漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

コミティア127に出る情報です

 ひーひー言いながら漫画を描きましたので、それを持ってコミティア127に出る予定です。前描いたやつが51ページと長かったので、今回は30ページぐらいで終わらそうと思ったのですが、なんとなくぼんやりと描いているうちに55ページになった上に、描こうと思いついたものを全部描くにはページがまだ足りないみたいな感じになって弱ったりし、自分に何の計画性もないということが分かりました。毎度ながら、先がどうなるかをちゃんと決めずに本番の原稿を描き出すのは良くないなという反省があります。

 

 でも、お話を作るのが一番悩みがあって時間がかかるので、それが終わるまで絵を入れられないと、期日までに描き上げられない可能性が高いんですよね。なので同時並行でやっていますが、たぶん間違ったやり方です。あ、でも、これは宮崎駿の映画で絵コンテが最後まで出来上がる前にスタッフが作画に入ってるみたいなのと同じじゃないですか?そう思うと、これでもいいんじゃないですか?という気持ちと、でも、そのせいでページ数のコントロールもスケジュールのコントロールも上手くできなくて、仕事が急にがっつり入ったりすると今回のようなことになるし、今回は早期入稿の割引にも間に合わなかったので、たぶん本はいつもの400円から500円にしないといけないしで、辛いですね。

 でも、いいんですよ。同人活動楽しくやっていますからね。普段仕事以外では人と会わないで暮らしているので、たまに人と会うハレの時間ですよ。

 

 そういえば、素人の漫画原稿は描写や展開の取捨選択が上手くないので冗長になるし、32ページぐらいにまとめることを意識してバンバン切っていくぐらいがいいという話を知り合いの編集の人から言われたことがあります。自分で今回の原稿を見てもここは切れるなと思ったりもするんですが、別にこれは商業の原稿ではないですし、僕もプロ志望ではないですし、こういうぐちゃぐちゃでわけがわからなくなったものは、自分の技術が今よりも向上すればむしろ描けなくなってしまうのだから、今はこれでいいんじゃないか?と、いつものように現状の自分を肯定する理屈をガンガン作っていますね。僕は自分の今を肯定するのが得意です。

 

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 さて、今回描いたのは「ラブソング」というタイトルの漫画で、例によってamazarashiの曲タイトルからとっています(理由は好きだからです)。前回のコミティアのあと、人と寿司を食いながら、「おれもそろそろ百合をやっていく時期かもしれん。百合の漫画はあまり読んだことがないが、人に聞くとキン肉マンのシルバーマンとサイコマンの関係性は百合だそうなので、そうであるなら、おれは既に百合を分かっている」というような話をし、そこに曲を聴きながら頭に浮かんだイメージとそれとの合わせでお話を作りました。

 しかしながら、結果出来上がったものが、50代の元風俗嬢2人の片方が最後拳銃をもう一人に突き付けるみたいな話になりましたので、僕が様々を完全に誤解しているような気もしてきましたね。

 

 以下に途中までアップしたので、気になったら読んでみてください。

www.pixiv.net

 

 そういえば、前回コミティア126に出した「ねえママ あなたの言うとおり」という漫画なんですけど、ティアズマガジン(会場の入場券にもなる冊子)のプッシュ&レビューというコーナーに取り上げてもらいました。よかったですね。読んでくれた人がいるんだなと思いました。よかったよかった。

 

 

 こういうイベント、お友達には基本的に来てもらえないので、僕にとっては集客はインターネットの皆さんが頼りです。なので、まあ、来てみてくださいよ。

内気な少年による少年兵の過去幻視関連

 内気な少年による妄想類型として、学校にテロリストが襲ってきて、その中で自分が大活躍をするというものがあるそうです。他人事のように書きましたが、他人事ではない気がします。

 

 これは普段は目立たない少年(妄想の主体)が実はすごい力を隠し持っていて、それを発揮することで、自分を侮っていた奴らも、気になるあの娘も、自分の評価を改め、羨望のまなざしを向けてくれるということによる大逆転感を期待した妄想ではないかと思います。さらには、漫画や小説で得た様々な豆知識を発揮するチャンスでもあり、めちゃくちゃメリットがあるので、ああ、なんでテロリストは自分の学校を襲ってこないのだろう?と思ってしまいますよね。

 

 さて、いざテロリストが襲ってきたらどうでしょう?実際にはきっと何もできないと思います。だってテロリストと実際に戦う技術を自分は体得していなかったりするからです。人によっては格闘技を習っているかもしれません。でも、銃を持って武装した集団との戦いに自信がある人はごくまれではないでしょうか?

 自分はろくに喧嘩もしたことがないけれど、でも、テロリストが来たら大活躍したい。そんな少年にやってくる新たな願望が、自分は実は外国で少年兵だった過去があるという幻視ではないかと思うのです。

 自分はもしかすると少年兵だった過去があるんじゃないか?そう思うことで、全てのつじつまが合うわけですよ。

 

 これは数多くの少年漫画でも採用されてきた事例です。

 

 例えば、スプリガンの御神苗優は、子供の頃にさらわれ、殺人機械(キリングマシーン)としての訓練を受けたという過去がありました。普段はおちゃらけた顔を見せる少年ですが、ふいにキリングマシーンとしての顔がのぞかせ、驚異的な戦闘能力を発揮したりします。しかし、そこには葛藤があるわけですよね?自分は機械ではなく人間であると。誰かに使われる道具ではなく、ひとりの意志を持った人間であると。

 以前、病院で番号で呼ばれた人が怒るという出来事があり、すごく叩かれたということがありました(これは最終的にとても悲しい話になりました)。でも、それは御神苗優だって同じことですよ。生産管理された機械としての、誰かに利用され、利用価値がなくなれば捨てられるだけの、道具として扱われていた自分と決別するための、「僕はNo.43じゃない!御神苗優だ!!」だったわけじゃないですか(台詞は記憶で書いているので正確じゃないかも)。

 

 少年兵であった過去は、その決別との葛藤の中でドラマが生まれます。たとえ、日本で銃撃戦とは全く縁がなく生まれ育ったとしても、そこにドラマを求めるならば、自分は少年兵であったのではないか?という幻視はメリットがあることでしょう。なぜなら、それがそこに到達する最短距離だからです。

 

