漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

宗教に対する色々な気持ち関連2019

 「宗教」という言葉には日本ではあまり良いイメージがないかもしません。

 僕自身特定の宗教には入っていません。ただし、自分なりの信仰というか、あらゆるルールの前に守るべき規範というようなものは設定して生きています。それが人によっては宗教と同質のものなのかもしれないという認識があります。

 

 例えば、考えすぎて前に進めないときに、「これはこういうものだ」と信じることで前に進めることだってあるじゃないですか。そこで限界まで悩むことが誠実さだろ?って話も分かります。でも、時間も労力も有限で、悩んでばかりもいられないじゃないですか。だから、そのように最初から答えが決まっている信仰を獲得していることが、とにかく先に進むための言い訳として機能することもあるわけです。信仰があるおかげで、かろうじて前に進めているような状態ですよ。事実、僕自身もそうしているわけで。

 そもそもあらゆることに誠実なだけの考える時間と納得のいく答えを得て、それを周囲と共有していくということをひとりひとりがやっていくことは、現実的には難しいと思っていて、だから、どこかで誰かが考えたものを正しいものとして信じていくということが必要とされがちなのではないでしょうか?

 それが宗教という存在が担う領域のひとつなのではないかと僕は感じています。そこが宗教と呼ばれるものじゃなくても、別の何かで普通は埋められているものだったりしないでしょうか?それは、法律かもしれません、道徳かもしれません、マナーやルールかもしれません、あるいは世間の空気かもしれません。

 あらゆることに自分でじっくり答えを出せるほどにはゆったりとしていない世の中では、「とにかく答えを獲得するためのショートカット」として、「何かを信じる」ということが求められがちです。

 

 日本の文化には、様々な宗教の様々な様式が入り混じっていて、もはや明確に区別することに意味を成さない独特なものとして息づいているように思います。ただ、それらの多くはただの形式の模倣であって、その宗教の核のような部分がその中にあまり含まれていないんじゃないかとも思います。それを無宗教と呼んでいるのかもしれません。

 でも今挙げたように、特定の宗教ではなくとも、何かを信じるということで世の中を生きやすくすることはきっと誰しもあるはずです。

 

 「信仰とは信じるために信じることである」

 

 僕のこの宗教観はグレッグ・イーガンの「順列都市」に登場するマリアとその母のやり取りに強く影響を受けています。マリアの母は、新興宗教である「何も変えない神の教会」の信者です。この新興宗教の教義はシンプルで、「神は存在し、そして人には何一つ影響を与えません」。つまり、信仰することによる利得は何一つなく、ただ神を信じることのみがその意味です。

 ここで説かれるのは、信じるために信じるということ、つまり、定義が入れ子になった同語反復(トートロジー)です。論理的には全く無意味なそれが、人が生きる上での手がかりになることを母は説き、信仰を築くならばファンタジィよりもトートロジーの上の方がましだと言うのです。マリアにはそんな母がまるで理解できません。マリアは肉体の死が近い母にスキャン(人格のコピーをコンピュータの中に作ること)を受けるように求めますが、母はそれを拒絶します。

 物事を考えるとどこかで答えが出せないところが出てきます。いくら考えても答えがでないことを考え続けることに疲れてしまった僕は、一部の考えを、理由のあるものではなく、トートロジーとしての信仰のように受け入れることにしました。そう考えると、物事への取り組み方がシンプルに整理できたんですよね。

 

 僕が抱えている信仰の一つを例示してみると「あらゆる人間は平等である」などがあります。これが信仰となったのは、いくら考えても自分が納得できる理由を得ることができなかったからです。

 「そんなことはない、人は平等じゃないか」と思ったりするかもしれませんが、僕もそう思いたいですが、でも、他人を別の誰かと比べて価値がないなどと思ったことはないでしょうか?僕はあるんですよ。悲しいことに。人は平等だなんてうそぶきながら、何かしらの条件を付けて、価値のある人間と価値のない人間に分けようとしてしまったりします。自分のその性質に気づいてしまったので、そこを信仰で塗りつぶすことにしました。

 理由はなく人は平等です。それは信仰だからそれでかまいません。信仰によって提示される「人は平等である」という前提から、色々なことを解釈することで様々な物事に相対するときの思考をシンプルにしました。

 

 僕はこのような感じに、まったく理屈で説明できないことを恒真な信仰として取り込むことで物事を考えています。その信仰を共有していない人から見れば、イカレていると見えるでしょう。無から結論を得ているからです。

 信仰の強いところは、ロジックに負けないことです。なぜなら最初に確信があるからです。組み上げられたパズルはバラバラにして組み替えられますが、一枚の岩ではそれはできません。どのような理屈を並べ立てても、そこが真であることを崩すことができません。信仰の厄介な部分もまたそれです。受け入れるか、破壊するしかないのです。

 

 僕はこのように信仰とか、宗教とかを捉えていて、一般的に名前のついていないものでも、このように信じるために信じるという領域に入っていれば宗教の範疇に入ると思っていますし、そのような信仰同士が対立し、争う場合には、宗教闘争だなと思ったりします。でもって、僕も自身の信仰をバリバリに自覚しているので、ここで出てくる宗教という言葉には特にネガティブな意味はないんですよ。

 自分自身の信仰を確かめる方法は簡単で、何かの考えがあったとき、「それはなぜ」を5~7回ぐらい繰り返せば、「だってそういうものだから」みたいな野蛮な決めつけが登場するでしょう。それです。

 

 例えば、何かの少年漫画が素晴らしいと感じたとして、その理由を「少年の成長を描いているから」と答えたとします。一見理屈っぽいですが、なぜ少年の成長を描いていれば素晴らしいのかの説明がありません。なぜ老人の死を雑然と描いた漫画ではダメなのでしょうか?読者として想定している少年に対してはそれが重要なことだからでしょうか?でも、それは本当でしょうか?

