漫画皇国

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「大奥」と常識の不確かさについて

 よしながふみの「大奥」は、江戸時代を舞台に、男女の役割が逆転した世界を描いた漫画です。この世界では赤面疱瘡という、男のみが感染し、その多くが死に至る病気が蔓延しており、その結果、男女比が非常にアンバランスになってしまっています。それゆえに女性が社会の主導権を握り、歴史上、男性と記録されているあの有名人もこの有名人も、実は男ではなく女であったり、あるいは、女ではなく男であったりします。徳川の将軍も女性であり、そして当然、大奥も女ではなく男だけで構成されたものになるのです。

 この漫画は、架空の病気を導入することで、歴史のIFを描く漫画であるとともに、その中で徳川幕府を主軸とした江戸時代の政治の解釈が行われ、そして、その中で翻弄される人々が描かれています。そんな、いくつにも切り口が考えられるとても面白い漫画ですが、僕の感想としては、第一にはやはり、「男女の役割が逆転した」という部分に面白みを感じました。

 

 男女は同権であり平等であるというのは近代的に正しい価値観ですが、生物として見た場合、男は子を産めませんし、女は男ほどの体力を持たないことが多いです。そんな風に生物として異なる存在であるために、それぞれが同じように振る舞うためには、むしろそれぞれを不平等に扱うということが必要となります。世の中を見渡すと、その辺りに軋轢が生まれているようにも思います。さらには、男が女になり、女が男になるのは、外科手術を伴う困難なものですから、「もしかしたら自分が相手と同じ立場になるかもしれない」という想像力も働きにくいと思われます。そのため、男の目からの女への偏見や、女の目からの男への偏見は、少なくとも今の現代社会では、まだまだ目に見える形で残っているのではないでしょうか(自分の中にもそれがあることを自覚します)。

 

 例えば、多くの異性との間に子供を作るという行為を考えた場合、男女の間には認識の差異があるように思います。山崎さやかの「東京家族」は、沢山の女性との間に子供を作った主人公が、小説家として身を立てたあと、全員を引き取らされて暮らし始めるという物語です。この漫画では、主人公はダメな男であったが、ようやく甲斐性を手に入れて、立派にお父さんしている人として描かれています。しかし、もし、この主人公が男性ではなく女性であったとしたらどうでしょうか?多くの男性との間に子供を作った女性が、全員を引き取って育てるようになった話と考えた場合に、もし、男性の場合と異なる印象を抱いてしまったとしたら、それが偏見ということだと思います。男性が多くの女性と子を成すということと、女性が多くの男性と子を成すということを同等と捉えられていないということだからです。

 この問題については、京極夏彦の「絡新婦の理」でも取り上げられており、母系社会の家長である女性が、多くの男性との関係を持ち、子を成そうとする、母系社会としてはおかしくない行為が、父系社会の中では常識はずれの淫蕩な女性として認識されてしまうというものです。

 それは、この社会の常識が父親を中心とした家という常識にまだまだ縛られているがゆえに、男がやってもそれほど糾弾されない行為を、女性がやればおかしいと判断されてしまうということであり、平等であり、同権であるという理想からはほど遠いということなのではないかと思いました。

 

 さて、「大奥」では、それらの常識が逆転してしまっています。徳川の将軍は、男ばかりの大奥を作り、多くの男と関係を持っては父親の違う子を産みます。僕がこの漫画を読んでいて面白いと思ったのは、その行為について、現代劇のように、違和感を覚えてしまうことがなかった、つまりは「自分の中の偏見を自覚してしまう」ことがなかったということです。それは、この物語の中で女権の母系社会が常識であるがゆえに、当たり前のように受けれてしまっていたということです。それは言い換えれば、異なる常識に捉えられているという、逆の偏見でもあるわけなのですが。

 

 現在最新の第11巻では、徳川治斉(女性)が、徳川家光以来の男将軍となった徳川家斉を叱りつけてこう言います。

「男が、男がそういう政にかかわる事を、ちまちまこの母に意見せずとも良いと何度申したら分かるのじゃ!?」

「そもそも男など女がいなければ、この世に生まれ出でる事もできないではないか!!生まれたら生まれたで働くのも成人して子を産むのも、全て女に押しつけて、己はただ毎日、女にかしずかれて子作りをするだけ!!」

 これがこの世界の価値観においては常識の範疇であるのだと思います。現実の男尊女卑の男がこのようなことを言うこともあるだろうと思うように、この物語の世界の中の女尊男卑な女がこのようなことを言うこともあるだろうと思います。

 何を当たり前と思うかというのは、社会の構造によって容易に変化しうるもので、例えば今の世の中の常識を別の世界に持って行けば非常識と捉えられてしまうこともあるのかもしれません。僕が感じていることとしては、例えば、人間は平等であるだとか差別はいけないであるだとかいうことは、現代の常識であり、僕もそう思ってはいますが、今後の社会構造の変化で、その常識が崩れないとも言えません。なぜならばかつてはそうであったこともあるのですから。そして、それが当たり前であるときに、当たり前であることを疑うということはとても難しいと思います。例えば、人は平等ではないとか、差別は良い事だと言う人が現代にいたときに、それをおかしなことだと当たり前に思ってしまうということと同じではないかと思うからです。

 

 誰かの意見を否定したいときに「差別」というのは便利な道具です。相手の意見を因数分解して「差別」の要素を見つければよいのですから。「差別」は前提なしに「悪い事」であるという結論を導いて良いのが現代の常識だと思いますから、相手の意見にそれを見つければ否定する材料としては十分です。でも、それがもし奪われてしまったらどうなるんだろう?ということを考えます。つまり、「それは差別だ!」と言ったときに「差別だが何か?」と答えられると、次の言葉を続けるのが難しくなるということです。

 「常識」というのは理由を言わずに前提として使ってよい便利な道具ですが、それゆえに、常識が変わったときにあらゆるものが反転してしまう、曖昧で不確かでリスクの高いものだとも思います。しかしながら、常識は社会に規定されるために、社会の中にいるうちには、それに気づくことが難しいです。ですが、物語世界の中では別の社会を用意できるために、容易にその不確かさに気づくことができるかもしれません。そういう意味で、物語は便利だなあと思ったりしました。

 

 それはそうと、新刊がちょっと前に出たところなので、また最初から読み直しているのですが、そういうややっこしくて面倒くさいことを思わなくても、なんだかとても面白いので、続きを読みますので、この辺で。