読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

うまるちゃんとかぐや姫の物語

 昨日、「干物妹!うまるちゃん」の2巻を買いました(ハチワンダイバーとイノサンの新刊も一緒に買いました)。雑誌でも読んでいるけど、相変わらずうまるちゃんが可愛くて非常に良いですね。

 

 うまるちゃんは外面はしっかりしているけれど、家ではだらしなくて子供っぽいワガママなオタクライフを送っている女の子です。だらしないうまるちゃんはお兄ちゃんのタイヘイくんにワガママばかりを言って、タイヘイくんはときに怒りながらも、うまるちゃんに優しく接するというお話です。

 

 読んでいて頭の中で連想的に色々と他のものとかに繋げてみてたんですけど、その中のひとつが先日映画館で観たジブリの「かぐや姫の物語」でした。

 

 かぐや姫の物語で印象的だったのは、かぐや姫が周囲から求められる役割と、かぐや姫がそうありたいと望む姿のギャップの狭間で苦しんでいるという描写です。翁はかぐや姫を「高貴の姫君」にしたいと思っているのですが、高貴の姫君とはこういうものであるという枠組みをかぐや姫は窮屈に感じてしまいます。かぐや姫が不幸であるのは、そのように周囲にもとめられた姿を十分に演じられるだけの才覚があることです。結果としてかぐや姫は、望まぬ姿を演じ続けるはめになります。それは楽しくはなさそうです。

 

 求婚をしてきた男たちは、誰一人としてかぐや姫自身が認識しているのと同じ「かぐや姫」を見ていないんです。彼らの心の中にいるのは、噂などからそれぞれが勝手に構築した、理想化されたかぐや姫の姿であるのだと思います。彼らが望むのはかぐや姫自身ではなく、かぐや姫という存在につけられた属性の方なのだと思います。それはかぐや姫にとって幸福なことではないように思います。さらに、彼らがかぐや姫のために持ってきた贈り物は皆ごまかしでした。手を抜いたごまかしを代価に、求婚を迫ることは不誠実です。帝に至っては、自分のことをかぐや姫が好くということを当然のこ とのように考えています。ひとりの人間としての意思を確認されることはありません。誰もが自分勝手です。誰もがありのままの自分のことを見てくれません。それはもしかするとお互い様な話なのかもしれませんが、とても悲しいことです。

 

 誰かのための自分ではなく、自分のための自分でありたいということは誰しも持っている願望なのかもしれませんが、社会というものは人と人が関わりあうことで作られているために、常にそうあれることはなかなか難しいです。例えば、仕事は一般的に他人が喜ぶことをしてあげることで対価としてお金を貰えます。自分が喜ぶことをしてお金を貰うには、たまたまそれを誰かが欲してくれるという幸運に恵まれなければいけません。なので、誰しも、他人の望む演じた自分と、自分の望む自分自身を切り替えながら生きているのだと思います。それが幸運にも一致すると幸福で、それが不運にも全く乖離していると不幸なんだと思います。

 

 かぐや姫はとても魅力的な女性であったために、多くの人たちによる「そうあってほしい」という願望を投影されてしまったんじゃないかと思います。そして、結果として、かぐや姫は自分に求められる「かぐや姫像」に疲れてしまい、地上の俗世に疲れてしまったことが、月からの迎えを呼ぶきっかけとなってしまったのでした。

 

 地上に憧れたかぐや姫にとって、それはとても悲しいことであったなと思います。

 

 さて、うまるちゃんですが、うまるちゃんも外では誰にも好かれる感じの良いお嬢様風に振る舞っていますが、家ではだらけたオタクです。なぜならば、家では誰にも良い外面を求められないからです。お兄ちゃんのタイヘイくんはダメな自分をなんだかんだと許してくれるからです。これは人間の一番自由な姿なんだと思うんです。ありのままにあることと、それを受け入れてもらえること。それはとても幸福な世界なのだと思うんです。うまるちゃんはワガママですが、うまるちゃんは頭の良い子なので、それをを受け入れてくれるお兄ちゃんにしかワガママを言いません(正体を隠して接しているキリエちゃんには多少言いますが)。この関係性がこの漫画のとても良いところだなあと思いました。タイヘイくんとうまるちゃんの関係性がとても心地よいので、読んでいる間はとても幸せな気分になれます。

 

 他人の望むようにでなく、自分が望むとおりに生きられる環境があったのだとしたら、もしかすると「かぐや姫の物語」にも違う結末が訪れていたのでしょうか。