 なぜ?なぜ?を続けれていけば、結局それはそういうものなんだよ!で済ますしかない領域に到達します。もしくは理屈ではない強烈な体験が、そのもの根拠に成り代わることもあります。そして、それらを信仰として受け入れてしまうか、さらに理由を考え続けるかの選択肢が人にはあるわけです。

 

 このように、人は普通は何かを信じて生きていて、何を信じるかは人によって違うということです。同じものを信じている人が集まり、互いにそれを強め合うならばきっと宗教や類似する何かになります。何も信じないでやっていける人は異常に強いか、悩み過ぎて心を病みがちな印象があります。

 

 僕はこのような考えなので、宗教を信仰するということに対しては、それが自分に必要だと思ったならすればいいんじゃん?って思います。僕自身が似たようなもので心を固めている以上、それは自分を許すための判断となるからです。

 

 世の中には、宗教を信じている人を、宗教を信じているからという理由で馬鹿にしている人がいます。それはつまり、誰かがくれた答えを疑うこともなく信じている人に対して、自分はそれを信じていないということに何か意味を見いだしているのではないかと思うのですが、だからといって、信じていない人が身の回りにあるひとつひとつの問題について、自分で根拠を持って答えを出しているかというと、別にそんなことはないようにも思います。

 科学とかはその典型例で、科学とはおおざっぱに言えば「疑うこと」ですが、科学を信じてしまう人もいます。

 でも、それも仕方がないわけですよ。これまでの歴史で無数の人々が踏み固めてきた科学について、自分でひとつひとつ検証するには時間も手間も環境もお金も足りないのですから。だから信じることにしたわけでしょう?でも、それって宗教を信じていることとどれぐらい違うんでしょうかね?結構違うと思います。ただ、そこにいざとなれば自分で徹底的に疑い、反証するという態度がないのであれば、何を信じるかを選択したに過ぎないようにも思えます。

 海外に出た何とかという論文にこういうことが書いてあった、という話題のときに、元の論文を読んでみる人は少ないように見えますし、自分でも再現実験をしてみようとする人はもっと少ないでしょう。でも、そんなふうに、それを信じるか信じないかというところにしか足場がないなら、それも結局、信仰の問題となってしまうのではないでしょうか?

 なぜ信じるのでしょうか?なぜ信じないのでしょうか?信じた方が都合がいいからでしょうか?自分が信じている人が、信じていると言ったからでしょうか?もしくはその逆でしょうか。

 

 何もかもを疑い続けることができなかった僕は信仰に走りましたが、みなさんは疑っていますか?いつまで疑い続けることができますか?

「けだもののように」と最初から複雑化している社会のルールについて

 「けだもののように」は比古地朔弥の漫画で、ヨリ子という少女を巡る物語です(「学園編」「東京編」「完結編」の3冊があり、買うことができると言います)。

 彼女は多くの人間が持っている人間社会で生きていくための常識を獲得せずに育った少女で、それゆえに彼女の周りでは様々なトラブルが起こります。とりわけ目立つのは、彼女が自身の性に関して、他の人たちのように秘匿すべきものとして考えていないということでしょう。

 彼女は誰とでも性行為に及びますし、それを大したことだと思っていません。ただ、彼女は、男たちはそれを喜ぶんだなと思っているぐらいです。

 

 僕が思うに、「社会」とは「同じルールを共有した人の集まり」のことです。なので、異なるルールを持った人とは社会を作ることができません。ただし実際には、固定化されたルールがあるとは限らず、人と人との間で、何を共有するべきかというやり取りがされることも多いです。誰かの作ったルールに従うか、自分の作ったルールに従わせるか、その中間で適切なルールを考えて守ることにするか、方法は数あれ、同じルールを守ることが社会では求められます。

 そこで共有されるルールは社会によって異なります。「今」「ここ」で共有されているルールは、「過去や未来」「どこか別の場所」であったなら共有できないものかもしれません。そこに何か絶対的な守るべきルールがあるとは限らないわけです。たまたま今のここがそういうルールで動いていているというだけで、それに合わせることができない人はその社会から爪弾きとなり、場合によっては刑務所に入れられて隔離されてしまったりもします。

 

 ヨリ子は、奔放な母と暮らした日々の中で、現代の多くの日本人が抱えているルールとは異なるものに寄り添って生きてきました。幼い娘を連れたままで体を売るようにして生きてきた母は、性を狭く秘匿すべきものとして教えず、広く開いて多くの人々に分け与えるものであるかのようにヨリ子に伝えます。そんな母を失ったあとのヨリ子は、母と同じように生きようとしました。幼いながらに、性的な関係を他人と持つことを良いことだと考えて生きるのです。それが他人と仲良くするための手段だと。そして、それは世間の常識からはかけ離れている認識です。

 

 彼女には寄り添うべき社会がありません。人と同じ姿をしているにも関わらず、社会の隙間に生きているけだもののような存在です。彼女の社会との接点は、概ねその間に入る男によってもたらされ、そして、その男との関係においては性は切り離せないものとなっています。

 もし、彼女が男であったのなら、そのような生き方をしたでしょうか?そこには男女の非対称性があります。今ここでは秘匿されるべきと考えられている性を、自由に分け与えるように振る舞う女性という存在の特異性が、本来居場所のないはずの社会の中に、男との間に別の小さく特別な社会を作ることで、生きることができるようになっています。

 つまり、ヨリ子は、大きな社会に属することができない人間でありながら、別の小さな社会に属することで生きていくことになるわけです。それは見ようによっては不幸と言えるかもしれません。男の庇護の下でなければ生きる手段がないとも解釈することができるからです。しかし、ヨリ子自身はそうは思っていないように思えます。彼女はただ、生きるということを選択しているに過ぎないからです。

 

 食べるものがあって、寝る場所がある、それだけが彼女にとっての生きることの意味です。それがどのような手段によってもたらされるかは重要なことではないわけです。「間に男を挟まなければ社会に居場所を獲得できないという不幸」というものも、こちら側の目線でしかありません。

 

 一方、人々がヨリ子に見いだすのは性ばかりではありません。自分たちを押しつぶすような息苦しいルールに、彼女が全く寄り添わずに生きているという、その自由さに憧れる気持ちもあるわけです。社会に生きるためには、その社会の要求するルールに沿わなければなりません。それがどれだけ苦しいことであったとしても、そのルールを受け入れることこそが、社会に属するための手段であることも多いからです。

 社会から飛び出して、孤独なけだもののように強く生きることができない人々は、ヨリ子の姿に、自分では決して到達できない光を見いだしてしまいます。

 

 ヨリ子には理解できません。なぜ温かい布団を得るために、窓ガラスを壊して他人の家に入り込んではいけないのか。なぜ、まだ食べれるものなのにゴミ箱に捨てられたものは口にしてはいけないのか。なぜ誰かが育てている野菜を、勝手に食べてはいけないのか。なぜ生きるために、毎日働かなくてはならないのか。なぜ求められるままに男と体を重ねることがよくないことなのか。彼女にはそれが理解できませんが、ある少年と生きる中で、その無理解の摩擦を感じるようになったことが、彼女を疲弊させ始めます。

 人はなぜけだもののように生きてはならないのでしょうか?

