漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

頭が暇になると何も続けられない関連

 何かを続けられないこと結構あるんですけど、そういうとき自分にどういうことが起こっているのかと思っていると、退屈をしているのではないかと思っています。

 

 じゃあ、退屈って何かなと思うんですけど、僕の考えでは脳みそのリソースが余っているということです。目の前にある情報を処理するのに、自分の能力のごく一部しか使わなくてもいい状態が続くと、脳みそが暇になってしまいます。暇になるともっと暇にならないことをしたいと思って別のことをしちゃうんじゃないかと思うんですよね。それが何かを続けられないときには起こっているんじゃないかと思っています。

 だから、何かを続けたいならそんなふうに退屈にならないことが重要じゃないかと思いました。

 

 退屈にならないためには、目の間に情報が十分あるようにすることです。例えば、静止画と動画では、動画の方が長時間見やすいのではないでしょうか?それは目の前に絶えず変化する情報があるからだと思うんですよね。

 一方で、同じ静止画でも「静止画の中に南原清隆が目立たないように仮装して隠れている」と言われたら、しばらく見続けることができるかもしれません。それはその静止画の持つ意味が変わるからです。人が隠れていると言われたら、木々や岩壁の模様を細かく見ていくことが必要になってきますし、その意味で見るべき情報が増えています。

 

 絵画やスポーツを長時間見れる人と見れない人がいます。それは例えば、絵を描く人であれば絵画の筆致を追ったり、全体のバランスを見たりと、自分がその絵から読み取るものを沢山探せたりして長時間見ることが退屈ではなく、スポーツが好きな人であれば、細かいプレーのひとつひとつから何かしら情報を感じることができて退屈ではないのではないでしょうか?

 スポーツが分からない人ならば、試合を見て分かるのは点数ぐらいです。点数だけに着目すると、例えばサッカーでは90分の試合の中で数回ぐらいしか注目ポイントしかありません。その何十分に1回しか来ないタイミングのために情報量が無の画面を見続けるのは退屈じゃないですか?退屈でしょう?

 そして、退屈になったら人はそれをやめて別のことをやりたくなってしまうんだと思います。

 

 歩きスマホもこの理屈で説明ができて、歩いているときには頭が暇なんだと思います。スマホを開けば情報が洪水のように出てきますから、何も見ずに歩くのはやめて、スマホを見て歩いた方が退屈をしませんね。だとすれば、歩きスマホをやめさせるためには、単純に「歩きスマホを止めろ!」というよりは、歩道をスマホを見ない方が情報量が多い環境にすれば自然に止めるように誘導できるのかもしれません。

 それがどういう方法なのかは分かりませんが。

 

 情報量を増やせば、人は退屈せずに離脱しないというのは、YouTuberの動画にも見て取ることができます。YouTuberの動画でワンカットを動作の最後ではなく途中で切り取って、次のカットに繋げるような編集がされているのをよく目にするからです。

 つまり、動作が終わるフォロースルー的な部分には情報量が少ないので、ざっくり切ってしまい、余韻を排除して常にサビみたいな感じにするというのは効果を狙った方法だと思います。

 他には同じ音楽でもテンポアップすれば単位時間あたりの情報量が増えますし、ニコニコ動画のように映像の上にテキストを流せば、テキストを読むことや、テキストの意味をとることで情報量が増え、退屈を減らすことができます。

 

 ただし、情報量をむやみやたらに増やせばいいわけでもありません。なぜなら処理できないほどの流速の情報を目にすると、最初から処理を諦めてしまうからです。諦めたら情報量はゼロです。それは退屈なので、離脱してしまいます。

 頑張ればギリギリ処理できるぐらいの情報量、目指すべきはきっとそれでしょう。そういう意味ではニコニコ動画弾幕と呼ばれる、文字が画面に大量に出過ぎてしまうものは、テキストとしての情報量はゼロに近くなる一方で、光景としての情報量が増えるというケースで、これは面白い現象ですね。

 

 何にどれだけの情報量を見いだすかは、その対象だけでなく、その主体となる人に依存する部分も多いです。例えば、何かが上達することで、より細かい情報を得られるようになって楽しくなることもあるでしょうし、逆に同じ情報しか読み取れないことが繰り返されることで、同じものを見てもだんだんと退屈していくかもしれません。

 歳をとって何かがつまらなくなってしまったと感じるのは、対象そのものがつまらなくなったというよりは、以前にも経験したパターンの繰り返しと捉えてしまうからかもしれません。

 

 一回目はストーリーを追うことで手一杯だった情報量の多い映画は、繰り返し見ても都度それまで気づかなかった別の細かい演技や演出などの情報に気づけるかもしれません。それはつまり何度見ても情報量が落ちずに楽しめるということですが、そのうち限界があります。そういうときに他の人の見方を参考にすれば、また別の情報に気づけるかもしれません(評論や批評に求められているのはこの部分なのかもませんね)。でも、それでもさらにそのうちその映画からはもう何かを得ることができなくなり、ついには見ても退屈になってしまうかもしれません。

 そういうとき、「かつてはあんなに好きだった映画が、今となってはつまらないものにしか見えなくなった」とか思ってしまうこともあると思います。でも、これはもう得られるものは十分得たということだと思うんですよね。だからきっと悪いことではなく、それらは既に自分の血肉になったので、他者としての魅力は感じられなくなっただけなのではないでしょうか?

 

 僕はこういう考え方なので、自分で漫画を描いたりするときにも、上手くできているかは別としてこういうことを考えています。読者に対して退屈をしない情報をページごとに提供できているか?ということを気にしていて、それは少なすぎてもいけませんし、多すぎてもいけないのではないかと思います。その情報は言葉で表現してもいいですし、絵で表現してもいいでしょう。あるいは、コマとコマの繋がりを補完して文脈を認識する読者の心の動きに求めてもいいはずです(ちなみに単位時間あたりの情報量は文、絵、文脈の順で大きくなりがちと思います)。

 それが上手くできれば、退屈せずに読める漫画が描けるのではないかという思想を持っています。でも上手くやるのは難しい。

 

 さて、なんでこういう話を書き始めたかというと、一昨日からリングフィットアドベンチャーという任天堂の筋トレゲームを始めたのですが、これが、退屈をなかなかさせないように気を配られているなと思ったからです。

