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善人について

 漫画の描き方というものがよくわかっていないので、一旦描きたいことを文にしてみてから、それを物語に置き換えるようなことを毎回しています。それがいいやり方なのかどうかは分かりません。また、漫画を思い通りに描く能力が足りないので、文と同じような漫画を描こうとしたものの、結果的に違うものになったりしてしまいます。ただ、途中で自分が何を描こうとしていたのかができるだけずれないように照らし合わせる指針として今はまず文を書いています。

 以下の文は5月のコミティアに出した「千年幸福論」という漫画を描く前に書いたもので、結果的に完全に同じ話にはならなかったんですけど、漫画の方をうっかり読んでくださった人はどう変わってしまったのか比較してみてもいいかもしれません。

 漫画の方は途中まではpixivにもあげています(でも途中までなので、途中まで読んでも終わってないしもやもやするだけかも)。

www.pixiv.net

 

 誰からも善人と思われる人はいるだろうか?ということをたまに考える。

 世の中には多くの出来事があり、インターネットを見るとそれに対する様々な意見があるのが目に入る。思うのは、大きな出来事にはそれに釣り合う大きな理由がないと落ち着かない人がいるんだなということだ。何かが起こると、相応の原因を誰かに求めようとする人がいる。でも、多くの場合原因と結果のつながりは、それを認識する人がしっくりするからやっているだけなんじゃないだろうかと思う。本当にその原因がなければ、同じ結果に至らなかったとどうやったら断言できる?

 

 誰かに不幸が起こったとする。そうすると、その人が不幸になった原因を求めようとする人がいる。中には、その不幸になった人自身にその原因を求めることもある。だから、誰かの不幸ごとが知れ渡ると、「その不幸の原因はお前自身にあったのだ」という話が生まれてしまう。僕が思うにそれは、そのように説明がつくことが話者にとって都合がよいということだろう。ならば、言いたいことはつまり「だから、俺は悪くない」ということだ。

 自分には責任がないということが立脚点なら、他の誰かが悪いことになる。誰が悪いかが定まれば、その出来事に十分な理由がつくので安心する。その原因を自分に求められないので安心する。だから、何か不幸が起こると、その不幸に見舞われた人に対する「それはお前が悪かったからだ」と責める声が生まれてしまうんじゃないかと思う。

 僕はこれをとても悲しい光景だと思う。もちろん、自分の利益を追求することは別に悪いことじゃない。だけれど、皆が皆それをすることで、誰かが踏みにじられてしまったりする。皆が当たり前の何かを望むことが不幸を生み出すのなら、それはとても悲しいことだ。

 

 人は人に原因を求める。例えば台風が来て事故が起こっても、悪いのは台風だということにはならない。台風が来たのに十分な対策をできていなかった人が悪いことになったりする。それはきっと、自然は人間に対して責任をとってくれないからだ。人に原因を求めれば、その損害の補償がされるかもしれない。なら、人に原因を求めた方が得だろう。

 

 宇宙開闢がビッグバンであったという仮説が事実なら、この世のあらゆることの原因はビッグバンであったとも言える。傘を持たずに出かけたら、雨が降ってずぶぬれになってしまったとする。それもビッグバンのせいだ。なぜならビッグバンがなければ、雨に濡れてしまうという事象は起こらなかったのだから。だからあらゆることの原因をビッグバンとして説明してもいいはずだけど、そうはならない。

 注文した料理がなかなか届かないことに憤ったお客さんが、店員さんに対してどうなっているんだ!?と抗議し、店員さんは「ビッグバンのせいです」と答える。ビックバンがなければ注文がなかなか届かないという出来事はなかったし、それは立派な原因だけれど、おそらくそれは受け入れられない。なぜなら、ビッグバンは注文した料理が届かないという不満に対して何の責任もとってくれないからだ。だから、お店が悪いことになる。お店が悪いことになれば、お店にその賠償を求めて、自分の不満は解消されるはずだと思えるだろう。ある結果の原因は無数に考えられるけれど、その中から選ばれるひとつの原因は、問題視する人の都合によって決まる。

 つまり、何を問題の原因として取り扱うかは、それをどのようにしたいかに影響されるものだろう。不思議なことに、世の中のあらゆる「原因」は、「結果」より後に生まれる。原因があって結果があるんじゃない。結果があって初めて何が原因であるかが定まる。そしてそれは人の都合だろう。何かを原因として考えることは、その後どうなって欲しいかに根ざした意志の話だろう。

 

 だから、何かを訴えかけるあらゆる人に向けられる、「それはお前の自業自得だろう」という言葉はきっと無くすことはできない。自業自得であるとなることになれば、その人を助けなくて済むということになるからだ。その方が都合がいい人がいるからだ。これは誰かを責めている話ではない。だって僕自身だってそうだから。

 僕が親切心から誰かの手助けをしたとして、その助けをその後も何度も何度も求められたとすれば、もういいだろうという気持ちになることもある。なぜなら割に合わないと思うから。「これまで散々手助けしただろう?」という自分の中に沸いた感情が、「だから、もう助けなくても十分だろう」という感情と釣り合ってしまう瞬間がある。

 

 そのようにして、色んな人が助けるべき人の枠から除外されていく。もっともらしい理由をつけて除外される。人を助けることは誰かに負担になってしまうから避けられる。困っている善良な人を助けようという話は、何度も繰り返し、大きくなってしまうと、どこかのタイミングで諦めに行き着く。そのとき、善良だったはずの人は善良ではないとされるようになる。だからその人は助けなくていいということになる。だって善良でない人なんて助ける理由はないだろう?

 原因はいつも結果が決まってから都合よく選ばれる。

 

 人が誰からも疑いようがなく善人として扱ってもらうためには、誰にも助けを求めてはならない。

 

 ここにいい方法がある。善人と思われたままでいたければ、誰にも助けを求めずにそのまま死ぬことだ。そうすれば沢山の人が同情してくれる。こんなにも善良な人なのに、なんて不幸にも亡くなってしまったんだろうという話になる。なぜその人が善良であるとみなされるかと言えば、死者はもう自分たちに何にも求めないからだろう。どれだけ同情したとしても、自分はその人に何も支払う必要がない。だから安心して善を認められる。だから、死者の善性はとても強固だ。

 手遅れだった。助けたかった。そんな言葉は人の死の後で沢山生まれるかもしれない。でも、その善良な死者が、もし生きていて自分に助けを求めてきたとき、本当に助けるだろうか?それは一回だけの話でなく何度も何度も繰り返されることだったとしても?

