漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

物語における犯人の、その後の人生について

 スキマでの「喰いタン」の無料読み放題も終わったところでタイミング悪く「喰いタン」の話なんですが、僕がこの漫画で好きなところのひとつに、犯罪者のその後が描かれているというところがあります。

 その犯罪者とはケーキ屋を営む女性で、殺した相手は好きな男と結婚した若い女性です。でも、犯行動機は嫉妬ではありません。人を守るためです。なぜならその若い女は、男の持病に対してあえて健康に悪い食事を作ることで早死にさせようとしていたからです。ただ、守るためとはいえ、人殺しは人殺し、喰いタン(喰いしん坊の探偵という意味だよ!)こと高野聖也によって真相は解明され、裁かれて刑務所に収監されてしまいます。

 

 この話の面白いところは、その後そのケーキ屋の女性が仮釈放されて、またケーキ屋を再開するところです。しかしながら、殺人事件の犯人であった女性は、世間から簡単には受け入れられません。人殺しが作ったケーキなんて食べたくないと、お店は閑古鳥、店の壁には刃牙の家のようなひどい落書きをされまくってしまいます。

 ケーキ屋の女性を何より悲しませたのは、溺愛している姪っ子までも自分を拒絶したことです。それは、そのケーキ屋の女性がその姪っ子の誕生ケーキを作ることが知れてしまったために、その友達の親たちが拒否感を示したからです。その結果、楽しいはずの誕生会に誰も来てくれなくなってしまったという悲しい事情があるんですよ。

 

 でも、姪っ子も本当は知っています。ケーキ屋のおばさんがとても優しい人であることを。でも、それを簡単には認められないわけですよ。「将太の寿司」の奥万倉さんもそうでした。育ての親に素直に感謝の気持ちを伝えることができませんでした。

 気持ちが一致しているからといって簡単に素直になれるなんて限りません。しかし幸いなことに、その難しいわだかまりを解消できる出来事がありました。それに何が関係しているか分かりますか?将太の寿司では「イカの寿司」でした。では喰いタンではなんでしょうか?

 

 それは「粉塵爆発」です。

 

 未読の方がいる場合、具体的なところは読んで確認してほしいですが、こんなふうに「粉塵爆発によって強くなる人と人との絆」もあるんですね、と思いました。これが漫画の粉塵爆発の中で、僕が最も好きなもののひとつです。

 話が逸れましたが、このケーキ屋の女性は、その後もたびたび登場し、弟子入りする女の子が出てきたり、お店も普通に繁盛するようになって、彼女は完全に社会復帰することに成功しました。作中で犯罪者になった人のその後がここまで描かれるケース、意外とない気がするんですよね。

 

 物語には様々なタイプの犯罪が登場します。特にミステリではそうでしょう。それらの犯罪にとって重要なことは何でしょうか?それはもちろん「トリック」ですね。しかしながら、もうひとつ存在します。それは「動機」です。

 犯罪という結果には、そこに至るまでの動機が存在することが多いはずです。原因があって結果があるなら、動機があって犯罪があります。しかし、本当に犯罪は最終的な結果でしょうか?もしかしたら中間地点の過程でしかない可能性もあります。犯罪に至るほどの動機があった人が、探偵によって暴かれ、捕まり、裁かれたとき、その犯人たちの物語はちゃんと描かれたと言っていいのでしょうか?

 

 犯罪には私利私欲のために行われるものもあれば、やむにやまれぬ理由があるもの、あるいは理不尽に何かを奪われた人々による復讐もあり得ます。その犯行が、探偵によって真相を暴かれてしまったとき、それは犯人たちにとっても納得がいく結末となったのでしょうか?

 犯行の時点で目的は遂げたのかもしれません。探偵に未然に防がれ、犯行を実行できなかったかもしれません。あるいは、動機が復讐であったとき、その喪失が本当にその犯行で埋められたかどうかという問題もあるわけです。

 何かしらの事情により犯罪者となった犯人たちの物語が、ひとりの登場人物として完結を迎えるのなら、刑に服して社会復帰する過程は、実はとても重要な部分なんじゃないでしょうか?そこにはまだ何かを描く余地があったりするんじゃないでしょうか?

 

 日本には多様な漫画が存在しますから、当然ながら、刑に服したあと、娑婆に出てきた前科者を扱う漫画も色々あります。例えば「地雷震」には、世間に居場所がない元犯罪者たちが、互助で暮らす集団が描かれました。彼らと一緒に生きようとした男は、前科者の権利を認めてもらうために選挙にも出ようとします。結果は読んでほしいですが、悲しい話でした。

 「ギャングース」は少年院を出てきた親や社会の庇護のない少年たちの物語です。彼らはもはや世間で言う真っ当に生きるためのルートを得ることができず、他の犯罪者がため込んだお金を横取りすることで、そのお金を使って世間の表を歩けるようになるために奮闘したりします。

 そういえば、まさに犯罪者の更生を手助けする「前科者」という漫画が、このまえ単行本が出ましたね。

 

 何かしらの事情を抱えて罪を犯し、その応報として刑に服し終えたとして、その後に彼らには何かしら納得のいく未来があるのでしょうか?自分が犯した罪に向き合うことはとても辛い話です。

 世の中が罪と罰で釣り合うようにできているのだとしたら、人を殺した罪を抱える人には、幸福になる権利が認められないかもしれません。

 だから、犯罪者は自分が理解できないような人間だった方が楽ですよね?それならば、彼らを社会に復帰する権利を持つべき同輩と思わなくてもいいように感じるからです。そうやって「同じ人間」というくくりの範疇から外に追いやることで、悲しいことに、納得がいってしまったりするかもしれません。

 

 でもあるじゃないですか。「人間」がうっかり「罪を犯してしまった人間」になってしまうことが。でもそこで人生が終われないことだって多いわけです。

 ヤンマガでこの前再開した「マイホームヒーロー」も、娘を守るためとはいえ、人を2人殺しています。それが見つかりそうになると、逃げきってくれ!!みたいな感情が僕に生じるんですが、倫理の話から言えば、自首して償って!!ってなるかもしれませんし難しいです。

 主観をそちらに設定されてしまえば、どんな犯罪者にも理解できる余地が生まれてしまうかもしれません。

 

 沢山の物語には、罪を犯した人たちが沢山登場しますが、その後の彼らがどうなったかについては描かれないことも多いです。

 

 そう思うと、これまでのミステリで読んできた犯人たちが、その後いったいどうなったのかな?と思うような想像力があるわけです。

 裁かれることなく自殺してしまった人もいます。獄中死した人や、脱獄して再び犯罪に手を染める人だっています。死んだと思ったら記憶を失って別人として生きていたなんでのもあります。でも、そんな目立つもの以外の、そのまま刑に服してどうにか社会にまた出てきて、どうにか社会と折り合いをつけて生きている人たちもいるんだろうな?と思うわけです。

 

 「名探偵コナン」の最初で、ジェットコースターで人を殺した女性は、結局懲役何年だったんでしょう?コナンの時空は歪んでいるので、もしかすると、その期間が数字通りでなく実質的にはすごく引き伸ばされているのかもしれません。

 ジェットコースターの上で横に流れた涙が十分渇いたあとに、彼女の心はどのような動きを見せたのか?それは語られないわけです。でも、気にはなるわけですよ。それが目の届くところにはもう出てこないと思うから、なおさらです。

 

 そういうことをぼんやり考えていて、「犯人たちの事件簿」や「犯沢さん」があるのだから、これまで出てきた沢山の犯人たちが罪を償う様子を描いたスピンオフとかも全然イケるんじゃないですか??とかちょっと思ったんですけど、軽く想像しただけで全然盛り上がる話ではないなと思いました。

 

 ないな。

 

 そういえば、「ビースターズ」では、食殺事件(肉食獣が草食獣を食い殺す事件)を独自に追うパンダの医者が、罪を犯したスナギツネの女性の精神を救う話がありました。

 彼女は結局、罪を償うことを選択しますが、彼女がその後どうなったのかを知りたい気持ちが僕にはありますね。読みたいな。

インターネットでの漫画の広まり方、あるいは「将太の寿司」はなぜネットで流行ったか?関連

 「将太の寿司」がネットで無料読み放題になったことから、今まで読んでなかった人が読んで、話題にされている状況について、僕はとてもにっこりしています。なぜなら僕は「将太の寿司」がすごく好きだからです。ただの一読者でしかありませんが、将太の寿司を読む人たちの感想などをわざわざ検索して読みながら、そうだろうそうだろうと、「うむ」と頷いたりしています(なおスキマでの読み放題は今日で終わります)。

 

 それは良かった話なんですけど、今回は、なんでこんなに流行ったのかな?という疑問はあって、例えば、「喰いタン」や「ミスター味っ子」も同時に無料公開されているのに、いや、そちらもそちらで話題になっているとはいえ、「将太の寿司」ほどではないように見えるからです。その違いは何でしょうか?