 

 しかしながら、彼女が最後にした選択は、けだもののようであった自分を放棄することです。ただし、それは社会のルールを押し付けられたわけではなく、自分がよりよく生きていくための手段が「人間として生きる」ということだと辿り着いたのだと思います。「人であることを求められた」わけではなく、「人になりたい」と思ったこと、それはもしかすると彼女がそれまで持っていた神秘性を失わせるものかもしれませんが、人がなぜ人になったかの歴史の再現でもあるのかもしれません。

 だから、彼女は「けだもののように生きてきた」ことで、「誰よりも正面から向き合って、人間として生きるということを獲得した」のではないかと思えました。

 

 世の中にはたくさんの何故があります。何故そうしてはいけないのか、何故そうしなければならないのか、その明確な答えは得られないままに、それを守ることが求められることもあります。もしかすると、明確な答えなんて存在しないものもあるのかもしれません。もしかすると、立場によって違う答えもあるのかもしれません。

 ただ、あらゆるものを「そんなもんだ」とただ受け入れてきた先に、なんだかよく分からない雁字搦めになっていることだってあるじゃないですか。

 

 上手くやっていくために作られたはずの様々なルールが、それをただ信じることによって複雑化されていくということは、世の中では本当によくあることです。例えば、仕事上で求められるセキュリティ対策だってそうでしょう?その中には、おおよそ意味があるとも思えないルールを守らざるを得なくなっていたりします。長く運用されているシステムが、場当たり的な拡張の繰り返しの結果、もはや正確な仕様も分からないお化けになってしまっていることにだって何度も遭遇したことがあります。

 なぜそうなのかは分からないのに、それを使うしかない以上、それを守ることになっているなんてことがあります。それは、世の中で自然に起こってしまうことだとでも思うしかないかもしれません。

 

 今は結構いい世の中になってきていると思うんですよ。それは人間が長年社会をやってきた中で、上手くやっていくためのルールが整備され、増えてきたからだと思います。そして、その一方では、そのルールが理由も理解できないままに増えてしまったことに窮屈さを覚えてしまう人だっているのでしょう。

 だからといって、人はけだもののようには生きられません。人は社会を作って生きるしかないと思うからです。ただその中では、それをただ受け入れるのではなく、ヨリ子のように、迷いながらも、人間を獲得するという過程が実は必要なのかもしれません。答えは最初から示されているのに、それを理解するにはひどく大回りをしてしまうということ。それは、僕自身のこれまでを振り返ってもあることだなと思います。

 

 人の歴史は長く、それに比べて人生は短い。それでも、その中でよりよく生きる道を選び取るためには、一度けだものの視点からやりなおして、自ら人間になるということが必要なのかもしれません。

漫画における「選択と集中」の描写の話

 仕事をしていると、事業領域の「選択と集中」が大事という話がされることがあり、近年はその「選択と集中」に失敗して経営に影響があるというようなものも目にします。

 

 この「選択と集中」ですが、漫画でも描かれることがあり、その代表的なもののひとつが「GS美神 極楽大作戦!!」です。

 

 GS美神は、悪霊や妖怪が世間一般で認知されており、それを駆除するためのゴーストスイーパー(GS)という職業があるような世界の物語です。主人公は、そんなGSの美神令子、そしてその助手の横島忠夫なのですが、選択と集中の話は、この横島がGSの認定試験を受ける際に登場します。

 ひょんなことから潜入捜査一貫としてGSの試験に参加することになった横島ですが、霊能力的には全くの素人であり、戦う力がありません。そこで依頼者の小竜姫の力を受けた意志を持ったバンダナの力により、潜在的な能力を引き出してもらうことになります。素人のはずの横島は、異常な煩悩による集中力により、霊能力を引き出されますが、それはそれでも試験に参加する高度な能力を持った人々の前では足りないものです。

 そこで、バンダナは一計を案じ「選択と集中」の提案をしました。

 

 つまり、手のひらの大きさに全霊力を集中して作った「サイキックソーサー」による戦いです。劣った力しか持たない横島ですが、全霊力を手のひらに集中させれば、相手の攻撃を防ぐことはできます。そして隙を見てその塊を投げつけることで大ダメージを狙います。このような戦い方を選択し、集中させることで、本来は相手にならないような格上の相手との戦う力を手にすることができるのです。

 しかしながら、それ以外の所に相手の攻撃が当たれば、即死すらありえる状況となります。

 

 ああ、なんという恐ろしいことでしょう。結果的に横島は生き延びることができ、これは選択と集中に成功した例ではあります。でも、危険な話ですよ。それは、選択した部分以外に被弾すれば死ぬリスクを背負ってまですることであったのでしょうか?しかし、それをしなければ、戦うためのスタートラインにすら立てなかったという悲しい話でもあります。弱いからそうしなければならなかったわけです。弱いことは危険で、だからこそ悲しい。

 横島は、このあと段々とそんなことをしなくても戦える男に成長していくことができます。いい加減でちゃらんぽらんな性格のままで(シリアスパートもありますが)、徐々に使える男になり、ついにはなくてはならない男にすらなっていくという姿がとてもいいので、皆さんの中に読んでない人がいたら読みましょうね。

 

 さて、このような「選択と集中」の話は「HUNTER×HUNTER」でも登場します。作中に登場する念能力には「凝」という技術があり、人間が持っているオーラを、例えば目に集中させれば、普段は見ることができないようなものを見ることができたりします。このように、全身を一定で流れるようなオーラを一部に集中させる技術は、念による戦いにおいて必須の技術です。これを推し進め、例えば拳などの一部に完全に集中させ、攻撃に使う技が「硬」です。これは横島のサイキックソーサーと同じ原理で、全身の力を一点に集中させることでとても大きな力を発揮することができます。

 主人公のゴンの必殺技は、この「硬」を使ったジャジャン拳で、その類まれなる才能によるオーラを一点集中させた力は、新米ハンターながら、プロハンターとしての先達を恐怖させるほどの威力を発揮します。

 

 こちらの場合も、集中させているところ以外を狙われると大ダメージがあるリスクの大きな技なんですよね。幻影旅団のフェイタンも「硬」と、それを武器にまとわせる「周」という技を使いますが、その必殺のタイミングで相手からの軽い飛び道具のカウンターで大きなダメージを受けてしまいました。普段は微弱なオーラで守られている肉体を完全に無防備にさせてしまう以上、攻撃を受けてしまうことは即致命傷の危険性があるのです。

 

 念の世界では、常にこのようなリスクをとることができませんから、全身の精孔から一気にオーラを噴出される「練」を維持し続ける「堅」という技術を使い、その中で0か100の「硬」ではなく、攻撃と防御にどれだけの割合で集中させるかを「凝」でコントロールする、攻防力の瞬間的な振り分けが大切であることが説かれます(これを「流」と言います)。

 体の動きだけでなくそれに合わせた念のオーラの動きも適切な割合でコントロールすることが、念の戦いに置いては重要ということですね。大きなリスクを常にとらないで済むためには、その適切な判断が重要です。

 

 さて、「選択と集中」ですが、このように漫画の中では、相対的に弱い力しか持たない者が、格上と戦うためにリスクをとるための手段、あるいは必勝のタイミングで全部の力を一点集中するためのものとして描かれており、どちらにしても危険性を伴うものとして描かれています。しかしながら、仕事の話における「選択と集中」については、その危険性があまり説明されずに語られがちなのではないでしょうか?