 僕にはそれが信用できない。自分が助けて貰えなかった経験があるからだ。そして、他人を助けなかったことだってあるからだ。

 

 助けられたはずのものを助けなかった経験なんて山ほどある。その経験が、自分を善人ではないだろうなという結論に至らせる。別にそれでいい。僕は悪人だし、自分が悪人であるとちゃんと認識することが、崖っぷちに残った誠実さだろう。

 目の前にいる全員を助けられないとき、誰を助けて誰を助けないかの取捨選択が生まれる。誰かを見捨てる選択をすることもある。平等なはずの人に差をつけて取り扱う。そのような悪をして生きている。目の前にいる全ての人を平等に助けられればそれは善かもしれない。だとすれば善なんて存在しない。人は全能ではないから。

 

 ただ、助ける側の人間が、「ひょっとしたら自分は善人なんじゃないか?」なんて思うことができる方法もあると思う。それは、最初から誰も助けようなんて思わないことだ。調子のいい優しいことだけ言っておいて、実際は一切手を貸さなければ、そのまま調子のいいことを言い続けられる。なぜなら自分は何一つ減らないから。

 お金に困っている人がいれば、なぜ彼らに金を与えないのだと言えばいい。自分の財布は一切開かないのに。他人の財布に手を突っ込んだときだけ気前よく振る舞って善人面すればいい。

 善であろうとすればするほどに、自分の悪に気づいてしまう。そんな悪に気づかないように振る舞う善はもっと邪悪なように思えてしまう。他人に悪だと思われたくなければ口を紡いでいなくなるしかない。なら善なんてどこにあるのだろう。

 

 じゃあもう悪にでもなるしかないじゃないか。

 

 という話を最初は描こうとしていたわけです。

「魔女」のペトラゲニタリクスおける言葉と体験について

 五十嵐大介の「魔女」はめちゃくちゃ好きな漫画で、中でも好きなのは「ペトラゲニタリクス(生殖の石)」というお話です。

 このお話は、「言葉」と「体験」の関係性について描かれるお話です。大いなる魔女ミラは、ある晩家族となった少女アリシアに本を読むことを禁じます。アリシアはなぜと問いますが、その答えは「あんたには経験が足りないからよ」というものです。

 

 そしてミラはこう続けます。「"体験"と"言葉"は同じ量ずつないと、心のバランスがとれないのよ」と。

 

 僕はこの考えにすごく影響を受けていて、自分自身の生活にも取り入れています(なので今まで何度も書いている話かもしれません)。

 言葉というものはコミュニケーションにおけるある種の圧縮の技術でしょう。「りんご」という言葉を聞くと、それぞれの人々が頭の中にそれぞれの「りんご」を思い浮かべます。そこには色や形、味や、そこから作られる様々な他のものや、関連する物語など、沢山の情報が詰まっているはずです。しかし、それを表現する言葉はあくまで「りんご」の三文字です。言葉は、それを使うことで人の頭の中にある記憶や体験の情報を引き出す鍵、文字通りキーワードなわけです。人はそのキーワードを組み合わせてやりとりすることで、自分の脳の中の情報を、他人の脳の中の材料を使って再現しようと試みます。

 しかしながら、相手がりんごに関する体験がない人である場合、その人が「りんご」という言葉から想起するものは曖昧でしょう。なので、りんごについての体験がない人同士が、「りんご」という言葉だけでコミュニケーションをしようとしても、思ったように伝わらないはずです。

 

 世の中はこういうことが往々にしてあります。体験の伴わない言葉だけが独り歩きしてしまうのです。その場にいる人たちがその言葉について何の体験の裏付けもないために、曖昧に使われ、曖昧に理解し、それぞれの人が頭の中で想起するものはまるで違うのに、なんとなく分かり合ったような気になっていたりします。これは不思議で面白いことかもしれませんが、不安定で危険なことでもあるかもしれません。

 

 だからこそ、ミラの言う通り、言葉にはそれに相当する体験があった方が心のバランスがよくなるものだと思います。少なくとも自分の中ではその言葉の意味するところが明確になるからです。何が何に根ざして存在しているかに意識的になれば、見誤りも減るかもしません。体験の裏付けのない言葉は、裏付けがないゆえに容易に肥大化してしまったりするのではないでしょうか?それに見合う栄養としての体験を必要とせずとも言葉だけがただ大きくなることが可能だからです。

 言葉を上半身とするならば、体験は下半身でしょう。その大きな言葉を支えられるだけの下半身がない場合、肥大化した上半身を支えきれずに転んでしまったり、そもそも立ち上がることができなくなったりしてしまうのではと危惧してしまいます。

 

 自分が体験したわけでもないことを、言葉を知っただけで全てを分かったような気になり、それを繰り返せば、その頭の中に思い描くりんごは、他の人たちが思い描くものとは異なる全く独自のりんごになってしまうかもしれません。そのりんごは例えば、黒く、動物で、毛深く、ものすごい握力を持っているものかもしれません(ごりら?)。

 そういうりんご感を持っている人に、「あなたはそんなりんごを見たのですか?」と問うたとき、「見たことはないけれど、りんごってそういうものでしょう?」と返されるようなことはよくあります。そして、自分だってきっと少なからず同じことをしてしまっているでしょう。毎日のように無数の言葉が流れ込んでくるような情報化社会です。その全ての言葉の量に比べて、体験に使える人生の時間はとても短い。

 

 ペトラゲニタリクスは、宇宙を漂うある石が地球に舞い降りたことをきっかけにして始まる物語です。その石には生命を生み出す力があり、かつて地球に飛来した同種の石は、多様な生物が突然発生したカンブリア大爆発のきっかけとなりました。その一過性で無作為な生殖の力は、大半がそのまま死滅したものの、その後に長い時間をかけて洗練され、受け継がれ、地球上の生命を紡ぐ一糸となっています。しかしながら、その石の再来は、再び混沌を呼び起こし、我々地球の生命を脅かすことになるのです。

 それを封じるために呼ばれたのが大いなる魔女ミラでした。そしてミラをそのために呼び寄せたのは、魔女を異端と排斥する人々です。

 

 神の御名を口にする人々と魔女のミラが反目するのは、言葉と体験に関する認識の差に起因するものでしょう。神の加護ある言葉には同じ量だけの体験を釣り合わせることはできません。神は試すものではありませんし、信じることは取引でもありません。しかしながら、この物語における魔女は、自然とともに生きる体験を重視し、自分がそんな大きな存在の流れの一部であることに気づくことを生き方として掴んだ者です。それゆえに魔女は、体験の伴わない神の言葉をただ信じることはできなくなります。

 神というものはおそらく超越的存在であり、この世界の存在する圏の外にあるものではないかと思います。だからこそ、この世界の律に縛られず自由であり、それゆえに必要とされる存在なのかもしれません。体験のくびきに囚われない自由な答えが、人を救うことだってきっとあるからです。

 

 ただ、この物語の中において、そんな神の御名を唱える人々の言葉をアリシアは「汚れている」と表現します。なぜなら、彼らの使う言葉には体験が欠けているからです。

 

 「いちども空を見たことがない人が『晴れた空は青い』と言ったら、言葉は間違っていなくてもそれはウソなんだわ」

 

 どれだけ結果的に正しいことを言ったとしても、それを裏付ける体験なくしては言葉は虚ろです。自分が発している言葉の意味が分からないのですから。いや、言葉を使って無限の世界を、有限の自分の理解可能なものに切り分けること自体がもしかすれば虚ろなのかもしれません。

 自分の大切な人々の生きる世界を救うため、その身を犠牲にするミラと、そんなミラを犠牲にすることをいとわない人々がいます。アリシアはそれを目にし、彼らの汚れた言葉が生み出す結果を批難し、ミラが教えてくれた輝く言葉の数々を噛み締めます。それは体験です。体験の伴わない言葉が何を引き起こすのかを、アリシアは体験しました。そうやって大いなる魔女ミラの言葉に、アリシアの体験は追いつき、アリシアもまた魔女となるのです。