 

 ここからは僕の考えを書いていきます。

 

 インターネットで話題になりやすいのは、「ツッコミどころ」ではないかということを前々から思っています。それはデータとして残しているわけではないので、僕の印象でしかありませんが、「将太の寿司」が話題になり始めた頃は、そこだけ切り出せば(まあ、切り出さなくてもありますが…)異常に見える描写のキャプチャ画像とともに、こんなにおかしな描写があるというような方面で話題になっていました。

 例えば、笹寿司による嫌がらせの過熱具合や、柏手の安による柏手を打つか打たないかにしか興味が移らなくなっていくところ、審査員たちの顔芸によるリアクション、あとは大年寺三郎太という偉人の行動のようなあたりです。

 

 ツッコミどころを指摘して面白がるということは、つまり「読者側が話題の主役」ということではないかと思います。これは同語反復的なものなのかもしれませんが、インターネットでは、参加する皆が主役のものが盛り上がるような印象があります。何かの作品が話題になるとして、主役は「その作品そのものではなく、それを読んでいる読者であること」が重要なのかもしれません。

 

 自分が主役である話題においては、人は雄弁になるように思います。将太の寿司の中から自分が見つけたツッコミどころを披露するということは、それぞれが自分の話として広げていくために、感染性が強いように思うからです。他の人がやっているのを見て、自分もやってみようとすることが続けば、ひとつの作品そのものや、ひとりの人間の感想などと比較して、より強く繰り返し伝えられ続けるサイクルが生まれると思います。

 

 漫画以外でも基本的にそうだと思います。例えば、Webの記事で強く話題性を獲得するものは、有用で役に立つ情報ではなく、多くの人が自分にも何かツッコミができると感じるものが多いように思います。

 だから、書かれている内容に隙があるようなものや、誰にでも分かりやすい間違いが見つかるものが目立ちやすいですし、例えば、タイトルや本文におもしろい誤字があれば、内容よりも誤字に対するコメントが多くなってしまうこともあります。これは、とにかく何かに一言を言うことが重要視されているからではないかと僕は思っています。

 

 でも、世の中にはツッコミどころがある漫画自体は結構あって、ただ、その全てが流行るわけではありません。仮に一瞬流行ったとしても、すぐに終息してしまうものもあります。でも、将太の寿司は2ヶ月以上流行ってるんですよね。その差は何なのでしょうか?

 

 僕は、将太の寿司に登場する大和寿司の親方という人が好きで、Twitterを検索すると2011年から2018年の9月までは、大和寿司の親方に言及するツイートの大半は僕の発言なのですが、ここしばらくは一日に何人もの人が大和寿司の親方の話をしていることが確認できます。そんなことってある??って話ですよ。

 

 やったー、嬉しいー、みんなもっと大和寿司の親方の話をしてくれー!!!

 

 こんなことになるわけですよ。盛り上がっているわけですよ。なぜでしょうか??

 僕が思うに、ツッコミは面白いかもしれないですけど、瞬間の話だと思うんですよね。伝えるのも瞬間ですし、伝わったものを理解するのも瞬間です。それは喩えれば花火のようなもので、一瞬で飛び散って消えてしまうような儚いものでもあります。

 だから、きっと話題として持続し続けるためには、瞬間では伝わらないものがその背後に控えていなければならないのではないでしょうか?そして、将太の寿司は瞬間瞬間を見れば狂っているような描写もあるんですけど、真っ当に王道として面白い部分があるんですよ。僕はそこがすごく好きなんですよ。

 登場人物たち同士の関係性や、それぞれが抱える想いや、寿司勝負そのものの面白さだってあるわけです。瞬間的に広がったツッコミどころから、その辺に気づき始めた人たちが増えたのが大きかったのではないかと僕は思っています。

 

 僕は、最初にツッコミどころを笑うみたいなのが始まったとき、「それは別に確かにそうかもしれないけれど、それだけじゃないんだ!!それだけじゃないんだよ!!」ってちょっとおかんむりだったようなところもあって、でも、それを言っても仕方ないじゃないですか。何がきっかけでもいいから、より多くの人がその人たちなりに面白く読んだりすればいいわけですよ。

 他人の漫画の読み方に干渉して、自分好みに矯正するなんてのは傲慢な考えじゃないですか。だから黙っていたんですけど、でも、色んな人の感想を読んでいると、だんだん潮目が変わってきたんですよね。

 

 それは、だんだんと最後まで読み切った人たちが沢山出てきたからです。

 笹寿司の笹木は、まあ、嫌なやつなんですけど、最後の最後ですごい良い役回りをするんですよ。佐治と将太の最後の戦いの中で、武者修行の旅でとんでもないすごさを身に着けた佐治に、これは将太は不利かな?って雰囲気が出てきたところで、笹木はぽつりとつぶやくわけです。「あいつは諦めねえよ」と。

 それは、数々の嫌がらせを将太にし続けてきた男の口から出てきた言葉じゃないですか。対決の現場にも行かず、テレビ中継の向こうで、誰に聞かせるわけでもなくポツリと出てきた言葉がそれでしょう。笹木は一番それを知っているわけです。なぜなら、自分がどれだけどれだけ手間暇と金をかけても、何度も何度も潰そうとしても、決して潰れることなくそのたび強くなって負けなかった男が将太だからです。そう、将太は諦めない。それをこの世で一番知っているのが笹木なわけですよ。

 笹木は別にいいやつじゃないですよ。卑怯で卑小で、それゆえの虚勢にまみれた、悲しく愚かな男ですよ。でも、その場その時において、世界で一番将太のしぶとさを知っているのが笹木じゃないですか。その笹木から、その言葉が出るわけですよ。

 

 この物語は、そんな笹木が将太の寿司を食べるところで終わります。数々の人を救ってきた将太の寿司を、笹木は一度も食べたことがなかったわけです。だからこそ、笹木は将太を理解せずに済んだんです。寿司を食べなかったからこそ、笹木は将太に敵対し続けることができました。その寿司を食べたら、もうこの戦いは終わりですよ。でもまあ、これはそういうお話じゃないですか。

 

 この最後の笹木を読み終わったあとになれば、これまでの笹木への見方は大きく変わります。物語は多くの場合、悪役が駆動するものです。なぜなら、悪役がいなければ、何も起こらないから。何も起こらなければドラマは生まれないからです。笹寿司がいなければ、マグロ尽くしは生まれなかったかもしれません。紺屋碧悟が冷蔵庫のコンセントを抜いたりしなければ、腐敗しにくい黄金サバの特性は、知られないまま終わったかもしれないじゃないですか。

 だから、この物語は将太のお話であって、そして、悪役たちの、中でも特に笹木のお話でもあるわけですよ。

 

 そういうところで感情が高まってみれば、「笹寿司がクズ過ぎるwww」みたいなのを見ても、「でも、それだけじゃないんだよ!!」って言いたくなるじゃないですか。僕が最初そうであったように、今回将太の寿司を初めて読んだ人たちが、同様に「それだけじゃないんだよ!!」ってなっていく様子を見ていて、僕は本当に「うむ…」ってにっこりしていたわけなんですよね。

 

 このように、ツッコミという瞬間的なパルスでしかなかった話題としての接続性が、最後まで読んだ人たちの理解のプロセスによって、持続可能な話題に変化していったということがあるのではないかと思います。また、この過程で、色んなネットの有名人や、VTuberなんかも巻き込んでいったのも強かったみたいです。

 

 でもって、結局のところ、最終的には量の勝利みたいなところがあると思うんですよ。

 