 僕は子供の頃に器械体操とかをやっていて、その関連で筋トレとかもよくしていました。続けていると回数をこなせるようになってくるんですけど、同時に退屈してきます。なぜなら筋トレ中には数を数えるだけで頭が暇だからです。何の情報量もない状態でただただ運動だけするのに飽きてしまって、なかなか回数をこなしたくありません。頑張ればできるんですけど、頑張らないといけないんですよね。それは張り詰めた気持ちが切れたら止めてしまいます。

 

 一方で、リングフィットアドベンチャーは、多少ランダム性も感じられるRPG的なゲームが、自分の筋トレと連動して進んでいきます。これも、夢中になるほどに楽しいかというと今のところそこまで夢中ということもないのですが、でもかなり気がまぎれるんですよ。頭を暇にさせないことで、肉体のしんどいのを淡々と続けることの退屈も減ります。

 中でも実装として良く感じたのが、筋トレ攻撃をするときに、途中でペースアップするんですよね。これは繰り返しでだんだんと退屈してくるところを、速度を上げることで誤魔化して最後までやり切った気持ちになれてグッドだなと思いました。

 

 リングフィットアドベンチャーをやろうと思ったのはダイエットしようと思ったからなんですが、ダイエット何回かやって何回か成功して、そして継続できずにまた太る、みたいなことを繰り返しているんですけど、続けられないのは退屈しちゃうからだと思っていて、退屈しちゃう理由としては、体重の数字ってそんなにすぐに分かりやすく減らないんですよ。

 ゲームが楽しい理由も情報量の問題として解釈できて、ゲームでは自分の操作に即座にフィードバックがあることで常に新しい情報が出続けるというフローの中で夢中になってしまうということがあります。一方で、体重は運動してすぐに減るわけではないですから、結果が出るのに何週間もかける必要があったりします。ゲームのボタンを押したら、数週間後にパンチが出るゲームをやりたいでしょうか?つまり、沢山操作をしても、そのフィードバックが来るのがとても遅いダイエットは、ゲームとしては退屈だと思うんですよ。

 

 だから、ダイエットをゲームとして面白く続けたいなら、体重以外の数字を見ながらやった方がいいなと思っていて、そこにリングフィットアドベンチャーを頼りたい!!という強烈な気持ちがあるんですよ。ほんと。マジで。

 

 まあ、まだ2日やっただけなので、続けられるかどうかは分かりませんが…。

 

 ここまで書いたのは僕の行動原理のかなり根幹にあるので、かなり大切な話なんですけど、とにかく何かを続けたいときには、そこで退屈をしないようにしないといけなくて、あるいは取り扱えないほどの巨大な情報にそのまま立ち向かうことをやめないといけないと思っています。

 退屈なら何を情報として追加すれば夢中になれるのかを考えますし、情報が巨大だと、その流速をどれだけ搾って見れるように抑え込むかということを考えます。

 

 何かに退屈して止めていまうことは人間の基本的な性質だと思うので、それは根性の無さとかではないと思っています。ただ退屈しないぐらいに情報を増やせばいいのです。情報量がめちゃくちゃ多いときに何もできなくなるのは、やる気のなさではないと思っています。そういうときは、分かるレベルまで情報を砕いて細かくして、分かるものに取り組んでいけばいいじゃないですか。

 

 そういう感じに生きているという話です。ダイエットは成功してほしい。

「ファンタジウム」と人間の序列判定関連

 「ファンタジウム」はマジシャンの漫画で、主人公の長見良くんは14歳ながらめちゃくちゃ高度なマジックのスキルを持つ少年です。しかしながら、長見くんはもうひとつの抱えている事情があります。それは文字の読み書きをすることが難しいディスレクシアという障害を抱えていることです。

 

 この物語は、長見くんを取り巻く人間模様の変化を描いた物語です。しかしながら、長見くん自身の根っこのところは最初から最後まで大きくは変化していないように思います。ただ、長見くんを取り巻く周囲の状況は激変し、そして、長見くんはそのせいで起こる様々に直面することになります。

 

 この物語の特徴は、ディスレクシアとマジックという2つの物を同時に長見くんが抱えているところではないかと僕は思っています。この2つは一見何も関係ないようにも思えますが、同質のもののように思えるからです。

 

 あらゆる人間が根本的に抱えていることとして、人間は周囲の人間たちの序列を考えずにはいられないように思います。「そんなことはない、人間は皆平等なはずだ」と思ったりするかもしれません。でも、自分の周りを思い返してみてください。この人は、社会においてとても重要な価値ある人だと思う人は思い当たらないでしょうか?そして、この人は社会において害悪なだけの価値のない人だと思う人は思い当たらないでしょうか?

 普通は誰かしらそれに該当する人がいるはずです。人間と人間は平等なはずなのに、人はそこに価値のある者と価値のない者を見いだしてしまいます。僕はこれは別に悪徳ではないと思っています。しょうがないことです。でも、人間がそういう性質を抱えているからこそ、「人間は平等だ」というお題目が必要なのではないでしょうか?それによる歯止めがなければ、すぐに人間には価値とそれによる序列がつけられてしまうからです。

 

 人間は他人のことを完全に理解することができません。なぜならば、人間のコミュニケーションは不完全だからです。頭の中にあることを直接確認することはできず、他人の口から一度言葉になったものを読み取り、それを自分の頭の中で再生して想像することしかできません。もちろん言葉だけではなく、見た目や行動からも何かしらの情報を読み取っています。それは受動的なものだけとは限りません。能動的に言葉や何かしらを相手に投げかけ、そして返ってきた内容によって他人の中身を判定することも多々あります。

 雑談は日常の中に存在するその最たるもののひとつでしょう。相手に言葉を投げかけ、想定の範囲の内容が返ってくるかによって相手がコミュニケーション可能な存在かどうかを判定しています。何を話しかけても、理解できない内容が返ってくるならば、そのうちその相手はコミュニケーション不可能な存在として分類されてしまいます。

 この傾向は、コミュニティが小さければ小さいほどにより強くなっていくと思います。例えば、オタクは常に相手が自分の仲間かどうかを判定するための定型的なコミュニケーションを行ったりします。型を覚えているかどうかが、仲間かどうかの判定基準であるため、内輪ネタを発言してはそれに想定通りの反応が返ってくるかどうかを見ているように思います。

 例えばガンダムの話をしたとして、相手がガンダムのことを「ロボット」と発言すれば仲間ではないとされるかもしれません。なぜならガンダムは「モビルスーツ」だからです。想定している正解の答えを出すことで仲間として認められますが、そうでなければニワカオタクという判定をして仲間には入れて貰えないかもしれません。

 