 

 この物語は魔女の話です。魔女の生き方がなぜそうなっているかが描かれ、魔女ではない人たちが魔女のようには生きられない姿が描かれます。ただ実際、僕が魔女のように生きられるかと言えば、そうではないでしょう。僕は自分が発している言葉の全てに同じ量の体験があるとは思えません。

 

 子供の頃に読んだ本の意味が、大人になってふいに分かることがあります。漫画の感想だって読んですぐに出てくるかと言えばそうではなく、何年も前に読んだ漫画についてふいに気づくことだってよくあります。ペトラゲニタリクスが雑誌に掲載されたのはもう十数年も前ですが、今になってこんな文章を書いていたりもします。何かの指南書を読んだとき、その時点ではさっぱり意味が分からなかったのに、十分な時間が過ぎてそれができるようになったときに、習得する中で僕が自分で獲得したと思った知見は、最初に読んだ指南書にとっくに全て書かれていたなんてことに気づくことだってあります。

 それはおそらく僕が得た言葉に、ようやく僕自身の体験が追いついたということなんじゃないかと思っています。本に耽溺し、自分の人生から逃避を続けているような自分でも、ゆっくりとそのタイミングが訪れたりするのが面白いですね。今もまだ分からないものは沢山ありますが、これから生きていく上で分かるタイミングがあるのかもしれません。でも、一生分からなくてもそれはそれで仕方ない気もします。

 世の中には無数の言葉が爆発のように生まれ続け、個人の人生の時間はそれほどには長くないと思うからです。

人間に対する好きと嫌いの手前にある密度関連

 人付き合いがあまり得意ではないので、あまり人付き合いをせずに生きてきたようなところがあります。でも、別に孤独というわけではなく、自分の能力で出来る範囲の人付き合いはしています。

 

 そんな感じに人付き合いが「疎」な感じで過ごしていると気づくことがあるんですが、「疎」であると人間が好きとか嫌いとかをあまり強く感じることがありません。なので、他人に対してすごく怒ったりとかをしないでいる時間が長くなり、もしかすると自分はとても穏やかな人間なのでは?という気持ちになったり、誰かをすごく好きであると直接表明することもあまりないので、自分は情がないのでは?などと思ったりもしてきます。

 でも、それはただ「疎」だからそう思うだけのことなんじゃないかと気づいて、これが「密」になってくると、そうは言ってられないような気もしています。人間関係が「密」になってしまうと、僕も他人が好きとか嫌いとかがすごく強く出てきてしまうような予感がするのです。僕はそれが怖い。

 

 毎日顔を突き合わせていると喧嘩ばかりしてしまう相手も、年に1回会うぐらいなら仲良くできるかもしれません。であるならば、その人を「嫌い」と認識するのではなく、「年に1回ぐらいなら仲良くできる人」と認識するという方法もあります。そう考えれば、その人と毎日会って喧嘩をするよりも、年に1回ぐらいしか会わないように距離感を調整するというようなやり方も思いつきます。仲良くやっていられる距離感を合わせれば、世の中から嫌いな人をなくすこともできるかもしれません。

 とはいえ、それが簡単にできない状況もあるでしょうが(実家で同居する親とか)(会社の上司とか)、それでも、その人とどれぐらいの頻度なら会っても問題ないかを考えるということは、自分が誰かを嫌いにならなくて済むためには重要なことだと思っています。

 

 誰かを嫌いになるのもエネルギーがいることですし、同じエネルギーがいることなら、嫌うことよりも、なんかもっと楽しいことに使いたいなと僕が思っているんですよ。いや、でも、嫌うことが楽しくてたまらないということもあるか…。

 

 僕が近年同居する家族を持たないとか、ご近所づきあいをしないとか、そもそも休日にめったに人と会わないというようなのは、意図的に自分と周囲を疎に保つためにやっていることで、そうすると気持ちを穏やかに保つのが容易になります。他人に対する強い感情が生まれないからです。そんな感じに基本的に人と疎でいて、でも徐々に少しは密になっても大丈夫な人を見つけて、おそるおそる会ってみたりしている結果が、僕が今抱えている人間関係です。

 人と自分の距離を適切に保つことこそが、自分が得意ではない人付き合いで疲弊しなくて済むことにおいて、とても重要なポイントだと思っているのでそれをとても気にしています。

 

 インターネット上でも、もちろんそうです。ブログを続けているのも、Twitterが続いているのも、Podcastを長年やっているのも、すべて人と疎なままでやって問題ないものだからです。ただ一方的に発信して終わりになるのがいいですね。近年は同人誌なども作るようになりましたが、それも実際に人と対面で会うのは一年のうちの何日かなので、それぐらいなら大丈夫です(頑張れ社交性)。

 ネットで相互フォローになっても、特に直接的に言葉は交わさないまま1年ぐらいはまず様子をみるみたいなところもありますし、今だに一言も交わしたことのない人の方が大半です。でも、その距離感が心地よいからやっているのでもあるんですよね。毎日言葉を直接交わし合うことが必須になったら疲れて続けられないかもしれません。

 双方向性が強く、人と日々密なコミュニケーションをとらなければならないものに参加した場合、どこかのタイミングで、いつの間にかそこにいなくなっていることも僕は多いように思います。それは別にその場所にいる人たちが嫌いと思ったわけじゃないんですよ。ただ、その距離感が僕が心地よく感じるものよりも近過ぎたように思ったので、自分とそことの適切な距離を調整しているだけの話です。

 ただ、そのままいたらもしかするとそのうち嫌いになってしまうのでは?という可能性を僕が感じたことで、距離感を遠目に調整してしまうこともあり、それを「怒っている」と思われてしまうこともありますね。でも、まだ怒ってはないんですよ。少なくともその時点では。ただ、もし自分が怒っちゃったら嫌だなと思ってしまって、だから距離を意識的に遠くしておくことでそうなるのを回避しようとしています。

 

 そういえば、近年はネットでバズっているものを何度も見るのは、僕の許容できる距離感的によくないなと思うことがあって、うわー、この人よくバズってるなあと思うだけでミュートやブロックをして視界から消してしまうこともあります。僕が望む望まないに関わらずバズりが目の前に出てくるのは、僕にコントロールできないことなので、それが嫌なんですよね。僕が望むよりも高い頻度で目にしてしまうと、その相手を既に強烈に好きとかでなければ、このままでは嫌いになってしまうかもしれない!という可能性を感じてしまいます。だから、嫌いにならないで済むために予防的にブロックしたりしているわけです。それもまたその人に対する悪意ではなく、まだ悪意未満な段階で手を打ちたいという話で、この感覚が伝わるか伝わらないか分からないですが、ともかく僕は近年そんな感じだなと思います。不用意に密になることを避けているのです。

 そのブロックしておいた相手が、何らかよくない行動をして炎上したということを小耳にはさんでは「よかった…あのまま見続けていたら、僕もきっとあの人を嫌いになってしまっていた可能性がある…」と思い、ほっと胸を撫でおろしたりすることもありました。

