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思考と道具

 ものを考えるとき、色んな道具を使ったりすると思うんですけど、考えられることの範囲は意外とその道具に縛られているなあと思ったりします。

 分かりやすいところでは、数学の問題を解くとき、紙と鉛筆があるかないかでは解きやすさが全然異なるのではないかと思います。体感ベースの話ですが、人間が一度に覚えていられる内容には限界があり、その量は意外と少ないのです。計算途中の数字を頭に覚えたままで他のことをしようとすると、考えている最中に忘れてしまうか、数字を覚えることが大変で上手く考えられないかもしれません。なので、計算途中の数字なんかを紙に書き付けておくということが必要になります。数字を書き留めておくのであれば、パソコンでもいいかもしれません。しかし、パソコンの困った所は数字を書くのは簡単でも数式を書くのは面倒くさいということです。TexMicrosoft Officeの数式エディターで数式を書く時間と、手で書く時間には雲泥の差があります。なので、パソコンで簡単にメモっておくとしたら、数式や数字の関係性の一部を記憶領域にとどめておかなければならず、やはり思考が阻害されてしまいます。なので、数式を立てたり、計算するときには基本的に紙やホワイトボードにペンで書きとめておくという行為を僕は行います。

 

 また、普段はあまり意識しませんが、言語もまた思考の道具のひとつです。英語で喋るときは、基本的に英語で考えなければいけません。なぜなら、日本語で考えて英語に翻訳して喋っていると、会話のテンポに間に合わないからです。メールなんかのテキストベースでのやりとりでは、相手とのやりとり間隔がゆったりしているので、日本語でじっくり考えてからの英語翻訳で問題ありませんが、会話となると、英語で物を考えて、そのまま英語で喋るということになります。そして、英語でものを考えているとき、自分の知能がずっと低下しているということを感じます。その理由のひとつは自分が英語で考えるということに習熟していないということ、そしてもうひとつは考える上での語彙が少ないことではないかと思います。

 日本語で考える行為は物心ついたころから数十年行ってきましたが、英語で意識的に考えるということは仕事関係でたまにするようになっただけなので高々10年弱ぐらいの経験しかありません。単純に考えると10歳の子供ぐらいの経験値もないということです。日本語思考能力がレベル30だとすると、英語思考能力はレベル10ぐらいです。ただし、日本語能力で獲得したスキルを上乗せできるので、それよりは少しはましかもしれませんが。英語で喋っているとき、自分が思いのほか馬鹿なことを言っていることに気づきますが、比較的レベルの高い日本語の自分がそれを恥ずかしく感じてしまうこともままあります。これはきっと自分以外もそうで、例えばカタコトの日本語を喋る外国人に対して、馬鹿っぽく感じてしまうのも同様の効果なのではないかと思います。それらの人々も母国語で考え、喋っているときは、きっとずっと頭の良い感じに見えるのではないでしょうか。

 

 また、言語特性として、考えやすさや考えにくさの向き不向きもあるように感じます。例えば、英語の場合、見るという表現にseeやwatch、lookなんかのバリエーションがあり、それぞれ意味合いが異なります。なので、喋るときにはそれらを区別する必要があります。また、時制や複数形、人称なんかについても区別して把握しておかなければ、おかしなことになってしまいます。しかし、日本語ではこのあたりを割と曖昧に喋ることができます。また、漢字で意味を伝えつつ、読みがなで発音を伝えたりすることや、「さらさら」や「しとしと」なんていう、状態を音の雰囲気で表現する行為も、他の言語では難しいことが多いです。さらには「さらさら」と「サラサラ」は文字から伝わる意味合いが微妙に異なりますが、これを日本語がわからない人に伝えることもとても難しいと思います。

 言語を道具として考えた場合、その言語によってどんなことを覚えておきやすいかという向き不向きが存在すると思います。日本語では「R」と「L」の区別がつきづらいとされますが、僕が思うに日本人も発音の区別はできているのだと思います。例えば有名な話では「ラックススーパーリッチ」というCMであったフレーズを思い出すと「Lux Suer Rich」のLとRが異なる発音であることを理解しています。しかし、これを文字に置き換えたとき、「right」と「light」は同じ「ライト」になってしまいます。英語と日本語に置き換えたあと、その日本語を英語に置き換えようとすると、そこで情報が喪失してしまいます。日本語で「ライト」と書かれていると、英語に変換するときに「right」にすればいいのか「light」にすればいいのかが分かりません。僕が思うに日本人が英語が苦手になる原因のひとつは、カタカナという発音を表す便利な記号が存在するために、単語をネイティブの発音そのままではなくカタカナに変換して教えられ、記憶しまうからではないかと思います。教師がカタカナ英語の場合、正確な発音も伝えられませんから、補正する機会も得にくいです。

