漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画の中国拳法描写について(追記あり)

 「新暗行御史」というサンデーGXで連載されていた漫画があります。この漫画は、昔の韓国とファンタジー世界をミックスしたような世界を舞台にしていて、暗行御史アメンオサ)という素性を隠した秘密の行政査察官のような人を主人公としている面白い漫画です。さて、この漫画は韓国人の原作者と漫画家のコンビによって描かれているのですが、作中に「合気(ハプキ)」という技が登場します。合気道(ハプキドー)という武術は実際に韓国に存在していて、それは日本の合気道と同じ大東流合気柔術を源流としたものだそうなのですが、新暗行御史における合気は、それとも異なり、気合のようなもので離れた敵を攻撃することができる超能力的な技として描かれているのでした。

 

 その超常的な技に合気という名前がついていることに幾分かの違和感があったのですが、もしかするとこの感覚は中国人にとっての、「日本の漫画の中の中国拳法の描かれ方」と似ていたりするのかなあと思ったりしたのでした。

 

 以上、前フリです。

 

 漫画(を中心とした日本のフィクション)における中国拳法に対する理解というのは、それぞれの人が生まれた年代によって影響が異なると思うのですが、自分を振り返ってみて、大きな影響を受けた作品としては「男組」「拳児」「鉄拳チンミ」「闘将!拉麺男」「魁!男塾」「ジャングルの王者ターちゃん」「破壊王ノリタカ」「グラップラー刃牙」「からくりサーカス」「バトルロワイヤル」「エアマスター」なんかがあります(他にもまだまだありそうですが)。ざっと振り返ってみるだけで半数以上がおかしな描写がある漫画です。ここで言う「おかしな」とは実際の中国拳法と異なる、何かしら超能力的な要素を含んでいるというような感じの意味です。しかし、一方そのおかしさがとても格好良かったりします。

 

 漫画版の「バトルロワイヤル」における杉村が使う拳法は、作中の描写を見る限り中国拳法ではなく日本の少林寺拳法のようなのですが、漫画的な描写としてはそれまでの日本の漫画における中国拳法描写の延長線上にある気がしていて、ひとつの完成系のように思えました(無理のある書き方ですみません)。そこに見て取れる日本の漫画的中国拳法描写の特徴とは、地面を踏みしめる震脚の強さと、静止した体勢の美しさ、そしてその「静」の描写からすると不自然なぐらいの、吹き飛ばされる技を受けた相手という「動」の描写です。日本の漫画における中国拳法には、技を使う人間の体内内部において神秘的な力の源泉(気など)があり、それを解放することで、肉体の動きからすると想像できないほどの大きな力が生じるという、静と動、集中と解放という描写の気持ちよさがあるように思いました。

 

 そして、これはある種の完成された様式美として存在しているため、YouTubeなどの手によって沢山の中国拳法動画を見ることができるようになった昨今では、それらを見たときに頭の中のイメージとは異なる中国拳法を見てしまったようで、謎のがっかり感が生まれてしまったりします。これは決して中国拳法が悪いわけではなく、期待したものと違うものを見ると、がっかりしてしまう人間の仕様のせいではないかと思います。

 つまり、漫画的中国拳法というものが自分の頭の中で代表的な中国拳法となってしまっているために、実際の中国拳法に違和感を持ってしまうということで、この差はそもそもどこで生まれたのでしょうか?

 

 日本における中国拳法イメージの転換点としては、(1)カンフー映画の影響と、(2)松田隆智の著作、そして、(3)バーチャファイターなのではないかと思っています。例えば、「闘将!拉麺男」や「鉄拳チンミ」なんかはカンフー映画の影響が強いと思います。そもそもの中国拳法の動きの早さや合理の格好良さに加えて、映画的なケレン味とワイヤーアクションなどが加わり、中国拳法といえば奇抜な様式であるという印象がありました。そのため、中国拳法と言えば変な動きというイメージが僕が子供の頃にはありました。

 しかし、松田隆智の「拳児」によって、その印象ががらりと変わります。「拳児」は剛拳児という少年が、八極拳を学び、成長し、やがては中国で失踪したお爺さんを探しにいくという漫画なのですが、ここでは漫画的な誇張はやはりあるものの、それまで僕が読んでいた中国拳法の漫画からするとずっと論理的な説明や練習方法などが解説されています。例えば、それ以前に読んだ「新ジャングルの王者ターちゃん」では、「化勁」は、相手の気を吸収するという技として紹介されていたのですが、拳児における「化勁」は、攻撃を受け流すなどをすることで、相手の動きをコントロールする技法として紹介されているというような感じです。「離れた敵を気で倒す」というような描写ではなく、「人体の合理的な動かし方」として描かれているのです。離れた敵を気で倒すみたいな描写ももちろん好きなのですが、当時の僕にはその合理性みたいなものが新鮮で大変心を惹かれる感じがありました。

