漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

男性作者の漫画と女性作者の漫画の違い(乱暴な話です)

 すごいざっくりとした印象論なので例外は無数にあるとも思うんですが、男性が描く漫画と女性が描く漫画の方向性には違う傾向が見て取れるように感じています。

 それは、僕が買っている漫画を見返してみると、近年女性作者のものの比率の方が大きくなっているようであることから思い至ったことです(男女でなんとなく3対7ぐらいの比率です)。僕は作者が男性か女性かで買う漫画を選んでいるわけではないので、それはつまり、たまたま僕が好むタイプの漫画の作者が女性であることが多いということでしょう。具体的に数として見えているので、そこには何らかの作者の性差によるざっくりとした方向性の違いがあるのではないかと思いました。

 

 ただし、肉体の性別は基本的に男女で分かれるものですが、それぞれの人の精神の傾向はきっぱりと2つに分かれるものではないとも思っています。自分自身の中にも、男性的な部分と女性的な部分が混在しているようにも感じますし、だからこそ、ここでいう「女性的な漫画」を男性である僕が好むことが多いということもあるでしょう。また、このへんは非常にセンシティブな話題なので、あまり性差による解釈で語るべきではないのかもしれません。僕も今おそるおそる書いているところがあります(実際は雑誌の編集方針の差の影響が強く、そこにはステレオタイプな男女観が反映されている可能性も多分にあるわけじゃないですか)。

 

 さて、僕が感じている方向性の違いとは、漫画の中で何らかの課題に突き当たったときに「その課題を何らかの方法で打ち倒して解決する」のが男性作者が描きがちな物語で、「その課題自体については根本的な解決には至らなくとも、折り合いをつけることができるようになる」というのが女性作者が描きがちな物語ではないかというものです。

 もう少し具体的に書いてみるなら、この世を混乱に陥れる魔王を倒せば世界が平和になるので勇者となって倒そうというのが前者で、人間の王の圧政の中でも村人が前向きに生きていく方法を手に入れるというのが後者です。僕が後者を好んでいるのは、おそらく自分が生活の中で接する問題が後者的なものの方が多いからです。漫画の中にに自分が理解できる感情が描かれていれば、そこから読み取れるものも多くあるわけじゃないですか。つまり、なんのことはない、共感しやすいという話です。

 

 魔王を倒すような物語はそれはそれとして子供の頃からずっと好きなんですけど、困難さ自体が根本的には解決されない世の中を、それでも上手く生きていく方法を見つける話みたいなのも、近年めきめき好きになってきています。それが買う本の量に反映されてるっぽいんですよね。

 

 僕個人の人生の話をすると、悪者を倒して何かが良くなるというような世界観は、自分自身の人生の中からあまりなくなってきているのが今の状態です。それは、そこに生じている何らかの困難さを、誰か一個人の責任だと解釈して排除してみても、結局その困難さが解決しないというような経験を積み重ねてきているからです。つまり、特定個人を、問題の象徴として取り扱えば理解は分かりやすくなるものの、そもそもの機序の理解としては全然間違っている場合も多々あるということです。あるいは、排除するということ自体が自分の力の及ばない領域であることもありますね。その場合も無力です。

 だからこそ、物語の中でぐらい悪い奴を倒したらあらゆる問題が解決するようなものを求めたいなんて気持ちもありますが、それ以外に目を向けるようになったからこそ分かるようになったものを求める方にも気持ちが広がっていて、今は後者が強い感じがしています。

 

 さて、僕が感じているところの「女性的な漫画」の代表的なものは、安田弘之の「ちひろさん」なんですけど、まず男性作者なので、肉体の性別とは何なのか?という気持ちになります。やっぱり、肉体も精神もそれぞれ「男」と「女」で一律に分けるのはおかしい感じがしてきますね。いや、そもそも男と女とはいったい何なのか。それは肉体の性差そのものが根本的な原因ではなく、なんらかの偏見とその再生産の結果でしかないのではないか?などと考えれば考えるほど悩んでしまいます。