 領域を選択し、資源を集中した場所以外にもし何かが来たらどうするのか?それを考えた「流」を行うことの重要性があり、そうでなく「硬」やってしまえば一点の突破力はあるかもしれませんが、一撃死の危険性があります。「サイキックソーサー」や「硬」をやらざるを得ないぐらいに追い詰められており、他に資源を振り分ける体力すらないという悲しい状況もあり得るでしょうが、本当にそこまで追い詰められているのか?ということは考えてみるといいかもしれませんね。

 

 そして、漫画に描かれていることを根拠にして、リアルな仕事のことを語ることは完璧に間違っていると言ってよく、これは僕という狂人の主張です。

漫画のランキングという概念についての雑感

 漫画に順番をつけて発表するみたいなものが世の中には色々あります。このような順番のことを、専門用語でランキングと言います。そのランキングの順位がよいものが注目を集めて世間で売れたりするらしいので、売れるのはよいですしよかったですね。ただ、最近はそういうのはもうあまり売り上げに影響がないみたいな話も聞いたりするので、難しい世界だなあと思います。

 

 さて、漫画をランキングするとはどういうことかというと、漫画を不平等に扱うということだと思います。世の中は平等だ!全てに価値がある!!なんてお題目が掲げられることもありますが、ところが悲しいことに世の中は基本的に不平等で、さらには、わざわざ偏りを作ることこそが人間の営み、みたいなところまであります。

 何かの漫画と別の何かの漫画を比較して、それより上とか下とか不平等な順番をつけていくということをわざわざするわけです。それが沢山の人の分だけ投票されて集まるとよくあるランキングになります。集まる人間の数が沢山になると、その順位には何かしら意味を見いだしやすくなるかもしれません。つまり、そういうことをしているんじゃないかと思うわけです。

 

 でも、そもそも考えてみると、そのような投票行動は、実は購買行動と似ているのではないでしょうか?購買行動でも、無数にある漫画の中から自分の好きなものだけを不平等に選んで買っているからです。一冊を買うということは一票を入れるということと同じと捉えることもできます。漫画を買っているからといってランキングに投票するとは限りませんが、投票する人の多くはさすがに漫画を買っていると思うので、じゃあ、人数の総数を考えるなら、投票をしてランキングを作るよりも、売り上げランキングを見た方がいいという話にはなる気がします。

 なぜなら、それがもっとも広く世間の声を反映した、投票によるランキング行為だと捉えることもできるからです。

 

 しかしながら、世の中には売り上げとは一致しないランキングも溢れていますね?それが意味するのは、売り上げはある種の偏った投票とランキングですが、その偏りはまだまだ生ぬるく、もっともっとよりもっと偏らせたいという欲求が存在するということではないでしょうか?

 

 300万人が好きで買っている漫画と、3000人が好きで買っている漫画があったとします。売上ランキングで言えばどちらが強いかは明らかです。でも、ひとりの人間の中での話になると違います。300万人が好きな漫画の方が3000人が好きな漫画よりもすごいということは個々人にとって別に確実ではありません。なぜなら、人間ひとりひとりの存在にも偏りがあるからです。

 自分の偏りに強く一致する漫画があるならば、それが世間一般では支持されていなくとも、自分の中では一番ということがあり得ます。この場合、売り上げによるランキングは何の参考にもなりません。

 

 でもそんな誰かひとりの中だけのランキングも、他の人にとってみれば同じわけです。僕が好きな漫画のランキングを作ったとしても、それが完全に正しいのは僕の中だけの話で、他の誰かにとっては全く意味のないものかもしれません。そこには何の保証もないわけですよ。

 

 つまり、世の中には人間の数だけランキングを作ることができます。そして、それぞれの人間の中から誰と誰を選んで重ね合わせるかによっても別のランキングを作ることができます。ランキングはそのような組み合わせ爆発した無限の可能性を内包していて、世の中で発表されているものは、実は、それがどの切り口であるかどうかという意味しか持たないのではないでしょうか?

 

 権威のあるランキングがあったとして、それはつまり、まずその選者として誰を選んだかということに権威の裏付けがあるのではないかと思います。平等で同じ権利を持っているはずの世の中の全ての人の中から、どれだけ適切に偏らせた選者を不平等に選ぶかということです。そして、それらの不平等に選ばれた人たちが、さらに不平等に選んだ漫画によってランキングが決まります。

 選者の選出に不満があるなら、そもそもそのランキングは、そのような不満を抱える人にとっては無意味でしょう。そして、一方、別の誰かにとってはすごく意味があるのかもしれません。

 

 世の中にあるランキングは、参加者が多くなればなるほどに売り上げに近似していくと思います。ランキング上位は既に有名なものが選ばれる可能性が高く、何故ならば、選者の中にその漫画を知っている人の割合が大きくなるからです。人は知らないものには投票できません。知らないからです。

 だから、世界中で自分だけがよいと言っている漫画が一位に輝くのは、選者が自分自身しかいないときだけでしょう。そういうものだと思うんですよ。だから、それは別によいとか悪いとかではなくそういうものです。

 

 一方、偏りをもっとさらに偏らせる選び方もあります。それは例えば、複数の選者で結託して組織票をすることや、ひとりで何票も投票することです。これはつまり、自分たちの評価による一票に、他人の評価による一票よりも強い影響力を持たせたいという願望の話です。

 他人の感性を否定し、他人のランキングを否定し、自分たちの中にあるそれで塗りつぶすことによって、自分たちと同じ形をしたランキングが生まれます。

 

 でもそれって、結局は世界を狭くしているだけなのかもしれません。

 

 自分の内面が、自分の外にある何かを塗りつぶしたとき、そこには自分しかいないことになるからです。他人が自分とは違う感性を持つということが苦しいなら、それによって楽になるのかもしれませんが、逆に他の人たちにとっては息苦しくなるかもしれません。だから、そこは自分にとっては意味があっても、他人のとっては無意味の広がりでしかないかもしれないんですよね。