 さて、ベトナム戦争という出来事は世の中に大きな禍根を残したもので、その影響は、数々のフィクションの中にも見られるようになりました。80年代にはベトナム戦争から帰ってきた男たちのPTSDが取り上げられた物語が数多く生まれています。例えばベトナム戦争における少年兵体験があったとした場合、80年代はかつて少年兵であった中高生にとってギリギリ活躍できる範囲です。

 

 「シティーハンター」の冴羽は、かつて中米のゲリラで少年兵をやっていた男です。「ジーザス」のジーザスは、ベトナム帰還兵を師に持ち、その後中東で傭兵として活躍した殺し屋です。書いていて思いましたが、僕がパッと思い浮かべるものはベトナム戦争は直接関係ないですね。でも、その雰囲気とか残り香とかがあったわけですよ。それらを元にした数々の映画の影響は漫画にも反映され、軍需産業や密林のゲリラの中に、少年兵の可能性があったと感じています。

 

 しかし、90年代も進んでいくとそれが段々と難しくなります。そのような残りがも薄れ、時代も合わなくなっていくからです。例えば、自分が少年兵であったとして、その舞台となった戦場とはどこなのか?という問題も出てきます。もちろん、世界の各地で紛争は起こっており、戦場はまだまだどこにでもあるでしょう。でも、自分の少年兵幻視がどこの何であるかを決めることは、適切な知識がなければだんだんと難しくなるのではないでしょうか?

 冷戦終結後には大きな戦争の恐怖は少なくとも表面上終息し、大国では紛争よりもテロリズムに注目が集まるようになります。

 

 皆川亮二の「スプリガン」では主人公は元少年兵でしたが、「ARMS」の主人公は元伝説の傭兵夫婦に人知れず戦闘とサバイバルの技術を仕込まれた少年になります。90年代にベトナム戦争や中東の戦争から続く悲しみを抱えた主人公を描いた「ジーザス」は、「闇のイージス(世界観を共有する)」ではテロリズムを描くようになります。

 

 「テロリストが学校にやってくる」という妄想は、ここにも時代性が反映されているのではないかと思います。大国同士やその代理戦争によって生み出された強大な力が、その後のテロリズムの時代に、陰のあるものを光に変えるために使われるという話です。

 現代の少年たちも、まだテロリストが学校にやってくる妄想をしているのでしょうか?そしてそのとき、自分の戦闘能力がそれに足りないという事実はどのように辻褄が合わされるのでしょうか?

 

 もしかすると、その隙間を埋めるような状況として今重用されているのが異世界転生なのかもしれませんね。あるいは、異世界から登場した何かが特別な力を与えてくれるという話です。両方とも、「自分自身が平凡である」ということと、「大活躍をしてしまう」という相反する状況を埋めるために採用される一手という役割があるように思えるからです。

 少年兵幻視は同じ種類のものだとしても、戦争というものの脅威が視界に入っていた時期だけの限定されたものかもしれません。

 

 というか、ここまで当たり前のように少年兵だった過去幻視があるみたいな話を書きましたが、ハッと気づけばそれは別に一般的な話ではなく、僕の頭の中だけに存在する概念では?という感じもしてきました。昔、学校の先輩から聞いた話では、窓の外を眺めていると宇宙の何かみたいな人が空飛ぶ乗り物に乗ってやってきて、「地球の危機だ!今すぐ乗れ!」と言われて大冒険に出たねという幻視を教えてくれたので、人によって色々あるのかもしれません。

 

 皆さんはかつて少年兵でしたか?そうでないなら、何だったんでしょうか??

イムリがクライマックスなので僕は毎月盛り上がっているぞ!!関連

 三宅乱丈の「イムリ」がここのところずっとクライマックス感があり、毎号楽しみに読んでいます。おそらくは遠くない最終回に向けて、みんなで盛り上がろうぜ!!って思うんですけど、僕に友達が少ないこともあり、周りにあんまり雑誌で読んでワーキャー言っている人がいないので、とりあえず僕が今、ひとりでどう思っているかの様子を書き残しておこうと思います。

 

 イムリがどのような設定の漫画かは端的に説明するのが難しいのですが、地球とは異なる別の星々の物語で、そこにはカーマとイコルとイムリという3種類の種族が登場し、その中で争いが起こります。カーマとイムリの間には、昔大きな戦争がありました。そして、今また同じように大きな戦争が起こってしまうかもしれないという状況なのです。

 この物語は、人と人とが信じあうことがいかに難しいかを描いたものではないかと思います。まだ単行本未発売部分があるので、直近の詳細はボカしますが、人が人を容易に信じることができないために、多くの悲劇が巻き起こります。

 その疑心暗鬼を象徴するようなものが侵犯術でしょう。侵犯術は人を支配するための能力です。人に強制的に本音を言わせることができ、そして、ついには人の自我を奪い、命令に従うだけの人形へと変えてしまうこともできます。

 なぜ、そんなことが必要なのかと言えば、他人が自分を裏切らないかどうかが不安だからでしょう。カーマは侵犯術を使って、イコルの自我を奪って奴隷として使い、侵犯術において強く特別な力を発揮するイムリを取り込んで利用します。

 

 カーマは全てを支配するために、巨大で複雑なシステムを作り上げました。しかし、実は一番弱い種族でもあります。そして、だからこそ、正面から真っ当にやれば負けるしかない弱さのために、勝つための周到なシステムを作り上げなくてはならなかったのではないでしょうか?それは悲しい存在でもあると思います。

 

 人の心を操ることができる強大な力を持つはずの存在が、普通の人間たちによって周到に組み上げられたシステムの中で利用され続けるという構図は過去作の「ペット」とも共通するものです。人と人との間で起こる仕組まれたすれちがいの悲劇は、物語という場に増幅され、取り返しのつかないほどの大きな悲劇として描かれます。

 

 他人を支配するということがどういうことかと言えば、つまり、他人から選択肢を奪うことです。自分の認めた選択以外を選べない状態に追い込まれることで、他人の意志を再生するためだけの道具として扱われてしまうということです。それは本当に自分の人生を生きていると言っていいのでしょうか?