 ここは結論が出ないので話を戻して「ちひろさん」がよいのは、自分と周囲の接点において出てきてしまうガタツキを滑らかにしてくれるようなお話が多いことだと思っていて、人が何に接してどう感じるかを、絶対的な正しさではなく、あくまで一例として示してくれるようなところだと思います。大道を歩くのが不得手な人に対して、歩ける脇道の情報を教えてくれるような良さがあります。

 あと、漫画を読んでいると、人との関係性は使い捨てじゃないなと思うようなところがあって、作中に登場する人たちが一回出てきて終わりということはなく、出てくるたびに何かしらあって、そのたびにその関係性が何かしら変化するというようなところもすごく好きです。人と人との間にあるものは、一回の何かで決着がついて終わりではないということが描かれているからだと思います。「ああ、そうだな」と思います。一方、一度しか会わなかった人や、永遠の別れが起こることも作中にあるんですよ。それもあることですよ。色んな関係性があって、そのどれもに価値があるように思えるということは、生きることそのものじゃないかと思うわけです。

 

 あと、池辺葵の漫画もめちゃくちゃ好きです。池辺葵の漫画では、人生の中に確かにあるのにあまりそれを注視するきっかけがないものを、漫画の中でさりげなく目の前に出してくれ、それを見るたびに「ああ、そうだな」と思います。この漫画の作者は、この気持ちを認識している人なんだな、と思うことだけで、なんか救われた気持ちになるわけじゃないですか。そこにある「分かるもの」が自分の中にしかない孤立した感情ではないと思えるからです。そして、漫画の中にはまだ僕が認識していない感情も描かれているんだろうなと思っていて、それはいつか分かるかもしれないし、別の誰かに今既に刺さっているのかもしれないなとも思います。

 悲しいことが悲しいままに描かれたりされていますけど、それが悲しいという視点があることそのものが救いになったりします。それは嬉しいことでもそうで、そうだよな、それが嬉しいんだよなと思うわけですよ。そうすると、漫画で読んだことで、明確になった自分の感情にも目が行き届き、自分の人生にもその嬉しさを増やして、悲しさを減らしたり、減らせなくても寄り添ったりもできるわけじゃないですか。

 

 そういうのがよくて漫画読んでるところもあるわけですよ。

 

 最近自分が好む漫画について思えば、最近の自分が分かるような気がします。ただ、今この状態が未来永劫続くわけでなく、経験や人生の段階で好むものはまたどんどん変わってくるんでしょうけれど、今はこういうのが好きだなと思うので、それを記録として書いておきます。

インターネットで悲しくなっちゃう話

 「助けて」っていう言葉が言えずに生きてきたようなところがある。どんなに困っても、他人を頼ることが下手くそで、下手くそだから、それをすることを避けて自分ひとりでなんとかしてこようとしてきた。だからいつまでたっても他人を頼ることが上達しないし、ずっと下手くそのままで改善しないから泥沼だ。

 それでも「助けて」って言ったことは過去に数回ある。それは本当に色んなことがダメになりそうになったギリギリのときで、だいたい金に困ってるみたいな話だったんだけど、もうダメかもしれないと思ってようやく発せたその言葉は、結局他人からの拒絶しか生み出さなかったので、絶望的な気分がより絶望的になっただけだった。これは自分が本当にギリギリにならなければそうできなかったというタイミングも悪いし言い方もダメな下手くそな話だけれど、それは当時の僕に、助けを求めることの方がむしろ辛いものだという気持ちを植え付けることになった。助けてもらえないばかりか、尊厳まで傷つけられたからだ。

 

 実はこれは少し嘘で、助けてくれようとした人が2人だけいた。ひとりは高校生のときに街で知り合った兄ちゃんで、最初の出会いは僕がカツアゲにあうという最悪なものだったんだけど、財布にわずかな小銭しか入っていない僕に同情して、ファミレスでご飯を食べさせてくれた。僕が金に困っていたとき、何の躊躇もなく貸してくれるって言ったのは結局この人だけだった。

 もうひとりは僕以上に金に困っていた人で、金は貸せないけど(ないから)、それでも何かできることはないかと言って一緒にいてくれた。別に何の役にも立たなかったけど、人間は金を貸してくれと言われると態度が変わることが多いので、彼ら2人だけはそれでも変わらなかったというか、僕が困っていること自体に寄り添ってくれた人たちだから、だから、彼らに何かあったときは僕は絶対に手を貸そうと心に決めたということがあった。