 さて、文字の読み書きができない障害というものは、そんな状況において非常に不利になります。なぜならば、相手が投げかけてきた文字について、理解することができず、文字によって返答することもできなくなるからです。他人から投げかけられるその中身を品定めするようなコミュニケーションにおいて、相手が求める答えを返せないことで、その頭の中身そのものを劣ったものであると理解されるようになってしまいます。

 これは、母国語以外を拙く喋る人に対しても見られる傾向かもしれません。カタコトで拙く喋るということは、頭の中身の方も拙いのだろうと思われてしまうことがあるからです。

 もちろん、他人に劣っていると判定されたからいって、侮られることが正しいこととは全く思いません。でもそれはあるでしょう?今まで生きてきて、それがない場所を僕は見たことがありません。自分だってそれに加担していたこともあるはずです。

 

 障害を抱えていることで、周りが当たり前にやっていることを上手くできないということのもうひとつの辛いことは、それをする理由が「舐めている」と判定されてしまうことです。普通の人が当たり前にやっていることをお前はなぜできないんだ?と問われ、その理由は、やる気がないとか、舐めているとか、甘えているとか、そういう理解をされてしまいます。

 なぜならば、その判定する人はできる側だから。できないことの理由がそれぐらいしか思いつかないのです。それもある程度は仕方がないことですよ。人は当たり前に持っているものについて、その価値をなかなか知ることができません。水の中を潜ったり、宇宙にでも行かなければ、当たり前に呼吸ができる空気があることに感謝をすることはできません。

 

 相手の想定している答えを返せなければ、人はどんどん侮られていきます。劣った存在として、イジメにもあってしまうこともあります。そこで起こり得る何より怖いことは、そんな劣っていると侮られた存在が世間で評価されることでしょう。

 人間は序列を気にしてしまいます。そして、世間の序列が自分の中に存在する序列と異なるときに、パニックになってしまうのです。テレビにマジシャンとして出演する長見くんの世間の評価は上昇します。しかしながら、学校で彼を侮っていた人たちの中では、万年赤点で再試験を言い渡される劣った奴です。序列の下位の者が、序列の上位として紹介されることに、人はパニックになります。

 そしてこう主張したくなってしまうでしょう。「世間の評価は間違っている」と。それを世間に知らしめてやろうとする力は、自分が見下している何かが世間で評価されることでより強くなってしまいます。

 

 ネットなんかを見てもよく目にすることだと思います。人は自分が見下しているものが世間で評価されているときに、「そんなものは評価されるべきではない」と言い、自分が価値あると思っているものが世間で評価されていないときに、「もっと評価されるべき」と言います。同じことです。自分の中の評価と世間の評価が一致していないことに耐えられないからこそ出てくる言葉です。でも、そんなもの完全に一致するわけないじゃないですか。

 

 長見くんが抱えているのはそういう種類の過酷な環境です。「誰に見下されても、得意なことで評価されて見返してやればいい」ということだけでは抜け出ることができない環境です。そしてそれは、世を見渡してもそこかしこに存在する普遍的な過酷さだと思うんですよ。可哀想な誰かの問題ではなく、自分たちが加害側にも被害側にも多かれ少なかれなっている問題です。

 

 さて、長見くんをこんな状態にしてしまうディスレクシアと、マジックは同質のものであると最初に書きました(覚えてますか?)。僕の意図はつまり、マジックというものが、他人の不完全な認識による偏見を利用した娯楽だからです。

 例えば、右手にあったはずのコインが、左手に移動している。これは、マジックですが、マジシャンからすれば不思議なことではありません。なぜなら、お客さんが右手にまだ持っていると思っているコインは、とっくに右手にはなく、何も持っていないと思っている左手には最初からコインがあったりするからです。マジシャンにとっては当たり前のことを、お客さんは気が付くことができません。できないようにマジシャンに誘導されています。

 だからこそ、それが分かったときに辻褄が合わず驚いてしまうのです。

 

 これは、前述のコミュニケーションと同じではないでしょうか?言葉を投げかけた誰かが返す反応から、その人はこういう人だと解釈するように、マジシャンに見せられたものから、今コインがどこにあるかを解釈しています。そして、それは不完全な認識による誤認なのです。

 違いは、その後想定外の答えを見せられたとき、マジックでは驚きと賞賛があり、コミュニケーションでは驚きと拒絶があることでしょう。

 

 長見くんは、他人に対して想定外の答えを返してしまうことで拒絶され、想定外の答えを見せることで賞賛されます。これはここだけ比較するととても不思議なことですね。

 

 人は自分を基準のモノサシとして、他人を測ることを止められないのかもしれません。そして、自分のモノサシと世間のモノサシを比較して、それが合致しているとかしていないとかいう話をすごくしてしまいます。でも、それだけを考えていくと、人を取り巻く世界はどんどん狭くなっていってしまうのではないでしょうか?なぜならば、人間は全ての物事を完全に知ることはできないので、誤認があり、誤解があり、その歪みに周りの全てを合わせようとしてしまうということだからです。

 漫才でも、想定外の答えを出すボケと、その認識合わせをするツッコミは両輪です。それを人は楽しむことができます。それはマジックと同じではないでしょうか?ツッコミがあるからボケが楽しめる一方で、自分の認識に世の中を合わせるツッコミだけしかなければ、世の中のあるべき姿はどんどん狭くなるんじゃないかと思うからです。

 コインは右手にあるべきだと言っても、既に左手にしかないのです。

 

 漫才のボケもマジックも娯楽です。世間では特に必要なものではないと思われるかもしれません。でも、もしかすると、それが人の持つ世界を閉塞から開放に導くための潤滑剤になっているのかもしれません。

 この前の「ジョーカー」の感想文では、モノサシに合わない人を社会から分断し排除することに関する閉塞感について書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ならば、こちらはそれに対する答えのひとつなのかもしれません。一見、生きる上で必要ではないマジックという存在が、世の中の在り方を少し広くすることができるものであるように思えるからです。

「金色のガッシュ」に見る、支配への抵抗関連

 金色のガッシュは、人間界に送り込まれた100人の魔物の子たちが、次の魔界の王となるために、最後の1人になるまで戦い合う漫画です。この戦いにはルールがあり、魔物の子たちにはそれぞれ、その才能を発揮するための呪文が書かれた本が存在します。魔物の子は、その呪文を人間に読んでもらうことで能力を発揮することができるのです。この戦いは、100人の魔物の子の戦いであり、その本の使い手として選ばれた100人の人間の戦いでもあります。彼らのうち99人(正確にはある経緯により+α)は、戦い、敗れ、パートナーとの別離を経験します。最後に勝ち残った1人もまた、王となるために別離を経験することになります。

 これは人と魔物の子の出会いの物語です。そして、人と魔物の子の別離の物語です。最後に別れがあるのであれば、その出会いは無意味でしょうか?違うのではないでしょうか?その出会ってから別れるまでには時間があったわけでしょう?