 でも、現実だって結構そんなものです。自分の行動のどれだけが、周りに求められたからやっていることで、それを断る選択肢もなくやるしかないのか。自分の人生の舵を自分でどれだけとれているかは怪しいものだったりします。場合によっては、そのくびきから自由になることすら、誰かの作為に乗せられたことになってしまったりもします。

 

 だから、漫画を読んでいて分かるような気がするわけです。その悲しさが、そして、そんな中で自分の生きるための選択肢を自分で選び取ることの素晴らしさが。

 

 人を信じるということが難しいのは、ただ信じるということの他に、信じれるだけの根拠を求めるという道もあることでしょう。一見、前者の方が後者よりも善良な態度だと思われがちかもしれませんが、そこにも実は選択肢があると思うわけです。前者は仮に騙されたとしても大丈夫なぐらいに強く豊かな人なら取りやすい態度であって、一度でも裏切られれば全て破綻してしまうような貧しく弱い人なら後者を選ばざるを得ません。

 その豊かさの格差が、人の態度の善良さに影響するのだとすれば、その善良さと悪辣さの差は、どこまでがその人自身の責任でしょうか?

 

 もしカーマの引き起こした数々の悲劇が、彼らが弱い存在であったことに起因しているのだとしたら、それは、カーマがおとなしく負けていれば良かったのでしょうか?そこにどれだけの選択肢があったのでしょうか?

 目の前の相手が自分に対して嘘をついている可能性を捨てきれず、強制的に本音を言わせることでしか、信じられないという貧しさは、最初から信じあえていさえすれば必要のなかった無数の摩擦を生み出してしまいます。そうでもしないかぎり、信じて貰えないということの悲しさも含めて。

 

 しかしながら、カーマのしでかしたことは明確に間違っています。カーマの所業によって生まれた不幸に巻き込まれてしまった人たちならばなおさらそう思うしかないでしょう。ならば、この悲劇は何をもってして閉じられるのでしょうか?僕の印象ですが、悪行を重ねたカーマが倒され、残った善良な人々だけで幸せに暮らしましたというような話にはならないはずです。

 カーマの作り上げた支配の構造は、カーマたち自身をもただの部品として取り込み、利用していたのですから。

 

 程度の差はあれ、この世の誰もが被害者で同時に加害者なのかもしれません。作り上げられた構造を破壊することはそんな加害者と被害者を生み出す行為から、人を自由にできるかもしれません。でも、そのあとに残るのが、元々強い者が勝ち、弱い者は負けるのだとしたら、それもやはり、加害者と被害者のバランスを変えただけの別の何かになってしまう可能性だってあります。

 

 人と人はなぜ手を取り合うことができないのか?考えもせずに信じると言ってしまう毒気のなさも、信じるために無限に疑いを抱えなければならない弱さも、両極端ではなく間で悩み続けることにしか、答えはないのかもしれません。

 イムリの長い物語の中では沢山の悩みが描かれてきました。この物語が何を持って終わるのか、僕はそれをめちゃくちゃ楽しみにしています。

意見の否定と人格の否定は本当に区別できるのか?関連

 「日本人は意見の否定と人格の否定を混同する」みたいな話をネットでたまに目にするんですけど、それはそうと、意見への反論のために人格だけを否定をする、みたいなのも目にするので、そこは実は繋がっているんじゃないかな?と思いました。

 

 感情的なムカつきは、感情的にしか解決できないのかもな?という想像はあって、誰かにムカついてしまったときに、その人がどれだけ社会的に正しいことを言っていようがムカつくものはムカつくじゃないですか。そこで、「あなたのムカつきには正当性がないのでムカつくのはおかしい」と指摘されたとしても、でも、もうこっちは既にムカついてしまっているわけで、自分のその感情はどう処理すればいいのよ??みたいな感じになります。

 

 まあ、大人なので、そういう気持ちは切り替えて適当に別のことをしているうちに感情が薄くなることも分かっていて、そういうやり過ごしをするわけですが。

 

 僕が感じているところでは、議題に上がっている話についてのみの話をする能力は、訓練をしなければ身につかないもので、実際には誰かが「意見の否定」のつもりで言っていることを、よくよく聞いてみると、その中に「人格の否定」の要素が含まれていることも多々あると感じています。

 具体的に言えば、「全然ダメ、こんなので今までどうやって生きてきたの?」みたいな発言を意見の否定と思い込んで発言する人はいます。

 

 そんな中で「日本人は意見の否定と人格の否定を混同する」という言葉が飛び出すのは、つまりは、自分はアナタに否定的なことを言うが、それはあくまで意見に対するものなのに、人格の否定として受け取り、傷ついたりそれを受け入れなかったりするのは間違っているという文脈だったりするんじゃないでしょうか?

 これはよくある話で、責任の所在を話者が他人に押し付けようとする技術です。要約すれば「俺は悪くない、悪いのはお前」となる言い回しですよ。そこから出てくるのは、だから労力を払うのはお前っていうご意向ですよ。結局そういうことしか言っておらず、議論と名のついた責任の押し付け合いというものが世の中にはよくあります。

 

 さて、ここにあるのは人と人との関係性の話だと思います。人は、人と人との関係性を常に気にしてしまいますし、自分が相手よりも優位な立場にいるかどうかを常に評価し、相手との力関係を有利に動かすためのことを沢山してしまいます。そして、建前としての「人は平等」とか「パワハラはいけない」とか「法を守らなければいけない」とかをクリアするために、適当な小理屈をつけてそれを覆い隠そうとしてしまったりします。

 僕だってそうですよ。他人事ではありません。でも、自分に最後に残った誠実さと思っているのが、それに自覚的であることです。

 

 ねえ人類のみなさん、ムカついてしまったらどうしますか?感情的なムカつきを解消したいと思った時、悲しいことに、相手の感情に対して仕返しをしてやることでざまあみろという気持ちになることを目指してしまったりします。なので、意見のレベルでの理屈なんて通っていなくてもよくて、ただただ相手が嫌な気持ちになればいいと思って、そういうことをするのはその意味で理にかなっているなとも思います。

 例えば、相手が何かの作品を作っている人ならば、そのときは特に関係のない作品をこきおろして見せたり、その親や子を馬鹿にしてみたり、相手が女の人ならば「ブス」と罵ってみたりするような方法が、ここでは選ばれたりします。相手が一番傷つくであろうと想像したことをして、相手が見事傷ついた様子を見れば、それによって人と人との間に存在するパワーバランスに変化が起き、何らか気持ちが解消されるのかもしれません。

 

