漫画皇国

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「聲の形」の映画を観たので、漫画も読み直した関連

 「聲の形」の映画を観たんですが、アニメだからこそできる部分、つまり色のついた絵が動き、音があるということで、原作では漫画というフォーマットであるために表現が難しかった部分も描かれている感じがして、とても良かったです。

 

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 聲の形は、耳が聞こえない少女、西宮硝子と、小学生時代に彼女を虐めてしまった少年、石田将也が、高校生になり、互いに相手と自分自身を理解しようと孤軍奮闘する物語だと思います。漫画で全7巻の物語を映画の尺に収めるために、原作にあったシーンを色々端折ってはあったのですが、物語の本筋としては原作から不足するところなく描かれていたと感じました。

 アニメになって絵が動くということは手話がより描きやすいということです。音があるということは、西宮さんが発する上手く発音できない言葉が聞こえるということです。そしてなにより、この映画を観ている自分に聞こえているあらゆる音は、西宮さんには(補聴器によって全くというわけではないものの)聞こえていないのだということがより明確に感じられるということです。

 

 さて、映画の物語は、原作漫画とは少し異なる描かれ方がしていると思いました。なぜなら、物語の視点が石田くんよりも西宮さんの方に寄っていたと感じたからです。原作の方の序盤では、石田くんが西宮さんのことを見る徹底的に主観的な視点が描かれていて、それによって、耳が聞こえず、言葉を上手く喋ることができない人との交流の難しさが浮き彫りになるわけです。

 しかし、映画では、最初から視点が西宮さんの方にも寄っていたように思えました。もちろん、その内面がモノローグなどで明確に描かれることはないですが、いくつかのシーンの追加や、表現の追加によって、この子は今何を感じで、何を考えているんだろう?と思い、それを考える手がかりのようなものが多く描かれていたように思えたのです。

 

 というか、小学生時代の最初の手話のシーンで、僕は既にボロボロ泣いてしまっていました。なぜかというと、西宮さんが自分の持っている耳が聞こえないというハンデがあるのに、いや、そのハンデがあるからこそ、それを乗り越えていくために、自分から積極的に他人と関わって行こうとしている姿が見て取れたからです。そして、それがこの先どれほど困難なことであるかについて思いが走り、感情が溢れてしまったのでした。

 

 彼女が手話で伝えようとしたのは、「友達になろう」ということで、それは、手話ができない小学生時代の石田くんには理解できないものです。しかし、見ている僕は原作既読なので、伝えようとしていたことが分かるわけです。彼女が伝えようとしたその言葉が、まるで届かなかったということをも分かるわけです。

 その後のシーンではもっと残酷です。彼女はある理由から、聾学級ではなく、一般の学級で学ぶことを希望しました。そして、その際の象徴となるのが、文字によって級友と交流するためのノートです。しかしながら、それらは全くの裏目にでてしまい、些細な切っ掛けから、彼女は孤立し、イジメの対象となってしまうのです。ノートは彼女が、耳の聞こえる人たちと交流をしようとしたという気持ちの象徴でしょう。そのノートを池に捨てられた彼女は、一度は拾おうとしたものの、結局そのままそこに捨てていってしまいます。

 他人と関わろうとしたこと、そのために頑張ったこと、それらは全て徒労に終わっただけでなく、裏目に出てしまい、仲良くなれなかっただけでなく、嫌われてしまいます。そして、彼女はそれを自分のせいだと思ってしまったのではないでしょうか?そう思うために理由を付ける方法はいくらでも見つけられます。

 「ありがとう」と「ごめんなさい」、彼女はこの2つの言葉を多用して、どうにか耳が聞こえる人たちの中に溶け込もうとしました。しかし、それは必ずしも良い方法とは限りません。それらは、使い勝手が良い便利な言葉だからです。相手が自分の言葉を理解するのに歩み寄りが必要なように、自分も相手の言葉を理解するためには歩み寄りが必要です。便利な言葉は、その過程を省いてしまいます。自分は相手に理解してもらえなかったということは、自分も相手を理解しようとできなかったという理由付けで相殺されてしまうかもしれません。

 この悲しさは、最初から相互理解を諦めていれば起こらなかったことです。困難であることは分かっていたことなのに、進もうとしたこと。それが、やらないほうがよかったという結論に至ってしまうことはとても悲しいことです。ノートを捨てたことは、諦めでしょう。自分がハンデがあるなりに他人と関わろうと頑張ったことへの、誰かと分かりあおうとすることへの諦めです。頑張りきれなかったということです。それは、一度は頑張ろうとした自分に対する否定なのです。

 

 僕は、求めれば求めるほどに、逆に遠くなってしまうという光景をとても悲しく思います。そういうとき、最初からやらなければよかったと思ってしまいます。しかし一方、何もしないままではさらにどんどん状況が悪くなってしまったりもします。

 「最強伝説黒沢」では、いい歳した大人なのに、どうにも人間的にダメで、周囲の人々にそのダメっぷりを見られまくってしまう黒沢さんが、皆に対して「俺を尊敬しろ」と絞り出すように言うシーンがあります。これも本当に心にグサグサくるシーンなんですが、自分を尊敬しろというみっともない大人が、尊敬されるはずがありません。でも尊敬されたかったわけでしょう。そして、それが手に入らないことがとても悲しい。でも、最初から諦めていればよかったのでしょうか?それは望んではならないことでしょうか?