 

 人間の人生も、最後は死です。どうせ死ぬなら生きる意味などないでしょうか?そうではないからこそ、人は生きているのではないでしょうか?これはそんな意義ある過程の物語です。

 

 金色のガッシュに登場する構図の中で僕の心に一番響いたのは、「人が人を支配されることの辛さ」と「そこに抗う意志の発露の瞬間」です。次世代の王を決める戦いは、つまり、次の支配者を決める戦いです。勝者には他人を支配する権利があり、敗者はそれに従うしかなくなります。強ければ強いほどに人は誰かを支配することができ、弱ければ誰かに支配されて生きるしかなくなります。

 

 この物語には沢山の支配する者とされる者が登場します。

 戦いに向かない優しい性格の魔物の子は、その意志に反する凶暴な人格を無理矢理植え付けられました。心を操る能力のある魔物の子は、優しい人間の心を自分の好むように操作し、自分の思う通りに様々な非道な行為をさせるようになります。気高い心を持っていたはずの魔物の子は、強い痛みを与えられる恐怖から、より強い魔物の子に従属を強いられてしまいました。強い力を手に入れるために、特殊な細胞を受け入れた魔物の子は、その代わりにその支配者に逆らうと体が崩壊してしまうリスクを抱えました。ある人間は、自分のパートナーの魔物の子がより強い魔物の子に逆らわず、従うように言い聞かせます。その体には虐待の痕があり、かつて自分もまた強い力を持つ者に逆らおうとして敗北し、無意味であったことを心に刻まれた経験を抱えていることが示唆されます。

 

 この物語の中では、誰かに従属させられ、道具として機能のみを求められ、自分の生きたいように生きる道を塞がれることが何より悲しいこととして描かれます。そして、それに反逆する物語でもあるのです。

 

 王となる最後の勝者を除く他の全ての魔物の子たちは敗れて消えていきます。しかしながら、その敗北が悲しいことばかりとは限りません。彼らは支配から解き放たれ、一己の存在である自分を取り戻すことに成功していることもあるからです。何かに従属し、支配されて生きることしかないことが己という存在の死であるならば、彼らは自分として生きることを得ることができたわけです。それは悲しいことばかりではないでしょう。

 そして、そこにはパートナーとの関係性、人間と人間の関係性、魔物の子と魔物の子の関係性があるわけです。そこにとても胸を打たれるわけです。

 

 この物語のラスボスとして登場するクリア・ノートは力の権化です。クリアの人格そのものがその巨大な力に飲まれて消え失せ、ただ他人を支配し従属させること、その先には全てを消し去る虚無へと向かう巨大な力そのものと化してしまいます。

 この物語の中で存在する戦うべき相手は、個別の人格ではなく、他人を支配するという概念であるわけです。

 

 誰よりも弱い魔物の子であったキャンチョメは、強さそのものでは誰にも勝てず、自分の弱さを痛感させながらも強くおどけて生きてきました。しかし、物語の終盤、ついに手に入れた圧倒的な強い力に酔いしれてしまいます。今まで自分が屈辱的にされてきたように、圧倒的な強い力で他人を脅かすことができることに、飲まれてしまうのです。これはクリアとの相似形です。しかし、キャンチョメのパートナーのフォルゴレは、誰かを脅かし、恐れさせる先には何もないことをキャンチョメに説きます。自らもまたかつてそうであったことを悔い、誰かとともに生きることを選ぶことこそが生きる道であることを身を挺して示すわけです。

 キャンチョメにはそれがすぐに理解できます。なぜなら、それはフォルゴレとキャンチョメが今までともに過ごしてきた時間そのものだからです。

 

 クリア・ノートにはキャンチョメにとってのフォルゴレのような存在がいませんでした。彼のパートナーは天才的ではあれど、まだ無垢な赤子です。それゆえ、彼は純粋な力そのものと化していってしまうのです。

 

 この物語の主人公ガッシュは、凶暴な人格を無理矢理植え付けられ、力に無理矢理支配された少女コルルの姿を見て、この戦いを勝ち抜き、王になる道を目指すことを誓います。それは、もうこんな力に支配される悲しい戦いを生み出さない優しい王になるためです。

 ガッシュの戦いは、誰かを支配するための戦いではありません。誰かとともに生きるための戦いです。だからこそ、ガッシュの本はともに戦った魔物の子たちの力が流れ込んで金色に輝き、クリア・ノートに対抗するための大きな力となるわけです。

 その中にはコルルの力もあります。いつか目覚めるはずだった人を守る、優しい力を携えて。

 

 魔物の子ゾフィスに心を支配されていた少女ココは、それでも自分には意志があることを示し続けて戦いました。痛みの恐怖に怯えていた魔物の子チェリッシュは、自分のために戦う魔物の子テッドの姿に、自分自身の気高い意識を取り戻し、気の遠くなる強烈な痛みにやせがまんをして耐えながらも逆らうことを選択します。

 自分に命令する魔物の子ゼオンに逆らえば逆らうほどに自分の体が崩壊していく魔物の子ロデュウは、パートナーのチータに、それがどれだけの苦痛が伴っても自分の生きたいように生きることを説きます。チータは、顔にある傷の負い目から、他人の目を気にしてふさぎ込んで生きてきた少女です。ロデュウはチータになぜ、他人の目ばかりを気にして自分の生きたいように生きないのか?人の顔の傷を笑うような奴らために、自分の方を曲げる生き方に何の意味があるのか?と、他人に逆らおうとしたせいで崩壊しボロボロになった姿で、それでもその意志を説くわけです。

 

 空間を操る特異な能力を認められ、クリアの手下として行動していた孤独な魔物の子ゴームは、自分に初めて優しくしてくれたキャンチョメのため、クリアに逆らおうとします。パートナーのミールは前述のように大反対するわけです。大きな力を持つ悪いやつに逆らったってどうしようもないと。自分たちのような弱い人間はそれに従って生きるしかないのだと。自分のような大人は、お前のような子供とは違って、それを分かって受け入れているんだと。逆らうような奴はただの馬鹿なんだと、その身に刻まれた傷を背に悲鳴のように叫ぶわけです。

 ミールとゴームが再びガッシュたちのもとに現れたとき、それは戦って敗北した姿でした。彼女と彼は、それでも戦い抗ったわけです。たとえ敗北することが分かっていたとしても。そこには他人に支配されることが我慢ならない気持ちがきっとあったわけでしょう?

