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「ペット」と波とシステムについて

(「ペット」のネタバレが含まれますのでご了承の上読んで頂けますと幸いです。)

 「テセウスの船」という思考実験があります。それは、ある船を構成している木材の傷んだ部分を徐々に入れ替え、ついには元の船を構成していた木材が一切なくなったとしても、それは同じ船と言えるのかどうかという問いです。これは例えば波という存在も同じです。海の波は水分子自体が動いて遠くまで移動しているのではなく、波の形が別の水分子に継承されて、ときには日本の地震で発生した波が遠くはチリの海岸まで届いたりするのだそうです。それは同じ波と言っていいのでしょうか?「阪神タイガース」は波と同じです。50年前のタイガースとは今のタイガースの選手は一致しないと思いますが、50年来の阪神ファンはいるかもしれません。その人が応援している阪神とは何でしょうか?これはあるいは会社でも同じです。同じ会社の同じ製品だと思っていても、作っている人はごっそりと入れ替わっているかもしれません。例えば、あるゲームの続編を違うチームが作っていることもよくあります。プレイした結果、違う人が作った違うゲームだと気づく人もいるかもしれませんし、まるで気にならない人もいるかもしれません。

 ハンターハンターの幻影旅団で、団長が命の危機に晒されたとき、団長を犠牲にして生かすべきは旅団であるという判断が出てきます。僕はこれを読んだときに奇妙に感じて、仲間の命よりも組織を優先するのは不思議な感覚だと思ったはずなのですが、よく考えてみると大きな組織であればそれは普通のことです。社長が責任をとってやめることも普通ですし、組織に不都合な末端であれば容易にクビにされます。その場合、生かすべきは組織であり、一人の構成員ではありません。なぜならば組織は残りの多数の構成員が生きていくために必要なシステムだからです。幻影旅団の奇妙さは、高々十数人の組織なのに、その論理を適用しようとしているということです。とはいえ、そうは思わないメンバーも中にはいたわけなのですが。

 

 機械が人を支配するという未来像はディストピア的なSFによく登場しますが、これをもう少し一般化して、人間以外が人間を使役すると考えた場合に、それは昔からとっくにそうなのだと思います。「組織」をある種の生物として考えると、生きるために必要な人間を取り込み、必要でない人間を排出します。それはさながら人間が食物を摂取して、自分の体を構成する分子を入れ替えているかのようなものです。十分な期間が過ぎれば、元の組織を構成していた人間はごっそり入れ替わり、元の人間を構成していた分子はごっそり入れ替わるのです。同じことなのです。組織とは何かと考えると、最小構成は「名前」と「ルール」ではないかと思います。見方によっては、人間はそんな名前とルールを存続するためだけに支配され、利用されているのです。

 なぜ、それがあまり不幸と捉えられていないかと言えば、別の視点からすれば、人もまたそんな組織を利用しているからです。その証拠に、人間は場合によってはその組織の「名前」と「ルール」を自分たちに都合が良いように変更します。もし、そんなルールを機械が自動生成するようになり、人間がルールを制御する権利を手放してしまったとしたら、そのときが人間が完全に人間以外に支配されてしまったということなのかもしれません。人間以外は、その存続のためにもはや人間の手を必要としないからです。

 

以上、前置きです。

 

 三宅乱丈の「ペット」は、精神感応能力を持った人々とある組織の中で巻き起こる愛憎劇です。

 設定が端的に説明するには少々複雑ですが、ある種の精神感応能力を持つ人々は、自我が生まれる以前に他人の思考が自分の中に流れ込んでしまうために、自分と他人の区別が上手くつけられません。「あなたはどういう人ですか?」と問われた場合、多くの人は自分の過去の経験の話をすると思います。しかし、彼らには自分の記憶と他人の記憶の区別がつけられませんから、その問いに答える術を持ちません。彼らは一見、知的障害を抱えた人間のように見えます。しかし、適切な形で記憶を整理する方法を教えれば、その状態を脱することができるのです。彼らは心を支えるような良い記憶に「ヤマ」という名前をつけ、忌避したくなるような悪い記憶に「タニ」という名前をつけました。彼らはヤマをタニで囲み覆い隠すように配置することで、ヤマを他の干渉から守り、自我を確立することに成功します。彼らは自分にヤマを分け与え、記憶を整理する方法を教えてくれた存在を「ヤマ親」と呼び、慕います。なぜならば、ヤマ親がいなければ自分は自我も確立できないままに、一生を終える存在であり、そして、同じ風景のヤマを共有する存在でもあるからです。