 

 原作漫画では、西宮さんの心の中は、後半になってやっと描かれ始めます。それまで彼女が何を思っているのか?困ったような、噛み殺したような笑いを見せる真意はなんなのか?彼は石田くんのことをどう思っているのか?それらは、終盤になるまで物語の枠の中に入ってきません。それは、読者が石田くんの視点で、彼女のことを見ることで、分からないということ、しかし分かりたいということ、そして、それがとても困難であるということを体感できるような構成になっているからだと思います。

 終盤に起こるある悲劇的な場面において、当時連載で読んでいた僕には、その時点で彼女がなぜそこまで思い詰めていたのかということを上手く理解できませんでした。そして、その理由は、そこから先のお話を読むことで、なんとなくわかったような気持ちになります。

 

 原作を読んでいたこともあり、演出上の違いもあり、映画では、序盤の高校生になった石田くんと西宮さんの再会のシーンで、もう西宮さん側の気持ちのことを考えていました。西宮さんの視点からすればこの、石田くんが「友達になれないか?」とやってくる光景は、かつて投げかけて、届かず、諦めた自分の声が、少なくとも1人には届いていたことが分かったというものだと思います。それは一度は諦めてしまったこと、かつての自分がやろうとしたことが無駄ではなかったということです。それはとても希望のある場面ではないでしょうか?

 しかし、同時にある疑念も生まれるはずです。この関係性は、相手が自分に抱いた罪悪感によって成立しているだけのものではないのかと。もし、そうだとすればそれは最初に望んだものではないはずです。

 

 一方、石田くんからはまた全く別の光景が見えていたと思います。かつて、他人の視点に立ってものを考えることができなかった未熟な自分が、理不尽に傷つけてしまった相手への謝罪です。それは受け入れてもらえますが、だからといって石田くんの中で終わったことにはなりません。かつてあったことは、なかったことにはならないからです。それを後悔しているならなおのことです。石田くんは、ここから先、自分は本当に許されていいんだろうか?ということを考えなければならなくなります。

 

 読み切り版ではここはエンディングでしたが、連載版ではようやくスタートの場面です。他人の心はわかりません。言葉をいくら尽くして分からないこともあります。言葉がなかなか通じないならばなおのことでしょう。石田くんと西宮さんは、友達になろうと言ったものの、本当に友達になれたのか、その確証を持てぬまま、お互いの言葉が本当に通じ合っているのかもわからぬまま、関係性を模索していくことになります。

 

 さて、西宮さんの視点でこの物語を見たとき、つまり、音がない状態でこの映画を見た仮定したとき、その場面場面の内容が理解できるでしょうか?ある程度は分かるかもしれません。でも、分からないことも多いはずです。

 例えば、誰かと誰かが口論をしているとき、その内容も分からず、そして、気を使われて、それが何故であったかを教えられなかったとしたらどうでしょうか?想像の余地は言葉が聞こえるときよりもずっと大きく、それは疑心暗鬼となるための入り口となってしまいます。そして、何より、自分以外の人たちは声による言葉で話しあっているのです。分かっていないのは自分だけです。それは深い孤独です。

 それは耳が聞こえないという状況であることで、より輪郭がくっきりとしてきますが、誰しも少しは持ち合わせているものではないでしょうか?

 

 原作も映画も含めて、この物語はとても誠実に作られているように感じました。なぜそう思うかと言えば、物語を通じて一足飛びに結論に至れるような絶対的な正義のモノサシが登場していないと感じたからです。"正しい"考えによる"正しい"答えは、そのモノサシに沿う者だけを肯定し、そのモノサシに沿わないものを否定してしまいます。誰かが悪く、その悪い誰かが断罪されて終わるのは、分かりやすくてすっきりしますが、それはそんな現実にはめったにない理想的なモノサシを登場させているからそうなのであって、そのようなモノサシが存在しないのが当たり前の世の中では、そのような分かりやすい帰結とはならないという事実を浮かび上がらせてしまいます。

 この物語に登場する人々は、誰しもその主観において正しく、客観において何らかの間違いも抱えています。だからこそ分かりあうのが難しい話でしょう。だからこそ、分かりあおうとすることが尊いことでしょう。そしてそれは上手く行くとは限らないものでしょう。

 

 僕はこの漫画の読み切り版(特に週刊少年マガジン掲載版)を読んだとき、慰撫されたような気持ちになったのですが、それは自分がもつ加害者の側面に対するものだと思います。自分が犯していた過ちに気づいたこと、そして、それを後悔し、新たな関係性を築きたいと思ったことは、過去の罪悪感を和らげてくれます。

 そして、連載版では、可哀想な被害者という一面的な視点から変わって、そのとき、一人の人間としての西宮硝子は何を感じていたのかが描かれ、こちらにも共感する部分があることに気づきます。

 誰しも自分の中に加害者と被害者を両方持ち合わせているでしょう。自分の行動や発した言葉が、一度も誰かを傷つけなかった人はいないでしょうし、同様に、他人の行動や発した言葉に傷つけられたこともあるはずです。加害を肯定するなら、被害者の落ち度を指摘してしまい、被害を肯定するなら、加害者の責任を追及してしまいますが、どちらの態度をとっても、冷静に考えてみれば、何かしら自分自身の悪いところもまた指弾してしまうのではないでしょうか?

 聲の形はその両面をグラデーションのように描いていて、どちらも正しく、どちらも間違っているように描いていて、そこにあるのは、だとしても「他人と関わることを諦めない」ということではないかと思いました。

 僕自身は結構すぐに人間関係を諦めてしまうので、これは手厳しいなと思ってしまいますが、読後感としては、それを肯定するでも否定するでもありません。ただそうであることを自分自身が意識するということに注意が向いた感じであったのでした。

 

 あと全然関係ないですが、西宮さんの妹の結絃が制服を着て登場したシーンで「どうでい、どうでい」と見せびらかすシーンがめっちゃ可愛いなと思いました。