 

 この世の中は結構仕方がないです。理不尽だと思うことがあっても、結局のところ自分ひとりの力ではどうしようもないことも多いです。人はあまり他の人間を平等な存在だと思っていません。隙あらば、自分の思った通りに動かそうと、力や理屈を使ってきます。自分だってそうしているかもしれません。

 自分らしく生きるということは、まあ、今この瞬間から自分らしく生きればいい話ですけど、結局のところ、他人に押し着せられる「このように生きろ」ということへの無限の抵抗が必要な生き方です。あるいは、無人島でひとりで生きるかですが、それも現実的ではないですよね。

 なにより、誰しもが自分らしく生きるということは理想かもしれませんが、それでも、世の中は誰かが誰かを従属させることで効率よく回っている側面も少なからずあるわけです。

 

 だから、「誰かに支配されず、自分の思う通りに生きる」ということは、どこまで行っても達成することができない理想的な概念でしかないのかもしれません。少なくとも僕は社会の中でで生きるために、いくつかの不本意な生き方もしてきました。それでも、その「他人に支配されない自分らしさ」に対する憧れは強くあって、それがこの漫画を読む中で思い出させられるからこそ、こんなにも胸にくるのではないかと思ったりします。

 

 「金色のガッシュ」は支配されることへの抵抗の物語だと思います。そして、その物語は支配者である王となることで、支配に抵抗するものが支配者側に立つとき何をなすべきか?それらは全てそこに至る過程にこそ存在していたのではないかと思うわけです。

「ジョーカー」と分断と排除関連

 映画の「ジョーカー」を観て来ました。何を描くかが明確で、そのために必要なものしかない映画だと思ったので、偉い映画だなあと思いました。それは、「広く世に出すなら、これも描いておいた方がいいんじゃない?」という考えを全てちゃんと排除しないとできないことだと思うからです。

 

 僕がこの映画から排除されていたと感じたことは「悪いことは悪い」という概念です。物語の中で悪を描くためのやりやすい方法は、正義を描くことだと思います。物語の中で正義が悪を懲らしめることによって、映画全体が「悪いことは悪い」という合意をとることができます。この合意は、刑法に代表される社会の合意と同じだと思うので、人に受け入れられやすくなります。

 

 しかし、この映画では違いました。普通の人が悪いことをすることを、苦しみからの解放のように描いているように感じました。悪くならないでいることで、苦しみに苛まれていた人間が、悪くなることでその苦しみから解放されるということ、それは悲しい光景です。しかし、その苦しみの中で生きてゆけ、あるいは善良なままに人知れず死んでゆけと押し付けられることは悪くはないのでしょうか?

 善良な人が苦しみの中で死んだとして、彼ら彼女らのような善良な人こそ救われるべき人であったと死後に語られることがあります。しかし、彼ら彼女らがその苦しみから解放されようとして罪を犯したらどうでしょうか?犯罪者なのだから、救われるべきではないと語られてしまうのではないでしょうか?であるならば、善人というのは誰にも迷惑をかけずに死ぬから善人でいられます。生きようとして足掻く中で罪を犯してしまえば、それはもう悪人だからです。

 

 少年漫画の類型のひとつは「いじめられっ子の仕返し」ではないかと思います。物語の最初に理不尽にいじめられた少年が、何らかの強い力を得て仕返しを図る物語です。その意味で、ジョーカーは類型的で分かりやすい物語であるとも言えます。自分たちをじわじわと脅かす存在を強力に脅かし返すことに成功するからです。

 しかしながら、ジョーカーではその手段が言い逃れ用のない犯罪です。犯罪は社会通念として忌避されるべきものですから、このジョーカーの行為は褒められたものではないと思ってしまいます。でも、よくよく考えてみれば、少年漫画でも同じではないでしょうか?例えば法で裁けない悪を罰するヒーローは違法行為をしたりはしていないでしょうか?悪を殺したとき、それは殺人罪ではないのでしょうか?そう考えると、少年漫画では、その行為が「悪い」と認識されないように文脈が作られていると思います。

 そして、ジョーカーでもその閾値と位相が異なるだけで同じではないかと思います。彼はその行為に至るだけに十分な言い訳を抱えており、彼の視点に立てば、その犯罪行為は肯定され得るかもしれません。そして、何が犯罪行為であるかを決めるのは法です。法とはその社会に属するものが守るべきルールです。社会の中で行きたければそのルールを守る必要があります。それは国が定める方でもそうですし、例えばアウトローな集団の中にも法はあります。誰かと社会を作るならば、そこには何らかの法があるはずです。そして、その法は、その社会の外には何の効力も持ちません。

 

 人喰い熊に、殺人は犯罪だと説いても何の意味もないわけです。

 

 この物語が描いていると思ったのは、孤立と排除です。社会の中で排除され孤立したとしても、それでも社会の中で生きたければ法を守るしかありません。でも、ある瞬間、その外に足を踏み出したらどうでしょうか?社会に属することを止めるだけで、それまで自分を苦しめていた正しい正しい法が、全く無意味なものに見えてくるはずです。

 これは犯罪行為に走る人だけについての話ではありません。抑圧的な親による家族のルールを強要されていた人にだってそうでしょう。法は呪いとも言えます。人が社会を作るならば、同じ呪いに呪われていなければならないわけです。呪いを解くことは、解放を意味しますが、同時にその社会からの追放も意味します。同じように呪われもしないくせに、同じ社会を築こうとすることはできないのではないかと僕は思っています。ただ、その社会が何に呪われるべきかは変えることはできるかもしれませんが。

 

 だから、法が効力を持つのは、相手が仲間であるときだけだと思っています。ならば、誰かのとってその法の力を失わせるには、その誰かを「我々の仲間ではない」と分断することです。分断された人間は、別の法に則って行動することになるでしょう。その行動は我々の法に照らせば間違っていることかもしれませんが、彼らの法では正しいことかもしれません。それを食い止めるため、同じ法に呪われ続けてもらうためには、仲間として迎え入れるしかないのではないかと僕は思います。いや、その存在を駆逐するという暴力的な方法もあるのかもしれません。