 そして、それを実際に動いている形として目にしたのがバーチャファイターという体験であったように思います。それまでの格闘ゲームでは、「餓狼伝説」のタン・フー・ルーのように、気の力で筋肉が膨張して大男にというような、面白描写で描かれていた中国拳法であったのですが、バーチャファイターではそれらしい動きによって表現されているのです。そこで、僕はなるほどこういう動きだったのかと思いました。

 

 さて、バーチャファイター以後の漫画中国拳法と言えば「エアマスター」だと思います。エアマスターの作中には、駒田シゲオという男が出てきます。彼は格闘ゲーム、バーチャルファイティンガーのプレイヤーであると同時に、ゲームの主人公であり八極拳の使い手であるアキオの動きを完全コピーし、ゲーム由来の八極拳で戦うというキャラクターなのでした。アキオがオレ、オレがアキオだ!と主張するシゲオはそれなりに強いのですが、彼を否定するキャラクターとして登場するのがジョンス・リーなのです。ジョンス・リーが使う八極拳は本物であり、八極拳は相手を一撃で倒すと言います。そして、その言葉の通り、ゲーム的なコンボを繋げようとするシゲオを一撃のもとに仕留めてしまうのです。つまり、ここで、漫画の中のゲームの中国拳法と、漫画の中の本物の中国拳法の戦いという感じになるのでした。

 ジョンス・リーは大変強く格好良く大好きなキャラクターなのですが、「エアマスター」、そしてその後「ハチワンダイバー」にも登場する彼の中国拳法は、だんだんと異常進化を遂げます。それは一つは、地面を踏みしめる特徴的な動作「震脚」への傾倒と、気の概念の登場です。「エアマスター」の中の強敵、渺茫との戦いにおいて、渺茫の使う八極拳との戦いが苛烈するとともに、その威力の描写が震脚の強さで表現されることになります。あまりに地面を踏みしめる強さが強いために、「攻撃するたびに床が抜ける」という描写が登場し、そして、踏みしめた場所を中心に球を描くように、気で攻撃する描写が登場するようになります。それまでにおける、エアマスターにおける「気」の描写は、通常の攻撃にプラスして気の鍛錬があることで、相手に触れた瞬間に物理的な威力以上の何かが加わるという感じであったのですが、ここで一気に触れずに攻撃するという概念に拡張され、一旦「合理」に回収されつつあった中国拳法が、また「非合理」の何だか分からないけれどすごいものに回帰することとなり、倒錯した感じが非常に面白く感じました。ちなみに、ハチワンダイバーで再登場するときには、その気の概念がさらに加速をしています(詳細は読んでご確認を)。

 

 他に、中国拳法描写として、見逃せないのは「からくりサーカス」だと思います。本作における中国拳法描写は、とにかくスピーディーであるとともに力強く、一撃一撃の重さが特徴です。作者の藤田和日郎が実際に形意拳を習ったということも反映されているのか、ここで誇張されているのは、中国拳法における動きの早さの部分であると思います。八極拳では、「一撃」を強調するため、最小限の動きで大きな力を発する様式美的な格好良さが強調されますが、本作では、相手が自動人形であること、一対多の戦いが多くあることなどから、主人公の一人である鳴海が、力強い一撃を、周りを囲む自動人形たちに高速で打ち込み、粉々に破壊される描写から強さと、次々に破壊される描写から速さを見て取ることができます。これは同じ中国拳法でも、流派によって色んな見せ方があるのだなあと思わせてくれます。ここにおける常識離れポイントとしては、力強さと速さ、それぞれにおいて誇張があるというところで、実はイメージとしては、これまで紹介したものと比較して、実際の中国拳法との差は少ないのかもしれません。

 

 刃牙シリーズにおいては、やはり、省略された「静」と、誇張された「動」の要素が強いように思われます。分かりやすいのは、烈海王がドイルを背負って走っているときに、ぶつかりそうになるバイクを掌底で止めるシーンですが、美しい形で静止する烈海王と対象的に、後方部から粉々になって飛び散るバイクがあります。同様に、百歳以上生きている作中の中国拳法の象徴とも言える郭海王のがまた、そのよぼよぼでしわしわの体躯からは想像できないほどの破壊力を見せつけるシーンがあります。刃牙では、「破壊力=スピード×体重×握力」という花山薫の力を示すために提示された独自理論がありますが、郭海王の突きには、スピードもなければ、体重もなく、そして、軽く握った程度で握力も感じられません。つまり、郭海王は花山薫理論を全く満たさない真逆の存在であるにも関わらず、「破壊力」の部分だけは正しいわけなのでした。一見「神秘」のように思えますが、作中では「理合」として表現されます。とはいえ、僕はその「理合」が理解できるレベルに達していないので、「神秘」のように受容してしまっているのでした。