 

 まとめると、僕の心穏やかな生活は人間関係の疎密を上手く保つことによって確保されていて、人を不用意に好きになったり嫌いになったりし過ぎないように、そもそも距離を遠目にとって、接点を薄くぼんやりとさせておくというようなことが、気持ちがしんどくなることを予防するための効果的な対策なのかもなと思って、なんかそうしているという話です。

岩泉舞の「ふろん」と自分を縁取る他人について

 岩泉舞の「七つの海」の最初に収録されている物語、「ふろん」が好きで、小学生の時から何度も読み返しています。

 この物語の主人公は、ある日、自分の名前がこの世から消えてしまった少年です。そして、それに伴ってどんどん存在が希薄になってしまうのです。

 

 学校の先生が、友達が、親が、自分の名前を思い出せなくなっていることに気づきます。どこを探しても、自分の記録がないことにも気づきます。そして、名前という手がかりがなくなってしまうことで、目の前に確かに存在しているはずの自分のことを、誰もが思い出せなくなって行きます。あなたは誰?と問われても、自分でもそれに答えることができません。かつてあったはずの名前は、他人の中からも、自分の中からも、なくなってしまいました。学校の机の上には、まるで亡くなったかのように花が置かれてしまいました。少年には生きている証拠がないのだから。少年の居場所はなくなり、ついには人に認識すらされなくなります。

 誰も自分を認識できなくなった場所で、同じく誰にも認識されない少女とともに、少年は社会から姿を消すのです。

 

 少女は少年のことを「ふろん」と呼びました。それは英語で蛙という意味のフロッグを元にした呼び名です。頭を失った蛙が、それでも脊髄の反射だけで泳ぎ続ける。少年はまるでそんな蛙のようだというのです。

 

 この説明の意味が、最初に読んだ小学生の頃の僕には上手く掴めていなかったように思います。でも、今では分かるように思います。つまり、ある人がある人であるということの根拠は、多くの場合、その人自身ではなく、その人を取り巻く人々によって規定されるということです。

 自分と言う人間を自己紹介するとき、皆さんは何を言うでしょうか?どこの生まれで、どんな家族がいて、どんな学校に通っていて、どんな会社に勤めていて、どんな映画や音楽や漫画が好き。今出した例は、全て自分以外のものの紹介です。自分を語る上で出てくるものが、自分以外のものであるならば、自分とはなんでしょうか?自分以外の他人や物によって縁取られた中心の空白こそが自分なのでしょうか?だとすれば、それは「ふろん」でしょう。脳がなくとも反射で泳げるように、自分がなくとも、周囲からの反射で存在を規定され、生きることができます。

 裏返せば、そんな「ふろん」は、周囲との関係性を失ってしまえば、自分を形作ることができなくなります。「ふろん」の少年は、少女とともにどこかへ消えていきました。ならば自分とは何なのか?確かに存在している自分という存在が、なぜ他人を用いなければ説明できないのか?もし、自分が他人から切り離されたら、そこにいるのは誰なのか?そんな問いかけがこの物語にはあるような気がします。

 

 あるときそう思ってから、自分と言う人間が、自分という存在だけではどうにも虚ろであるというということについて考えることが増えました。しかし、結局のところ、虚ろであること自体は間違いのないことで、そして、それは特に悪いことでもないのだろうなというのが最近の感覚です。

 

 ただし、絵を描いたり、文章を書いたり、漫画を描いたりをやっていると、それはもしかすると自分自身なのかもしれないなと思うこともあります。ならば、それは自分が虚ろかもしれないということに対する抵抗なのかもしれません。だって、自分が作ったものは、自分が作ったものであって、他人じゃないじゃないですか。だから、何らかの作品を残すことは、縁取られた空白ではなく、その場所に何かを埋める行為だとも思えるわけです。人が何かを作るのは、自分が自分であることを、自分だけで証明したいからなのかもしれません。

 そうすれば今度は、自分が他人を縁取る何かになれるかもしれません。自分が他人の存在を規定する根拠になることで、自分という存在は、自分という縁取りの内側だけでなく、外にも進出していくはずです。それは作品のようなものだけに限られたものでなく、役割や関係性なものでもあって、誰かの友人であることや、誰かの家族であること、何らかの集団の一員であることのように、自分と他人を相互に規定しあう枠組みが社会なんじゃないかと思っています。人が何者かになりたいのは、でなければ、自分が曖昧になってしまうから、それが怖いからかもしれません。

 でもやっぱり、これも別にきっと悪いことじゃないと思うんですよ。自分だけでは自分の形を保てないことも、だから人が集まるということも。そういうものなんだと思います。

 

 ただ、そんな社会で生活しているからこそ、自分が他人を形作る一片になれているのか?とか、自分を形作る他人の一片がどうあるべきかとかに囚われすぎてしまうみたいなこともあると思っていて、それが、場合によっては生活のしんどさを生み出したりもするんじゃないでしょうか?

 あと、自分が作り出した何かであったとしても、よくよく分解してみれば、それまでの自分を縁取ってきたものの分解と再構成で作られていて、それはやっぱり自分自身だけではなく、その中には多くの他人を発見できるものかもしれません。結局のところ、自分とは他人で作られた玉ねぎのようなもので、剥いていけば何一つ残らないようなものかも。ただ、他人をそのまま使うのではなく、そこに咀嚼の工程が挟まれているということは、自分という人間の縁取りをより精緻に見定める行為ではあるかもしれません。自分がどのような形をしているかをより詳しく知るために、何かを作っているのかもしれません。ちょうど僕が今、この文章を書いているように。

 

 何が嫌いかよりも、何が好きかで自分を語れというような話もありますが、好きでも嫌いでも、自分ではないもので自分を語っているという意味では同じじゃないですか。あるいは、自分が何をしてもらえるかよりも、自分が何をしてあげられるかで語ったとしても、それでも結局必要なのは他者です。その関係性の中に自分自身を見いだしているのが普通の人でしょう。それで悪いことはないですよね。

 何もないところにたったひとりでいて、それでも自分自身を見誤ることなくいられるなら、それはおそらく稀有な超人の類でしょうから。

 

 「ふろん」は岩泉舞の初投稿作で初受賞作です。Wikipediaの記載を参考にするなら、十代の頃に描かれた漫画です。

 僕が思うに十代というのは、自分という人間に、他人と分かつ明確なエッジを立てたくて、でも、皮肉なことにそのために沢山の他人を引用してしまうような時期じゃないですか。それはある種の人間にとっては苦しい時間です。自分をはっきりさせようとすればするほどに、自分を他人で縁取る必要があり、それがいっそう中心にある自分を虚ろに変えてしまうからです。

 

 僕がこういうことを思うようになったのは、二十歳もとうに過ぎてからなので、なんだ、そもそも答えはここにとっくにあったんじゃないかと思ったりもしました。子供のときに読んだ本には、きっと人生の全てが描かれていますよ。それに気づくのに一生かかるというだけで。

 この文章は、自分の至った考えを他人の作品によって縁取る行為だと思います。そういう断片を色々なところから集めては、組み上げて、僕は自分という人間を規定しているのだなと思い、だから自分もまた「ふろん」なのだろうなと思ったりするわけです。だからきっと、人の中にしか居場所がない。