 彼らのその心の繋がりは組織によって利用され、組織のために働かされることになります。彼らの他人の精神に感応する能力は、他人の認識に干渉し、他人の記憶を操作することができるという非常に便利なものだからです。そして、組織から見ると滑稽な、彼らのその「ヤマ親」を強く強く慕う姿は、「ペット」と揶揄されることになるのでした。

 

 ペットたちの能力は端的に言って最強です。同じ能力者たちはタニで鍵をかけるようにヤマを守っていますが、普通の人間は精神的に全くの無防備だからです。彼らは容易に他人の心に侵入し、ときに操り、ときに改竄し、ときに破壊します。しかし、彼らを支配しているのは、なんとそんな能力を持たない普通の人間で構成された「組織」なのです。

 

 個として見れば最強のはずの存在が、組織というシステムのルールに縛られることで、あまりにも脆弱な存在となってしまい、その運命を翻弄されてしまいます。彼らは自分にとって正しいと思った選択を繰り返しますが、中でも特に「司」という青年は、その組織によって自らの意志で、自分にとって最悪の選択を、選ばされてしまいます。それが読んでいてとても悲しいです。この漫画は、精神感応という能力を描いているがゆえに、他人の心の中をイメージとして見せてくれます。その心の景色の変化から、読者は彼らの心の変化を感じ取ることができます。司はどんどん追い詰められ、正しいと思って自分にとって間違ったことをしてしまいます。そして、人間は間違ったことをしてしまった自分に耐えられません。だから、その事実には気づいてはいけません。それがゆえに人はそれを覆い隠すように余計に暴走しますし、その姿がとても悲しく、そして、それは他人事ではないのです。

 

 つまりは、人は組織に支配され、個人であれば選ばなかったような選択を、まるで自らの意志であるかのように選ばされてしまうということです。そして、その矛盾に人間は耐えきれなくなってしまうことがあるということです。

 

 子供の頃に物語の中に出てくる「独裁者」の存在に対して疑問がありました。その悪い奴がみんなの不幸の元凶なのであれば、そいつを殺して仕舞いだろうということです。武器を持った警備兵には独裁者を撃ち殺すことができますし、食事を作る人間には独裁者を毒殺することができます。なぜそうしないのか?と思っていました。そんな疑問を打ち消すために、ファンタジーでは魔王に一番の強い力を持たせるのかもしれません。最近思うのは、その独裁者がそうあるということは、ひとつのシステムであるということです。その人がそうあることによって、他の大多数が利益を得るシステムが維持される以上は、その人が死んだところで、他の誰かが代わりに収まるのだろうということです。社長が不慮の事故で亡くなっても、少なくともしばらくの間は会社は存続するはずです。それと同じです。

 

 この考えで言うと、システムは特定の人間を排除しても止まりません。システムに抗うには、別のシステムが必要ということです。それは内部から変えることもできるかもしれませんし、外部の何かが乗っ取るという形で達成するかもしれません。前者は改革ですし、後者は革命あるいは戦争です。どちらにしても、その過程における摩擦みたいなものが、人間のドラマではないかと思いました。

 その意味で言えば、「ペット」の物語は道半ばです。システムには抗い、部分的に破壊することには成功しましたが、消え去ってはいないのです。リマスターエディションの後書きでは、この物語が三部作の真ん中に位置することが作者によって知らされました。いつの日か続きが描かれるのか、それは僕が思ったような話であるのか、そんな話では全然ないのかは分かりませんが、僕はそれをとても楽しみに待っているのでした。

 

 この物語にはもう一人の組織のルール、つまりはシステムに翻弄された「桂木」という男が出てきます。この物語を最初から最後まで追っていけば、断片的に語られる彼の過去と、彼の今から、彼に何が起こったかが分かるようになっています。彼が望んだことと、彼が得た結末、そしてその過程にあった多くの不幸と少しの幸福が大変せつないのです。それは大きなシステムに翻弄されてしまう、あまりにも人間な姿だからではないかと思います。

 最近、伊藤悠の「シュトヘル」で「死に方は生き方を汚せない」という良い言葉を得ました。彼の人生は不幸の連続であったかもしれませんが、その過程にあった幸福はその後にいかなる不幸があったとしても汚されるものではありません。

 

 物語の終盤の回想シーンで、若かりし頃の桂木が「ただいま」と言うシーンが本当に良いんですよ。人間の力には限界がありますし、普通は大きな何かに揺られていくだけだと思います。波を伝える水分子でしかありません。それを悲しいと言ってしまえばそうだと思うんですが、でも、それだけじゃないよなあ、とかそういう、全然上手くまとまらないことを、今、休日最終日の午前3時ぐらいにこれを書きながら思っていたというお話です。