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「インターステラー」と「七夕の国」の「窓をひらいた者」について

(インターステラ―の多少のネタバレと、七夕の国のガッツリとしたネタバレが含まれますので読み進める際にはご了承ください)

 

 先週末、ようやく「インターステラ―」を観たのですが、話の本筋は置いておくとして、見ていて強烈に喚起された感情がありました。それは「所在なさ」です。映画の中で宇宙に出てからというもの、終始落ち着かない感じでした。ツィオルコフスキーは「地球は人類のゆりかご」と表現しましたが、ゆりかごの外はどうやら落ち着きません。

 

 人類の肉体は長い年月をかけて地球に最適化されています。宇宙はそんな人類のために作られているわけではありませんから、とても厳しい。人間には耐えられる温度に限界がありますし、耐えられる重力に限界があります。呼吸に適した空気が必要ですし、それらを無理矢理に適応させるための機械を作り、維持するためには、適した資源と人間が長い時間をかけて大量の人員が分散して進めることで確立した、流通や加工の技術が必要となります。それらは現在保たれているだけで、もし一旦失われたら、自分が生きているうちには取り戻すのは不可能だと思ってしまいます。それらのことを人間はゆりかごの中にいるときには忘れてしまいますが、一旦、宇宙というゆりかごの外に出てしまうと強く意識させられてしまうのです。

 

 インターステラ―はざっくり言うと、地球が異常気象や作物の伝染病により、人類を維持することが困難になった近未来を舞台に、移り住む別の惑星を探す物語です。土星の近くに現れた謎のワームホールを使い、遠くの宇宙、人間が住める可能性のある星を訪れるわけなのですが、映画の中で着陸した星の描写はとてもじゃないが住めないという感じです。

 ここに住めと言われたらどうするだろう?という不安な気持ちを抱えてしまいました。テラフォーミング技術と世代を超えた長い時間をかけた適応が進めば問題ないのかもしれませんが、それは一人の人間が生きている間では達成が難しい。そして、地球へ帰りたいと思っても、帰る宇宙船や燃料を獲得することも難しい。さらに、それに宇宙を移動する時間は自分の残りの寿命を消費しますし、コールドスリープしたとしても地球に残した人たちとのギャップは広がります。自分がいるべきではない場所で、一歩間違えれば取り返しがつかないという状況で、強く孤独を意識させられるというのが、3時間にもおよぶ長いこの映画の中で自分の中に深く刻まれたものでした。

 

 そこで思ったのですが、これはもしかすると岩明均の「七夕の国」における「窓をひらいた者」の感覚と似たものなのではないでしょうか?

 

 「七夕の国」は、ある田舎土地「丸神の里」を原点として巻き起こる様々な不可思議な人や出来事の背後を、その里の血を引く青年を主人公に徐々に明らかにしていくという物語です。そこで起こっていたことというのは実は、「カササギ」として象徴される宇宙人が、その土地の人間に干渉し、不思議な能力を与えたというもので、土地自体の作りや土地に残る風習が、実は定期的にやってくるそれらの宇宙人を導くためのものであったらしいということが最終的に分かるのです。そして、その土地に生まれた者たちが持つ能力のひとつが「窓をひらく」と表現されるもので、また、もうひとつが「手が届く」というものでした。

 この「手が届く」能力というのは、球形の「何か」を創りだすことができる能力で、その何かに触れたものは同じ体積だけどこかに消えてしまうことになります。作中では主人公やその他幾人かの人間がこの能力を発現し、使い続けることによって、徐々に人間とは異なる姿、おそらくは元凶たる宇宙人の姿に変貌していくことになるのです。が、ここで注目したいのは「窓をひらく」能力の方です。

 この能力については、上手く言葉で説明できるものではないらしく、詳述はされません。ただ、作中の表現では「怖い夢」のようなもので、おそらく「カササギ」たちが来ることを本能的に渇望するように植え付けられてしまったのではないかという解釈がなされます。「カササギ」とは何者で何が目的であったかは失われているため、一切分かりませんが、彼らは地球に入植しようとしたのではないかということが疑われます。そして、手始めとして、自分たちと地球の人間のハイブリッドをこの土地に生み出したということなのです。

 

 ここが自分の頭の中で繋がった部分なのです。前述のように自分たちが生まれ育った星以外は、自分たちには最適化されたものではないのです。その、自分が最適な場所にいるわけではないということ、そして、その意味で帰るべき場所があるにも関わらず、自分たちの力では帰ることができないという所在なさ、そして、その帰るべき場所にいる人たちを渇望するという状況が、インターステラ―と七夕の国で共通するのではないかということを思いました。つまり、自分がインターステラ―を観ていたときに感じた不安のようなものが、七夕の国の「丸神の里」の「窓をひらいた者」たちが常に抱えていたものと似ているのではないかということです。これを日常生活を送りながら常に抱えているとしたら、うわあ、嫌だなあと思ってしまいます。

 七夕の国のラストでは、「手が届く」能力自体が実は、「カササギ」側に行くための手段なのではないかという仮説が立てられ、実行する者が現れますが、「窓をひらいた者」である物語のヒロインが、そちら側に行こうとしてしまいます。その感情がどのようなものであったのかを理解する術は作中にはなかった(それにより、分かる者と分からない者の断絶が描かれる)のですが、例えば自分が宇宙の未開の星で生まれ育ち、その場所における不便と所在なさを抱えているときに、母なる地球への片道切符を手に入れたとしたら?と想像すると、僕にもそれが少しわかったような気がしました。

 というお話でしたとさ。

 

 余談ですが、インターステラ―を観ながら、毎号楽しみにしていたのに道半ばで終わってしまった「度胸星」に対する続きを読みたい!!という渇望が少し解消されたという話もあるのですが、それについては、また今度気が向いたら説明を書きます。