 人は人を見て、自分より下と思ったり、上と思ったりします。あるいは、ある人に対する評価が、自分の中と外で異なることにも敏感です。自分の中の評価が高いものが、世間で評価が低ければ「もっと評価されるべき」と言い、自分の中で評価の低いものが、世間で評価が高ければ「調子に乗っている」とか言ってしまうわけです。

 自分の中の基準と世間の基準が異なるとき、世間が間違っているので自分に合わせてほしいと思ってしまいます。これは、人間の結構どうしようもない性質なんじゃないかという疑惑があります。

 

 このレベルの話は、気を抜くと人との会話の中ですごく出てきてしまうように思うんですよね。意見の否定だけをしたいときには、そうなり得る要素を注意深く排除しなければなりません。でも、それってメリットあるんですかね?という疑問もあって、本当にしたい話が個別の意見の話ではなく、人と人との関係性の話だったら、意見と人格を混同した方がむしろ目的に合致してしまいます。

 だから、この話はややこしくなるように思います。だって、本当に意見だけの話をしたいのであれば、話者が注意深く意見だけの話になるように労力を支払うのが一番近道だと思うんですが、そうはならないことも多いじゃないですか。実はしたいのは、人と人との関係性の話だったりしませんか?

 

 そもそも、意見の良し悪しというのは価値観を巡る闘争であることも多いです。対立する2つの意見がある場合に、そのどちらを選ぶべきかは、どちらが目的により合致しているかということを根拠にするはずです。ただ、その目的が、最初に前提として共有されていないこともあって、となれば、どの価値観で目的を選ぶべきかという話をしなければなりません。そして、その価値観、人格と結びついてしまっている場合もあるんですよ。

 こんな場合に、意見だけを上手く否定するのは、相手の発言を丁寧に糸をほぐすようにより分けて、必要なものだけを選んで話すというような丁寧な仕事が必要です。

 

 で、それが意外とできてないって話です。

 

 そもそも「日本人は意見の否定をすぐに人格否定と混同するから議論ができない」っていう話自体が、その想定してる日本人に対する人格否定の要素が読み取れますからね。目の前の人がそうなってしまうなら、何がきっかけになっていて、どのようにすればそうならなくて済むのかに対する洞察がなく、ただ、「こいつは意見の否定を人格の否定を混同する議論もできない劣ったやつだ」と言いたいだけじゃないですか。分かっていますよ。僕が今書いているのも同じですよ。同じ、同じ、ぜーんぶ同じですよ。バカバカしい。

 

 そうやって、自分は人格攻撃をしながら、これはあくまで意見の否定であると上っ面だけ塗り固めて、自分は有能でお前は馬鹿だというパワーゲームをしかけて、自分の言うことを聞かないお前は劣ったやつだとのレッテル貼りをし続けることが、一番有効な相手を自分の思い通りに動かす方法だと思い込んでいるんでしょう?

 

 それはもうやめようって話ですよ。そういう願いの話ですよ。それで、じゃあ、どうするんだ?って話じゃないですか。

 

 この話は僕の中でホットなので何度も書く話なんですけど、人間は普通は自分と他人を等価値と思っちゃいないんですよ。それは自尊心の問題もあるので、等価値と思っていたら偉いって話でもないですよ。でも、自分の考えが他人のそれよりも優れていると思ったとき、他人が自分の思う優れた意見に沿わないでいるということに腹が立ってしまったりします。それって傲慢ですよね。

 そういうときに、相手に自分の言うことを聞かせるための強制力を働かせたいと思ってしまうでしょう。そしてそのとき、どのような方法をとるかというところに僕は結構目が行ってしまいます。

 

 これは平和的な方法もあるわけです。代表的なものが「お金を払う」です。私があなたにやってほしいことは、あなたの考えには沿わないかもしれないが、そこはこう、お金を払うので、ちょっとやってくれよ頼むぜってなるのはそんなに悪くはないですよね?あるいは、お互いに持ちつ持たれつで、引くところは引いて、引けないところは引けないでどうにか上手くやっていくのが社会みたいなところがあるわけじゃないですか。

 恐ろしいのは、暴力ですよ。それは、相手に拒否権を与えないやり方で、損得の損を押し付けるようなやり方です。

 

 自分の言うことを聞かなければ殴るなんて直接的なものもあれば、言うことを聞かないとひどいことになるよって脅すなんてのもあります。あるいは、精一杯傷ついて見せて、自分の言うことを聞いてくれないなんてあなたはなんて悪いやつなんだって主張するなんて方法もあります。そして、自分の言うことを聞かないだなんてお前は劣ったやつなんだな?劣ってないと言ってほしければ言うことを聞けよって圧力をかけたりなんかもあるわけです。

 

 最初に挙げた割と平和的なのと比べて、後者は暴力ですが、損得で言うと実は暴力の方が得ですよね?相手に何も支払わなくても自分の言うことを聞かせられるんですから。そういうのが流行っているわけですよ。そんで、僕は他人からそういうことをされるとめちゃくちゃ敏感に、そういうやつじゃん!!って思ってしまうんですよ。

 

 だからも金を払おう、みたいな気持ちになったり、とりあえず与えられるものを与えて、相互に上手くやる関係性を作ろうって話になるわけですよ。そして、その態度は、言うことを聞かすために人格を否定してくる人たちとは相性が悪いので、結局直接戦っても損をするし、距離をね、こう、距離をずずっととっていくわけですよ。

 そうして、僕にはごく少数のお友達と、距離感の遠い他の人たちという関係性が残っているわけですが、そんなだから孤独なんだよって言われたとしても、でも、そうじゃなきゃ辛いんで、仕方ないじゃないですか。

 

 まあ、もう、なんの話だったのか分からなくなってきました。

 

 最近読んだ漫画で、物語上の「正解」を知っているセンセイが、若者たちに問いかけをするという場面があるものがあって、それは物語上の必然として若者たちはまず「不正解」を選ばされるわけですが、その後、お前たちは間違っている、俺が正解を教えてやるみたいな感じに話が進んでいくんですよね。そういうのが何度も繰り返されるわけです。それがもう、ウワーッ自分がされたらめちゃくちゃムカつくやつだな!!って思ったわけなんですけど、なぜなら、最初に正しい自分と間違ったお前らという、俺が上、お前は下という格付けをやってから自分の意見を相手に流し込むタイプのやり方じゃないですか。これ、めちゃくちゃ卑怯ですよね。

 人格否定をまずしてから意見を流し込むタイプのそれですよ。忌避すべきやつじゃないですか。そして、それが物事を主張し、受け入れさせるための効果的な方法となってしまっていることがとても悲しい。これは悲しい話ですよ。

 

 僕の見識としては、意見の否定のために人格を否定しておくのは、相手に自分の主張を受け入れさせるためには効果的な手段なので、カジュアルに人格否定を使って自分の意見を通そうとする暴力的な人が世の中にはいて、そういうのが蔓延していれば、人は相手が人格の否定をしてきていないかに過敏になるじゃないですか。それでも、相手を自分の言うことを聞かせようとするときに出てくる防御を解かせるための言葉が「お前は意見の否定と人格の否定が区別できない」だったりしませんか?それは邪悪なのではないですか?