 

 これは随分と昔の話で、今の僕はもうまるで金に困っていないので、生きることが全然平気で、なんて楽な人生なんだろうと思いながら日々生きているような状況です。でも、詰んでた可能性のあるポイントはこれまでにいくつもあって、それらをたまたま運よく切り抜けてこれたからの今だと思う。人生がもう一度やり直せるボタンがあったとして、絶対に押さない。次もこんな風に上手くいくとは全く思えないからだ。

 

 ごく一部の例外を除いて、「結局誰も助けてなんてくれないんだ」という気持ちは自分の胸にずっとある。

 

 以前、借金を抱えた知人に金を貸したときも、そういうことがムカつくみたいなのが原動力だったと思う。別に僕は優しいわけではなく、その原動力は怒りでしかなかった。つまり「借金を抱えた人は自業自得だし、金を貸しても損をするだけだ」と決めつけていた他の人たちに対するめちゃくちゃな怒りがあったから、その勢いだけで結構な額を貸した。

 僕の知ってる人間の情報だけど、ある程度以上の借金を抱えてしまうと、もうどうしようもなくなる。元本が減らず、無限に利息だけを返すことになり、その状況は人間の精神をゴリゴリと削り込んでいく。ある程度以上の過負荷を精神に抱えた人は判断力がなくなることが多い。目の前のそれをどうにかするのに精一杯で、長期的な目線で何をどうすればいいかを考える余裕がなくなってしまうからだ。なぜそうなると思うかというと、僕がそうだったからで、だから、まずはそこを抜け出さなければいけない。自分だけで抜け出すことができないからそうなるので、誰かがその人を助けなければいけないという気持ちがある。

 

 でも、普通は助けないでしょう。だって損をする可能性の方が高いから。色んな人が色んな賢い理由で、何故自分はその人を助けないかを教えてくれる。言ってることは間違っちゃいないし、処世術としては正しいことだろうと思うけれど、でも、それでもそれにひどくムカついてしまった。彼らは僕がまた困ったときには同じようなことを言って僕を見捨てるのだろうなと思ったからだ。思っただけだ。勝手に想像して、想像に対して勝手に怒ったので、僕が面倒くさい人間という話だ。

 でも、そう感じてしまったからこそ、「自分は違うぞ」という気持ちだけで色々やってしまった。ただ、よくよく考えてみれば自分だってそんなに違ってはいない。全員が全員を助けることはできないし、ただ自分は違うって思いたかっただけで、そう思いたかったのは、自分だって同じかもしれないと実は思うからだろう。かもじゃない。きっと同じなんだと思う。ただ、それに少しは抵抗したかっただけの話だ。

 

 インターネットを見ていると、時折悲しくなる。インターネットで沢山目にする賢い人たちが、何か困っている人に対して、なぜ自分はその人を助ける必要がないかを賢く説明してくれるからだ。その賢さはその困っている人が少しでも困らなくなるような方向に発揮することはできないんだろうか?

 インターネットを見ていると、時折悲しくなる。インターネットで沢山目にする賢い人たちが、何か困っている人を守るために、寄り添うのではなく、その困っている人を助けることをしない人たちを攻撃的に責め立てているのを目にしたりするからだ。例えば、今書いているこの文だってその範疇だ。助けたかったんじゃないんだろうか?守りたかったんじゃないんだろうか?その困っている人に寄り添い手助けをすればいいだけの話が、なぜかそうならない誰かを責め立てることになったり、その人たちを何故助けなくていいかを説明する話にばかりなってしまう。賢さが人を助けるために機能しない。

 じゃあ、困っている人たちは置いてきぼりじゃないかと思う。誰が何のためにそれをしているのか、ただ不思議になる。

 

 自分に誠実にいようとするならば、そういうときは黙っていればいい。黙って、その人たちが少しでも助かるように何らか行動するしかない。でも、そうばかりにできていないじゃないかと思う。他人に対してそう思うし、自分に対してそう思う。

 

