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「火垂るの墓」の感想変遷

 アニメ映画の「火垂るの墓」が好きなので、何度も観ているんですけど、観ている年代によって全然違う捉え方をしてしまうなあというのが面白い感じがしたので、それを書きます。

 

 最初に観たときは子供の頃だったので、清太と節子の境遇に感情移入しながら観ていました。なので、親戚のおばちゃんは嫌な人でしたし、そこを抜け出して二人だけの生活を始めることは正義でした。頭の中もぼんやりしていた僕ですから、そのまま生き延びて幸せになるのだろうと思っていたら、節子は弱っていくし、そういえば最初に清太が死ぬところも描かれていたなあなどと、まだちゃんと物語の理屈なんかを解釈できていなかったので、なんだか分からないけれど嫌な話だなあと思いました。この映画で大人が泣いたりなんかしていたのを見たときにも、確かに悲しい話ではあるけれど泣くほどか??なんていう風に思っていましたし、全身にやけどをおったお母さんの絵面とか、蛙を食べているとか、野菜を盗んだあとの暴力とか、そういうショッキングなシーンを繋げて、なんだかショッキングな話だなあと思ったりした感じです。

 

 さて、ちょっと大人になってくると感想が変わります。多くの人がそうだと思うのですが、清太が沢山間違っているということが目につきます。親戚のおばちゃんが言うことも正論だと思います。学校にも行かず働きもせず、嫌なことからは逃げて、空襲のどさくさに着物を盗んだり、野菜を盗んだりする清太に対しては、犯罪だろうと普通に思います。あまりに無力な清太と、その巻き添えになって死ぬ節子に、なんて身勝手な話だろうかと思ったりします。何も分からぬまま、それでも兄を信じて弱って行く節子に悲しみを感じますし、それに何もできない清太に怒りすら感じます。一方、何度も観ることによって、台詞のギャグ化が自分の中で進みます。お気に入りは「滋養なんてどこにあるんですか」とか「堪忍して下さい、妹が病気なんです」なんていう、作中のそれなりに深刻な台詞を面白ワードとして生活の中で使ったりします。子供の頃と比べて、「火垂るの墓とはこういう話だ」という固定的な考えが生まれてきたので、そういうものとして心の中に置いておくことができるようになりました。

 

 さて、さらに年齢を重ねていくことによって、例えば自分より若い人の面倒をみることも増えてくるわけですが、そういう経験をへたことでまた違う感想を持つようになりました。それは、清太と節子はどうすれば幸せになることができたんだろうということです。そうなってくると、また親戚のおばちゃん達の言うことに疑問を持ち始めます。確かにその人たちが言うことは、その人たちの立場で正論ですが、子供を庇護する大人としてそれでいいのか??ということです。その中の誰かが、彼らを保護してやれば、彼らが死ぬことはなかったのではないかと思います。しかしながら、戦中戦後のそれぞれの人がぎりぎりの生活をしている中、それがどこまでできたことだろうとも思います。じゃあなんだ、どん詰まりじゃないか、選択肢もなく彼らは死ぬしかないじゃないかという理不尽に怒ったりしました。でも、もしこれが、ラストで何かの幸運で親切な大人に助けられて幸せになるというような物語であったならば、そういう気持ちは収まりつつも、この物語は自分の心にそれほど響かなかったかもしれないとも思ったりして、不幸な物語を求めている自分へ嫌悪を感じたりもしました。

 

 今、あの映画の中の物語に対して、何が不幸であったかと自分の中で整理されているかというと、清太と節子が裕福な家庭に育ったということであるということです。彼らの親は彼らに快適な生活を提供していたとともに、それなりのお金を残してくれました。だから、辛い思いをするということを拒否してしまいますし、そのお金を頼りにせっかくの頼れる大人の元を離れてしまいます。中途半端な裕福さが与えられ、しかも、それは自分自身で作ったものではないので消えものです。減る一方です。その先にあったのは不幸な結末でした。

 もし、彼らがもっと貧乏な家庭で苦労しながら生活をしていれば、彼らに生き延びる道があったのかもしれません。また、もし、彼らの親が最後まで彼らを庇護し続けることができたならば、当然のように少なくともあのような形で彼らが死ぬことはなかったように思います。

 

 何が悪かったのか?運が悪かったのか?そんな理解でいいのか?などという考えが頭のなかでぐるぐるするので、一度は至った「火垂るの墓とはこういう物語である」というものがまた壊されてしまったような感じがしました。今の考えでは、誰もそれほど悪くはなかったけれど、ああなってしまった。そして、世の中ではそういうことが多いと思います。

 

 そして、いかようにも解釈できる余地を残したこの映画はとても面白い作りになっているなあと思うということで、それは、物語がある種の正解に向かって行くように登場人物を配置し、ある種の正解を誘導するように言葉を喋らせ行動させているというよりは、ただあるがままに登場人物を描写しているからというように思いました。何かを表現しようとはしているというものの、一つの正解を提示したいというわけではないという風に僕が受け取っているということです。

 

 なので、僕がさらに年齢を重ねて、もっと多くの様々な社会的役割を経験することによって、またこの物語の捉え方は変わるのかなあと思ったりしています。また、観ます。