漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「道士郎でござる」について

 「道士郎でござる」という漫画がとても好きな感じです。この漫画はアメリカのネバダ州でインディアンとともに育った桐柳道士郎が、父親に教え込まれた日本の侍像のままに成長を遂げ、(侍の姿で)日本に帰ってくるという感じの漫画です。道士郎は健助くんという何のとりえもなく体も小さくて喧嘩も弱い感じの少年を、とりあえずの使えるべき殿と認識することで、ひと悶着もふた悶着も起こすことになるのでした。

 

 世の中というのは上手くできていて、長いこと続いているものというのは大体バランスがとれている感じだと思います。多くの人々は持ちつ持たれつです。誰かに負荷がかかっていることも多いですが、その人はその負荷に耐えられる忍耐を持っていたりします。なぜならば、耐えられないならばとっくに逃げますし、逃げるなら長くは続かないからです。世の中は平等ではないですけど、バランスがとれているから、同じような日常が続いているわけです。もちろん永遠に続くわけではありませんが、それなりにバランスのとれた日常がそれなりに続いているわけなのです。悲しい話ですがその中で、虐げられるものは虐げられたままバランスがとれているのです。

 そこにやってくる道士郎は異端(バランスブレイカー)です。なぜならば、社会の外からやってきたからです。そして、その社会のルールも知りません。外部から持ち込んだルールしか知らないのです。そして、道士郎は郷に入っては郷に従うわけでもなく、自分の持ち込んだルールを誇示します。それは、(道士郎の考えるところの)武士であり続けるということです。

 

 道士郎は強いです。物理的に強いんです。だから彼は自分のルールを守り続けることができます。他の誰かに暴力をもってして、ルールを強制されることはありません。だから、それは虐げられることでバランスがとれていた人にとっては福音でもあります。自分が報われない世界を、自分が報われないことでバランスがとれているという悲しい世界を壊してくれる可能性があるからです。弱き者を虐げる人々を道士郎は「クズ」と言ってのけます。そして、殴る。

 

 一方、健助くんはとても弱いです。物理的に弱いんです。体も小さく筋肉もありません。もちろん喧嘩も弱いです。そのせいか性格も卑屈です。自分のことだけ考えたいなんて思っています。でも、彼は同時に優しいんです。誰かを助けてあげようと思ったりします。

 そんな彼が道士郎を手に入れました。それによって彼は少し変わります。ひとつはどんなにやられても道士郎という後ろ盾があることで復讐が可能であること。もうひとつは、この非常識なマイルールと非常識な強さを持つ男がいることで、日本社会の中の非常識なルールを持つ人々が、非常識な強さを持っていたはずの人々が、それぞれ少し常識的に感じられるようになったということです。それは、「グラップラー刃牙」において、地上最強の生物と呼ばれる範馬勇次郎が生まれた瞬間、世界中の全ての生物が強さのランクがひとつ下がったようなものなのです。

 

 おかげで、健助くんはおかしなことにおかしいと言えるようになりました。なぜならば、道士郎の存在によってハードルが下がると同時にジャンプ力を得ることができたからです。彼はそのおかしな人々を「クソ」と呼びます。これは強さです。健助くんは強くなりました。物理的な暴力には負けたとしても、決して屈さない心を手に入れました。僕はそれがとても格好いいと思いました。

 世の中には強い者と弱い者がいます。強い者がなぜ強い者かというと、弱い者に勝てるからです。だから、弱い者は強い者には勝てません。勝てたとしたら、それはもう強い者だからです。弱い者は強い者には勝負を挑みません。勝てない勝負を挑まないことは正しく、そして賢いからです。でも、心が揺さぶられるのは、そんな弱い者が負けると分かっていても、何かを守るために強い者に勝負を挑むことでしょう。少なくとも僕はそう感じるんです。

 

 健助くんだけでなく、その周辺の他の人たちもどんどん変わっていきます。それまではその社会で妥当であったことが、道士郎という異分子の存在で、妥当ではなくなるからです。「他人を虐げること」「与えられたルール上で安穏とすること」「見て見ぬふりをすること」、それまで「仕方がなく」「それが当たり前」であったことが、そうではなくなるからです。そして、それにより、この物語の中の人たちの多くは良い方向に変わっていきます。

 この漫画で特徴的に感じたのは、「人は言葉では変わらない」ということです。健助くんは不良の少年たちを説得しようと言葉を尽くしたりしますが、一切伝わりません。それは現実でも大体そうだと思います。人間が言葉で変わるところを、僕は見たことがありません。口先では納得したように言ったりもしますが、結局、行動は変わりません。なぜならば、行動は言葉よりも正直だからです。自分にとって一番都合が良いように動いてしまいます。だから、人の行動を変えるのは、変わることが自分にとって都合が良い状況が整ったときだと思うんです。この漫画では、それが数多く描写されます。

 

 道士郎や健助くんが途中から転入する開久高校は、同作者の「今日から俺は!」にも登場した不良高校生の巣窟です。教師は生徒の更生なんて諦めています。暴力が正しい社会です。彼ら彼女らは誰かに虐げられ、同時に他の誰かを虐げています。自分より強いものには従順に、自分より弱いものには示威的に振る舞います。健助くんは、クラスメイトを虐げる、強い人たちに反抗します。暴力では勝てないのに、どんな卑怯な手を使ってでも、彼らに抗います。すると、強い者に屈服し、長いものに巻かれる存在であった、他のクラスメイト達が健助くんのために戦うようになります。なぜなら、弱いのに自分のために戦ってくれる健助くんを大切だと思ったから、自分が暴力を振るわれること以上にそれが大事だと思ったからです。大事な人のピンチを見過ごすことは、もはや妥当ではなくなりました。

 

 実際の世の中では大体妥当なことしか起こらないと感じています。それぞれの立場の人が、それぞれの立場において都合が良く振る舞い、それでバランスがとれているからです。それが普通ですし、それをしない人は少しおかしいとさえ感じます。でも、だからこそ、そんな世の中で虐げられる側に回ってしまったら、この世は地獄かもしません。それゆえに、ヒーローを渇望してしまうのでしょう。多くのヒーローは外からやってきます。そして、既存の価値観(ルール)を壊してくれます。

 この漫画におけるヒーローは道士郎です。彼は直接的に(暴力的に)活躍もしますが、それ以上に、彼の非常識さが、閉塞感のあった社会のルールを少し歪めてくれました。それによって、その中で仕方なく当たり前のように生きていた人たちを間接的に鼓舞します。この漫画の中の社会は、話が進むにつれて良く変わります。それは、社会を構成している人々が自ら変わるからです。そうなれば、ヒーローがこの社会を去ってしまっても同じように続くでしょう。そこには新しい妥当性があるからです。

 

 この漫画の、こういうところに何だか希望を感じてしまうなあと思いました。だから、たまに読み返したくなりますし、実際一年に何度かは読み返しているのです。