 何か大きなことが起こると、その大きなことで困った人が沢山出る。なら、まずはともかく助ければいいんだと思う。けれど、その時困っていない人が助けることをするでなく、その大きなことの責任者探しをまず初めてしまったりする。僕はそれは勘違いしているんだと思っていて、大きな出来事によって起こる大きな悲しみには、大きな理由や大きな責任の所在が常にあると思い込んでいる人がいるんじゃないかと思う。だから、その所在を探して、起きてしまった出来事と、その原因に選ばれてしまったものを釣り合わせて、納得したような気持ちになる。でも別にそんなことはないよ。人間の理解の範疇にある大きな原因や責任の所在なんて存在しなくても、大きな出来事は起こる。竜巻の責任の所在を、蝶の羽ばたきに求めても仕方がないじゃないか。

 まず責任を求めて納得しようとするのは、別にその件で困ってない人たちがとりあえず納得したような気持ちになれるだけで、そもそも起こった出来事で困っている人たちにとっては何の関係もないじゃないかと思う。だからそんなのとりあえずはどうでもいいじゃないか。

 

 京極夏彦の「絡新婦の理」だったかで、起きてしまった事件に怒り出すおっさんがいて、それに対して探偵の榎木津礼二郎が、「怒っている人は、特に何もすることがないから怒っている」というような感じのことを言う。つまり、それに対して何かすべきことがあるならば、まずそれをすべきだし、それをしないということは何もできないのだろうということだ。ただ、何もすることがなくても目の前に大きな問題があれば気になるし、でも、それに対して何もできないからただ怒り出してしまう。

 このことについては割とよく思い出す。仕事でもそうだ。何かが上手く進んでいないときに怒り出す人は、それを上手く進めるための具体的な手段を何一つ持っていないんだなと理解する。それは無力だということだろう。そして暇だということだろう。何かの問題を解決するためにすべきことは、それを解決するための行動を起こすことだと思う。怒り出すのしかないのは、つまりは自分には何もできないと言っているということで、それはある種の悲鳴のようなものだと思う。それはきっと別に悪いことでもない。人が立場や能力によって、何かに対して無力となってしまうことは悲しくはあっても悪いとは言えないし、ただ、これは悲鳴だなと思うだけだ。その人には、それを解決するために何もすることができないんだなと思い、悲しくなる。

 

 人と人との話し合いには、目的が必要だ。議論をするにしても、それぞれがどういう結論に至りたいかがまず最初に設定されていなければ、ただ時間を浪費する結果になるだろ。結論なんて条件によっていくらでも変わるし、その条件をころころ変えれば、無数の立場をとって、無限に議論を続けることができるようになる。収束しない議論はだいたいそうだろう。

 例えば、派手な色の服を着るか、地味な色の服を着るかを議論したとして、至りたい結論が決まっていなければどっちでもいい話だ。でも、人ごみの中ですぐ見つかってほしいというような条件が決まっているならば、派手な方がいいとなるし、目立たずに集団の中に埋没していてほしいというならば地味な方がいいとなるだろう。だから、最初にその目的を共有しなければいけない。それを全員が全員同じもので統一することはできないかもしれないけれど、それでも、自分はどうしたいのかを確固と持っていなければ、そこから始まる話はほとんど無駄だろう。

 

 僕はそれを、あらゆることの目的を、「人を助ける」というところに持ってきたいんだと思う。それは、自分が一番助けて欲しかったときに、沢山の人が賢しらな理由をつけて僕を切り捨てたじゃないかという記憶と密接に繋がっているところがある。誰も別に不幸になる必要はないし、100人いたら、100人が幸福に生きられるのが一番じゃないかと思う。

 だからその目的を「自分は何もしない」だとか「誰かを責め立てる」というところに持って来るのはきっとよくないことだと思うのだ。散々議論をした結果、「何もしない」という結論に至るなら、じゃあ最初から何もしなければいい。議論をした時間だけ無意味じゃないかと思う。「誰かを責め立てる」でもどうでもいい。だってそれは誰かを助けることとあまり関係ないじゃないか。

 

 何かの行動を起こすとき、その行動の結果が、自分の抱える目的に少しでも近づくものかどうかを考える。そうでなければ、その行動には意味がないし、ひょっとしたら自分が抱えている目的だと思っているものは表面上だけの嘘っぱちで、本当に抱えている目的をごまかしているだけかもしれないとも思う。だいたいの場合は、行動は言葉よりもずっと正直だ。だから行動で示せないものならば、それはたぶん嘘なんだと思う。