「未来のミライ」を観て思った、世間の中心に向けて叫ばれるあれこれ関連

 アニメ映画の「未来のミライ」を公開してすぐぐらいに見たんですが、辛い映画でしたね。辛いというのは映画の内容の話ではなく、観ている自分の心の中に辛い感情がすごく出てきてしまったということです。

 

 未来のミライは、くんちゃんという小さい男の子が主人公で、妹のミライちゃんが産まれたところからお話が始まります。家族が増えたことで、変化する関係性に小さな男の子の気持ちはすぐにはついていけませんから、様々なトラブルが起こります。そして、ある不思議な力によって、くんちゃんは時間を超えた色んな旅をすることになるのです。旅先で得た経験から、くんちゃんは少し変わります。これはそういうお話だと思います。

 

 僕が思うに、これは親から見た子の物語でしょう。子供は気が付くと変化しています。もしかすると、自分が見ていないところで、様々な冒険をしてきたのかもしれません。そういう想像力のお話ではないかと思いました。そして、これは大人の目を経由したお話だと思った理由は、子供の目で見た場合には省略されがちなことが描かれていたからでもあります。

 それは、人間はどうにも不完全であるということです。

 

 僕が4歳ぐらいのとき、近所に住んでいたひとつ年上の兄ちゃんがとても大人に見えていました。自分にはできないことをできる、すごい人だと思っていたわけです。でも、実際に大人の目から見れば、5歳は5歳、どうしても5歳なりの姿がそこにはあります。また、子供の頃は大人は特別だと思っていた気がします。僕は何かあるとすぐ泣く子供だったのですが、大人は泣かないし、泣かないだけですごいことだなと思っていました。親や先生も、すごく正しさに満ち溢れていて、それにそぐわない自分は間違っているのだろうと思っていたんですよ。

 でも、いざ大人になって見れば、そうではないという事実も目に入ります。大人だって歳をとった子供であるという側面もあるわけですよ。あと、大人は泣かないとか言ってましたけど、僕は結局大人になってもよく泣きます。自分が泣かなかったのは、あまりに泣き過ぎる自分が嫌で、必死で感情を押し殺していた中学生から大学生の途中ぐらいまでです。

 階段を登ってここまで来たわけですよ。途中でワープしたわけじゃありません。だから、あの頃と今は地続きですし、自分は子供のころからずっと不完全で不安定な人間のままです。きっと多くの人がそうでしょう?今思えば、子供から見て大人が正しく見えたのは、その正しさを大人が規定していたからで、それにそぐわない自分が間違っていると思っていただけのように思います。正しさとして取り得る立場は必ずしもひとつではありませんし、違った正しさが同時に成り立つことだってあります。

 

 未来のミライの中には沢山の「まちがったこと」が描かれています。自分から親の関心を奪ったミライちゃんを、電車のおもちゃで叩いてしまうくんちゃんは明らかに間違っています。そして、それがくんちゃんが自分への親からの関心が薄れたことへの辛さの結果であることを理解せず、ただ叱りつけるお母さんも間違っているように思いました。くんちゃんのときには大して子育てに参加しなかったお父さんも間違っているでしょう。今回は家事を頑張っていることを、近所のママさんにアピールしてしまうところもきっとそんなに正しくないですし、そのことについて、イヤミを言ってしまったり、慣れない家事に取り組むお父さんにダメ出しばかりをしてしまうお母さんもあんまり正しくないように思いました。

 そもそもこの物語に登場する家だって子供が生活するのには適した家とも思えません。階段やガラスで怪我をする危険性が高そうですし、何か起こったときによくなかったと言われそうなポイントは山ほどあります。この家族は、たくさんの間違いに満ちています。間違っているから喧嘩もあり、間違っているから互いに傷ついたりもします。

 

 でも、それは特殊なことでしょうか?

 

 実際のところ、僕が育った家に比べればよほどまともです。僕が育った環境は、減点法で評価すれば、めちゃくちゃ点数が低くなると思いますが(育児放棄で衰弱して長期入院したりしたので)、別にそれだって運の悪さが重なった部分もあって、そんなに特殊なことじゃないと思っていますし、今思えばそんなに悪くない環境だったとも思います。だって、非の打ち所のない家庭なんて本当に存在するんでしょうか??

 

 僕がこの映画を観て感じたことは、自分は「他人の間違いに対しては沢山気づいてしまうんだな」ということです。自分や自分の家族がそんなに正しくない感じに生きてきたことにも関わらず。そして、他人が間違ったままで生きていることについて、もっといいやり方があるだろうよとおせっかいに思ってしまったり、その状況を見続けていると落ち着かない気持ちになりました。

 つまり、自分自身はそんなに正しく生きてもいないのに、なんだかそういう「他人の間違いにばかり気づいてしまう」ということに気づいてしまうというようなことがあったわけです。もっといいやり方を自分は知っているのに、なんでこの人たちは、それをしないんだ?というようなのは、例えば、自分が得意なゲームを子供がやっているときに、あまり上手く遊べていないのを見て、口出ししてしまったり、しまいに取り上げて代わりにやってしまうようなこととも似てるのかもしれません。そして、そんなとき、取り上げて代わりにやってみたものの、自分だって上手くできなかったりすることだってあるわけですよ。外から見ているときには、あんなに正しいやり方が分かっていると思っていたのに。

 

 人は、だいたいのことについては拙いものだと思っていて、それは人が何かに習熟するには相応の経験が必要だからだと思います。そして、時間は無限にはありませんから、できるところとできないところがあります。

 僕がとりわけその点に自覚的なのは、僕自身がとにかく不器用なので、他の人たちがすぐにできることをひとりで残ってずっと練習していたというような経験が多々あるからかもしれません。上手くできないということが、それを指導する人たちから見てどれほどの失望を招くのか、そしてその失望を隠しもせずにあからさまにしたりする人だって別に珍しくありません。

 小中高、そして大学と、面白いぐらいに先生に「お前のような人間は社会ではやっていけない」と言われてきたので、そういうものだなという認識があります。それでも別に今調子よく生きているわけですからね。彼らの期待する成長速度よりも、ゆっくりだっただけで。

 

 でも、上手く行かないものじゃないかという気持ちとか、上手く行かない中でもやっていくのが人生じゃんすかという気持ちとは裏腹に、未来のミライを見ていて、うわあ辛いなあという気持ちになったので、なんか辛い映画だなと思ったわけですよ。そんな中でも人は育つし、その辛い状態が継続した時間ですら、あとから振り返ればかけがえのないものであったりもするんだと思います。

 そういうことを、自分の親や、親の親や、そのまた親の親まで繰り返して、なんとかおっかなびっくりやってきているということを、あの家で巻き起こる出来事が浮き彫りにしているように感じました。

 

 そういえば、あの場所が時間的な特異点となり、複数の時空の出来事が交錯するという意味で、ハーラン・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだけもの」のcrosswhenのような感じだなと思いました(読んだのかなり前なのでちょっと間違った印象の可能性もありますが…)。

 crosswhenはいつでもなくどこでもないような場所で、あらゆる時空を超越した概念的な中心なわけですが、その物語の中では、crosswhenから漏れ出したものがあらゆる時空の様々なものに影響を与えます。ある日、とんでもない大量殺人を引き起こしたウィリアム・スタログもその影響を受けた一人です。ウィリアム・スタログはその死刑が確定する法定で「俺はみんなを愛している」と叫びました。