 ネットワーク外部性という話をご存知でしょうか?これはサービスの持つ便益性が加入者数に依存するという話で、例えば通信ネットワークの便益が加入者数の二乗に比例するなんて話は「メトカーフの法則」と呼ばれています。

 相互接続のある電話網にたったひとりで加入していも、誰とも電話できないわけですから、便益はゼロです。でも、数が増えれば増えるほど、電話できる相手が増えていくわけですから、その便益は上がっていくわけですよね?ネットのサービスなどでも、加入者数が増えれば増えるほど、自分がコミュニケーションをとりたい相手も同じサービスに加入している確率も上がり、より便利になっていきます。

 これは類似するネットサービスの中では、加入者数が一番多いものがより強くなっていくことを意味しており、一強と沢山の敗者を生み出すような構造の説明として登場します。

 

 そしてこれは人と人との話題に関しても適用できる話です。例えばSNSのタイムラインに将太の寿司の話をする人が増えていけば、ネットワーク外部性の正の効果により、将太の寿司の話をすることの便益が上昇していきます。

 僕がたったひとりで将太の寿司の話をしても意味はなかったのに、たくさんの人たちが同時に言及すればそうなるわけです。その壁を越えるぐらいにまで話題が広がったことが、このブームを下支えしているように思っていて、だから、これは結構たまたまの要素が強い気がするんですよ。

 

 同じぐらいのポテンシャルを秘めていても、便益が十分になるほどに話題にする人が増えなければ、効果を得ることができません。タイミングがずれただけでもダメなわけです。

 なので、今回の将太の寿司は、ツッコミどころが多くある漫画で広がりやすかったとか、とはいえ真っ当に面白い要素が詰まっていて持続的な話題になる漫画であったとか、読み終わるまでの時間をそこそことれるぐらいに冊数が十分多いだとか、様々な要因が考えられるものの、同じ要素を満たした別の漫画があっても、タイミング次第では同じようには流行らないかもしれません。

 その盛り上がり方がたまたまダムが決壊するように壁を越えられて、それによってネットワーク外部性の正の効果が高まった状態になれるかどうかで、持続的に話題にし続けられ、それによってさらにより多くの人を呼び込む状態になれるかという話です。それを全て主導するのは結構難しい話なんじゃないでしょうか。

 

 僕はとりあえず、逐次手持ちの話題を投入して、もっと持続的に盛り上がってくれよな!!みたいなよく分からないところに足場を置いてほんのり煽っていたんですけど、でもまあとにかくここ2ヶ月ぐらいは思う存分、将太の寿司の話をしても褒められることはあっても怒られなかったですし、沢山の人が将太の寿司について色んなことを言っていたのを検索して沢山読めたので、すごくよかったです。

 好きな漫画、昔のも今のも、とにかくめちゃくちゃ流行ってほしい。流行ってほしい!!と僕はすごく思っているわけなんですよ…。なので、すごく楽しかったし、こういう楽しいやつが、もっと色んなところで起こりまくってほしいなと思っています。

 

 あと、これは関連の文です。

mgkkk.hatenablog.com

「サンダーボルト」の完結編がめちゃくちゃ良かった話

 タオルまるめちゃおさんのサンダーボルトの最終巻が、11/25(日)のコミティア126で出ました。気持ちが高まっているうちに書くべきだなと思ったので感想を書きます(ネタバレが含まれてしまうが、それを書かないことには感想を書けないので、どうにかしてサンダーボルトを全部読んでから読んでくれた方がいい…)。

 以下、通販ページですが、全5巻の3巻までしかまだなく購入不可になっていますが一応。

COMIC ZIN 通信販売/商品一覧ページ

 

 この物語は、何がどうなれば終わるのかということについて、全然予想がつかなかったんですけど、終わってみれば、これ以外ないというほどの終わり方をしていて、めちゃくちゃ良かったです。コミティアの会場で読んで泣いてしまいました。

 

 サンダーボルトは、ヒーローになろうとした少女の物語です。過去の戦えなかった自分を後悔し、過去の救えなかった人々を、今度は救うために戦う物語です。金色の髪を携えたマスクに身を包み、両腕には電撃の武器を装着して、みっこちゃんはヒーローになろうとします。

 以下は、前に途中の段階で書いた感想。

mgkkk.hatenablog.com

 

 この物語は勝ち目のない戦いの物語です。どんなに体を鍛えても、どんなに秘密の武器を作っても、ひとりの少女でしかないみっこちゃんの力には限界があります。いや、少女ではなく屈強な男だったとしても、ひとりで出来ることにはきっと限界があるんですよ。世の中は一対多になってしまったとき、ほぼほぼ負けてしまうものだからです。

 そもそも暴力で人を救えることなんて、ごく限られた場合のみです。悪を倒すよりも、傷ついた人に寄り添うことの方が多くの人を救えるかもしれません。

 

 でも、違うでしょう?みっこちゃんの根本は、あの日の出来事です。ダンボールで作った鎧を身にまとい、イナズマ仮面として最強だった小さなみっこちゃんが、友達のピンチに駆けつけることができなかったわけですよ。暴力に怯えて、友達が傷つくのを知りながら、隠れていることしかできなかったわけですよ。

 暴力で人を救えることは少ない。でも、相手が暴力を行使するとき、その場、その時には暴力でしか立ち向かうことができません。あの日の自分を振り切るため、今度は絶対に立ち向かうため、サンダーボルトは悪と戦うわけです。じゃあその悪とは何なのか?サンダーボルトは、何と戦えばいいのか?そして、その結果はきっと敗北になってしまうんじゃないでしょうか?

 

 世の中に正義と悪がいたとしたら、皮肉なことに悪の方が持続的です。持続的な悪が、人を追い詰め疲弊させ、それでも、人と人とがその歯車の中にがっちりと嵌められてしまうからこそ、抜け出すことができません。対する正義は、多くの場合、残念ながら瞬発的です。その瞬発力は、瞬間的になら悪を上回る力を見せることもあります。でも、その悪を倒した後の世の中で、持続的に正義をやっていくことは実は難しい。

 だから、世の中では正義が悪を打ち倒しても、その後に、またじわじわと悪が世の中を蝕んでいきます。繰り返し続く悪にまみれた日常の中を、たまに起こる一瞬の正義のきらめきだけで生きていくことになります。でもそのように生きることは本当に幸せでしょうか?

 

 みっこちゃんは、サンダーボルトは、その一瞬のきらめきのひとつです。そして、それは悪を一瞬倒せるほどにも大きくない、小さな小さなきらめきです。だから勝てっこない戦いなわけです。敗北必至な戦いなわけです。でも、それでも戦うわけでしょう?だって許せないから。そんな悪がはびこる世の中が当たり前であっていいはずがないのだから。

 

 この世にはびこる悪を象徴するような男は、とても正しいことを言います。その正しさが、多くの人を巻き込み、盤石で、損得で考えればそこにすがるしかないような人たちを沢山生み出しています。それがじわりじわりとその身をこそぎ取られるようなものだとしても、目先の損得を放棄できない普通の人々は、その中に、自分の意志とは関係なく絡めとられてしまうのです。

 こんなものは正しくなんてないと思いながらも、そこを抜け出せない人がいる。それは、それでもきっと、そこに留まることが自分にとって最良と思えてしまうからでしょう。一番ましな選択をすることが、自分自身をどぶの底から抜け出させる可能性を放棄させるように働きます。それはとてもとても悲しいことです。

 

 サンダーボルトは、それに抗うイナズマのように戦い、そして、負けてしまいました。いや、もしそこで勝っていたとしても、その後の結果は同じでしょう。サンダーボルトが倒さなければならない悪は、サンダーボルトひとりの力では決して倒すことができません。

 

 これは敗北の物語です。それは最初から分かっていたことかもしれません。世の中は分かりやすい悪党を倒して、平和になるような構造をしていないからです。瞬間最大風速としてしか機能しない正義よりも、地道に時間をかけて世の中に浸透する悪の方が、ある意味真っ当かもしれません。なぜ正義にはそれができないのか?なぜ正義は一瞬にきらめく、イナズマでしかないのか。

 

 この物語が見せてくれるのは、そんな敗北でしかない戦いの中で、それでも生まれてくる持続可能な正義の萌芽です。勝ち目のない戦いかもしれない。でも、決してそれは無駄ではなかったという話です。意味のない戦いではなかったという話です。

 しかしながらそれは、サンダーボルトがようやく対峙した悪の権化のような存在との戦いとは、全く関係のないところから起こったものでした。

 

 それは悪を打ち倒すことそのものではなく、弱き者を守ったことから繋がった先のお話です。サンダーボルトは負けました。サンダーボルトは消えてなくなりました。でも、意味はあったわけです。それがみっこちゃんのあずかり知らぬ場所で起こったことだとしても。

 そして、みっこちゃんにはまだサンダーボルトではない未来が待ち受けています。それは、もしかすると、サンダーボルト以上に困難な道かもしれません。

 

 サンダーボルト、2巻目が出たときに、コミティアでたまたま買ったんですけど(何がきっかけかは忘れました)、ほんとすごい良くて、そして3巻目が思ってもみない話だったので、これは絶対すごいやつだぞ!!と続きを待っていて、最終巻がもうホントホント良かったんですよ。いやあ、ホント良かったなあ。

 この感想も、今の僕の瞬間最大風速でしかないので、もうちょっと何回も読み直して書き直すかもしれません。

 

 とにかく皆、何とかして読んで!!