 

 僕が今インターネットに書いている文章は、ただの言葉で、だから意味がない。これ自体には全く意味がなく、これを書いた上で体現していくことに初めて意味が生まれるのだと思う。だから、今のところこの言葉はまだ無意味だし、だから、インターネットをしていて悲しくなる。

「我らコンタクティ」と人生における無限への想像力の話

 これは人生の話なんですが、友達と話をしていて、自分自身に対する未来への希望がないというか、今はそこそこ幸せに生きている皆さんが、いざ未来の話をすると、年老いて誰かに迷惑をかける前に、早めにぽっくりと死んでしまいたいねという話になったりしたことがあります。

 そのとき、男でも女でも一人で暮らしていても家族と暮らしていても、遠い未来の先に、今以上に輝かしい何かがあるというあまり想定をしておらず、ある種の諦念があるように思いました。僕の付き合いだけの話なので、一般化できるような話ではないかもしれませんが、これから年老いていく自分自身のその先に、今以上に明るい何かを見ている人はどれぐらいいるでしょうか?少なくとも自分は違うような気がしていて、それでいいのかな?と思うところがあります。

 

 ドラゴンボールベジータフリーザは永遠の命を求めますが、それってすごいことだなと思います。だって、永遠に生きたいと思うほどに今が充実していて、そしてそれが未来永劫続くのだろうと思っていなければ、そう思うことはできないと思うからです。そこそこ楽しく生きて、寿命が来たら来たで死んだらそれでいいや、いい人生だったと思うよ…というような僕のような人間には獲得できないかもしれない人生観です。

 

 さて、「我らコンタクティ」は幼馴染の男女の物語です。彼らは子供の頃に一緒にUFOのようなものを見たという体験の持ち主です。大人になって再会した彼らは、その宇宙人へのメッセージを送りたいという目的を共有しました。その変わった目的は「自分たちの好きな映画を、宇宙人に見せるために宇宙で上映する」という形に具現化されることになります。では、そのために何をすればいいのか?合理的に考えれば、それを宇宙に持っていく手段が必要です。直線でそこまで突っ切るならば、そのための手段が必要で、だから彼らは、自分たちだけの手で宇宙ロケットを打ち上げるという発想に至るのです。宇宙で映画を上映するために。

 

 町工場で働く無口な男が作った宇宙ロケットに、力を貸すのはただの事務員の女。これは荒唐無稽な話だと言えるかもしれません。宇宙ロケットというものに無知な僕には、これがどれほどリアリティのある話なのかも分かりません。でも、そんなことは僕にとって大した問題ではなく、このお話がめちゃくちゃ良く感じたんですよ。なぜならそこには無限に対する想像力があったように感じられたからです。

 それはつまり、僕が抱えているような閉塞感に対する打破の力なんじゃないかと思いました。

 

 最初に書いたように、自分の人生は割と先が見えています。厳密に言えば、先が見えていると思い込んでしまっているんじゃないかと思います。ただ実際は別にそうじゃないかもしれなくて、だって先のことなんて分からないじゃないですか。

 

 子供の頃はもっと無限なことを考えていたように思います。例えば、無限の宇宙の果てには何があるかとか、何十億年先の地球はどうなるだとか。科学技術の発展の先にある夢のような未来だとか、この先の人生にやってくる素晴らしい人との出会いだとか、無限の選択肢がある自分の生き方だとか。自分の人生の先にある空白の部分に無限の可能性を想定して、ワクワクしたり恐ろしくなったりしていたわけですよ。なるようにしかならず、落ち着くべきところに落ち着くと思っている現状からは、もしかするとそれが失われてしまっているのではないでしょうか?