 そうなれば、そのランキング自体からそもそも外部に発信できる意味が減っていくということです。

 

 自分たちだけの偏りが色濃く反映されたランキングは、「あなた」にとっては重要なランキングかもしれません。でも、他人が「あなた」に強い興味がなければ、それはやっぱり他人にとっては無意味な情報の羅列に過ぎないと思うんですよ。それが続くのならば、きっと誰もそんなランキングは見なくなってしまうでしょう。何も得られるものがないからです。

 宇宙のずっとずっと遠くにあるアルファケンタウリの明日の天候に興味がありますか?普通はないと思います。なぜなら、それがどうであったところで自分には関係ないからです。自分が知らない誰かが興味を持っていることも、そうなってしまうかもしれません。どこの誰とも知らない誰かの中だけのランキングが、仮に世の中に出てきたところで、実際はきっとどうでもいい話なんですよ。

 

 まとめですが、ランキングという概念は、場所に無理矢理作られた偏りであって、その切り口は無数にあります。上手く切り口を選べば、無数の選択肢の前でまごまごするよりも、分かりやすく世の中を捉えることができて便利でしょう。

 でも、それは唯一無二の権威みたいなものではなくて、無数の中からたまたま選ばれた偏りのひとつでしかないと思うんですよね。だから、そんなものに囚われても仕方ないじゃないかというような感覚があります。

 

 なので、何かのランキングが発表されたとして、こんなランキングはおかしいと言う必要もないんじゃないかと思ったりしますし、そのランキングの切り口が自分に合わないと思うなら、自分の切り口を提示すればいいですし、そのランキングが多くの人に合わないものになるなら、人はその切り口を参考にしなくなっていくと思うので、そんな感じの諸行無常って感じがします。

 

 いや違うか、みんなそういうのにかこつけて、自分が好きな贔屓したい漫画が世の中でもっと受けてくれ!!って思っていたりするんですよね?きっとそうでしょ?僕は、それは、めちゃくちゃ分かりますね。この前もお友達と、どうすればこのよい漫画が世間でめちゃくちゃ受けてくれるのか?というのを一読者でしかないのに、延々話したりをしました。

 

 さて、最後にそのとき結論した、僕が好きな漫画が世の中にめちゃくちゃ知られて、めちゃくちゃ受ける方法についてのランキング第1位を発表します。

 

 「ジャスティンビーバーに期待」

 

 以上です。参考にならないでしょうね。

「ちひろさん」と1日が24時間ではない時計関連

 安田弘之の「ちひろさん」は、前作の「ちひろ」を含めてすごく好きな漫画で、前にも感想を書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ちひろさんは、ちひろと名乗る元風俗嬢のお話です。ちひろさんは、ある日ある街にやってきて、お弁当屋さんで働きながら様々な人たちと出会い、生きる様子の様々を毎月見せてくれていました。

 そして今月出た第9巻をもって、ちひろさんはまたどこかに行ってしまいました。でも、それは悲しい別れではないわけですよ。ここにちひろさんがいたということが残っていますし、そして、ちひろさんがここを捨てたというわけではないことを感じるからです。「ちひろさん」の連載が始まったとき、ああ、この人は「ちひろ」の完結からも生きていたんだなと思ったことがあり、今回も、ああ、またどこかでこの人は生きているんだろうなと思っているところです。

 ここからは、前に書いた感想文の繰り返しになる部分もありますが、今の気持ちを書いてみようと思います。

 

 さて、第一部完という感じになったところで、ちひろさんという漫画がどう良かったのかという話なんですが、ちひろさんは色んな生き方を見せてくれるんですけど、それが必ずしも「べからず」ではないというところがあると思うんですよね。

 

 世の中にあるノウハウの共有やアドバイスみたいなものは、「べからず集」になってしまいがちです。あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、人の選択を縛り、歩むべき道を限定することが指南法としての有効性が高いのか、そういう情報ばかりを目にしてしまいます。

 皆さんも覚えがあるんじゃないでしょうか?新しい何かに飛び込んだとき、してはいけないことばかり教えられるという経験が。あるいは、それ裏返してこれをしなければならないと一本の正解の道筋しか教えてもらえないこともあります。

 もちろん、「やってはいけないこと」の共有は有用なことです。やってはいけないことをやってしまうと、とんでもない不幸な結果を招くかもしれないからです。ガソリンスタンドで給油しながら、煙草を吸ってはいけませんよね?世の中には無数のやってはいけないことがあり、それをノウハウとして共有することで、人が安全に生きられているというようなこともあります。

 

 でも、それだけだと世の中は窮屈かもしれません。自分が歩むべきとされる道以外には地雷が埋め込まれているようなものだからです。地雷を避けて歩く道筋は、本当に自分の人生と言っていいのでしょうか?あるいは、してはいけないことで、周囲を埋め尽くされた結果、一歩も動けなくなってしまう人だっているかもしれません。

 

 一方、ちひろさんには「してもいいんだよ」ということが沢山描かれています。沢山のやってはいけないことの中で押しつぶされそうになってしまっている人に、他の選択肢を与えてくれます。「そうしなければならない」と言われているわけではなく、「そうしてはいけない」と言われているわけでもなく、「そうしたっていいんだ」という姿を見せて貰えることが、ホッとするわけですよ。

 消えたように思えていた選択肢が、また目の前に現れるように思えるからです。

 

 話は飛ぶんですが、NHKでやっていた「漫勉」という番組が好きで、これは漫画家が漫画を描く様子を記録し、それを本人と浦沢直樹が見ながら話をするという内容なんですが、この番組にも「してもいいんだよ」が詰まっていたのがすごく良かったんですよ。

 

 漫画を描くみたいなことも、すぐに「道」になっていまいます。その証拠に、ネットで漫画の描き方の指南情報なんかを探してみると、「何かをしてはいけない」という情報が無数に見つかります。「こういう漫画の描き方はよくない」いう、誰が書いているのかも分からない情報と無数に出会ってしまい、目の前の選択肢が減った結果、描いてみるということがすごく厳しい道になってしまうようなところがあると思ってしまったりします。

 でも、漫勉では、実際の漫画家さんたち、それも僕がめちゃくちゃ好きな漫画家さんたちが、ものすごく色々な、限定なんてされないやり方で漫画を描いているんですよ。それを見ると、それまで囚われていたのはいったいなんだったんだ?というような気持ちになりました。

 何か描きたいものがあって、その目的に近づくための方法であるなら、そこには別にやってはいけないやり方なんていうのはなく(さすがに法に触れたりするとアレですが)、どんな手を使ってでも、それが今まで誰もやってないことでも、描きたいものをどうにかして描いたもん勝ちなんだなと思えたのが、すごく良かったです。