漫画を描いたのでコミティア126に出ます

 イエイイエイ!!コミティア126に出ます。新しく漫画を描きました。

 

 お話の内容は登場人物を使いまわしているヤクザもんの漫画で「ねえママ あなたの言うとおり」というタイトルです。例によってamazarashiからとっています。

 いきなり話が脱線するんですけど、今週発売のジャンプのHUNTER×HUNTERで、amazarashiの「アノミー」からの歌詞引用や、念能力の名前として「つじつま合わせに生まれた僕等」が出てきたので、好きなものと好きなものが予告なしに合わさっているのをいきなり見て、気持ちが盛り上がり過ぎて一瞬で無理なってしまい、一旦ジャンプを閉じて落ち着いてから読み直しました。いやあ、本当に好きなんですよね、両方とも。

 

 漫画の同人誌、もう五冊目になったので、作ることには色々慣れてきました。特に滞りなく描き始めて、思ったぐらいの時間で描き終わったという感じです。とにかく終わらせるということが目標なら、仕事でやっているようなしんどいスケジュール管理と比較して全然楽ですね。なぜなら、作業者が自分のみで、自分のことは自分でコントロールしやすいからです。そして何より楽なのはクオリティの基準を決めるのは自分なので、そこを都合に合わせて自由に変えることができます。いくらでも妥協をすればいいということです。

 ただ僕に最初からずっとある「特に漫画で描きたいことはない」という問題は依然として存在していて、これは仕方ないので自分の身の回りで起こったことについての日記を、お話に置き換えて描いているような感じです。

 

 まだ自分に残っている大きな課題としては、やっぱりネームというものが上手く描けないというか、すごく時間がかかってしまいます。なので、その完成を待っているとなかなか本格的に描き始められないという辛さがあり、仕方なく、最後まで出来ていなくても、考え終わったところからいきなり下描きを始めて、終わりは不明瞭なままで、なんとなくおぼろげに思っているところに到達するだろうと信じて進んでいくみたいな感じになっています。こんな風に設計図なしに作るの、作業量の見積もりをする上ではめちゃくちゃ弱点ですね。

 しかしながら、これは良くないやり方なのかもしれないけど、自分には今のところ合っているように思っていて、なぜなら僕は作者としての自分には信頼感が全然ないけれど、読者としての自分にはそこそこの信頼感があるからです。自分で描いたものを描いたところまで読んでみると、読者としては色々思うところが見つかるので、その結果がその先を作るのに反映しようと試みます。それを繰り返すことで、最初よりはどんどんましになっていくみたいな感じがするんですよ。

 この場合、ある程度形になって来ないと、読者としての自分が理解できるようにならないので、とりあえず何らか形にしてみてから、それについてああだこうだ考えるというようなのが現時点では良い感じがしています。なので、そのようなやり方をしています。

 

 まだ誰にも読ませていないので、今なら好き勝手言えますが、今回の漫画、結構面白いと思います。ただ、僕自身にとってはそうですけど、他の人にはどうかな?以下、ご参考までに試し読みです。

 

www.pixiv.net

 

 あと、この話、以下のと若干繋がっているので、暇だったら読んでみてください。

www.pixiv.net

 

 いつも通り、知り合いがぼちぼち来てくれて、思ったぐらいの本がぼちぼち捌けるという感じだと思うので、インターネットの皆さんも宜しければちょっこし来てみてくれるとありがたいです。

 よろしくおねがいします。

言葉は今のことしか語れない感じがする話

 人間には記憶があるので、それを使えば昔の話を書くことはできます。しかし、その昔の話は、今から振り返った昔の話でしかないのではないかと思います。つまり、それらの過去の記憶は、今何らかの理由で振り返る必要があるからという都合によって、ピックアップされてくるものであることも多いのではないでしょうか。つまり、純粋な過去ではなく、今から見て、何らかの意味で都合がよい過去を都合がよく切り出しているだけなのではないかということです。

 

 だから、今、この時点から振り返る過去は、何らかの意味で嘘です。嘘という言葉が強すぎるなら、不正確でもいいかもしれません。あるいは、そこに当時には存在しなかった別の意図が混じりこんでいる可能性もありますね。

 

 例えば、「昔のオタクは○○だった」という過去の話が出てくるのは、「今のオタクが××である」という話をしているときだったりするでしょう?昔の記憶を引っ張り出すにはそれが必要なタイミングとしての今があり、そして、その過去の記憶をわざわざ引っ張り出すための意図があるでしょう。

 つまり、「今のオタクが××」であるということを批判するために、過去を取り出すのかもしれませんし、今も昔もあまり変わりないということが言いたいのかもしれません。何にせよ、その過去の切り出し方は、今している話の文脈に依存し、純粋な過去の情報から比較すると、大いにねじ曲がっている可能性があります。

 

 そして、場合によっては何らかの主張を否定や正当化するために、過去が何度も不正確に切り出されすぎ、ついには事実に成り代わって認識されてしまうこともあります。世の中はそんなものかもしれません。でも、それ嘘じゃん、とも思います。

 

 ムーミンスナフキンが「大切な思い出は他人に話してはいけない」というようなことを言っていました。僕の記憶を正確になぞるなら、エアマスターの時田がスナフキンがそんな感じのことを言っていたと言っていました。

 これは近年よく分かる気がします。思い出を話すとき、そこにはその時の意図が重なってしまうために、純粋な記憶に何らかの色がつけられてしまうように思うからです。人に話せば話すほど、自分の中の大切な思い出の形が、もともとの姿から歪に変容して、いつしか、全然違うものに変わってしまうかもしれません。大切だから、話してはいけません。大切だから、思い出すのも控えた方がいいのかもしれません。大切なものを大切な形に保っておくために。

 

 このスナフキンの話も、今の話に都合がよいように記憶の中から引っ張り出したので、本当の本当は、こんなこと言ってないかもしれないんですよ。

 

 記憶を思い出すことは、感覚的には夢から覚めたときと同じように感じます。さっきまで覚えていたはずの夢が、掴んだと思った指の間から、するりと抜けて消え去ってしまう感覚です。そして、それを夢日記として残しておこうとするとき、いくらかの加工が入ります。文章にするときに、そのまま記述するには、夢というものはあまりにも支離滅裂だからです。

 夢の中であったことの中から、筋が通って認識できる部分を抜き出し、つなぎ合わせることで、面白い夢をみたということを他人に伝えることができるようになります。でも、それは自分が実際に見た夢の中の、多様な要素の中から少しの領域を切り出しているにすぎません。夢そのものは整然とした文章には書けませんし、だからこそ、覚えておくことも難しいのかもしれないのかなと思います。

 

 僕自身の実感ですが、記憶はどんどん変わっていきます。僕の場合、沢山の記憶が緩やかで穏やかなものに変わっていきます。色々辛いこともあったような気がしますが、喉元を過ぎたそれは、なんとなくぼんやりと、良かった記憶のようになっています。それは調子がよいときに思い出しているからかもしれません。