 そして、未来のミライの場合はその逆で、様々な時空で起きた出来事がその中心の特異点となってしまったくんちゃんに影響を与えてしまうわけです。これはメタな見方をすれば、この映画を観た人々の感じた様々も、それに該当し、その認識はくんちゃんにも届きうるという話かもしれません。

 

 実際、子育てに限らず、世間に向かって発信されてしまう様々にはそのような傾向があるんじゃないかと思います。ネットを通じて広がる、何かの中心になってしまった人に対しては、直接は面識もない人々からの、様々なご指導ご鞭撻が発生するわけじゃないですか。でも結局、誰しもそこそこ間違っていると思っているので、その中心にたまたま選ばれたか選ばれなかったかぐらいの違いしかないんじゃないかと思うんですよね。

 その中心にあるものが、自分の持っている価値基準と異なるという話ばかりをしてしまうということについて、色々思い当たることがあり、お話の本筋とは異なるかもしれませんが、観終わったあと、そういう印象が残りました。

理想化された認識と現実との乖離の圧力差で起こる事故関連

 「近未来不老不死伝説バンパイア」という漫画があって、これは「昭和不老不死伝説バンパイア」という漫画の続編です。そしてこれは、無性生殖を行い、自分で自分を生みなおし続けることで悠久の時を生き続けるバンパイアのマリアを巡る物語です。

 人間ならばいつか受け入れなければならない「自分は死ぬ」ということを、金や権力を手に入れた人々は「自分たちが特別である」という自認ゆえに受け入れません。なぜ特別な自分たちが、その他の多くの特別でない人々と同じに老いて死んでゆくのか?それを受け入れたくない人々はマリアの存在に希望を見いだします。彼女の持つある種の不老不死を、自分のものとする願望を抱いてマリアを追い続けるのです。

 

 この物語では、そんなマリアを追う者と守ろうとする者たちの戦いが描かれます。マリアを守ろうとする者のひとりがあーちゃんと呼ばれる男です。彼はマリアに育てられ、マリアを慕い、されど、マリアを守るための一番にはなれなかった男です。彼はマリアを追う者たちの中に紛れ、あるいは姿を変えて、影ながらマリアを守り続けました。それは献身でしょう。あーちゃんは自分が決してマリアにとっての一番になれなくとも、マリアを守り続けた男です。そしてついには、マリアを守るために作られたマリア会の頂点に立つのです。そのとき、日本は神マリアを崇拝する者たちによって支配される国になっていました。

 

 さて、この物語は「神マリア」の勝利で終わります。そして、その神マリアとは一個人のマリア自身ではないのです。マリア会が崇拝する神マリアという概念は、不思議なことに一個の生物である当のマリアとは敵対してしまうのです。多くの人々に崇拝されたところで、そもそもマリアは神ではありません。自分を生みなおし続け、悠久の時を生き続けるというだけの、そういう生物なのです。人とは違う生き方ができるマリアという生物は、人とは違う生き方ができるゆえに、人から特別視されますが、しかし、それでも全能の神なのではなく、あくまでただの生物です。

 しかし、マリアを崇拝するマリア会にとってはそうではありません。マリアは常に正しく、そして、マリアに敵対する者たちは排除しなければなりません。なぜならば、マリアは神なのだから。神マリアのものとして広められた言葉はマリア律法となり、人々を縛ります。そして、神を冒涜する存在は排除すべきなのです。その対象が当のマリア自身であったとしても。

 

 そんなマリア会を牛耳るあーちゃんに対してマリアは立ち向かいます。誰よりもマリアを愛し、誰よりもマリアを崇拝してきたあーちゃんはそんなマリアを殺すのです。マリアは言います「やはり、神マリアとはお前か…」と。あーちゃんはそれを認めます。

 

 「そうだ!今やっと自分が何者か分かったよ」と。

 

 あーちゃんの抱え続けていたマリアへの愛情の結論は、愛していたはずのマリアを殺すことでした。マリアを殺す瞬間、それはマリアという他者への愛情ではなく、あーちゃん自身への自己愛に変貌を遂げていたのだと思います。つまり、神マリアとはマリアではなくあーちゃん自身であり、その神マリアと決定的に乖離したマリアはもはやただの邪魔者でしかありませんでした。では、それはいつ頃からだったのでしょうか?他者への愛が自己愛への変貌を遂げたのか?あるいは、そもそも最初から全てが自己愛であったのか?その献身の全ては、果たして自己利益でしかなかったのでしょうか?

 

 誰かのことを「好きだ」と表明することは、言葉通り他者への愛の表明でしょうか?僕はそうとも限らないと思っていて、なぜならば、誰かのことを好きだと表明することの実際的な意味が、「だからあなたも私を愛してほしい」であったりすることも多いからです。それはつまり、自分への愛でしょう。ただ他者が好きなだけならば好きと思うだけで満たされるわけじゃないですか。自分から他者への一方通行の愛でも、愛は愛でしょう。例えば、何かの本が好きとか、音楽が好きというとき、その本や音楽が自分のことを個人識別して作られていなくても好きは好きでしょう?

 でも、他者から自分への逆方向の感情がなければ、成り立たないものもあります。自分が相手を好きでも、相手が自分を好きでなければ成り立たないのであれば、そこには自分自身への愛情が混ざっているはずです。そしてそれは、行き過ぎれば他者の意志の否定となってしまうかもしれません。こちらからあちらへの愛情が発生しているにも関わらず、あちらからこちらへの愛情が発生しないとき、場合によっては、その他者への怒りすら生まれることがあるからです。

 

 これがあーちゃんにとっての神マリアであったかもしれません。自分にとって必要だったものは理想化された神マリアであって、そこからもはや乖離するマリア本人は、ただの出来損ないでしかなかったのかもしれないのです。あーちゃんにとって、マリアが神マリアでないことには怒りすら生まれる余地があります。相手が自分の理想通りに行動しないことに怒り、それが暴力に帰結するのは、ストーカーの事件の話でもよく耳にすることです。

 

 人間が自分の外と何かしらの接点を持つことは、実は自分の内側に影響を及ぼすことで、つまり、自分の中にその外の居場所を作ることでもあると思います。人と人との心が直接繋がるものでない以上、人と人とのコミュニケーションは多くの場合、不完全な方法を使った「点」でしかありません。それらを繋げて「線」として理解するには、コミュニケーションのみでは確認できない部分を想像して埋める必要があります。他者の胸の内を直接確認することができない以上、線の理解を構築するためには、その間を埋めてくれる全ての胸の内をさらけ出してくれるような架空の他者が必要でしょう。なので、その架空の他者の居場所を自分の中に作っているわけですよ。つまり、実際にやっているコミュニケーションとは、外にいる他者ではなく、その自分の中に作ったその他者像との対話だと考えられるのではないかと思います。

