漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ヒミズ」と「普通」について

 記憶を元に書いているので細部が間違っているかもしれません(免責)。

 

 「ヒミズ」は古谷実の漫画で、「笑いの時代は終わりました。これより不道徳の時間を始めます」というキャッチコピーとともに、それまでギャグ漫画を描いていた古谷実が、明確にギャグでないものを描こうとした漫画のようです。

 

 主人公の住田くんは「普通」がとても良いことだと思っていて、普通に生きたいと思っている少年です。彼は自分の中に沢山の思いを持っているのですが、友人の夜野くん以外には、それを強く主張することもありませんし、内向的な感じの人物です。それは、とてもありふれていて、そして、僕もそんな感じの子供時代であったように思います。

 住田くんは普通であることが素晴らしいと考えます。それは自分の置かれている環境が少し普通ではないということの裏返しであるように思いました。川沿いのコンテナハウスに母親と住み、貸しボート屋を営んで生活をしています。父親は離婚して、たまにお金を借りにきます。住田くんはそんな両親を良いと思っていないようです。だから、自分は普通にまともに立派な人間になろうと思います。しかし、おかしなことに、他の人には見えない謎の化け物も見えたりします。自分がおかしいんじゃないかと思いながら、それでも普通でありたいと思います。

 

 「普通」であるということ、「平均的」であるということ、それは幸福なことであるように思います。普通であるならば、普通の人が経験する成功や失敗や、幸福や不幸が大体同じようにやってくると思えるからです。自分以外の多数の人が、できていることは、大体自分にできることが期待できますし、他の人も経験している不幸は、自分にも乗り越えられるはずだと思えます。もし、自分が普通でないならば、普通の人にできることができないと感じてしまうかもしれません。そして、そうなれば、未来に期待もできないかもしれません。未来は決まっていませんから、ポジティブに考えようがネガティブに考えようがどっちでも良いと思うのですが、もし、普通でないならば、参考にできる先人も少ないので、漠然とした不安が払拭できませんし、ネガティブに考えてしまいがちな要素が多くあると思います。

 自分が普通ならば、普通の人生が期待できますが、そうでないならば、その限りではないということです。

 

 前作にあたる「グリーンヒル」では、この逆で、主人公は自分がまったく平凡であるという悩みを持ちます。安全な牧場の真ん中で草をひたすら食べているような毎日に、これで良いのかという不安を抱きます。そこに、親に捨てられた他の人が、その安全な柵の中にいるということがどれほどに幸福であるのかということを説くわけですが、その言葉はグリーンヒルの主人公には今一つ届かないのでした。そして、本作の住田くんの物語はその柵の境界のあたりからスタートします。

 

 (ネタバレが入ります。)

 

 普通であることは安心です。それは、普通でないことが分かって初めて気が付くようなものですが、住田くんはそれにすがりたいと思っています。立派な人間になるということを望みます。しかし、それはある日崩壊してしまいます。住田くんの母親は、彼を捨てて駆け落ちし、そんな母親にお金を借りにきた父親を、彼は衝動的に殺してしまうのでした。彼の父親は、彼が最も嫌悪する、立派ではない、普通ではない人間だったのでした。父親を殺した住田くん自身もまた、そうなってしまったのでした。

 

 立派でなく、普通でなく、望んだ通りに、願った通りに生きられなかった住田くんの未来は真っ暗闇です。普通でない人間の行き先は、普通の人とは違うからです。彼と同じ「普通でなかった」父親は、息子に殺されてしまいました。彼は彼なりに考えた結果、自ら死ぬことを考えます。しかし、その前に、少しでも世の中に役立つように、「悪人」を殺してから死のうと思うのでした。包丁を片手に、悪人を探す日々。その過程で、何人かの人と関わり、死ぬ以外の道を提示されます。中でも、強く深く関わってくれるのは、茶沢さんという同級生の女の子でした。彼女はこの物語の救いです。住田くんのことを好きである彼女は、彼に決して真っ暗闇ではない未来を提示してくれます。そして、住田くんもそれを信じたくなります。