 自分たちを同じように呪われていない人間を、自分たちの安全と安心のために駆逐する暴力は正義でしょう?でも、逆側の視点からすれば、暴力は暴力、一方的で理不尽な暴力です。こういうことは多かれ少なかれ幾重にも重なる大小の社会の中で毎日起きていることです。自分たちは法に則って正しくやっているという正しいことが、別の視点から見れば、誰かを分断し追い詰めて排除していることだってあるわけです。

 

 最初に書いた「悪いことは悪い」というのは、こちら側の法です。そして、あちら側には無意味な概念かもしれません。

 

 「ハンターハンター」でも、善良に生きてきたジャイロが、ある日、虐げられた生活の中で、自分は「人間」という枠組みに入れて貰えていないということに気づいた瞬間に、「人間の社会」からの視点では悪と解釈される道を歩み始めます。「コオリオニ」では、「正常な人間」という枠組みにしがみつきたかった男が、歪んだ警察組織の中の法に過剰に適応しようとし過ぎたために起きた悲劇が描かれています。「寄生獣」の新一は、寄生生物との肉体的な入り混じりと母殺しのトラウマによって、人間という大きなくくりから半歩踏み出し、人間らしいとされる情動や涙を失います。しかしながら、寄生生物が遺伝子的に何の繋がりもない自分の子を守る姿から、繋がりを取り戻し、再び涙を獲得するようになります。

 自分たちはあちら側なのか?こちら側なのか?その立場の違いによって何に寄り添うべきなのか?それは、物語の中で繰り返し語られてきたことです。ジョーカーの物語は、あちら側に行ってしまう人の物語だと思います。そして、それは別に特殊な話ではありません。自分たちの身の回りでも日々起こっていることです。そのきっかけは、誰かが「自分はあいつらの仲間ではないんだ」と思ったことです。

 排除した人たちを責める意図はなく、排除されたと思ってしまった人を責める意図はなく、僕はそれはそういうものだと思うんですよね。仲間でなければ、同じ法に呪われる必要はないのだから。ただ、それだけです。

 

 「ジョーカー」という映画の反響に、この映画に影響されて罪を犯す人が出てくるかもしれないというものがありました。その語り口は、「自分たちとは違うあいつらの話」だなと思いました。自分たちとは違うあいつらが罪を犯すかもしれないぞ!という話です。それは分断だと思い、排除だろうなと思いました。

 日々起きていることだなと思いました。

仕事で英語を使うはめになるおじさんの気持ち関連

 何年ぶりかにTOEICを受けてきました。社での立場的に現場仕事ばかりしているわけにもいかなくなってきたので、そろそろ観念して正式にマネージャーになるかと思ったら、昇格のためには点数の報告が必要だと言われたのが理由です。

 

 何点ぐらいとれればいいんですか?って聞いたら、最近の新入社員は900点以上の人たちも多いので、彼らの上司になった場合に恥ずかしく点数を取ってくださいとのことでしたが、僕がTOEICでとったことのある最高の点数って確か840点弱なので、上回れる可能性ゼロじゃん…って思いました。最近は英語を使う業務をしていないので上達しているはずがないからです。

 とりあえず付け焼き刃もせず、今の自分がどれぐらい取れるのかなと思って受けましたが、手応えとしては、なんというか「英語ができる若者に対して恥ずかしくない」という意味だと、羞恥心を捨て、低い点数でも強気で誇っていくということでもすればいいかなと思う感じでした(ダメじゃん…)。

 

 社の話では、TOEICの点数が高いことは英語ができることは意味しないけれど、英語ができないひとはTOEICで点数がとれないので、足切りで使っているとのこと。足切られたらやばいので、ふるえて結果を待ちます。

 

 日本人といえば英語が苦手でお馴染みですが、僕も日本人として例外ではなく英語が苦手なんですけど、苦手だからといってやらなくていいわけじゃないというか、前の前の仕事場では、国際標準化の仕事とかに放り込まれていたので、英語を使わざるを得なくてめちゃくちゃ弱りました。

 でも、その当時、仕事で年間5、6回海外に出張する生活をしていた中で思ったのは、仕事で英語を使うのは、語学力というよりはコミュニケーションをとるための意志の問題だなと思うところもあって、特に空港でのトラブルとか、タクシーでのトラブルとか、ホテルでのトラブルとかになると、自分、意外と結構英語でガンガン喋るな…と思ったということで、目の前の人とコミュニケーションをとれる可能性の高い手段が拙い英語しかないなら、拙い英語でガンガン話すしかないんですよね。

 日本語でも知らない人とあまり積極的に話したくない僕が、拙くとも英語でガンガン喋っているの、人間は追い込まれるまではやらないことがたくさんあるんだなと思いました。おそらく日本人が英語が苦手なの、英語をわからなくてもなんとかなる状況にいがちだからで、追い込まれるたらといけるんじゃないかなと楽観的に思ったりします。

 

 他に、英語を使う仕事をしていたときに思ったことは、学校で勉強した英語が、英語を聞いたり喋ったりするときにはむしろ邪魔になるということです。これは教え方が悪いのか?というとそうでもなくて、方向性の違いというか、つまり、学校で習った英語は「読む」という要素がとても強かったと思うんですよ。

 とはいえ結局英語を読むということが、一番使うことだったりもしがちなので、役に立ってるんですけど、英語を「読む」ときと「聞く」ときでは大きく違うことがあります。それは、「遡れない」と「繰り返せない」ということです。

 英語を読むときには、文法を用いて文を分解し、構造を把握しながら文章を理解することができます。でも、聞くときには、来た言葉をそのままの順番に処理して意味を理解しなければなりません。つまり、言葉の処理の仕方が根本的に違うのに、読むときのやり方で聞くときも処理しようとしてしまうことが、自分の中で足を引っ張っていて、相手の言葉を聞き終わってから構造的に処理しようとして、間に合わないわ不正確だわで黙ってしまうということがありました。

 

 今は来た言葉をそのままの順序で聞いて理解し、頭の中で日本語にも直さないで喋るようにしています。そうでないとリアルタイムのコミュニケーションには間に合わないからです。一方で、文章でやりとりするのであれば、文法構造で読んだり、書くときも構造から作って、何度も言葉を見直して書けるので、喋るときよりは頭が良さそうにコミュニケーションがとれるかもしれません。

 これは日本語で書く場合でも同じかもしれません。文章は比較的頭良く見えるじゃないですか。それは何回も見直したり、自分で読んでおかしいところを修正してから外に出せるからです。僕は自分が喋っているところを録音して聞くことが結構あるんですけど、本当頭悪そうなんですよね。その場その場でストリーミングで出てくる言葉は、自分の頭の中を上手く表現できていないことが多いです。