 

 かつて無限にあったかのように見えた選択肢は、いつの間にか少なくなり、だからこそ目の前がクリアに見えるようになって安心して歩けるようになりました。しかしながら、だからこそ期待はできなくなってしまっています。まだ来てもいない数十年先のことを、確定的な未来のように想像して、勝手に落胆したりなんかしてるわけですよ。でも、それってただの想像じゃないですか。想像でしかないじゃないですか。つまり、「想像する」ということが、自分の人生にどれだけの影響力があるのか?っていう話じゃないですか。

 

 我らコンタクティでは、最後宇宙ロケットを打ち上げます。かつて宇宙人に遭遇した男の子は、ロケットを作って周りの反対を無視してそれを打ち上げるわけですよ。かつて宇宙人に遭遇した女の子は、それに協力し、そしてその許可が取れない中での決行は、犯罪でしかないわけですよ。

 かつての男の子は、自分で作った宇宙ロケットの状態を把握する数字を見て、その成功を理解します。かつての女の子は、その実況を聞いて、自分たちのロケットが今まさに宇宙で映画を上映開始したということを理解するわけですよ。その光景を、我ら読者だけは実際に映像として理解することができます。読者は作者が描いてくれさえすれば、たとえ宇宙の果てだろうともそこに視点を持てるからです。でも、当の彼らには目視ではその様子を見ることができない。だって映画の上映機は宇宙にあって、彼らは地上にいるのだから。彼らは画面に表示された数字から、それを想像することしかできやしないわけです。僕らが映像として理解した光景を、彼らは頭の中で想像しただけなわけです。そしてそれで十分じゃないですか。

 

 まともに考えれば、打ち上がった映画上映機が永遠に稼働しながら宇宙の果てまで行けるわけなんてないわけですよ。それがどれだけ単独で稼働し続けられるように作られたとしてもです。きっとどこかのタイミングで何かの影響で壊れたりしてしまうじゃないですか。でも、想像の中では無限でしょう?そもそも、自分たちの好きな映画が、いつかあの宇宙人に届くかなんて何の保証もない。その宇宙人だっていないかもしれないわけですよ。あの光が宇宙人だったなんて分からないし、そんなものそもそもいなかったかもしれないわけじゃないですか。

 

 だとすれば、ここにあるのはつまり全て想像力の話です。自分たちが飛ばしたロケットの先に、いつか宇宙人まで映画が届くかもしれないという無限の果ての想像力を彼らは得たということじゃないかと思ったわけです。

 自分の人生の未来に、何かがあると思うことも、何かがないと思うことも、すべて今想像しただけのことです。そんなことに一喜一憂して、自分のこの先の人生に価値があるとかないとか言っているわけじゃないですか。人間が未来に生きるためには無限への想像力が、生きていく上で強い力を発揮したりするわけですよ。存在していないそのようなものに、めちゃくちゃな価値があるわけですよ。

 

 もしかすると自分が死んだ後もずっと宇宙の果てまで進み続けるような映画上映機が存在しているということ、それを想像するということが、一見何の関係もない自分の人生の在り方に強く関係しているということもあるんじゃないかと思うわけです。そしてそれがいつの間にか自分の人生から抜け落ちてしまっているのではないのかと思ったりするわけなんですよ。

 

 僕が我らコンタクティの物語に惹かれたのは、そういうところじゃないかと思っていて、いつの間にか自分の中から抜け落ちていた何かしら無限的なものに対する想像力がそこにあったからなんじゃないかと思います。世の中にある閉塞感のようなものも、根っこは同じような気がしていて、本来どう埋めても大丈夫なはずの未知の未来の領域を、勝手に手元にある陰鬱になるようなものだけで埋めちゃっているような気がするんですよね。

 でも、それがもしかすると安心するためにわざわざそうしているんじゃないかという疑惑があって、それをどうにか楽観とそれを現実にするための行動で上書きしていくことが、自分の何十年先の未来のことを思っても、ワクワクした気持ちを持ち続けるためには必要なんじゃないかと思ったりしました。

 

 あれ、何の話だったか…。

 

 とにかく良いお話でしたよ。良いお話なだけでなく、絵もめちゃくちゃに良いですからね。最後のシーンは本当に胸いっぱいになりながら読みました。これはとてもカッコいいお話だったので、あの後、彼らがどうなったのかは語られませんでしたが、僕はそれは閉じたものではなく、広がったものであるかのように思っていて、なぜなら僕はこの漫画を読み終わったあと、とても清々しい気持ちになったからです。

 僕もそんな感じに生きていくぞ!!というようなことを思いました。

エドワード・エルリックとジョルノ・ジョバーナ同一人物説!?