 自分の中にある他者像と、実際の他者があまり乖離していないときには、結果的にコミュニケーションの齟齬は生まれにくいと思います。しかし、自分の中にある他者像が実際の他者と著しく乖離してしまうとき、当然そこには問題が発生します。

 

 つまり、自分は他者と会話しているつもりで、自分の中にある他者像と会話をしているのに過ぎないのに、その他者像自体が本人とは全然違う人物像なのだとしたら、その会話は全て成り立たないことになります。想像した内心は的外れになりますし、想定していた返答は、その通りに返ってくることはありません。

 そこで、自分の中にある他者像をより実像に近いものに修正することができれば、コミュニケーションを立て直せる可能性があります。しかし問題は、自分の中の他者像の方が正しく、実際の他者の方がむしろ間違っていると思い込んでしまったときです。相手が何を言ったところで、いいや、あなたは本当はそう思っているはずがないという受け取り方をしてしまいますし、相手が何かの行動をとっても、そんな行動をとることはおかしいと考えてしまいます。「自分の中にいるあなたは、そんなことをするはずがない」と。

 

 場合によっては、他者の方がその人の中の他者像に頑張って合わせて行動してくれるなんていうこともあるでしょう。人と人とのコミュニケーションにおいて、何が正しいとするかいうことを僕には規定することができません。ただ、人の中にある他者像と、他者自身が何らかの力で一致していない限り、筋の通ったコミュニケーションは困難であるということだということは事実だと思っています。

 

 そのような環境で、各人の中で理想化された認識が、現実の人そのものと大きく乖離してしまうとき、その圧力差を解消しようとする動きが発生すると、その場にいる人に痛みとして伝わることがあると思います。それが世の中の多くの人間関係における不幸の生み出していたりするんじゃないかと、身の回りのこれまでを見渡しても思うことがあるわけです。

 なので、他者から明示的に出てきたわけではないことを想像し過ぎないとか、誤解が起こる可能性を減らすために、「言わずに察してもらう」のではなく「明示的に表明しておく」ことを心掛けるとか。そういう乖離をどうにか減らすためのことはするといいんじゃないかと思ってそうしているところがあります。

 そして、どれだけ気をつけても、齟齬が生まれることはあって、そういうのは悲しいことだなと思うわけですよ。そして、それでも、みんながお互いがお互いを正確に認識できない中で、なんとなく勘違いしつつも適当に上手くやっていたりするわけじゃないですか。

 

 さて、こういうことは、人と人との間だけではなく、例えば漫画を読んだりしてもあると思います。ある漫画を読んだとき、「この漫画はこういうことを描いているのだ」という感想が自分の中から出てきたとしたら、その自分の感想こそが真実だと思ってしまうというようなことです。僕は結構ありますよ。でも、作者はそれを全く意図していないかもしれません。上記のバンパイアの感想だって、僕が思っただけのことです。

 そのように僕の中にある「ある漫画」という認識が、その作者の描いた「ある漫画」の認識と一致しないことは当然あり得ますし、もちろんそれぞれの読者が感じた認識はそれぞれ完全に一致するものではないかもしれません。それはある程度仕方がないことです。なぜなら、漫画もある種のコミュニケーションの手段であると考えることができますし、人と人とのコミュニケーションというものはいつだって不完全だからです。

 

 これは例示しやすいのでよくする話なのですが、「ベルセルク」を、「ファンタジーの世界で、魔法などの超常的な力を使わず、魔物と己の肉体のみで戦うのが素晴らしい漫画」と褒めていた人がいました。しかし、ベルセルクではその後に魔法が強大な力を持つ存在として描かれることになり、作者からすれば、魔法が登場することもアリの漫画だと思っていたということです。ただ、それまでベルセルクを褒めていた彼は、その展開のあと「ベルセルクは堕落した」という話をするようになりました。つまり、自分の中にあった漫画の認識の方を優先させ、それにそぐわない作者の描く漫画自体を否定的に捉えるようになったということです。

 こういうことが悪いことかというと、別のそれほどのことではないと個人的には思っていて、なぜならよくあることだからです。こういうことは程度の差はあれ世の中には無数にあります。

 

 僕自身もこの前、大好きな「うしおととら」の登場人物である秋葉流の話をしていて、「秋葉流とはこういう人物で…」という話を延々していたのですが、僕の中にある秋葉流という人物像はあくまで僕の中にあるものでしかなく、いつの日にか先鋭化を進め過ぎてしまった僕の中の秋葉流は、漫画の中に登場する本来の秋葉流という男を、「これは秋葉流っぽくない」などと否定してしまうかもしれません。そうなればつまり、僕にとっての秋葉流とは誰だったのか?それは自分自身であったということです。つまりそうなれば、僕もあーちゃんと同じです。

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 人間の認識は不完全で人それぞれですから、自分の中の認識が、外の実際と異なってしまうことは仕方がないことだと思います。しかし、それが事故に繋がるのは、その差を埋めようとする力が生まれてしまうときでしょう。つまり、こちらの方が正しく、あちらが改めるべきだと思ってしまった時点で、世の中には急激にその差を埋めようとする圧力が発生し、そこに巻き込まれる事故が起こります。事故が起こると痛いじゃないですか。痛いのは嫌じゃないですか。

 僕はそのように人が事故に巻き込まれるのはしんどい話だなと思うので、齟齬があるのは仕方ないにせよ、ゆっくりその差を埋めてなくすか、自分の中のそれを外にある別の誰かのそれと直接一致させようとなんて考えない方がいいのではないかと思っていて、そうすることにしています。

藤田和日郎漫画の悪役とマッチ売りの少女の見た幻について

 みなさん!サンデーで連載中の「双亡亭壊すべし」を読んでますか??

 双亡亭壊すべしは足を踏み入れたものがおかしくなって取り込まれてしまう謎の建物「双亡亭」を「壊すべし!」と色んな人が思い、そして実行しようとするという感じの漫画なんですけど、今はその双亡亭を建てた男、坂巻泥努(さかまきでいど)の過去の話がされています。

 それは、少年時代の泥努がその思慕の情を一心に注ぎ続けた姉との間で起こったことの話なんです。都会に出て行った姉の心に住み着いていたのは、その都会で出会ったある絵描きの男で、姉の心は完全にそちらを向いてしまい泥努少年の気持ちは通じるところはなくなってしまったわけです。他に家族がいる男を慕ってしまった姉と、そこを引き裂いた父の行為によって、あの快活とした陽の存在であった姉は消え失せてしまい、田舎に連れ戻されてきてからというもの陰な面持ちのみを顔に浮かべているようになってしまいます。

 泥努少年からあの輝いていた姉との日々を奪ったのは誰でしょうか?なぜ泥努少年からはそれが奪われてしまったのでしょうか?泥努少年の心の中は、その欠落を埋めるようにとめどなく溢れ出る濁った感情でひたひたになってしまいます。泥努少年は自分が欲しいものが決して手に入らなくなってしまったということから狂気に飲まれていきます。この先どうなるかは連載を楽しみにするとして、ひとつ気づいたことがあります。

 それは、藤田和日郎漫画における悪役の多くはその心の根源に、似た渇望を持っているのではないかということです。

 