 嫌な記憶も沢山あります。失敗の記憶は無数に覚えています。2歳や3歳ぐらいの記憶から、失敗談だけはやけに覚えていて(何度も反芻してしまうからでしょう)忘れることができません。うわっ辛いなあと思いますけど、自分の失敗体験を面白い話として引用しまくったおかげで、樽に入って保存されているお酒のように、だんだんと味にとげがなくなって、よくなってきたような気もしています。

 そもそもそれらの失敗の記憶、もはや正確じゃないんですよ。だって、絵として覚えている光景に、自分自身の第三者視点の姿があったりするからです。それはきっと、思い出したときに付与されたものでしょう。もはや、大筋が合っているだけの偽記憶かもしれません。

 

 小さい頃、同じ団地に住んでいた友達のお父さんの出張お迎えに、自分も行きたい!!と主張して、その家のお父さんに「この子は誰?」と怪訝そうな顔をされてしまった思い出も、お菓子をおばあちゃんの買い物かごにこっそり入れたと思ったら、全然別人のかごで、「おばちゃん、そんなのいらんよ」って言われて、恥ずかしくなって走って逃げた思い出も、失敗したなあと何度も何度も思い出しては上書きしているので、もしかするとパーツが徐々に入れ替えられたテセウスの船のように、純粋な記憶の部分はもう残っていないのかもしれません。

 

 漫画の話もそうです。好きだった漫画の話を、読み返しもせずに何度も何度もし続けていると、いざ、読み返してみたときに、全然記憶と違っていて、じゃあ、僕が喋っていたのは何だったのか??という気分になったりすることもあります。それは、きっと漫画そのものの感想だけではなくて、そう言えば話として面白いだろうと思ったこととか、それにかぶせて何か言いたいことがあったとかの、不純物が混じったものだったのでしょう。確認すれば分かるわけです。自分の記憶に色々なものが混じってしまっていることに。

 

 これが漫画だと読めば訂正もできますが、自分の人生の記憶ならかなり難しい。

 

 学生時代、日記を書いていたので、それをたまに読み返します。最近では、Twitterで自分の書いたことを検索して読んだりすることもあります。これだってその時々で正確なことを自分が書いているかは分かりませんが、少なくとも後年思い出して書いたことよりは、そのときどきの今がちゃんと記載されているんじゃないかと思います。

 漫画の感想を書いているのもそうですね。そのときの自分が、その漫画を読んで何を思ったのかを書き残していれば、漫画のことも分かりますし、そのときにそれを書いた自分のことも分かります。それは結構面白くて、だから自分が面白がるために書いていたりもするんですよ。

 

 結局のところ、人は今のことしか語れないのかもしれません。自分自身ですらそうですから、他人が語っていることが本当に正確な過去なのかどうかを判別することはとても難しい。別に正確であろうがなかろうが、問題がないことが多いのだから、世の中はそんな感じに回っているのでしょう。

 

 自分の成功体験の話をしているときと、その前後で失敗体験の話をしているとき、同じエピソードを引用したとしても、その語られ方は全然違うかもしれません。意図が異なるからです。過去は、常に今のために便利な道具として使われるのみです。純粋な過去を知りたいなら、そのときに書かれたものを読み直すしかありません。だから、過去の偉人の人の伝記なんてちっとも信用できないですよ。数ある過去の情報から、ピックアップしたものを繋ぎ合わせて、その間をなめらかにすれば、そういう認識ができるって話でしかないと思うからです。そういう解釈を選び取っただけであって、過去そのものであるかどうかは疑わしい。そして、疑わしいけれど、別にそれで困るわけでもありません。

 

 個人的に避けているのは、自分自身の今までの生き方を物語のように解釈することです。偉人の伝記がそうであるように、上手い具合に記憶や記録をピックアップして繋ぎ合わせれば、なんらかの意味のある解釈が生まれるかもしれません。それはさながら夜空に無数にある星と星を結んで、星座を作るようなものです。その星座はペガサスや、ヘラクレスのような姿をしているかもしれませんが、その星座に選ばれなかった無数の星も残っています。そして、自分自身とは、その星の全てでしょう。どんな形にしたってそこに選ばれないものが残るわけですよ。

 

 有名人の話なら別にいいですが、自分自身の場合、選んだ星座としての物語は、自分の未来を縛ってしまう可能性があります。今この場この時の最善ではなく、自分自身という存在の解釈を逸脱しない範囲に選択肢が狭められてしまうからです。それをすれば、過去と現在と未来を、同じ解釈で理解することはできるかもしれませんが、そこで選ばざるを得ない未来がドブだったときに、みすみす選択肢を捨ててしまい、自分の首を絞めているだけになるかもしれません。

 

 結局のところ、人には今しかなく、今についてしか語れないんじゃないかと思ったりするわけです。なので、今も、今の気分について書いています。竹原ピストルも「LIVING(HIGHWAY61「Living」をモチーフにして)」という歌で歌っていました。

 

ベイビー 歌いたいことが一つだけあるんだ
いや本来 歌うべきことは一つだけのはずなんだ
それは“今”だ 

 

 目の前にあったかと思えば、すぐに消え去ってしまう今を残しておく方法は、言葉にしておくことです。言葉は今を保存することができる方法のひとつで、映像に映らず、音声にも残らないような、頭の中のことでも、言葉に出しておきさえすれば保存しておいてくれます。今のこと以外、世の中は全て曖昧なのでは??と思うことも自分の記憶力が低下してきた中年の脳では思うこともあって、かつての自分が書いていた、かつての今の情報を読み直して、足場を固めているみたいなところもたぶんあるんですよ。

 

 わかんないですけど。

 

 ともかく今がそういう気分なんで、それを記録しておくことにします。

合法の無料と違法の無料を見分ける難しさ関連

 昨今、漫画がネットで無料が当たり前の雰囲気も出てきた気がしており、色んな漫画が(期間限定であったりはするものの)、合法的に無料公開されたりもしまくりな昨今です。

 

 無料というのは摩擦がないみたいな感じなので、情報としての流通が爆速になります。誰でもリンクをクリックすればすぐに読めるからです。会員登録をしたり、決済手段の登録をしたり、お金を支払ったりすることなく、ネットに繋がる端末さえあれば簡単に読めます。人から人に広がりやすく、沢山の人が読むようになります。だから有料の場合と比べてすごく沢山読まれるようになりますが、問題は読者にとっては無料なので、読まれることそのもので収益を上げることには向きません。

 つまり、もう既に市場ではあまり動かなくなった古い漫画に広告をつけることで少額でも収益化することや、アニメ化やドラマ化、あるいは新刊発売に伴うプロモーション的な意味で、それ自体が広告になることなどが理由として読み放題になることが多いと思います。

 読み放題そのものから大きな利益を得るのはまだ確立した方法がありません。

 

 さて、漫画がネットで無料というと、違法な手段でもそれが行われることがあります。むしろ、そちらの方が目につきやすいかもしれません。今でも漫画のタイトルと一緒に検索されている単語には、違法アップロードされた作品を探すための言葉であることも多いですし、この前話題になった漫画村などもそうでしょう。

 無料で読み放題というものは、漫画を作っている人に収益として還元されることを無視すれば、誰でもいつでも大量の漫画を好きなだけ読める、自由で便利で豊かな環境が提供できる素晴らしいものかもしれません。僕自身合法なものについては、嬉々として色んな人に読んでもらおうとしているので、そのメリットは分かります。でも、それはやっぱり違法な手段で行われていてはダメだと思うんですよ。それは持続可能ではないから、あるいは、持続するために誰かを踏みつけ続けるものだからです。

 無料で公開するということに沢山のメリットもあるとは思いますが、それはある種の損害もある行為なので、もしそれをやるならば、作者が自分の意志をもってするということが大前提になる必要があるのではないでしょうか?

 

 さて、同じようなものを提供するにしても、「作者の意志を伴った合法」ならよく、「作者の意志を無視した違法」ならダメという基準があったとします。しかしながら、何が合法で何が違法であるかということを見分けることはそんなに簡単なことでしょうか?