 

 ちひろさんを読んでいると、日々の生活の中で同じことが起こったりします。世間や、周囲の人たちに求められることの狭間で、自分が自分の通りに生きているのか、それとも、誰かの思い通りに生きさせられているのか、曖昧になってしまうようなことはあって、あるいは、どこに自分の足を置いていいのかが分からなくなって、一本足で必死で耐えているようなことだってあるわけじゃないですか。どこにも足を降ろす場所を見つけられず、片足がプルプルした状態で耐え続けるのは、とても辛いですよね。

 ちひろさんは、そこで足を降ろしてもいい場所を教えてくれます。こういう在り方だっていいんだと作って貰えた場所に足を降ろせば、一息つくことができます。それだってノーリスクではないかもしれません。そこに足を降ろすことで起こる問題もあるかもしれませんし、いつまでも足を置いておける場所でもなかったりもするかもしれません。

 でも、そのままこけてしまうよりはずっとよいですよ。そして、自分で足を置ける場所を見つけられながら、歩いていくことができればなおよいですよね。

 

 自分が歩くと決めた道を、それが世間で言われる正しい道とは異なったとしても、そこを歩くことにした人がちひろさんじゃないかと思います。そして、その源氏名のもとになった、ちひろと名乗る女性が、ちひろさんに影響を与えたように、ちひろさんの存在も、周囲の人たちに沢山の影響を与えます。

 その中には読者もまたいるのでしょう。

 

 効率のいい生き方や、周りに求められる生き方というのはきっとあるでしょう。それに寄り添うことだってきっと悪いことではないですよ。社会はそういう人たちによって主に動いていて、僕はそこにしがみついておこぼれにあずかっているという自覚もあります。

 でも、僕自身もそうなんじゃないかと思っているように、そういう生き方が自分の本来の性質に合わないことだってあるじゃないですか。放っておくと一日に何十分も狂う時計が、必死で1日に何度も時間を合わせて、みんなと同じ時間を生きようとすることのしんどさもあるわけですよ。

 でも、その時計って本当に狂ってるんでしょうかね?例えば、一日が25時間の時計を持っていれば、毎日1時間狂いますが、本人の中では毎日25時間で正確なわけじゃないですか。それを無理矢理24時間に合わせることが生み出す辛さの話です。

 

 ちひろさんは、世の中で標準とされているもの以外の沢山の時計を見せてくれます。それは一日が25時間の時計かもしれませんし、ことによると毎日時間のサイクルが変わる時計かもしれません。世の中は基本的に24時間かもしれませんが、別の時計に合わせられることもあることを知ることで救われる人もいるでしょう。

 全ての人に必要なわけではないかもしれません。でも、それが必要な人が絶対にいるわけです。

 

 僕はもう出会ってしまいましたからね。色んな時計があることをもう知っているわけです。どれに合わせたっていいですし、自分にしか合わせなくたっていいと思っています。だから、ちひろさんが目の前にいなくなっても割と平気です。

 ただ、もしいつか帰ってきたときには、「ちひろさん」が始まったときのように、ああこの人は見えない間もどこかで生きていたんだなと思うだろうなと思いました。

「聖闘士星矢」の瞬の性別変更とかポリコレとか多様性とか関連

 Netflix様のマネーで、聖闘士星矢がCGアニメ化されるぞ!!との報せを聞き、聖闘士星矢大好きっ子としては、やったぜ!!という気持ちでいますが、情報を読んでいると、アンドロメダの聖闘士である瞬が、性別を女性に変更されるのだそうです。まだ初報なので、他にも色々あるかもしれません。

 僕はメディアや想定客層が変わるときに、原作から何かしら変更点があること自体にはさほど抵抗がなく、今回のことも、特に抵抗はなく見るのは見ると思います。

 

 今回の件については、ネットで見た脚本家(?)の人の書いていることを読む限り、「戦うのが男だけでいいのか?」という話による変更だという認識です。原作が描かれた30年前はそれでよかったのかもしれないが、現代においてもそれはそのままでいいのか?という話です。

 ちょうど最近も、プリキュアで「男の子だってプリキュアになれる」というお話が話題になっていて(僕は見ていないので、正確ではないかもしれません)、そういう世間の風潮なんだなと思っています。

 

 僕は、このような考えに関しては肯定的で、それは、「自分は立場や属性によって、何らかの役割に合わせた振る舞いをするしかない」ということに対する抵抗感を持っているからです。「○○だからと言って、××でなければいけないということはないんだよ」というのは、個人的にとても助かる発想で、僕は大いに利用しています。

 そもそも「○○だから××でなければならない」ということは、そういう役割を担わせる世相があり、それらはフィクションの中にも反映され、それらに取り巻かれて育つことで、なんとなくそれが当たり前だと思ってしまうことだと思っています。

 当たり前なんだから、そうするだろうし、そうしないことはおかしいとか思ってしまうことは、よいことでしょうか?

 

 20年前とかに笑っていた漫画の内容を、現代に読み直してみて、これは今となっては笑えないなと思えるものがいくつかあったりします。それらは、かつてはそれは笑っていいものという箱に入っていたんですけど、今はそうでもないというか、これを笑うことで、その属性を持つ誰かが傷つく可能性があるのでは?と少しでも思ってしまえば、態度にもその影響が出ます。表に出すことに躊躇してしまいます。

 一方、昔にそれを笑って見ていた自分は間違っていたのか?ということもあるわけです。でも、面白いのは面白かったんだよなというのは、やっぱりあるんですよ。それで、今の感覚に照らせば、それはよくないことだったのかもしれないけれど、でも、やっぱり当時は面白かったんだよなという気持ちもあります。

 良い悪いで言うと、悪いのかもしれません。でも、そうなんですよ。自分には悪い部分があります。

 

 ポリティカリーコレクトネスとか、ダイバーシティとか、そういうのは「豊かな文化」なんだろうなという気持ちがあります。なぜなら、世の中はそれをせず、最大公約数だけに向いていた方が効率がよいからです。「効率を犠牲にしてでも選べる」という豊かさがあると思うわけです。

 入力データのフォーマットが揃っていれば、プログラムで処理するのは比較的簡単です。でも、そのデータがバラバラのフォーマットで送られてきた場合はどうでしょうか?条件分岐や例外処理をその変換のために無数に作らなければなりません。百万人に適用される処理と同じだけ手間がかかるものを、百人のためだけに作らなければならないかもしれないということです。それによって増加し複雑化した処理は、その隙間に不具合も生み出しやすくなるかもしれません。