 つまり、どれだけ求め、手を伸ばしても、決して手に入らないものがあるということが人を狂わせるということが繰り返し描かれているのではないかということです。

 

 「うしおととら」における白面の者は、この世界が生まれたときに底にたまった濁って邪な陰の気が実体を持った妖怪です。白面の者は全ての陽の者を憎んでいます。なぜならば自分は陰の者だからです。

 綺麗で温かい陽の者を外から眺めながら、「綺麗だなあ」と「何故自分はああじゃない」と羨むわけです。しかし、自分が陰であるがゆえに決して陽にはなれないという現実が目の前にあります。求めても求めても決して自分が手に入れることができないものを、当たり前のように手に入れている人間のような存在がいることを白面は許せるでしょうか?許せなかったわけですよ。だから白面は誰よりも陽の者に憧れ、それゆえに全ての陽の存在を滅ぼそうとします。

 これは秋葉流の心にも訪れた感情かもしれません。自分がどれだけ求めても決して手に入れられないものを、当たり前に手に入れている存在を目の前にして、人が正気を保てるのかという話です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 「からくりサーカス」で巻き起こった数々の悲劇の全ては、白銀と白金の兄弟が共に、フランシーヌという女性に惚れてしまったということに端を発します。しかし、弟の白金が先にフランシーヌを好きになったのに、フランシーヌは後からその気持ちに気づいた兄の白銀の方と恋仲になってしまったのです。これで白金は狂ってしまうわけです。「フランシーヌは僕が最初に好きになったんじゃないか」と。これは、なんてことのない失恋の話であったとも言えるかもしれません。しかし、白金に異常とも思える実行力と錬金術の知識があったことが悲劇を生み出してしまいました。

 白金はフランシーヌをさらって逃げてしまいました。言うことを聞かないフランシーヌの顔を殴り、泣いて哀願して、自分を愛してくれることを求めます。しかし、さらわれた後のフランシーヌはかつてのように笑ってくれなくなりました。そればかりか、疫病が原因で隔離され、ついには自ら火を放って死んでしまうのです。フランシーヌの死後、空っぽになった白金は彼女そっくりの自動人形を作り出しました。しかし、人ではないフランシーヌ人形には笑うということが分からない。白金はどこまで行っても求めるものを得られないわけです。

 だから白金は、人を笑わせないと苦しみを味わう病気「ゾナハ病」を生み出しました。そして、それを世界にばらまく自動人形たちも一緒に。自動人形で構成された「真夜中のサーカス」は世界中にゾナハ病をばらまき、混沌をもたらします。

 

 白金は、フランシーヌに自分の隣で笑っていて欲しかっただけでしょう。少なくとも最初はそうだったはずです。でもそれが自分に手に入らない未来であったこそ、それを手に入れるために足掻き続け、結果的に世界に大きな不幸をもたらす最悪な存在となってしまいました。

 

 「月光条例」のオオイミ王がどのような存在であったかというと、月光条例という物語の悪役でありラスボスです。その役割を物語に与えられた存在だと思います。だからこそ、彼は物語の主人公になることはできない。また、彼は物語という虚構が世界に存在することを禁じた人々の王でもあります。にもかかわらず、彼は主人公になりたかった男です。自分たちが禁じた虚構の物語に、誰よりも耽溺し、自分も同じような主人公になることを強く望んだ男であったのです。

 でも、彼は決して主人公になることはできません。なぜならば、彼はこの物語の悪役でありラスボスであるからです。オオイミ王は、この物語の主人公である岩崎月光に嫉妬します。月光条例月光条例という物語である以上、オオイミ王は自分があれほど憧れて望んだ主人公になることは許されないのです。それは岩崎月光の役割なのですから。

mgkkk.hatenablog.com

 

 月光条例は、この世に存在する数々のおとぎ話が、青き月の光によって狂ってしまう物語です。青き月の光により、物語の登場人物は筋書きに縛られることを辞め、自由に行動できるようになります。それを元の筋書きに戻してしまうのが月光条例の執行です。

 物語が物語である以上、その筋書きは本来変えられません。「マッチ売りの少女」や「キジも鳴かずば」のように、物語の中で悲劇に見舞われてしまう人々も、その筋書きを変えては物語の意味が変わってしまうでしょう。であるがゆえに、それがどんな悲劇であろうとも、つまり、オオイミ王がいかに主人公になりたかったとしても、それは決して変えられないわけです。オオイミ王は、その身のうちに主人公への強い憧れを抱いたまま、岩崎月光という人間がいかに主人公であるかを描くための舞台とならざるを得ない。そんな悲しみを抱え込んでいるわけです。

 

 月光条例と言う物語は、物語が物語であるがゆえに筋書きを変えることができないという悲しい制約に対して、マッチ売りの少女におけるマッチのような役割を担った物語だと思います。マッチ売りの少女は、寒空の下で凍えて死んでしまう結末を迎えます。でも、それまでの間にマッチをするたびに幸福な光景が見られたわけじゃないですか。そういう可能性が存在したということが救いになるんじゃないかと思うわけですよ。

 マッチ売りの少女の本来の結末は変わらずとも、月光条例の物語の中では、そんな少女を力強く助け、彼女にマッチを売ることを強いた悪い父親に銃弾を叩き込んで思い知らせてやる一場面があったわけです。その可能性がそこにあったことが救いでしょう。

 そして、その可能性がないと決めつけられることが絶望です。それが人を狂わせるわけじゃないですか。

 

 このように藤田和日郎漫画に登場する悪役には、自分がいくら望んでも決して手に入らない何かゆえに狂ってしまったという共通点があります。「運命とは地獄の機械である」これはジャン・コクトーの言葉だと、からくりサーカスに書かれていました。彼らの運命は、彼らに決して味方をしなかった。彼らが心の底から望んだものを、決して与えなかったからです。

 だからといって、彼らが行なった様々な非道が、人を傷つけたことが、赦されるわけではないかもしれません。ただ、彼らはそんな運命に抗おうとしたのだということの一点においてはきっと共感が可能だと思うのです。

 

 僕はからくりサーカスにおいて、ひとつだけ気に食わない点があります。それは白金が、最後の最後に自分を「間違っていた」と表現することです。いや、確かに彼は間違っていたのかもしれない。そしてそれを後悔したのかもしれない。彼が最初に自分の望みを我慢してさえいれば、その後にあった数多くの悲劇は生まれもしなかったのですから。

 でも、そのとき、白金の気持ちはどうなるのでしょうか?そこにある平和が、白金が、自分の望みを望みだと考えないことでしか生み出されなかったのだとすれば、それは本当に真の意味で平和でしょうか?平和のために、我慢を強いられる白金は犠牲者ではないのでしょうか?それを間違いだと言っていいのでしょうか?

 僕が思うのは、白金にも望んだものを望んだままに手に入れられる幸せになれる道が、たとえ可能性だけでもあってもよかったじゃないかということで、それがなかったことがとても悲しくて気に食わないところなのです。自分で間違っていたと認めてしまったことがただ悲しいわけです。

 たとえそれがマッチの火が消えるまでに見えた幻であったとしても、白金にとっての幸福な光景があってほしかったと思ったりするのです(そういう意味では最後のカーテンコールには救われたような気もします)。