテコ入れとして、後付されたそれらの設定により物語は大きく動きますが、途中で回収される数々の伏線は、実は物語の序盤に沢山存在していたりします。そのときには錬金術の設定はなかったのにです。つまり、その時点では伏線ではなかったもの、あるいは別の伏線の予定であったものが、後付けの設定によって修正され、全く別の伏線として回収されることになるのです。

 読者は、それらの「結果」を見せられた瞬間に、それらが描かれた時点では「原因」ではなかったものを、「原因」としてみなすことが可能になります。その大掛かりな辻褄合わせの結果、矛盾点や疑問点のようなものが残らなくはないですが、それらを無視してしまうほどの入り組んで複雑怪奇な物語の化け物のようなものが生まれたと僕は感じました。特に物語も大詰めの過去編において、大量に与えられていた宙ぶらりんな結果が、どんどん原因と結びついていき、整理されていくということに、肥大化された情報が凝縮されていくような快感があったのです。未読の方は、詳細を読んでご確認を(こう書いてしまった時点で多少のネタバレになってしまったと思うのですみません)。

 

 というようなことを、「順列都市」という小説を十年ぶりぐらいに再読しながら思いました。この物語では、電子化された人間の人格が取り扱われるのですが、そこにおける人間の認知を説明する方法として「塵理論(Dust Theory)」というものが登場します。これを僕が正確に理解しているかはあやしく、それゆえに上手に説明もできないのですが、機械でシミュレーションされる無限のパターンが存在する上では、その中の意識の状態というものは、そのパターンの中から連続性を見出すということと同じになります。

 漫画で喩えると、この世に無数の「コボちゃん」のコマがあった場合、これらを任意の順番で四つ並べれば、その間に出現する想像力の補完により、あらゆるストーリーが実現可能というようなことです。この順番こそがシミュレーション世界における人間の意識であり、一つ一つのコマ自体は意識を規定する上で重要なものではなくなります。実際の世の中にはコボちゃんのコマは無数には存在しませんが、かなり沢山のコマは存在するので、もしかするとランダムに4個選んだ場合にそこに物語を見出すことが可能かもしれません。その新しい並びを発見した人は、作者の植田まさしではなくとも、その新しいコボちゃんの漫画の作者と言えるかもしれないのです。

 

 人間の認知というものは、ともすればランダムに見えるパターンの中にも何かしらの法則性を見つけ出してしまうものではないかと思います。その法則性の代表的なものが因果関係であり、自分の体験を振り返ってみれば、それが真に因果関係であるかどうかは別として、どうしても何かしら見つけ出してしまうのだと思うのです。

 このように考えると、漫画を読むということは、人間が持っている「因果関係を推察してしまう」という能力の余剰を利用し、愉快なパターンを認識しては喜ぶという、心の余暇(ヒマ)の象徴のような行為なのかもしれませんね。と、書くのに飽きたので雑に締めて終わりです。めでたし、めでたし。