 

 だから、合わせてくれよ!と思うわけじゃないですか。あなたの抱えるものが、最大公約数から外れていたとして、そのための処理を作る手間が効率が悪いから、それぞれの人が頑張って最大公約数的なものにフォーマットを合わせてくれよ!と思っちゃうわけじゃないですか。でも、人間ひとりひとりの存在はそもそも何かしら多様なものです。だから、それを同じに合わせるためには、その差を埋めるための労力が常に求められるわけです。

 社会の側が省力したいために個人の側に努力を求めるということは、つまり、多様性を許容せずポリティカリーにインコレクトなことだと思います。だから、そこから抜け出るという発想ができるようになるのは、社会の側が豊かになったということなんじゃないかと思うんですよね。社会が豊かになり、複雑になることを許容すれば、個人が楽になるということです。

 ただ、それができるよと思える人は、今既に豊かな人で、自分はまだまだ豊かではないと思う人は、それを許容できないかもしれません。大変だからです。そして、人が豊かであるかどうかは運の要素が強いので、だから豊かでない人が悪いというわけではないと思うんですよ。でも、豊かでありたいよねというような気持はあるわけです。

 

 だって、自分がどんな属性を抱えていたとしても、そのままで気楽に生きたいじゃないですか。

 

 さて、瞬の性別が女性に変わるという話にやっと戻りますが、これはこのような考え方に合っているでしょうか?「このような考え方」とはつまり、「人間ひとりひとりの在り方が、その属性によって最初から規定される必要はない」という考え方です。

 この意味で、アンドロメダ瞬が選ばれたことには引っかかりがあります。瞬は、一見女性と見間違られるような容姿の男です。そして、戦うことを好ましく思っておらず、その感覚は当時の常識に照らして、男でありながら女性的であると言っていいかもしれません(一方、その戦いを好まないメンタルとは裏腹にめちゃくちゃ強い)。肉体の性別は男性でありながら、(当時として)女性的な感覚を持つということ、これは既に多様性なんじゃないかと思うんですよね。「男だからといって、男らしくある必要がない」ということだからです。

 だからこそ、男だけが戦うのは多様ではないということを理由にして瞬を女に変えてしまうのは、既にあった多様性をひとつなくしてしまうことでもあると思っていて、そこに両方はとることができないという引っかかりを感じてしまいます。別に、キグナス氷河やフェニックス一輝を女性にしたっていいわけじゃなないですか。ドラゴン紫龍は、すぐに裸になるので、扱いづらいかもしれませんが。それだって、男は上半身裸になっていいけど、女がなってはめんどくさいのかよ?というような話もあると思います(まあ、実際めんどくさいでしょうが)。

 

 「The Mark of Watzel」という漫画があります。これは難病を患う女の子が、イメージの中で病魔と戦うサイモントン療法に挑戦するという話なのですが、これは多様性の話でもあったと思うんですよ。なぜならば、女性が女性的であるということもまた多様であることを描いているからです。

 女の子は憧れのテレビのヒーロー、ワッツェルに成り代わり、病魔と戦うイメージを育てますが、これらは全て敗北に終わります。それは、彼女が心から戦うことを望んではいないからです。彼女はワッツェルに守ってほしかった。つまり、彼女はお姫様になりたい少女だったのです。

 病魔と戦うイメージを持つという目的のために、彼女は自分の特性とは異なる、ヒーローとなって戦うという役割を背負うことになりました。でも、本当の道は他にもあって、女の子だから(いわゆる)女の子の望むようなことをしたって別にいいんだということを描いていて、それを「どちらかに限定して強いること」こそが、間違いであったということが分かります。

 そういう意味で言えば、「女だって戦っていいはず」ということが、「戦いの中に女がいなければならない」となってしまうのは、場合によってはむしろ窮屈と言えるかもしれません。それが多様性を認めることでもあるとは思いますが、逆に多様性を減じてもいるようにも思うからです。

 

 この辺は、塩梅だと思うんですよ。だから、どこに線を引くかということもまた一意に決まるわけでもないと思います。僕の感覚が正しいわけでもなく、誰の感覚が正しいわけでもなく。

 

 最初に書いたように、僕は別に変更がダメとも思ってはいませんし、そもそも「聖闘士星矢」はアニメから原作への変更点だけでも無数にあって、それを全然許容して生きてきているので、この漫画にはそれぐらいの懐の深さはあるだろうなと思っています。

 僕は「オーロラサンダーアタック」も「氷結リング」も「師の師と言えば師も同然」も、全然許容していますし(全部氷河の話だな…)、「ドクラテス」も「鋼鉄聖闘士」も「アスガルド編」も全然許容しているというか好きですからね。あと、何年か前に3DCGで劇場公開された「レジェンドオブサンクチュアリ」もめちゃくちゃ楽しんで、劇場と配信レンタルで3回は見ているので、それは別にいいんですよ。

 

 なので結局のところ問題なく見ますけど、説明と内容がイマイチかみ合ってないように思ったので、そこが気になるなと思ったので、これはそういう文です。

 とにかく、2019年の夏を待ちます。

物語における犯人の、その後の人生について

 スキマでの「喰いタン」の無料読み放題も終わったところでタイミング悪く「喰いタン」の話なんですが、僕がこの漫画で好きなところのひとつに、犯罪者のその後が描かれているというところがあります。

 その犯罪者とはケーキ屋を営む女性で、殺した相手は好きな男と結婚した若い女性です。でも、犯行動機は嫉妬ではありません。人を守るためです。なぜならその若い女は、男の持病に対してあえて健康に悪い食事を作ることで早死にさせようとしていたからです。ただ、守るためとはいえ、人殺しは人殺し、喰いタン(喰いしん坊の探偵という意味だよ!)こと高野聖也によって真相は解明され、裁かれて刑務所に収監されてしまいます。

 

 この話の面白いところは、その後そのケーキ屋の女性が仮釈放されて、またケーキ屋を再開するところです。しかしながら、殺人事件の犯人であった女性は、世間から簡単には受け入れられません。人殺しが作ったケーキなんて食べたくないと、お店は閑古鳥、店の壁には刃牙の家のようなひどい落書きをされまくってしまいます。

 ケーキ屋の女性を何より悲しませたのは、溺愛している姪っ子までも自分を拒絶したことです。それは、そのケーキ屋の女性がその姪っ子の誕生ケーキを作ることが知れてしまったために、その友達の親たちが拒否感を示したからです。その結果、楽しいはずの誕生会に誰も来てくれなくなってしまったという悲しい事情があるんですよ。

 

 でも、姪っ子も本当は知っています。ケーキ屋のおばさんがとても優しい人であることを。でも、それを簡単には認められないわけですよ。「将太の寿司」の奥万倉さんもそうでした。育ての親に素直に感謝の気持ちを伝えることができませんでした。

 気持ちが一致しているからといって簡単に素直になれるなんて限りません。しかし幸いなことに、その難しいわだかまりを解消できる出来事がありました。それに何が関係しているか分かりますか?将太の寿司では「イカの寿司」でした。では喰いタンではなんでしょうか?