 だから、意見の否定だけをしたければ、それなりに気を遣って話をする必要があって、でも、それは地道で広がりにくくて、困難なやり方だなと思いますが、でも、自分が嫌なものを嫌と思い続けるためには、自分はそれをやるしかないんだよなーという感じのことを思っています。

 大事なことは大体地味。

瞬間移動と仙豆と無、あるいは移動の物語であったドラゴンボールが移動を捨てるまでの話

 ドラゴンボールはその中で移動が果たす役割が変遷する物語ではないか?という話を考えたので、その話をします。

 

 初期のドラゴンボールにおいて、移動とは物語そのものでした。山奥にひとりで暮らしていた悟空をブルマが連れ出すところからこの物語は始まるからです。そして、7つ集めれば願いが叶う球、ドラゴンボールを探すため、世界中を旅することになります。

 1年経てば復活するドラゴンボールを集める旅は、何度も繰り返され、そのたびに悟空は世界各地を巡りました。

 

 そして、サイヤ人編になってからは移動はドラマを盛り上げるための舞台装置に変化します。具体的には悟空の移動と悟空以外の移動の軸を分けることで、悟空の不在によるピンチと、適切なタイミングでの到着による状況転換を演出するようになりました。サイヤ人との戦いでも、ナメック星での戦いでも、悟空は常に遅れてやってきます。界王様の星から地球へや、地球からナメック星への移動の時間がそのための制約となっています。ちなみに、これは映画の「神と神」において、とっくについているのに出るタイミングを見計らう悟空というギャグにもされました。

 悟空がいないことによる他の人たちの活躍とピンチ、悟空がやっと到着したことによる強い状況転換という黄金の勝ちパターンがここに生まれており、そのためには物語上の要請として、悟空の遅刻が必要とされることになっています。

 

 ところが、人造人間編になって、いきなりこの手段が根本から破壊されます。それは瞬間移動の登場によるものです。悟空が宇宙で身に着けてきたこの能力は、宇宙のどこからどこへでも目当ての相手がいる場所に一瞬で移動できるようにしてしまいました。これがあれば、界王様の星からでも一瞬で戻ってこれます。ナメック星へも一瞬で行けるかもしれません。今までの黄金パターンとなっていた展開について、いきなりそれを成り立たせるための前提を破壊するようなことをしていて、かなりアヴァンギャルドなやり方をぶっこんできたなと思いました。これすごくないですか?過去の成功に全く囚われていません。

 

 瞬間移動はこのように従来便利に使っていた制約を壊す存在ですが、その副作用としてわずか1コマで宇宙のどこにでも場面転換できるという強力な武器にもなります。人造人間編以降の物語では、悟空の瞬間移動があることによる高速の場面転換によるスピーディーな物語展開が特徴です。

 どれだけ距離が離れていたとしても、悟空はすぐにそこに行って帰ってくることができます。普通は存在するものを全くの無にしてしまうという発想、これはものすごく特異であるように思えます。

 

 鳥山明の漫画の特徴とは、もしかするとこのような省略の技法によるダイナミックな物語の緩急のつけ方にあるのかもしれません。本来長いプロセスが必要なはずのものを1手で埋めるというような手法を多用するからです。

 

 それは例えば移動時間を無にする瞬間移動であり、例えば怪我の回復時間を無にする仙豆です。あるいは、ナメック星到着時に悟空が持っていた能力「探らせてくれ」かもしれません。

 ナメック星に到着したばかりで、状況が飲み込めていない悟空にクリリンが説明しようとすると、悟空は喋らなくていいとクリリンの頭に手を乗せ、「探らせてくれ」と言ってのけます。それだけで悟空は全てを把握してしまいました。なぜ悟空にこんな能力が生まれたかの説明はありません。なんとなくできるような気がしたと言ってのけるだけです。そして、この能力、この後一切出てきません。

 これはめちゃくちゃパワフルな省略の技法です。クリリンが悟空に状況説明をするということは、必要なシーケンスですが、読者にとってみれば既に把握していることを説明することになるので無駄です。読者に対して提示する必要のないものを、辻褄合わせ上必要だからと描くということはある種の誠実さかもしれませんが、鳥山明の漫画ではそれはむしろ不誠実ということなのでしょう。読者に必要なものだけを高密度に提供することができればよく、そうでない部分は限りなく省略するということに美学があるように感じることができます。

 これはもしかするとドラゴンボールの連載が、他の漫画よりもページ数が短かったこととも関係しているかもしれません。そんなことをゆっくり描いているようなページがないからです。

 

 これ以外にも、ナメック星のドラゴンボールでは複数の人間を一度に生き返らせることができないという制約が、「パワーアップさせておいた」の一言で解消されてしまったりもしました。今必要なことがあり、それが何らかの理由で手間暇をかけなければ解消できないという状況があったとき、鳥山明の漫画では、それを一手で無に変えてしまうという手段を堂々ととってきます。

 

 これ、ほんとなかなかできないことだと思うんですよ。不要なものは描かないということを、ここまで徹底することは。ハンターハンターでも制約と誓約というバランス調整機構があるじゃないですか。大きな力を使うにはそれなりのリスクを背負う必要があります。でも、ドラゴンボールではそこが無になることがあるんですよね。描くべきことでありさえすればゼロから無限が生まれ、描く必要がなければ無限がゼロに納まります。

 

 かくして、移動を使って物語をコントロールしていたドラゴンボールは、その移動を完全な無に置き換えてしまいました。それによって、鳥山明の作劇では、様々な制約が取り払われ、将棋に喩えれば、あらゆる局面であらゆる駒がいきなり王手をかけられるようなダイナミックさが生まれたように思います。

