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「南泉斬猫」について

 「仏に逢うでは仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」と「臨済録」にはあるそうです。この言葉にも色々な解釈があるようなのですが、代表的なものの一つは、悟りに至るということは、他人の言葉を受け売りして学ぶことではなく自らが辿り着くものであるので、そこに現れる外部的なあらゆるものは邪魔なものでしかないという感じだと読みました。

 

 僕の生まれ育った家は真言宗の檀家だったものの、僕自身は仏教徒ではないのですが、仏教の本は読んでて面白いのでたまに読んでいます。でも、なんだか本によって書いてあることがまちまちなので、いまだに仏教がなんなのかということを上手く言葉にできません。

 

 中でも禅宗の考え方みたいなものはとても面白く、そしてその中には「不立文字」という考え方があります。それは、釈迦は座禅を組んで悟りに至ったのだから、我々もそれを言葉に置き換えて解釈などせず、座禅を組んで悟りに至ろう!!みたいな感じのようです。今でいうドキュメント整備するより、OJTで頑張れ的な感じで、良いのか悪いのかは判断に困りますが、ドキュメントだけ読んでいても実際に実務をしなければ重要なことが分からないことが多いということはその通りだと思いますし、下手なドキュメントを読んでしまうと誤解を重ねることもありそうです。

 

 ただ、言葉にすんなや!という教えがあることで、今現在言葉にならないことも、まあそれで良いかと思ったりもするので楽な感じもします。分かっているのか分かっていないのかも良く分からなくなるからです。

 

 禅宗には「公案」、俗に言えば禅問答というものがあります。大体が変な質問で、文章の中にいくつも矛盾があるような、単純に答えがでるようなものではないものなのですが、だからこそ、簡単に答えがでないですし、考えることになります。この考えることが重要なのかなあと思ったりしました。

 

 でも、世の中には公案の解説本みたいなものもあって、結局言葉にしている上に、他人の言葉を読んでそれを理解しようとしているというその行為自体が悟りから遠い感じがするので、なんなんだろうこの解説本というものは!!などと思うのですが、いかんせん公案の文章は意味が全然よく分からないので読んでしまいますが、結局読んでもよく分からないので、まあこれはこれでよいかと思ったりもしました。

 

 その変な話の中に「南泉斬猫」というのがあります。これは南泉さんというお坊さんが、猫を取り合う二人の僧を見て、「てめえら、取り合っているんじゃねえ、なんか気の利いたこと言わねえと猫を斬り殺す!!」などと意味不明なことを主張し、結局何も言えなかった二人の僧を見て、猫をマジで殺してしまうのです。その後、趙州という坊さんがその話を聞いて、「お前だったらどうする?」と問われた結果、履いていた草履を頭に乗せてすたこらさっさと去るという行動をとります。そうすると南泉さんは「趙州があの場にいれば、わしは猫を斬り殺さずに済んだのに」などと言うという話です。さて何故か??

 

 分かりません。

 

 ただ、なにか趙州さんが草履を頭に乗せてどこかに行くという感じがコミカルな感じで愉快なので、猫は可哀想ですが面白くて印象に残る話です。僕も誰かに無茶を言われたときには、頭にサンダルを乗せて去りたくなります。

 

 これについては、全然分からないものの、分からないなりに考えてみようと思ったのですが、これはもしかすると、「仏に逢うたときに仏を殺せるか?」みたいな話なのかな?と思いました。南泉さんが猫を殺すというのは意味不明ですから、僕が争っていた僧侶の立場ならば「殺すなや!」の一言で終わりです。でも、争っていた僧侶たちは、「何かを言わなければ猫が殺されてしまう」という言葉に囚われてしまいますし、だからこそ何も言えなくなってしまいますし、それゆえに猫が殺されてしまいます。悟りに至るという意味では、上下関係などなくフラットな関係であるはずのお坊さんたちですが、いつの間にか教える側(ルールを強要する側?)と教えられる側(ルールを強要される側?)という勝手なマウンティングにひっかかり、悟りに至る上では邪魔なものに囚われてしまっているというのがダメだったんじゃないかと思いました。一方、趙州さんは、質問に答えないし、わけのわからない独自の行動をとります。この「お前の言うことなんて聞かんわ」感が良かったのかなと思いました。

 

 実際には、明示的な答えはないですし、僕は聞きかじりしかしていないので、仏教とか禅宗とかの細かいことは分からないので、全然的外れなことを言っているのかもしれませんが、答えがないことを考えるというのは楽しいなあと思ったので、公案の本とかを読んでぼんやりとぼんやりとしたことを考えたりしています。

 

 学校の勉強なんかは答えがあることを分かっていてやっていたので、出題者の意図を考えるとかそういう方法もあった感じですが、世の中の問題というのは答えがない感じのことが多かったりします。以前、大学の先生とかと話をしていたときに、最近の(最近に限らない気もしますが)学生は、先生が答えを知っていると思って、それを探ろうとしてくるからダメで、研究に関しては俺も答え知らんのに探られても困るわみたいなことを言っていました。答えのある問題を考えるときには、それは有効な方法なんでしょうけど、誰も答えを知らない問題を考えるときにはそれは意味がありませんし、時間の無駄っぽいです。でも、思い返してみれば、答えのない問題を考える訓練を受ける機会って学校の勉強ではあまりなかったような気もしますね。

 

 そして、このインターネットの検索が非常に簡単かつ便利になってきた昨今、何かニュースがあると、それをどう解釈するべきか自分で考えるよりも、誰かが何かそれらしいことを言うのを観測して、それに乗っかるのが勝率高そうですし、どんどん何も考えない方が楽っぽくなったりもするのかもしれませんし、何かの漫画とか映画とかを見たときにもそれを面白いと言っていいのか悪いのか、様子をうかがっている人も結構いる気もします。僕自身、他人に決めてもらいたい感じとか、自分で決めることの責任とれなさの怖さとかそういうのはすごい分かるので、そうかもなあという感じと、それでよいのだろうかなあという気持ちが入り混じる感じです。

 

 だからと言ってどうするのがいいのかとか分かりませんが、とりあえず座禅でも組んでみるのもいいのかもしれません。そういうのを「只管打坐」と言うらしいです。よく分かっていないので間違っているかもしれませんが。