 

 以前、マンガ図書館Zで「皇国の守護者」の漫画版が公開されるということがありました。僕はSNSでそれを知りましたが、これはおそらく違法だろうと思ったので言及はしませんでした。ではなぜ僕はそう思ったのでしょうか?マンガ図書館Zは、絶版になった漫画に広告をつけて合法的に公開をしているサイトです。ならば、合法的に公開されたと思ってしまっても仕方ないかもしれません。

 当時の僕が、これは作者の許諾によって始まったものではないのでは?と判断した根拠は2つです。ひとつはマンガ図書館Zは漫画におけるYouTubeのようなものを目指すと宣言しており、著作者以外の人間がデータを上げて公開できる仕様となっていたことです。参考までに、このような仕組みは、いくつかの条件を満たせば、違法ではありません。なぜなら、プロバイダ責任制限法においては、このようなアップローダに上げられたデータに対して、著作権を侵害していることの指摘があった場合、速やかに対応してデータを消しさえすれば罪に問われないことになっているためです。事実、YouTubeも著作者以外が勝手にアップロードしたデータが溢れていますが、違法サイトとは扱われていません。それと同じです。

 ここで言いたいのは、マンガ図書館Zで公開されているからといって、必ずしも合法とは限らず、違法だがまだ指摘されていないだけの可能性があるという前提を僕が持っていたことです。

 もうひとつの根拠は、「皇国の守護者」の漫画版は、以前出版社の人から聞いた限り、原作者が自らの意志を持って連載を途中で終了させたものであり、それによって電子書籍版も出ていないというものだったからです。その問題がもし解決したとして、まず行われるのはきっと電子書籍版の販売でしょうし、いきなり無料公開のサイトにアップロードされるようなことがあるでしょうか?

 この2点から、マンガ図書館Zで当時公開されていた漫画版皇国の守護者は、権利者の意志とは無関係に違法にアップロードされたものである疑惑が強く、だから、はっきりするまでは言及することを避けたわけです。

 

 結果的に、話題になってほどなくデータの公開は止まり、上記の推測は細部までは不明ですが大筋は正しかったことが分かりました。

 

 僕はこのような理由から思いとどまりましたが、それを作者の意のもとに合法的に公開されたものと勘違いして宣伝をしてしまった人たちもいたわけですよ。それをダメなこととして非難するような気持ちは僕にはありませんが、結果的に、作者の意志を無視し、権利を侵害する行為を、むしろ良かれと思ってやってしまったということは結構しんどい状況なのではないでしょうか?人によってはこれを「合法で提供しない方が悪い」というような怒りを表明しているのも目にしました。作者の権利なんてどうでもいいという考えの人も当然いるようです。

 一方、漫画版皇国の守護者については、原作者の意向により、漫画家が自分の描いた漫画版の公開を制限されているというしんどい事情があります。なので、色んな思惑が絡まっている厄介な事例です。ただ、基本的に作者の権利を守るという意味では、合法的な動きの結果の状況であり、その解決は個別に交渉するしかないようなものだと思います。漫画版皇国の守護者は好きな漫画なので、そのような状況になってしまうのは悲しいですね(まあ僕は単行本を持っているのでいつでも読めますが)。

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 話がそれましたが、皆さんは合法と違法をどうやって区別しますか?という話ですよ。上記のような理路は特殊なので、パッと見でそう判断するような人は少ないかもしれません。これはなんだか分からないけれど無料で、なんだか分からないけど作者にお金が入ってるんだろ?と思ってしまうことはそこまで不思議なことではありません。例えば、テレビなんてその最たる例だからです。

 

 ネットで無料で読める漫画には、合法なものと違法なものが入り混じっています。それはパソコンやスマホのブラウザやアプリから読めるという意味では違いはありません。それを合法か違法かを区別するのは、その後ろで、適切な権利処理を行っているかの違いであって、それは読者からは見えにくい場所でもあります。

 合法に公開されているサイトだからといって、そこに違法なものが混じってしまうケースもあります。マンガ図書館Zもそうですし、Kindleでも、その漫画の著者ではない人が勝手に登録している漫画も発見することができます。

 だから、100%明確に判断する根拠は、現時点ではないと言った方がいいような気がします。僕自身、あらゆるケースにおいて見分けられるという自信はありませんし、出版社が自分たちでやっているようなこれは絶対合法だろうと思えることでも、実は作者にちゃんと確認をとっておらず、事後承諾となったり、揉め事に発展したりしたケースも見聞きします。それだって違法に分類されるわけでしょう?

 その権利処理の実態が、自分の目の前に公開されているわけではない場合、完璧な確認手段というのはありません。だから、なんらかの合法違法の判断は、何らか適当なものを根拠に、これは本当に合法か?とそれ以上考えることを止めてしまうことによってのみ成し得るものかもしれません。

 

 例えば、子供にこのYouTubeの動画はこのユーザが勝手にアップロードしたものだから違法で、同じサイトで同じ検索に引っかかるけど、これはオフィシャルのアカウントだから合法、ということを上手く説明しろと言われると弱ってしまいます。説明はできても、納得してもらえるかの自信がありません。(なおストリーミングなので、現行法上は視聴自体は違法ではありません)。

 テレビでも無料で流して合法なのに、それがネットになると無料で見るのは違法なのはなぜ?という問いに、誰もが簡単に納得してもらえるように説明ができるでしょうか?それが音楽なら?漫画なら?映画なら?ゲームなら?

 著作物における作者の権利という概念と、それが法律にどのように記述されているか、そしてその解釈は?判例は?それぞれ誰でも即座に簡単に理解できるものではないように思います。だから、一番楽なのは、ネットに上がっていて、それを見ること自体が違法でないのなら、何も考えずに見てしまえばいいというあたりになってしまうんじゃないかと思うんですよね。それが谷の底です。流れた水をせき止めるものがないなら、全て谷の底に流れ着いてしまいます。

 

 その谷に流れてしまうことを前提で戦うなんて方法もありますよ。例えば、音楽そのもので収益が得られないならライブやグッズで収益を得ればいいとか、違法ダウンロードを潰すのではなく、競争をするだとか。合法でもっと安く便利に提供すれば競争力があるとか。でも、個人的には音楽でのそれは失敗しているように見えてしまいます。なぜなら音楽市場は、ネットで無料の圧力がかかるまえと比べてすごく小さくなっているからです。ライブやグッズで収益を上げられるような既に大きくなった音楽家ならいいかもしれません。でも、新人ならどうでしょうか?市場規模というのは単純に食える人の数も意味すると思います。その市場で食べていける人は減っていくんじゃないかと思うんですよね。

 何年か前に行ったバンドのライブで、ボーカルがMCで、「どうやったら音楽で食えるようになるんだ!?」と絶叫していました。そのライブは2つのバンドのツーマンで、片方は早くからネットの生配信などを駆使し(それを見て僕も行きました)、もうひとつは昔ながらのやり方です。「配信とかをすればいいのか!?それで食えるようになるのか?」とステージ上ですごく嘆いていて、今調べてみたら活動休止していました。時代の流れに乗れなかったのが悪いと言うこともできるかもしれません。でも、それは時代の流れというものに乗れないものは、それがどんなに好きな感じの音楽だったとしてもいなくなってしまうということです。それは悲しいなという気持ちがあります。

 そういう意味で、音楽は今のところビジネスとしては特段上手くは行っていないんだろうなという認識です。

 

 でもまあ、ネットによって低コストで全世界に流通させることはできるようになったので、収益化はめったにできなくても、音楽を聞く環境は豊かになる可能性だってありますね。

 

 そんでもって、漫画はどうなるのって話じゃないですか。合法なやつをちゃんとやっていければ大丈夫なのかも不明瞭ですが、でも、音楽みたいに違法なんかと正面から競争して、自分たちの得られるはずだった利益を切り下げていって、収入を大きく減らした状態で「勝負に勝った」なんて言うの、なんか悲しすぎやしないかなと思い、そうはならないでほしいみたいな気持ちがあります。

 漫画も、今は描いてネットで無料で公開している人も無数にいます。それで食うわけでもなく、同人誌を作って楽しんでいる人もたくさんいます。それも別に悪くはないかとも思いますが、僕は商業漫画に囲まれて生きてきたので、それに対する郷愁みたいなものがあるわけですよ。

 

 話を戻します。合法違法の見分け方の話です。漫画を無料で公開しているサイトは出版社直営のものも多く、それは出版社直営なのだからきっと合法だろういう信頼性が得やすいでしょう。では、それ以外の場所ならどうでしょうか?例えば「スキマ」というサイトがあります。このサイトを見て、合法か違法かをどのように判断するでしょうか?