 どこかの誰かに辿り着くという、本来は物語的に重要な手順にも思えるものを完全に取り払うことができるのですから。そして、これは同時に異常です。

 

 だって考えてみてくださいよ。ジョジョ3部で承太郎たちが瞬間移動が使えれば、ディオの元に辿りつくのも1コマです。こんな状況では描けない種類の物語も沢山生まれてしまいます。

 

 このように考えてみると、人造人間編における悟空の心臓病や、魔人ブウ編における既に死んでいるということは、いつでもどこでも登場できる悟空というチートキャラに対する追加の制約として与えられたものであるという視点が出てきます。

 

 ドラゴンボールにおける悟空という存在の特性は「どんな状況でもなんとかしてくれる」ところにあるんじゃないかと思っていて、だからこそ、悟空はどこにでも存在してほしい反面、存在されるとなんとかされてしまうという厄介さがあります。ドラゴンボール魔人ブウ編で終わったのは、その意味で悟空が強い概念になり過ぎてしまったので、これ以上のことはできないということになったんじゃないかと思うんですよね。戦闘力という意味ではなく、概念としてです。

 いつでもどこでも現れて、なんでもなんとかしてしまうのであれば、もう十分でしょう。もう十分ですよ。存在しているだけでいい。悟空に追加で与えられた制約も、ついには全て解消してしまいました。

 以下、関連文です。

mgkkk.hatenablog.com 

 移動から始まったドラゴンボールの物語は、移動を無にすることで終わりに向かいました。

 

 また、この辺を対比するなら、「うしおととら」や「ダイの大冒険」です。「金色のガッシュ」などもそうかもしれません。これらの漫画には終盤、日本中や世界中の人々、あるいは今まで戦ってきた魔物の子供たちと心をひとつにするシーンが出てきます。それにより、うしおととらの旅が無駄ではなかったこと、ダイたち旅が無駄ではなかったこと、ガッシュの戦いが無駄ではなかったことが描かれます。その過程で人と人との繋がりが生まれ、勝因に結び付くからです。

 僕はこのような展開がめちゃくちゃ好きですが、一方、ドラゴンボールではそれはあくまで限定的なものでしかなかったという異様にドライなことが描かれるんですよね。悟空が旅の中で出会った悟空を知る人々が貸してくれた力(移動が生み出した力)は、魔人ブウを倒すには全然足りません。その最後の決め手になるのは悟空ではなく、ミスターサタンの呼びかけです。

 

 やって来てくれさえすればなんでもなんとかしてくれる異常な概念と化した悟空に、まだ決定的に欠けていたものがありました。そして、それを持っていたミスターサタンによって戦いが締まったのは、お話として異端でもあり、だからこそ綺麗な終わり方でもあると思いました。

 以下、関連文です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 とはいえ、今もやっているドラゴンボール超のシリーズでは、悟空でも絶対に勝てない上位存在を出してくることで、ここのバランスについて再調整が行われつつ、さらなる物語展開が出てきてよいですね。

 この前公開された映画の「ドラゴンボール超 ブロリー」めっちゃよかったですよ。みんなも見よう!!

宗教に対する色々な気持ち関連2019

 「宗教」という言葉には日本ではあまり良いイメージがないかもしません。

 僕自身特定の宗教には入っていません。ただし、自分なりの信仰というか、あらゆるルールの前に守るべき規範というようなものは設定して生きています。それが人によっては宗教と同質のものなのかもしれないという認識があります。

 

 例えば、考えすぎて前に進めないときに、「これはこういうものだ」と信じることで前に進めることだってあるじゃないですか。そこで限界まで悩むことが誠実さだろ?って話も分かります。でも、時間も労力も有限で、悩んでばかりもいられないじゃないですか。だから、そのように最初から答えが決まっている信仰を獲得していることが、とにかく先に進むための言い訳として機能することもあるわけです。信仰があるおかげで、かろうじて前に進めているような状態ですよ。事実、僕自身もそうしているわけで。

 そもそもあらゆることに誠実なだけの考える時間と納得のいく答えを得て、それを周囲と共有していくということをひとりひとりがやっていくことは、現実的には難しいと思っていて、だから、どこかで誰かが考えたものを正しいものとして信じていくということが必要とされがちなのではないでしょうか?

 それが宗教という存在が担う領域のひとつなのではないかと僕は感じています。そこが宗教と呼ばれるものじゃなくても、別の何かで普通は埋められているものだったりしないでしょうか?それは、法律かもしれません、道徳かもしれません、マナーやルールかもしれません、あるいは世間の空気かもしれません。

 あらゆることに自分でじっくり答えを出せるほどにはゆったりとしていない世の中では、「とにかく答えを獲得するためのショートカット」として、「何かを信じる」ということが求められがちです。

 

 日本の文化には、様々な宗教の様々な様式が入り混じっていて、もはや明確に区別することに意味を成さない独特なものとして息づいているように思います。ただ、それらの多くはただの形式の模倣であって、その宗教の核のような部分がその中にあまり含まれていないんじゃないかとも思います。それを無宗教と呼んでいるのかもしれません。

 でも今挙げたように、特定の宗教ではなくとも、何かを信じるということで世の中を生きやすくすることはきっと誰しもあるはずです。

 

 「信仰とは信じるために信じることである」

 

 僕のこの宗教観はグレッグ・イーガンの「順列都市」に登場するマリアとその母のやり取りに強く影響を受けています。マリアの母は、新興宗教である「何も変えない神の教会」の信者です。この新興宗教の教義はシンプルで、「神は存在し、そして人には何一つ影響を与えません」。つまり、信仰することによる利得は何一つなく、ただ神を信じることのみがその意味です。

 ここで説かれるのは、信じるために信じるということ、つまり、定義が入れ子になった同語反復(トートロジー)です。論理的には全く無意味なそれが、人が生きる上での手がかりになることを母は説き、信仰を築くならばファンタジィよりもトートロジーの上の方がましだと言うのです。マリアにはそんな母がまるで理解できません。マリアは肉体の死が近い母にスキャン(人格のコピーをコンピュータの中に作ること)を受けるように求めますが、母はそれを拒絶します。