 

 しかし、住田くんは自殺してしまうのでした。死ぬ寸前、彼にしか見えなかった化け物が、彼に「無理だ」と「決まってるんだ」と告げるのでした。誰の言葉も、彼にそれを踏みとどまらせることはできなかったのでした。茶沢さんは、住田くんの死体を発見し「なにそれ」と一言もらして、この物語は終わります(単行本ではこの台詞は省かれていますが)。それは、読者として読んでいた僕の感想とも同じだったのでした。

 

 彼にしか見えなかった化け物は、彼が自分が「普通ではない」ということを象徴する存在であったと思いますが、その普通ではないことが彼に自分自身を殺す背中を押すことになります。少なくとも住田くんの中で、この結末はなるべくしてなったものであり、避けられなかったことであったようです。そして、それがとても悲しい話です。

 このような表現は、例えばこの後に描かれる「ヒメアノール」における連続殺人犯、森田にも訪れます。森田が感じた、自分が他の人間とは決定的に違っているということに気づいてしまう悲しみは、彼が沢山の人を殺した罪を免責するものにはなりえませんが、もし、自分の本能が「お腹が空いたからご飯を食べる」というのと同じレベルで「自分の利益のために容易に他人を殺す」というものであった場合、その選択の余地は極めて少なくなります。本能のままに人を殺すか、お腹が空いたのにご飯を食べれないというレベルの苦痛に耐えるか、他の人間の存在しない世界へ逃げるかというものです。

 他の人間が存在しない世界とは、自分と似たような性質の人間だけで構成された別の世界、たった一人自分だけしか存在しない無人島生活のような世界、あるいは死後の世界です。森田は人を殺すしかなく、住田くん別の世界に行くしかなかったということなのではないかと思いました。

 

 森田も住田くんの例として扱うには極端ですが、この種の苦しみとその悲しみは誰にでもあるように思います。完璧な人間も、何もかも完璧にダメな人間も存在しないように、完璧な普通も存在しえないと思うからです。それぞれの人は少なからず、自分が望むことを押し殺して、社会の中に留まります。生まれながらに概ね普通である人間はその苦痛が少なくてすみますが、そうでない人間は沢山の苦痛を感じながら社会に留まることを強いられます。

 

 それは果たしてどうしようもないことなのでしょうか?もっと良い道があったのではないかと考えてしまいますが、僕にはとんと思い浮かびませんでした。そして、僕もまた、自分の心が望むことのいくつかを押し殺しながら社会との整合性を保っています。自分の子供っぽい趣味だとか、面白いと思って調べている怪しげな話などは、それを受け入れてもらえる場所以外では、決して表に出さずに過ごしています。僕は割合普通な方だと思いますが、それでもしんどく感じることはあるので、もし、もっとずっと反社会的と目されるような欲求を持っている人がいれば、それはとても辛いだろうなと思います。

 

 「ヒミズ」の映画が公開されたとき、その結末が、漫画と同じではないということを聞きました。なので、このどん詰まったような物語に、もしかして、他の道もあったのかと期待して観に行ったのですが、その期待にはある種応えられ、ある種応えられなかったように思いました。映画の住田くんは生き延びます。でも、映画の住田くんは漫画の住田くんとは少し違う存在であるように思いました。違う存在であるならば、違う結末もあり得るので納得のできる話と思います。それはそれで良い話です。

 

 ただ、漫画の住田くんが生きられる世界というものはどこかに存在するのかを考えます。あの行き場のないようなどん詰まりに、あれ例外の選択肢があるのかどうなのかを考えます。それは、多かれ少なかれ普通よりも普通でない人間にとって、その選択肢があるということを信じれるかどうかという話です。それがないとなると、とても悲しいので、どこかにあることをただ信じてやみません。