 ネットで「スキマ 合法 違法」なんて検索してみる、なんて方法もあります。Yahoo知恵袋に回答が書かれていたりしますね。でも、Yahoo知恵袋に書かれているから合法に違いない!!と思うのは正しいでしょうか?スキマの漫画のデータを見ると、あまり綺麗ではありませんし、場合によってはスキャンしたページが破れているなんてこともあります。キャプションに誤字が含まれていたり。一見すると怪しさも沢山あるわけです。

 なので、僕は最初サイトを知ったときには多少警戒したのですが、運営会社が普通に商売をしている漫画全巻ドットコムと同じであるということや、オリジナルの連載も行われており、そこでは漫画家のTwitterなんかを見る限りちゃんと仕事としてやっているだろうことが分かります。合法のビジネスをやっている以上、違法性のあるものを公開するのはメリットよりデメリットが多いだろうなどことが推察されます。

 スキャンの品質が悪いのも、漫画全巻ドットコムと関係性があるため、コスト削減のために自前でスキャンしている本があるのかな?と説明できると思いました。あとは、権利を持っている漫画家から指摘がない状態で継続的に公開され続けているので、それならきっと大丈夫だろうという結論に至りました。しばらく時間をかけて。

 でも、結構難しくないですか?その判断。僕は最初結構悩みましたよ。ここが違法サイトなのか合法サイトなのか。

 

 違法サイトにだって「この漫画を読むのは合法です」みたいな書き方がされていたりもします。それを読んで「そうか!合法なんだ!」って思ってしまうことだってあるんじゃないでしょうか?それはすごい雑な話ですが、それぐらいで信じてしまうことだってあるわけですよ。だって、SNSで書き込みされた真偽を確認する手段がまるでない情報でも、すぐに事実として扱われてしまったりもするじゃないですか。

 何をもって信じるか、なんて人それぞれです。詳しい分野では騙されなくても、詳しくない分野ではコロっといってしまうかもしれません。結局のところ具体的に何がどうなら合法なのかを確認するのって、結構しんどいですよね。しんどいからどれだけの人がどれだけやれるかも分かりません。だからもう、しんどい状況だよなあと思ったという話です。

 

 そうなると、ネットを分かりやすくするためには違法サイトをネットからブロッキングしてしまいたいという発想も出てくるよなあと思っており、個人的には立法という筋道と運用の透明性が確保されるなら、そういう解決方法もあるだろうなと思います。ただ、今いきなりそれをやるのは無理筋だとは思いますが。

 

 さて、ようやく本題ですが、僕が大好きな漫画こと「将太の寿司」が、しばらく前からスキマで期間限定無料公開されており、あと2週間弱で読めなくなるそうなので、まだ読んでない人はこれを機に読んでみるのもいいのではないかと思います。

www.sukima.me

 以下は、ご参考までの僕の将太の寿司に対する気持ちの文章です。

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「からくりサーカス」から「月光条例」に繋がる地獄の機械関連

 からくりサーカスとはどんな漫画であったのかを一言で選べと言われたら、僕は「運命とは、地獄の機械である」という言葉を選びます。これは作中でジャン・コクトーの言葉として紹介されるものです。僕はこの言葉がジャン・コクトーによってどのような文脈で語られたかを知りません。なので、すごく見当はずれな理解をしているかもしれませんが、からくりサーカスを読んでいると、ああ、運命とは地獄の機械だなと思うわけです。

 

 機械というものは意図して設計され、様々な部品が絡み合い、動力を得て動作するものです。運命という機械を動作させるためには、様々な人々がその部品として組み合わされ、その部品は外部から導入された動力で動くでしょう。いや、動かされるでしょう。そこには選択の余地がありません。決められた役割に応じて決められた通りに動くのが機械の部品に求められることです。部品が壊れたなら、別の似たような部品がそこにまたおさまるだけです。部品となった人は壊れるまでそれを動かし続けなければいけない。そのために動かされつづけなければいけない。それは地獄、ではないでしょうか?

 

 僕が得たのはそのようなイメージです。

 

 からくりサーカスは「選択」の物語でしょう。物語の冒頭、悪い奴らに追われる少年、勝は、サーカスの宣伝の着ぐるみに「話かける」か「話かけない」かの選択を迫られます。ここで話しかけなければ、この後に起こる全てはなかったはずです。でも、話しかけてしまった。これはそういう物語です。選択にはそれを選んだ責任が付きまといます。選択したために起こってしまった悲劇は、選択した人自身に責任としてその代価を要求してくるでしょう。勝はそのあと、大きな喪失を経験します。それは自分が選んだからこそ起こったものであると思わされます。

 

 からくりサーカスには選択を迫られる場面が何度も出てきます。何かを「する」か「しない」か。しかし、そこに本当に選択の余地はあるのでしょうか?どちらかを選ばざるを得ないのであれば、選択肢が登場することは、登場しないことよりも残酷かもしれません。そこには勝のように責任が生まれるからです。人は責任によって身動きがとれなくなり、より一層機械の中に取り込まれてしまうものかもしれません。

 本作の主人公の一人である鳴海もまた、運命という地獄の機械に引きずり込まれ、歯車の一つとして身動きが取れなくなってしまいます。彼の体は、彼だけのものではなく、彼がそこまでくるためにその死を看取ってきた沢山の人々の意志によって動かされます。誰よりも自由意志のある人間であろうとした鳴海でさえ、数々の仲間の死を背負い、自分を失ってしまいました。

 

 自動人形の破壊者である「しろがね」もそんな地獄の機械の一つです。

 彼ら彼女らは、元々は一人の男の意志であったものを継ぐ者たちです。それはある種の呪いです。「自動人形を破壊せよ」との呪われた機械の部品と化した悲しい人々です。

 全ての元になった男、「白銀」は、自身の生み出した錬金術の最大の成果「生命の水」を使い、病に苦しむ人々を救う代償として、人々に「しろがね」という呪いをかけました。なんでも溶かす生命の水にその身を溶かし、飲んだ人々は皆、心の一部に彼の意志を宿すようになってしまったのです。これは地獄の機械ではないですか。

 

 ジョージ・ラローシュの話をしましょう。

 彼はピアノを練習する少年でした。そこでは、厳しい父により、自分がただ譜面を再生する機械であると指摘されます。ジョージにはしろがねになったことに抵抗が少なかったかもしれません。既に、過去の誰かが作った譜面を、再生する機械でしかないなどと言われてしまっていたからです。そしてジョージは、あやつり人形なしでも単独で戦える力を得るため、体の一部を機械に置き換えたしろがね-Oとなる決断もしてしまうのです。

 しかし、果たして彼に選ぶ権利はあったのでしょうか?彼はベルトコンベアに流されるように、機械となる運命に取り込まれてしまいます。そして多くの人がそうであるように、自らに求められた役割と、自分自身の意志を混同し、自分がそうであるということを受け入れ疑問を持つことができません。

 彼は敗北を機に、自身が超人間しろがね-Oの一員であるということも否定されます。彼は、しろがねと自動人形の最後の戦いにおいて戦力外通告され、伝令役としての役割しか与えられないのです。幸か不幸か、それによって最終決戦を生き延びたジョージは、その様子を「くだらねえ戦い」と言います。それは日本人の人形繰り、阿紫花の言葉を借りたものでしたが、この戦いは、病気にさせられた者たちが病気にさせた者たちに仕返しをしただけの、くだらない戦いだったと言うのです。自分たちを駆り立てた最後の戦いは、自分を支配した運命は、とてもくだらないものでした。

 その後、終わったはずの戦いに再び身を投じたジョージは、その幕間にサーカスを手伝います。ジョージは、お世辞にも上手いとは言えないジジイの芸の手助けに、ピアノを弾いてあげるのです。そのとき、彼に初めての賞賛が舞い降りました。子供たちの拍手がジョージのピアノに向けられるのです。それだけではなく、ジョージは子供たちにせがまれました。「また、ピアノを弾いてね」と。この出来事が、歯車と化していたジョージの心にヒビを入れます。

 ジョージは合理的に生きてきた男でした。合理性とは、しばしば不自由のことを意味します。なぜならば、合理的に考えるならば、合理的な結論を選ばざるを得ないからです。譜面の通りにピアノを弾く機械になるのが合理的。病から逃れるためなら、しろがねになるのが合理的。しろがねとして戦い続けるなら、改造されてしろがね-Oになるのが合理的。しかしその合理性は、果たしてジョージを救ったでしょうか?