 こういうことを思うと、何かの専門分野について喋っていてこの人は自分と同じぐらい分かっていると思った相手は、本当は僕の何倍も分かっている人の可能性があるなと思ったりします。リアルタイムで出てくる言葉が不完全なら、その頭の中には言葉以上にもっとすごいものが詰まっている可能性があるからです。

 

 僕は大人と子供に、純な思考力の差はないんじゃないかと思っていて、違うのは、自分の頭の中を整理するための概念や語彙や表現力が大人の方が豊富なだけなのではないかと思っています。例えば、僕が英語でものを考えようとすると、日本語で考えるときよりもずっと単純なことしか考えることができないことから、そういうことを思うようになりました。英語で考えようとして5年なら、5歳の子供と同レベルのことしか考えられないかもしれません。日本語で考えれば自分はもっと頭がよく振る舞えるのに、英語で喋るとそうできなくなるということにはもどかしさがあります。

 でも、そうであるならば、リアルタイム化はできなくても、日本語で考えた結果を英語に翻訳することとか、どうにか英語の語彙を増やしながら英語で考える経験を増やして英語年齢を重ねていくしかないような気がするんですよね。

 

 そういうことを英語をガンガン使う必要があるときには思っていましたが、最近ないので、完全に英語年齢の加齢がストップしているどころか、退化していることを実感した今日でした。

 とりあえず来月は海外出張もありますし、今後、仕事内容が変わるとまた必要とされる頻度が上がってくる可能性があるので、映画を英語字幕で見るなどして、語彙や表現力を少しは増やしていこうかなあと思っています。

RPG的世界観とメタ視点からの解釈の時代性関連

 ちょっと前に、えんどコイチの「オリジナルクエスト」の電子版を買って久々に読み直してました。これは90年代の前半に描かれた漫画で、「ついでにとんちんかん」のキャラクターたちがRPGの世界を舞台に、その世界にツッコミを入れまくるような漫画です。

 ゲームはゲームとして面白くするための整合性が存在するので、それを無視して現実に置き換えたときに不自然になる要素が存在します。それに何故なんだ??と疑問を投げかけツッコミながら、さらわれた姫を助けるために魔王を倒す旅に出る漫画です。

 

 これは25年以上前の漫画なので、今読むと既にやりつくされていると思ってしまうような内容でもあるのですが、当時の僕にはとても新鮮な内容でした。この時期にはこれ以外にも似た種類の色んな漫画が生まれてきていたように思います。例えば「魔法陣グルグル」であったり、「レベルE」のRPG惑星の話であたり、ゲーム的お約束の不自然さを逆手にとってギャグにするようなお話が沢山生まれていました。

 

 それはつまり、「家庭用ゲームでRPGを遊ぶ」ということが、世間的に十分に一般化が済んでいたということではないかと思います。だからこそ、皆が知っているそれの不自然さを指摘することがギャグとして成立するようになったのではないでしょうか?

 結構前に聞いた話ですが、お笑い芸人のショーレースを予選から沢山見ている人が言うには、「ドラえもん」や「サザエさん」のネタをやる組が必ずいるとのことでした。それはつまり、誰でもドラえもんサザエさんは知っているという前提があるからこそ、ネタとして成立するということです。RPGにメタにツッコむことが成立するということは、RPGがある程度その領域まで広まったということで、だからこそ、その遊びが楽しかったんだろうなあと思いました。

 

 RPGへのメタ視点は、例えばゲームのアニメ化や実写化のような別媒体展開のときにも必要になってきます。なぜならば、モンスターを倒せばお金が手に入るというゲーム的に当たり前のことを映像として再現しようとするとき、モンスターのどこからどのようにお金が生じるのかを描かなければならなくなるからです。例えば、ドラゴンクエストのアニメでは、宝石モンスターという概念が導入され、ゲームの中のモンスターは宝石から生み出されており、倒せばまた宝石に戻るので、換金可能という説明がつけられます。

 そして、そんなメタ視点は、その後、ゲーム自体にも反映されていくようになります。分かりやすいところでは勇者という概念を主観ではなく客観で見せるゲーム「MOON」があります。RPGの勇者という存在が現実に存在したらと考えたときに、その行動の珍奇さはゲームの中では儀礼的に無視されますが、それを無視しないのがこのゲームでした。

 そして、ゲームの表現力がデフォルメからリアルに変わってきたときに、それまで無視できていた不自然さにプレイヤーも開発者も向き合っていく必要が生じていたように思います。とはいえ、いたずらに不自然さを排除し、現実に則した表現に置き換えるだけでは、ゲームとして不便となってしまうこともあるでしょう。

 

 例えば、「バイオハザード」のアイテムボックスは、どの場所で道具を入れても、別のどの場所でも取り出せる不自然な存在ですが、あれがないとゲームそのものがとても不便になってしまいます。「バイオハザード0」では、アイテムボックスを廃し、床に物を置ける仕組みが導入されていて、あれはあれで制約として楽しかったですが、不便は不便でした。

 ゲームをする上でゲームを面白くする以外の不要なストレスは排除する方向になりがちですから、「ドラクエ」でも物は無限に持ち歩けるようになりましたし、オープンワールドのゲームでもワープで移動できるファストトラベルが存在して、常に歩くことは求められません。「シェンムー」では待ち合わせの時間までゲーム内時間を待たなければならないなどの要素がありましたが、「シェンムー2」では時間の進み方を早める措置がとられました。

 リアルにすれば、リアルですが、それがゲーム的な便利さや楽しさに寄与するとも限らないわけです。

 

 そんな時代を経てきた結果、現在は、ゲームのゲーム的な不自然な部分を様式美としてあえて受け入れる割り切り方や、上手いこと整合性のとれた解釈を行う方法が色々とられているように思います。具体例を挙げようかと思いましたが、書くのが面倒くさくなったので、自分でそれっぽいものを思い浮かべてください。

 

 RPGの不自然さの隙間を埋める試みは色んな作品で行われていて、例えば「ダンジョン飯」では、ゲームのお約束であったはずの設定に、上手く説明付けられる解釈が与えられています。異世界転生ものについても、僕はあまり詳しくはありませんが、RPG的世界観の中で、なぜそれがそうであるのかの解釈が描かれているものが沢山あるはずです。そういえば、「ドラゴンクエストユアストーリー」では、懐かしの宝石モンスター概念が導入されていて、戦闘描写は様々な工夫があって面白かったですね。