 

 具体的な話をまだまだ書きたいところではありますが、まとまらないので、この辺で総括するとして、合気道が実際とは異なる理解をされているのではないか?という疑問と、中国拳法が漫画内で謎の進化を遂げているという話について、共通するのは、少なくとも日本において、それらが試合をしている光景があまり見られないことと関係しているように思います。

 描写と言うものは多くの場合、求められている部分を誇張し、求められていない部分を省略することで変化していくわけですが、それらは例えば目を大きくする画像フィルタを繰り返し適用すると気持ち悪くなるみたいに、日々参照している実際の人間の顔との差分が大きくなると奇妙に感じ、バランスが修正されていくものだと思います。つまり、バランスが保たれているためには基準となるものが必要となるわけですが、試合が広く公開されていないものは、基準がなく、独自進化を遂げる要素が大きくあるのではないかと思いました。

 反面、ボクシングの描写や総合格闘の描写なんかについては、かつての荒唐無稽であった漫画と比べ、実際の格闘技自体から、大きく逸脱することのない範囲に収まっている地道で堅実な描写の漫画も最近は多いように思います。これらは参照できる実際の映像が多いために、あまりに誇張した描写だと、嘘くささが強くなってしまうからではないかと思いました。おかげで、正しい描写であるものの、見た目が地味になってしまい、玄人好みになってしまうというきらいはあるかもしれませんが。

 

 結論としては、僕は現代の独自進化を遂げた中国拳法描写が大変格好よくて好きなわけなのですが、それが現実のものとは異なるということも知ってしまっていて、切り分けて楽しみことには成功しています。しかしながら、YouTubeなどで、実際の描写が参照しやすくなっている昨今、それらは、リアリティのあるボクシングや総合格闘技の漫画なんかが増えていることを鑑みて、今後も生き残れるものなのかどうかという疑問があると思いました。雑な記憶を掘り出すと、昔のボクシング漫画には、主人公がコークスクリューパンチを打っていれば勝つ理由には十分であった時期があったように思うのですが、もはやそれは許されなさそうです。現在の漫画中国拳法は、過渡期の突然変異であるのか、今後も生き延びるのか、見守っていきたい感じがしています。

 

(2014/6/21 追記)

 アメトークのジャッキーチェン芸人を見たあとに、酔っぱらいながら書いたような文章に沢山コメント頂きましてありがとうございます。

 いくつか補足をしておくとすると、山本貴嗣の「セイバーキャッツ」は読んでいるものの、確か中学生だった20年近く前のときに一度読んだきりで、記憶があやふやなので書きませんでした。あやふやな記憶によれば、僕が主に言及している漫画における独自中国拳法感よりは、より実際の中国拳法(というか中国武術?)に近い描かれ方がされていて、本来的には正しく、また、描写もとても格好良かったはずなのですが、結果的に現在の日本の漫画の中ではマイナーな描かれ方となっているかもしれません。念のため雑に図解しておくと、僕の考える漫画中国拳法的様式美というのは以下のようなイメージです。

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 直接は関係ありませんが、セイバーキャッツで印象的だったのは毒手が爪を伸ばして毒を塗るというもので、他の漫画における手自体を毒化する毒手と比べると現実的に感じたのも本作と他の漫画の差が出ている部分なのかもしれません。また、こちらの方向性では、複数言及頂いている上山道郎の「ツマヌダ格闘街」も理論の説明がしっかりしていて、上記の図における3から4の誇張が少なく堅実な描写かもしれません。他に、上山徹郎の「LAMPO」のローズの動きなんかも含まれるかと思ったのですが、今、本を確認してみたらそこまで中国拳法という感じでもなかった(聴勁のようなポーズはしていたものの)ので、記憶は曖昧ですね。

 

 また、長くなるので書きませんでしたが、「発勁」描写は受容のされ方は詳しく掘り下げる余地がある気がしていて、最近では「修羅の門 第弐門」や「愛気」「天上天下」でもやっていますし、昔の記憶では「龍狼伝」や「コータローまかりとおる」なんかの印象が強いです。拳法に関しては漫画をダラダラ読んでいるだけの僕よりも詳しい方々が沢山いらっしゃるように思いますので、是非とも文章を書いて教えて頂ければ、僕は喜んで読みにいきたいと思いますので、宜しくお願い申し上げます。

 

 それでは。