 Oという存在がいます。それは体を完全な機械に置き換えた、ついにはしろがねですらなくなった合理化の権化です。Oの男を前に、ジョージは煙草を吸って見せます。目の前のOにジョージはかつての自分自身を見ました。煙草を吸う合理的なメリットなんてありはしません。つまり彼は、そこから降りたのです。いや、外に踏み出たのかもしれません。

 先ほど、ジョージはついに自分の得たかったものを知りました。ついに自分の望む生き方を見つけました。自分のピアノへの子供たちの拍手が、それに気づかせてくれました。「私はピアノを弾いてねと言われたんだ」。その記憶をジョージはひたすらに反芻し続けます。合理に囚われ過ぎ、ついには自分の生き方をも見失ったOに対して、自分がもはやそうではなくなったことを誇らしげに語るのです。

 「こんな私にだぞ」、ジョージのこの言葉は何よりも悲しい。ジョージは誰にも求められてこなかったわけです。ジョージは。人に見捨てられないために、それが合理的と目を背け、自分の選択だと自分自身を騙してきました。しがみついてきたその道の先にいるOでしょう。その姿はとても空虚でした。それは結局、誰かの意志を再生する部品の一つでしかないからです。

 ジョージはまた子供たちのためにピアノを弾いてやりたいと思います。ジョージはついにその身を捕らえる地獄の機械を破壊し、その外に出ることができました。しかし、戦いの中で力を使い果たしたジョージに待つのは死です。でも、それは悲しいばかりの死でしょうか?誰かの作った運命にもてあそばれて生きてきた今までは、本当に生だったのか?ジョージはその肉体的な死を前にして、ついに生きることができたのではないでしょうか?だから、ジョージ・ラローシュは本作を象徴するような男ですよ。彼は運命という地獄の機械に打ち勝つことができたからです。

 

 ドットーレという自動人形の話をしましょう。

 フランシーヌという人形を笑わせるためだけに生まれたドットーレは、その目的のために、人間に対しての様々な悪行をやってきました。最初にやったのはジャグリングの芸です。年に一度の祭を楽しみにしてきた田舎の村の子供たちが、自分に向かって走ってきたのを、ドットーレは優しく出迎えます。その腕は子供たちの頭や手足をこともなげに切り落とし、まるでボールやピンのようにジャグリングしてフランシーヌ人形に見せるのです。どうです?おもしろいでしょう?笑えるでしょう?

 ドットーレたち自動人形は、決して許されない悪行を繰り返してきました。人を笑わせないと苦しむ病気、ゾナハ病をばらまき、人の血液を吸って生きる、忌まわしき人形たちです。しかしそれは全てフランシーヌ人形のためです。彼女を笑わせるためなら、自動人形たちはなんでもやってのけます。フランシーヌ人形は、彼らの存在価値そのものなのです。

 遠い昔、自分の子を、ジャグリングの道具にされた女がいました。彼女はゾナハ病のせいで死ぬこともできない苦しみの中、自動人形を憎み続けます。その気持ちは、しろがねになることでさらに増幅され、自動人形の破壊のため、彼女はたくさんのものを犠牲にしてきました。その女の名は、ルシールと言います。彼女の最後の武器は、フランシーヌ人形そっくりの人形です。その人形をあやつることで、ルシールはドッドーレたちを行動不能にしました。

 目の前の人形はフランシーヌ人形ではない。頭ではわかっていてもドットーレたちは動くことができません。なぜなら、フランシーヌ人形とは彼らの存在意義そのものなのだから。同じ形をしたものを、無視することなんてできはしません。

 ルシールはドットーレに挑発的に囁きます。「フランシーヌ人形など自分には関係ないと思ってごらん」と。それが唯一、彼が動くために必要な方法だからです。ルシールはドットーレをさらに挑発し続けます。そしてついに、ドットーレは動きました。目の前のしろがねを殺すため。フランシーヌなど自分には関係ないと宣言して、動けない体を無理矢理動かしたのです。

 自分を縛る不自由な法から抜け出たドットーレに与えられたのは、死でした。なぜなら、フランシーヌ人形は彼の存在価値そのものなのだから。そのために彼は作られた存在なのだから。それを否定しては、生きていくことができはしないのだから。ルシールは、ドットーレに自由を与え、それによって復讐を遂げたのです。

 

 ジョージ・ラローシュとドットーレは、お互いに課せられた機械の部品という運命から外に出ることができた存在です。そして彼らに訪れたのは死でした。前者は自分を取り戻した満足の中の死であり、後者は自分を見失った絶望の中の死です。しかし、彼らにともに死が訪れたのは果たしてたまたまでしょうか?

 運命というものがそれまでに残酷で、恐ろしい力を持つからだったりはしないでしょうか?

 

 からくりサーカスは「選択」の物語だと書きました。しかし「選ぶ」「選ばない」に影には、「選べない」があるのではないでしょうか?物語に登場した人々の多くは、選ぶことができない運命に翻弄された者たちです。ゾナハ病の患者はしろがねになるしかなく、しろがねは自動人形を壊すしかなく、自動人形はフランシーヌ人形を笑わせるしかなく、フランシーヌ人形は造物主に笑顔を見せるしかありませんでした。全てはそのために、起こった出来事です。

 全ての発端となった造物主、白金の選択が、他の沢山の人から選択肢を奪い、世界中を巻き込む悲劇に発展したのです。

 

 なら、彼に訪れた選択とは何だったのか?フランシーヌ人形のモデルとなった女性、フランシーヌを求めることを「選んだ」ということです。そしてそれは、フランシーヌに選ばれなかったという悲しみから生まれた行動です。彼女は兄の白銀を選び、自分を選んでくれなかったのです。

 

 からくりサーカスの物語は、白金の自分がその道を選んだことが間違いだったという言葉によって終幕が始まります。フランシーヌが白銀を選んだとき、自分が選ばれなかったという悲しみから、強引にフランシーヌを奪い取ったという選択が全て間違っていたという結論に至ります。

 白金が、流されるままに我慢をすることなく、自分の望む未来を強引にでも選ぼうとしたことが間違いだったなら、これもまた地獄の機械なのではないでしょうか?自由を勝ち取ったジョージ・ラローシュやドッドーレに死が訪れたように、彼には「我慢する」か「悲劇を起こす」しかなかったのですから。

 

 運命に定められた人生を歩まざることを得ないことは悲劇です。しかし、それを抜け出すことが、さらなる悲劇を生み出すのであれば、そこはきっと地獄です。だから、からくりサーカスは、運命という地獄の機械の物語だと思うわけです。

 

 この地獄の機械に翻弄される人々という構造は、次の長期連載である「月光条例」で繰り返されます。ここに登場するおとぎばなしはしばしば悲劇です。おとぎばなしの筋を運命とするならば、その登場人物たちにとって地獄の機械と言えるかもしれません。物語を狂わせる青き月の光は、物語の登場人物に月打(ムーンストラック)という暴力的な自由を与え、その本来の筋を破壊します。月光条例の青き月の光は、地獄の機械を破壊する力であるのです。

 それを抜け出た登場人物たちは、ジョージ・ラローシュではないでしょうか?ドットーレではないでしょうか?白金ではないのでしょうか?

 その月打は、月光条例の執行によって正されることになりますが、物語の登場人物たちはその一瞬見ることができたように、誰しも地獄の機械に抗い続けているということではないかと思いました。

 

 これは言うなれば物語という地獄の機械と、登場人物たちの全面戦争です。そして、多くの物語は、そのせめぎあいの中で生まれているのではないかと僕は思います。浦沢直樹の「ビリーバット」もそれを描いた漫画ではないかと僕は思いました。

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 物語の筋を破壊してしまうほどの強力な意志を感じ取れる登場人物と、そんな強力な登場人物を使役するほどの強い物語のせめぎあいが、漫画の持つある種の強い力の正体なのではないかと僕は感じています。

 

 そのすさまじい戦いを、ある意味、地獄の機械側の勝利でねじ伏せたからくりサーカスが、その次に月光条例に辿り着くのは必然であったのかもしれません。