 

 ゲームの不自然さにツッコむという遊びは、二十年以上の時間の中で、ツッコむだけではなく、それを整合性がとれるように上手く解釈するというような方向性にも変化しているように思います。それだけでなく、ゲームの不自然さを何らかの理屈を立てて受け入れることもできるようになっていますし、かなり柔軟になっているような気持ちにもなりました。

 そうやって、色んなことがあったなと思い出したりするんですけど、今ゲームの不自然さにツッコむタイプの漫画を読み返してみて、まあ、昔の漫画だなとは思うんですけど、でもこれが面白かったんだよな。今でもその気持ちを思い出せば十分面白いしと思ったんですけど、この面白さを今他人に、特に若い人に伝えようとしたとき、うわ、全然伝わらねえ…というような気持になったので、なんかこれもその時代を生きてきた人間にだけ感じられるものなのかもしれない…と選民意識を感じたりしました。

他人の感想と攻略Wiki関連

 僕は、自分が好きな漫画について、他の人は読んでどのようなことを思ったのかな?と思って感想を検索したりします。そして、他の人の色々な感想を見ていると、時折潮目のようなものが見えることがあります。それはつまり、「ある人の感想を起点として、同じような感想が一気に増える」というということです。

 

 このような状況が発生すると、対象作品を「良い」とか「悪い」と表現する語り口として同じようなものばかりを目にするようになります。なので、あまり個別に読む必要がなくなってくるなーと思って読み飛ばし始めてしまうんですけど、でも、僕はこれをとても良いことだと思っています。

 なぜならそれは、それまでどのように該当作品を楽しめばいいかが分からなかった人にとって、分かりやすい楽しみ方が提示され、そのように楽しむことができるように変化したということだと思うからです。

 

 つまりこれは、ゲームにおける攻略本みたいなものだと思います。いや、今の世間では攻略本というよりは攻略Wikiの方がメジャーかもしれませんね。

 

 僕はゲームが特に上手くないので、誰かが考えた上手い進め方を知ることでようやくゲームをちゃんと遊べるというようなことがあります。つまり、攻略Wikiを読んだりしないと何一つ上手くいかなくて、どうしたらいいかが分からなくなってしまったりすることがあるのです。なにも見ないでいた場合、ゲームの進捗が停滞してしまうと、そのゲームを止めてしまうこともあります。

 何一つゲームの素養がない人間が、上手くプレイできるところに辿り着くには、結構な手間とその過程の試行錯誤が必要です。そして、自力ではそこに辿り着くほどの労力をかけられないと思ったら、そのゲームを止めてしまうなんてことなんて全然あり得ると思うんですよね。

 実際、子供の頃やっていたファミコンのゲームでは、クリアすることができなくて、同じところをぐるぐるずっとして、そのうち止めてしまうことの方が多かったです。当時の僕にとってゲームは基本的に最後までクリアできないものでした。その中でも数少なくクリアできたゲームが、ドラクエやFFのような、放っておいても攻略情報を友達が教えてくれたりするゲームだったように思います。

 つまり、自力ではゲームを遊べていなかったわけです。

 

 漫画を読むことにも似たようなものがあるかもしれません。子供の頃には読んでも分からなかったことが、大人になって読み返すと分かると思えることもよくあります。子供の頃は子供の頃なりに楽しく読んではいたんですけど、今思い返せば、描かれている色んなことがちゃんと読めてはなかったなと思ったりもします。だから、誰か既に読めている人が、上手い読み方を教えてくれるというのは、その「読めてないために楽しめない」という状況を回避できるので、僕は良いことなんだと思うんです。

 

 一方で、あまりにもそればかりだとしんどくなることもあると思っています。攻略Wikiを見ながら、収集要素を延々集めていたりすると、これはひょっとして苦役なのではないか?と思うこともありますし、他人に教えてもらったう上手い攻略法をやっていると、自分は他人が考えたそれをただ再現するだけの装置だ…と思ってしまうこともあります。

 「正解」を他人から導入してしまうことが当たり前だと、最初から「正解」が存在してしまうために、「正解」ではないことをすることが無意味に思えてしまい、結果的に、自分自身で試行錯誤することができなくなってしまったりします。

 なので、その状態が続くと、何かを見ても、自分でそれに対してどのように取り組むかを試行錯誤するより、誰かがそれらしい「正解」を出してくれるのを待ってしまうようになってしまったりするんじゃないかと思うんですよね。

 

 それが一概に悪い話とは思わないんですし、そもそもそれがあることで楽しみ方を得られるのだからめちゃくちゃ良いことでもあるよなと思います。でも、自分で考えて自分の楽しみ方を見つけるということは、漫画を読むうえでもゲームをする上でもとても楽しい領域のひとつだとも思っていて、その試行錯誤を自分自身で上手くできるようでないと、いずれは新しい作品に向き合うことがしんどくなってしまうような気もしているのです。

 

 なので、僕は少なくとも漫画については、自分がそれを読んでどう思ったかということばかりを気にしていて、それを上手く言葉に変換したいなと思って、そういう気持ちでいつもこのブログを書いています。

 僕の感想を読んで、今まで読んでいた漫画の別の読み方が分かったと言ってくれる人がいることもあって、その人にとってそれまで持っていなかった視点が生まれたのならいい話だなと思ったりする一方で、僕がその本をどう読んだかという、とても個人的な僕自身のことが、うっかり人の読み方に影響を与えてしまうことの危惧もあるわけですよ。

 

 まあ、別に各人が好きにすりゃいいという話ですが、他人に正解の読み方を教えてもらうのは、最初のとっかかりとしては良くても、長期的にはそれだけだとしんどくなるんじゃないかな?という想像があって、老いからオタクを続けられなくなるというような話も、ついに同年代から耳にするようになっていますが、それは、自分自身では楽しみ方を見つけられなかったせいもあるんじゃないかなと思ったという話でした(え?そういう話だったの??)。

 

 何かの作品に接して生まれる感想は、作品そのものとそれを読んだ自分との共同作業だと思っていて、だから、そのひとつひとつの読書体験が我が子のように大切だなと感じます。

 そういうことを自分はやっているように思うわけですが、感想には僕の自分語りの要素が大きいので、作者側からすると全く想定外の感想だと思われることもありそうです。そんなこと書いてないよ…みたいな。でも、感想は読者の個人の話だから…だから、なんか、かんべんな…。