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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

ゾンビと野良犬と排除の論理について

 年末からウォーキングデッドを見始めて、シーズン4まで見終わりました。すごい面白いので、早く続きが見たいです。

 

 おかげで、ゾンビについてぼんやりと考えているのですが、ゾンビとは一体何か?と言い表そうとすると色々難しい感じがしました。もともとヴードゥー教におけるゾンビは、死者を蘇らせ動かす施術のようなものらしく、その際ゾンビパウダーというものを使うそうなのですが、ものの説明によるとそれはそもそも人間を仮死状態にする毒らしく、その毒によって前頭葉にダメージを受けるために、一度死んで復活して意志なく動くみたいな感じになるだとかいう感じのようです。

 つまり起源の時点では、噛まれた人間がゾンビになるというような現在のゾンビものでは当たり前な要素はなかったのですが、ジョージ・A・ロメロの映画によって、そこに吸血鬼のような仲間を増やす要素が付け加えられた結果、どんどんと仲間を増やす死者の群れのようなものとして、今現在のゾンビものの漫画や映画やゲームなんかでは受容されているような感じらしいです。

 

 ここ何年かはゾンビブームであり、漫画でも「アイアムアヒーロー」や「ゾンビ取りガール」「女ンビ」や「Z」「さんかれあ」などなど、様々なゾンビをモチーフにしたものがあります。ゲームでも90年代後半から「バイオハザード」を始めとして様々なゾンビものがあります。その中に登場するゾンビも多様です。ゾンビ化の原因が生物兵器による結果や、オカルト的なもの、未知の宇宙生物によるもの、ゾンビの特徴が、人格がなくなり人を襲うもの、人格が変化して積極的な意志のもとに人を襲うもの、あまり人を襲わない無害なもの、見た目が腐乱したもの、綺麗なままのもの、様々です。

 そういったものを色々読んだり見たり遊んだりしながら、ゾンビというものは一体、そのフィクションの受け手にとってどういうものとして捉えられているのだろうかと考えていて、思いついたのはゾンビの解釈のひとつは「殺してもよい人間」ではないかということです。

 

 現代社会においては、「人間は殺してはならない」というのが基本ルールであると思います。しかし、ゾンビは殺してもよい存在として扱われます。そして、ゾンビは元人間です。人間がゾンビに変化するとき何の条件が変化するのでしょうか?そして、その条件を満たすことができれば、「殺してはいけない存在」であったはずの人間は、「殺してもよい例外的な存在」の人間(ゾンビ)に変わることになります。その条件について僕の考えを書いてみようと思います。

 僕が思う上記の殺してもいいゾンビに必要とされる代表的な要素は、

  1. 人を食うこと、
  2. ゾンビに噛まれるとゾンビになること、
  3. 人格が存在しないこと

 です。

 これらの要素は、人間がゾンビを排除する上で都合が良いものとなっています。なぜならばゾンビを殺さなければ、自分が噛まれる可能性があるために正当防衛の大義名分があり、噛まれてゾンビになればどんどんゾンビが増える可能性が高まるために、治安維持上の大義名分があり、ゾンビから人間のような人格が消失していることで、罪悪感が軽減されます。

 つまり、ゾンビを放置していては自分たちの身に危険があり、さらに、排除することに対する罪悪感がないことで、人は人を殺しても良いと思うことになるということです。これを利用して、特にゾンビのゲームなんかでは、大量に襲って来るゾンビを殺すという遊びが可能になります。これがゾンビではなく、生きた人間であったならば、倫理的な問題から、同じような遊びを実現するのは難しくなってしまうかもしれません。

 