 言葉を喋るという行為において文字は一見関係なく思えますが、意外と人間の認識に大きく影響しているのではないかと思います。その実例が「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」です。空耳アワーは他言語の歌の歌詞が日本語のように聞こえるものを集めるコーナーですが、日本語の空耳歌詞を見ながら歌を聞くと割とそのように聞こえます。しかし、空耳歌詞を見ずに歌を聴くと全然そうは聞こえなかったりします。つまり、聞いている音自体は割と曖昧で、それを他の情報を使って細かく補正している、そして補正の方法が間違っていれば、間違って聞こえてしまうというのが人間の聴覚なのではないでしょうか。「モルグ街の殺人」で、犯人の話す言語を皆が特定間違いするような話ですね。

 

 こういうことは発音以外にも起こっていて、英語で作られた概念なんかを日本語に変換されるとき、変換を間違うと、情報が消失します。例えば、「自由」という言葉が、「Freedom」なのか「Liberty」なのかというようにです。また、曖昧に変換された言葉は、もとの英語に戻すことが難しくなります。明治大正期に、多くの外国語と概念が輸入されたときに、当時の知識人たちが頑張って日本語に翻訳を行いました。前述の「自由」もそうですが、「自然」なんかもnatureを翻訳したものと言われています。それによって外国で生まれた認識や概念を、誤認識や上手くない翻訳を含みつつも、日本語の概念として取り込んできました。また、インターネットとかで使われる通信規格なんかでは、元の英語に対応する日本語が昔は割と整備されていました。なので、この日本語と言えば元はこの英語であるというのが一対一で対応していて、日本語と英語の相互変換が比較的容易だったのです。しかしながら、日々新しい概念が生まれては即座に世界的に共有される昨今では、それらを正確に決めるほどの時間的な余裕がありません。なので、英語で作られた概念は、概ね英語のままで日本に輸入されます。そのため、例えば外資系企業や海外とのやり取りが多い仕事をしていると、わざわざ日本語に変換せず、英語の概念のままでそれらを取り扱うこともしばしばです。その方が齟齬をきたさずにやり取りできるというメリットがあるからです。ちなみに、これを日常生活でも使ってしまうと、ルー大柴のような喋り方になってしまいます。

 

 英語をネイティブっぽい発音にしたり、ルー大柴のような英語まじりの日本語を使うと笑われてしまうことが多いように思います。それは、日本人に伝えるという意味では拙いということでその通りだと思いますが、逆の観点では日本人以外に伝えるには向いているとも言えますから、その辺は意識した方が良い気がしました。外国から日本に来たばかりの人が、最初は「マクダーナー」みたいに言っていたのに、今では滑舌よく「マクドナルド」というようになったりしています。それは、そうでないと伝わらないからですよね。どちらの方向にでも。

 

 書いているうちに脱線してしまいましたが、ものを考えるという行為は、ぼんやりと考えていると何かが出て来るというものではなく、言語や文字やそれらを表現するためのツールとしての紙やパソコンなんかを使って初めて成り立っているものだと思います。同じ文字を書くにしても、コピペ修正が容易なパソコンで書くことと、それらが面倒な原稿用紙に手書きするのでは体感が随分異なると思います。そのあたりで言うと、僕は手書きをしなくなったことで、画数の多い漢字を頻繁に使った文章を書く機会が増えました。手書きの場合は、面倒なので別の言葉を探したりカタカナで表現したりして回避することも多かったです。これらはきっと結果として書かれる文章の内容に影響しています。今のように特に字数制限もなくダラダラとブログを書いていることと、Twitterなんかに140文字縛りで書いているときでも書く内容が異なってくるでしょう。

 さらには、僕は他人と喋ること(人見知るので心を開いている相手限定なものの)が好きですが、それもある種の道具として使っているふしがあります。自分ひとりで考えているときよりも相手の反応を見たり、相手が出す思いもよらない言葉をきっかけにして最初考えていたことと全然違うことを考えられたりするからです。なので、何か考えないといけないときは、良い相手との言葉のキャッチボールをしながら種を作り、その後ひとりでまとめるという方法を僕はしがちです。ちなみに他人というのは、本のようなものであったりすることも多いです。これらも向こうからこっちへという一方向でしかないですが、情報のやりとりという本質的には、会話と同質のものだと思うからです。

 

 色々と考えないといけないことを抱えている最近ですので、その手段について考えていることを書き連ねてみました。まだ、上手く言葉になってないことも多いので、そのうち続きを書きます。