 

 それは「粉塵爆発」です。

 

 未読の方がいる場合、具体的なところは読んで確認してほしいですが、こんなふうに「粉塵爆発によって強くなる人と人との絆」もあるんですね、と思いました。これが漫画の粉塵爆発の中で、僕が最も好きなもののひとつです。

 話が逸れましたが、このケーキ屋の女性は、その後もたびたび登場し、弟子入りする女の子が出てきたり、お店も普通に繁盛するようになって、彼女は完全に社会復帰することに成功しました。作中で犯罪者になった人のその後がここまで描かれるケース、意外とない気がするんですよね。

 

 物語には様々なタイプの犯罪が登場します。特にミステリではそうでしょう。それらの犯罪にとって重要なことは何でしょうか?それはもちろん「トリック」ですね。しかしながら、もうひとつ存在します。それは「動機」です。

 犯罪という結果には、そこに至るまでの動機が存在することが多いはずです。原因があって結果があるなら、動機があって犯罪があります。しかし、本当に犯罪は最終的な結果でしょうか?もしかしたら中間地点の過程でしかない可能性もあります。犯罪に至るほどの動機があった人が、探偵によって暴かれ、捕まり、裁かれたとき、その犯人たちの物語はちゃんと描かれたと言っていいのでしょうか?

 

 犯罪には私利私欲のために行われるものもあれば、やむにやまれぬ理由があるもの、あるいは理不尽に何かを奪われた人々による復讐もあり得ます。その犯行が、探偵によって真相を暴かれてしまったとき、それは犯人たちにとっても納得がいく結末となったのでしょうか?

 犯行の時点で目的は遂げたのかもしれません。探偵に未然に防がれ、犯行を実行できなかったかもしれません。あるいは、動機が復讐であったとき、その喪失が本当にその犯行で埋められたかどうかという問題もあるわけです。

 何かしらの事情により犯罪者となった犯人たちの物語が、ひとりの登場人物として完結を迎えるのなら、刑に服して社会復帰する過程は、実はとても重要な部分なんじゃないでしょうか?そこにはまだ何かを描く余地があったりするんじゃないでしょうか?

 

 日本には多様な漫画が存在しますから、当然ながら、刑に服したあと、娑婆に出てきた前科者を扱う漫画も色々あります。例えば「地雷震」には、世間に居場所がない元犯罪者たちが、互助で暮らす集団が描かれました。彼らと一緒に生きようとした男は、前科者の権利を認めてもらうために選挙にも出ようとします。結果は読んでほしいですが、悲しい話でした。

 「ギャングース」は少年院を出てきた親や社会の庇護のない少年たちの物語です。彼らはもはや世間で言う真っ当に生きるためのルートを得ることができず、他の犯罪者がため込んだお金を横取りすることで、そのお金を使って世間の表を歩けるようになるために奮闘したりします。

 そういえば、まさに犯罪者の更生を手助けする「前科者」という漫画が、このまえ単行本が出ましたね。

 

 何かしらの事情を抱えて罪を犯し、その応報として刑に服し終えたとして、その後に彼らには何かしら納得のいく未来があるのでしょうか?自分が犯した罪に向き合うことはとても辛い話です。

 世の中が罪と罰で釣り合うようにできているのだとしたら、人を殺した罪を抱える人には、幸福になる権利が認められないかもしれません。

 だから、犯罪者は自分が理解できないような人間だった方が楽ですよね?それならば、彼らを社会に復帰する権利を持つべき同輩と思わなくてもいいように感じるからです。そうやって「同じ人間」というくくりの範疇から外に追いやることで、悲しいことに、納得がいってしまったりするかもしれません。

 

 でもあるじゃないですか。「人間」がうっかり「罪を犯してしまった人間」になってしまうことが。でもそこで人生が終われないことだって多いわけです。

 ヤンマガでこの前再開した「マイホームヒーロー」も、娘を守るためとはいえ、人を2人殺しています。それが見つかりそうになると、逃げきってくれ!!みたいな感情が僕に生じるんですが、倫理の話から言えば、自首して償って!!ってなるかもしれませんし難しいです。

 主観をそちらに設定されてしまえば、どんな犯罪者にも理解できる余地が生まれてしまうかもしれません。

 

 沢山の物語には、罪を犯した人たちが沢山登場しますが、その後の彼らがどうなったかについては描かれないことも多いです。

 

 そう思うと、これまでのミステリで読んできた犯人たちが、その後いったいどうなったのかな?と思うような想像力があるわけです。

 裁かれることなく自殺してしまった人もいます。獄中死した人や、脱獄して再び犯罪に手を染める人だっています。死んだと思ったら記憶を失って別人として生きていたなんでのもあります。でも、そんな目立つもの以外の、そのまま刑に服してどうにか社会にまた出てきて、どうにか社会と折り合いをつけて生きている人たちもいるんだろうな?と思うわけです。

 

 「名探偵コナン」の最初で、ジェットコースターで人を殺した女性は、結局懲役何年だったんでしょう?コナンの時空は歪んでいるので、もしかすると、その期間が数字通りでなく実質的にはすごく引き伸ばされているのかもしれません。

 ジェットコースターの上で横に流れた涙が十分渇いたあとに、彼女の心はどのような動きを見せたのか?それは語られないわけです。でも、気にはなるわけですよ。それが目の届くところにはもう出てこないと思うから、なおさらです。

 

 そういうことをぼんやり考えていて、「犯人たちの事件簿」や「犯沢さん」があるのだから、これまで出てきた沢山の犯人たちが罪を償う様子を描いたスピンオフとかも全然イケるんじゃないですか??とかちょっと思ったんですけど、軽く想像しただけで全然盛り上がる話ではないなと思いました。

 

 ないな。

 

 そういえば、「ビースターズ」では、食殺事件(肉食獣が草食獣を食い殺す事件)を独自に追うパンダの医者が、罪を犯したスナギツネの女性の精神を救う話がありました。

 彼女は結局、罪を償うことを選択しますが、彼女がその後どうなったのかを知りたい気持ちが僕にはありますね。読みたいな。