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かぐや姫の物語とハーモニー

 かぐや姫の物語のことをぼんやりと考えていたんですけど、伊藤計劃のハーモニーと頭の中で繋がったので、それについて書こうかと思います。

 

(両作品のラストのネタバレが含まれますので未読の方はお気をつけて)

 

 伊藤計劃のハーモニーはとても面白い小説なのですが、設定がややこしくて説明はめんどうくさいのでちゃんとはしません。この小説の設定の中には「受動意識仮説」という考え方が取り入れられていて、それはざっくり言うと自分が認識している自分の意識というものは、もっと奥底にある無意識の自分を観測しているに過ぎないのでは??みたいな考え方です。例えば時限爆弾の赤いコードを切るか、黒いコードを切るかを判断しなければいけないとき、意識が「赤だ!赤を切れ!」と思ったタイミングよりも実は無意識が赤を切ることを判断したのが時系列的には早くて、意識はそれを追認しているだけではないかという感じです。つまり、意識が主だと思いきや、実は従なのではみたいな感じの話です。

 

 作中でも「意識」とは何か??みたいなことが語られるのですけど、それはある種の合議制のようなものとして語られていて、時に矛盾するような意見を持つ小さな自己(エージェント)が、自分の中には沢山あり、それらの合議で決まった事象を最終的に意識が観測して、自分の意見だと思っているというような感じです。そういった矛盾したものを背後に孕む、葛藤という名の「ゆらぎ」みたいなものこそが意識であり、もし、そのゆらぎがなく、つまり合議ではなく独裁で決定されていれば、意識と無意識の差はなくなりますし、人間は生存という事象に対してひたすらに合理的にあるがままにある感じになります。

 

 作中の言葉をそのまま引用すれば「すべての選択に葛藤がなく、あらゆる行動が自明な状態」です。「ハーモニー」は、科学技術の力により人類が「意識」を失ってしまうという結末を迎えてしまいます。

 

 それはある種の幸福なことだと思います。なぜならば、無意識レベルの願望と、意識レベルの判断の乖離が大きい場合、例えば「ラーメンを食べるべきか?」という議題に関して、脳内で「ラーメンは美味しいので食うべき」が45票と「ラーメンは太るからダメ」が55票みたいになった場合、45票も獲得した「食うべき!!!」という願望が意識レベルでは却下されてしまいますし、45%の自分にとって願望が満たされなかったことがストレスとして蓄積されてしまうのだと思うからです。これが独裁的な力により「食うべき」0票、「太るからダメ」100票という感じに全会一致に決まってしまうのであれば、言い換えるなら無意識と意識の差がなくなるのであれば、否定される内的欲求がなくなりますので、ストレスフリーな感じになると思います。

 

 「意識」がなくなることで人間が沢山の悩みや苦しみから解放されるのであれば、それは良いことであるかのように思えます。そして、それはとても合理的で美しい世界なのだと思います。しかしながら、多くの物語で描かれるように、その悩みや苦しみこそが人間そのものなのではなかったのかという風に僕には思えてなりません。

 

 さて、前提の説明が終わったところで、「かぐや姫の物語」なのですが、かぐや姫は月の住人であるものの地上に憧れてしまいます。作中のラストで仏教的な装飾とともに描かれる月の世界の住人は、理性的で整然としたものであるように見えました。月世界は、仏教的に言えば皆が悟りに至った状態、つまり、人間が人間であるがゆえの、悩みや苦しみ(煩悩)から解脱した世界であるように思えました。これを「ハーモニー」における「意識のない世界」と、僕は重ねて見てしまったのでした。

 

 そんな完璧に整った「意識のない世界」の住人であったかぐや姫が、猥雑で不完全な「意識のある世界」であるところの地上に憧れてしまうということが、かぐや姫がおかした「罪」であり、地上に落とされて、地上に存在する「意識があるがゆえの喜びや悲しみ」を全力で味わうことがかぐや姫が受けた「罰」と言えるのではないかと思ったのです。そして、そんなかぐや姫は、その「意識のある」生活における辛さや悲しさを経験することで、うっかり月に助けを求めてしまいます。

 

 月からすれば「どうだ分かっただろう?お前が憧れた地上における『意識のある生活』というものは、こんなにも辛いものだ。また月の『意識のない生活』に戻るが良い」と言ったもんです。

 

 月のお迎えを背にしたかぐや姫は、今まさに奪われようとしている「意識」によって地上の生活の素晴らしさを語ります。地上は汚れてなんかいないと主張します。辛いことも悲しいことも、嬉しいことも楽しいことも、それを全て全力で味わうことこそが人間の生活であるということだと思います。しかしながら、かけられた羽衣によってその記憶と感情は奪われ、またもとの「意識のない生活」に逆戻りです。そこには辛さも悲しさもない、しかしながら、嬉しさも楽しさもないのです。

 

 ということで、思いつきで両作品をガッチャンコと繋げてみたら、「ハーモニー」は「かぐや姫の物語」の前史として、色々しっくりきたような感じが僕の中でしたので、それを披露してみました。

 

 「かぐや姫の物語」という映画は、「竹取物語」では詳細に描かれることのなかった、「人としてのかぐや姫」を描いた映画であったように思います。原作にあるエピソードのそれぞれの中で、かぐや姫はいったい何を感じたのか?その感情的な部分を、つまりは、かぐや姫の「意志/意識」を、監督が埋めたものなんじゃないかと思うのです。しかし、その感情は最後に剥奪されてしまいました。この、「意識」を与えられ、「意識」を剥奪されたというのは実は物語の内容だけでなく、「意識」の欠けていた「竹取物語」に「意識」を与えて「かぐや姫の物語」となった!!というように、このアニメ映画そのものにメタにかかっているんじゃないのか??なんてことを今唐突に思いつきました。

 

最初から考えていたように読んで頂けますと幸いです。