 殺してもよいというキーワードで、思い出すのは野良犬です。僕が子供の頃にはその辺によく野良犬がいて、追いかけられたりして酷い目にあったりしましたが、今住んでいる場所でも、子供の頃住んでいた地元でも、野良犬はとんと見かけない存在になっていまいました。一方、野良猫は依然としていますし、先程も家の前にいるのを見かけました。何故、野良犬はいなくなり、野良猫はいなくならないのでしょうか?そこには、おそらく野良犬に狂犬病という排除するための大義名分となる理由があるからだと思います。一方、猫にはありません。その差が、野良犬が積極的に駆除され、野良猫はそこまででもない理由ではないでしょうか。

 生物の存在として考えた場合、野良犬も野良猫も変わらないものだと思います。それぞれ自分の生物としての役割を全うするために生き、子孫を残して次代に繋ぎます。しかし、そこには駆除されやすさの差があるのです。それは分かりやすい理由があるかないかというだけだと思います。仮に狂猫病のようなものが発生した場合、猫も容易に駆除されることになるでしょう。畜産においても家畜に病気が蔓延した場合にも、一斉処分することになる場合もあります。分かりやすい理由があるかないかです。

 

 翻って考えてみるに、世の中にあるあらゆるルールなどもそのようなものではないかと思います。分かりやすい理由があるものは、容易に排除され、分かりやすい理由がなければ、それが似たようなものであった場合でも排除されずに留まることができるようになっています。

 

 このように考えてみると、前述のような種類のゾンビの物語というものは構造的に、現代の社会のあらゆる場所にある、「排除の論理」を誇張して表現しているものと解釈することができるのではないかと思います。例えばある種の感染症にかかった人間を社会から排除して問題ないか?という問いです。ある種の感染症というものは、先程の3つの条件の中では2番目を満たしているということになります。つまり、残りの条件としては、その人が自分の病気を誰かに積極的にうつそうとしているかどうかと、その人の人格が共感可能なものかというものとなります。その二つを満たしてしまえば、僕の考えではその人はゾンビと同じですから、排除するための大義名分が揃うことになります。しかし、それらが揃わなかった場合はどうでしょうか?

 微妙に条件を満たした場合には、それを排除してよいかよくないかが曖昧になると思います。つまり、排除しようとする人もいて、排除してはいけないと考える人もいるだろうということです。これは病気による差別の歴史に近似していると思います。そういった場合に発生する感情の動きを、そのものずばりの直接的ではない方法で、誇張して描写されるというのがゾンビの世界です。

 物語の中では、ゾンビだからといって排除すべきではないという考えの人もいます。例えば、家族が死につつあり、ゾンビ化して復活するだろうことが予想されうる場合です。ゾンビ化に恐怖する人たちは、早く頭を潰して安心を確保しようとするかもしれません。しかし、家族にとっては、守るべき仲間が、戦うべき敵に転換するという状況において、それを簡単に受け入れられるものではありません。このような状況における葛藤はゾンビ映画における胸を打つ展開の典型的なもののひとつだと思います。それは非日常に見えて、日常の要素を持っているからです。

 

 ゾンビの物語を見つつ、「ゾンビはゾンビだから殺してもよい」と僕は思ってしまいますが、なぜゾンビだから殺してもよいのか?という自分の感覚を細かく分解していくと、そこに僕が他人を何かから排除してもやむなしと思ってしまうという理由が隠されているのではないかと思います。そして、それはきっと自分の中にある差別的な感情と繋がっているのです。

 今排除されていないものも、もしかするとそのうち明確に排除すべき理由が見つかるのかもしれません。そうなれば、それは排除される可能性が高いです。なぜならば理由があるのだから。他の似たような何かが排除されていない状況と比較して訴えても、そちらにはまだ理由が見つかっていないので、その訴えは通らないかもしれません。野良犬はいなくなり、野良猫はまだいます。

 そして、その不寛容さに対して違和感を覚えつつも、自分にもその不寛容さはあるのだという事実を認識して、世の中は難しいと思ったりするのでした。

 

 それはそれとして、ウォーキンデッドのシーズン5の前半を見る手段を得つつありますし、後半は来月初旬から始まるらしいので、それが楽しみです。