 物事を考えるとどこかで答えが出せないところが出てきます。いくら考えても答えがでないことを考え続けることに疲れてしまった僕は、一部の考えを、理由のあるものではなく、トートロジーとしての信仰のように受け入れることにしました。そう考えると、物事への取り組み方がシンプルに整理できたんですよね。

 

 僕が抱えている信仰の一つを例示してみると「あらゆる人間は平等である」などがあります。これが信仰となったのは、いくら考えても自分が納得できる理由を得ることができなかったからです。

 「そんなことはない、人は平等じゃないか」と思ったりするかもしれませんが、僕もそう思いたいですが、でも、他人を別の誰かと比べて価値がないなどと思ったことはないでしょうか?僕はあるんですよ。悲しいことに。人は平等だなんてうそぶきながら、何かしらの条件を付けて、価値のある人間と価値のない人間に分けようとしてしまったりします。自分のその性質に気づいてしまったので、そこを信仰で塗りつぶすことにしました。

 理由はなく人は平等です。それは信仰だからそれでかまいません。信仰によって提示される「人は平等である」という前提から、色々なことを解釈することで様々な物事に相対するときの思考をシンプルにしました。

 

 僕はこのような感じに、まったく理屈で説明できないことを恒真な信仰として取り込むことで物事を考えています。その信仰を共有していない人から見れば、イカレていると見えるでしょう。無から結論を得ているからです。

 信仰の強いところは、ロジックに負けないことです。なぜなら最初に確信があるからです。組み上げられたパズルはバラバラにして組み替えられますが、一枚の岩ではそれはできません。どのような理屈を並べ立てても、そこが真であることを崩すことができません。信仰の厄介な部分もまたそれです。受け入れるか、破壊するしかないのです。

 

 僕はこのように信仰とか、宗教とかを捉えていて、一般的に名前のついていないものでも、このように信じるために信じるという領域に入っていれば宗教の範疇に入ると思っていますし、そのような信仰同士が対立し、争う場合には、宗教闘争だなと思ったりします。でもって、僕も自身の信仰をバリバリに自覚しているので、ここで出てくる宗教という言葉には特にネガティブな意味はないんですよ。

 自分自身の信仰を確かめる方法は簡単で、何かの考えがあったとき、「それはなぜ」を5~7回ぐらい繰り返せば、「だってそういうものだから」みたいな野蛮な決めつけが登場するでしょう。それです。

 

 例えば、何かの少年漫画が素晴らしいと感じたとして、その理由を「少年の成長を描いているから」と答えたとします。一見理屈っぽいですが、なぜ少年の成長を描いていれば素晴らしいのかの説明がありません。なぜ老人の死を雑然と描いた漫画ではダメなのでしょうか?読者として想定している少年に対してはそれが重要なことだからでしょうか?でも、それは本当でしょうか?

 なぜ?なぜ?を続けれていけば、結局それはそういうものなんだよ!で済ますしかない領域に到達します。もしくは理屈ではない強烈な体験が、そのもの根拠に成り代わることもあります。そして、それらを信仰として受け入れてしまうか、さらに理由を考え続けるかの選択肢が人にはあるわけです。

 

 このように、人は普通は何かを信じて生きていて、何を信じるかは人によって違うということです。同じものを信じている人が集まり、互いにそれを強め合うならばきっと宗教や類似する何かになります。何も信じないでやっていける人は異常に強いか、悩み過ぎて心を病みがちな印象があります。

 

 僕はこのような考えなので、宗教を信仰するということに対しては、それが自分に必要だと思ったならすればいいんじゃん?って思います。僕自身が似たようなもので心を固めている以上、それは自分を許すための判断となるからです。

 

 世の中には、宗教を信じている人を、宗教を信じているからという理由で馬鹿にしている人がいます。それはつまり、誰かがくれた答えを疑うこともなく信じている人に対して、自分はそれを信じていないということに何か意味を見いだしているのではないかと思うのですが、だからといって、信じていない人が身の回りにあるひとつひとつの問題について、自分で根拠を持って答えを出しているかというと、別にそんなことはないようにも思います。

 科学とかはその典型例で、科学とはおおざっぱに言えば「疑うこと」ですが、科学を信じてしまう人もいます。

 でも、それも仕方がないわけですよ。これまでの歴史で無数の人々が踏み固めてきた科学について、自分でひとつひとつ検証するには時間も手間も環境もお金も足りないのですから。だから信じることにしたわけでしょう?でも、それって宗教を信じていることとどれぐらい違うんでしょうかね?結構違うと思います。ただ、そこにいざとなれば自分で徹底的に疑い、反証するという態度がないのであれば、何を信じるかを選択したに過ぎないようにも思えます。

 海外に出た何とかという論文にこういうことが書いてあった、という話題のときに、元の論文を読んでみる人は少ないように見えますし、自分でも再現実験をしてみようとする人はもっと少ないでしょう。でも、そんなふうに、それを信じるか信じないかというところにしか足場がないなら、それも結局、信仰の問題となってしまうのではないでしょうか?

 なぜ信じるのでしょうか?なぜ信じないのでしょうか?信じた方が都合がいいからでしょうか?自分が信じている人が、信じていると言ったからでしょうか?もしくはその逆でしょうか。

 

 何もかもを疑い続けることができなかった僕は信仰に走りましたが、みなさんは疑っていますか?いつまで疑い続けることができますか?

「けだもののように」と最初から複雑化している社会のルールについて

 「けだもののように」は比古地朔弥の漫画で、ヨリ子という少女を巡る物語です(「学園編」「東京編」「完結編」の3冊があり、買うことができると言います)。

 彼女は多くの人間が持っている人間社会で生きていくための常識を獲得せずに育った少女で、それゆえに彼女の周りでは様々なトラブルが起こります。とりわけ目立つのは、彼女が自身の性に関して、他の人たちのように秘匿すべきものとして考えていないということでしょう。

 彼女は誰とでも性行為に及びますし、それを大したことだと思っていません。ただ、彼女は、男たちはそれを喜ぶんだなと思っているぐらいです。

 

 僕が思うに、「社会」とは「同じルールを共有した人の集まり」のことです。なので、異なるルールを持った人とは社会を作ることができません。ただし実際には、固定化されたルールがあるとは限らず、人と人との間で、何を共有するべきかというやり取りがされることも多いです。誰かの作ったルールに従うか、自分の作ったルールに従わせるか、その中間で適切なルールを考えて守ることにするか、方法は数あれ、同じルールを守ることが社会では求められます。

 そこで共有されるルールは社会によって異なります。「今」「ここ」で共有されているルールは、「過去や未来」「どこか別の場所」であったなら共有できないものかもしれません。そこに何か絶対的な守るべきルールがあるとは限らないわけです。たまたま今のここがそういうルールで動いていているというだけで、それに合わせることができない人はその社会から爪弾きとなり、場合によっては刑務所に入れられて隔離されてしまったりもします。

 

 ヨリ子は、奔放な母と暮らした日々の中で、現代の多くの日本人が抱えているルールとは異なるものに寄り添って生きてきました。幼い娘を連れたままで体を売るようにして生きてきた母は、性を狭く秘匿すべきものとして教えず、広く開いて多くの人々に分け与えるものであるかのようにヨリ子に伝えます。そんな母を失ったあとのヨリ子は、母と同じように生きようとしました。幼いながらに、性的な関係を他人と持つことを良いことだと考えて生きるのです。それが他人と仲良くするための手段だと。そして、それは世間の常識からはかけ離れている認識です。

 

 彼女には寄り添うべき社会がありません。人と同じ姿をしているにも関わらず、社会の隙間に生きているけだもののような存在です。彼女の社会との接点は、概ねその間に入る男によってもたらされ、そして、その男との関係においては性は切り離せないものとなっています。

 もし、彼女が男であったのなら、そのような生き方をしたでしょうか?そこには男女の非対称性があります。今ここでは秘匿されるべきと考えられている性を、自由に分け与えるように振る舞う女性という存在の特異性が、本来居場所のないはずの社会の中に、男との間に別の小さく特別な社会を作ることで、生きることができるようになっています。

 つまり、ヨリ子は、大きな社会に属することができない人間でありながら、別の小さな社会に属することで生きていくことになるわけです。それは見ようによっては不幸と言えるかもしれません。男の庇護の下でなければ生きる手段がないとも解釈することができるからです。しかし、ヨリ子自身はそうは思っていないように思えます。彼女はただ、生きるということを選択しているに過ぎないからです。

 

 食べるものがあって、寝る場所がある、それだけが彼女にとっての生きることの意味です。それがどのような手段によってもたらされるかは重要なことではないわけです。「間に男を挟まなければ社会に居場所を獲得できないという不幸」というものも、こちら側の目線でしかありません。

 

 一方、人々がヨリ子に見いだすのは性ばかりではありません。自分たちを押しつぶすような息苦しいルールに、彼女が全く寄り添わずに生きているという、その自由さに憧れる気持ちもあるわけです。社会に生きるためには、その社会の要求するルールに沿わなければなりません。それがどれだけ苦しいことであったとしても、そのルールを受け入れることこそが、社会に属するための手段であることも多いからです。

 社会から飛び出して、孤独なけだもののように強く生きることができない人々は、ヨリ子の姿に、自分では決して到達できない光を見いだしてしまいます。

 

 ヨリ子には理解できません。なぜ温かい布団を得るために、窓ガラスを壊して他人の家に入り込んではいけないのか。なぜ、まだ食べれるものなのにゴミ箱に捨てられたものは口にしてはいけないのか。なぜ誰かが育てている野菜を、勝手に食べてはいけないのか。なぜ生きるために、毎日働かなくてはならないのか。なぜ求められるままに男と体を重ねることがよくないことなのか。彼女にはそれが理解できませんが、ある少年と生きる中で、その無理解の摩擦を感じるようになったことが、彼女を疲弊させ始めます。

 人はなぜけだもののように生きてはならないのでしょうか?

 

 しかしながら、彼女が最後にした選択は、けだもののようであった自分を放棄することです。ただし、それは社会のルールを押し付けられたわけではなく、自分がよりよく生きていくための手段が「人間として生きる」ということだと辿り着いたのだと思います。「人であることを求められた」わけではなく、「人になりたい」と思ったこと、それはもしかすると彼女がそれまで持っていた神秘性を失わせるものかもしれませんが、人がなぜ人になったかの歴史の再現でもあるのかもしれません。

 だから、彼女は「けだもののように生きてきた」ことで、「誰よりも正面から向き合って、人間として生きるということを獲得した」のではないかと思えました。

 

 世の中にはたくさんの何故があります。何故そうしてはいけないのか、何故そうしなければならないのか、その明確な答えは得られないままに、それを守ることが求められることもあります。もしかすると、明確な答えなんて存在しないものもあるのかもしれません。もしかすると、立場によって違う答えもあるのかもしれません。

 ただ、あらゆるものを「そんなもんだ」とただ受け入れてきた先に、なんだかよく分からない雁字搦めになっていることだってあるじゃないですか。

 

 上手くやっていくために作られたはずの様々なルールが、それをただ信じることによって複雑化されていくということは、世の中では本当によくあることです。例えば、仕事上で求められるセキュリティ対策だってそうでしょう?その中には、おおよそ意味があるとも思えないルールを守らざるを得なくなっていたりします。長く運用されているシステムが、場当たり的な拡張の繰り返しの結果、もはや正確な仕様も分からないお化けになってしまっていることにだって何度も遭遇したことがあります。

 なぜそうなのかは分からないのに、それを使うしかない以上、それを守ることになっているなんてことがあります。それは、世の中で自然に起こってしまうことだとでも思うしかないかもしれません。

 

 今は結構いい世の中になってきていると思うんですよ。それは人間が長年社会をやってきた中で、上手くやっていくためのルールが整備され、増えてきたからだと思います。そして、その一方では、そのルールが理由も理解できないままに増えてしまったことに窮屈さを覚えてしまう人だっているのでしょう。

 だからといって、人はけだもののようには生きられません。人は社会を作って生きるしかないと思うからです。ただその中では、それをただ受け入れるのではなく、ヨリ子のように、迷いながらも、人間を獲得するという過程が実は必要なのかもしれません。答えは最初から示されているのに、それを理解するにはひどく大回りをしてしまうということ。それは、僕自身のこれまでを振り返ってもあることだなと思います。

 

 人の歴史は長く、それに比べて人生は短い。それでも、その中でよりよく生きる道を選び取るためには、一度けだものの視点からやりなおして、自ら人間になるということが必要なのかもしれません。