 鋼の錬金術師(以下ハガレン)の主人公エドワード・エルリック(以下エド)と、ジョジョの奇妙な冒険第五部(以下ジョジョ5部)の主人公ジョルノ・ジョバーナ(以下ジョルノ)には、沢山の共通点があるのではないか??もしかすると同一人物だったりするのではないか??と天啓のように気づいてしまいました。

 なので、その共通点や、とはいえ、やはり存在する相違点についてまとめていこうと思います。

 

共通点1:金

 エドとジョルノには金髪という共通点があります。さらには後ろ髪を三つ編みにしているのです。これはかなり似ていますね。さらには、錬金術師であるエドと、スタンド能力ゴールドエクスペリエンスを使う、「金」「ゴールド」の共通点も見逃せません。これはほぼ同一人物と言ってもいいのではないでしょうか?

 

相違点1:人体錬成や等価交換の扱い

 ハガレンエド錬金術の禁忌とされる人体錬成をしてしまうことで、その代償として片腕と片足を失ってしまいます。

 しかし、ジョルノはスタンド能力ゴールドエクスペリエンスの力により、無機物から気軽に容易に生命を生み出すことができます。また、戦いで欠損した人体の一部も、パーツを作り出すことで補填し回復するというようなこともやります。これはまさしくある種の人体錬成であり、しかも、ハガレンがこだわっている等価交換の原則に縛られることがありません。この辺りはかなり違います。

 ただ、語られていないだけでジョルノの中にハガレンにおける賢者の石に相当する何かがあるのであれば、辻褄は合うかもしれません。

 

共通点2:声が朴璐美

 ジョジョ5部のPS2のゲームにおいて、ジョルノの声を担当したのは声優の朴璐美でした。また、ハガレンのアニメでエドの声を担当したのも朴璐美です。これはすごく同一人物感が高まってきました。

 

共通点3:兄弟の有無

 エドには弟のアルフォンスがいます。ジョルノにも異母兄弟が沢山います。似ていますね。

 

共通点4:父が不老不死

 エドの父、ヴァン・ホーエンハイムは、ホムンクルスに血液を提供したことをきっかけに賢者の石と融合してしまい、結果的に不老不死の肉体を得ることになりました。一方、ジョルノの父、DIOは、南米で発掘された石仮面に血を与えることにより、吸血鬼としての不老不死の肉体を獲得しました。

 2人はそれぞれ、血をきっかけに不老不死で数百年生きている父を持つ子供であるのです。こんな共通点ってあります??かなり同一人物っぽいと思いました。

 

共通点5:姓名の頭文字が同じ名前

 「エ」ドワード・「エ」ルリックと「ジョ」ルノ・「ジョ」バーナというように名字と名前の頭文字が同じです。似ています。

 

相違点2:

 エドたち錬金術師は、「真理」に到達することを目標に研究を重ねています。しかし、ジョルノのゴールドエクスペリエンスレクイエムは、攻撃した相手を永遠に「真実」に到達することができなくなることを特徴としています。その意味で、追うエドと遠ざけるジョルノという感じの相違点がある気がします。

 

 このように比較してみると、エドとジョルノはかなり似ているものの、やはり違うところもあるので、同一人物説には無理があるように思いました。誰だ?同一人物とか言い出したのは!!

「キン肉マン超人大全集」を一日聞いていました

 今日は昼過ぎからファミレスでオヤツを食べつつ、最近買った漫画をまた一通り読み直したりしていたんですが、その間、「キン肉マン超人大全集」というキン肉マン関係の歌がたくさん収録されているCDを聞いていました。

 

columbia.jp

 

 このCD、色んな超人のキャラクターソングが収録されていて、めちゃくちゃいいんですが、曲の歌詞や途中に挿入される台詞にクセがあって、活躍の場が少ない超人はWikipediaの記述の羅列みたいな感じになっていて(もちろん当時はWikipediaはありませんが)、それも独特の味があって面白いです。想像するに、作詞家にキャラクターのデータシートのようなものが渡されて、それをもとに歌詞を書いているような感じではないでしょうか?

 さて、僕が特に気になっているのは、超人たちの台詞に「食べ物を異常な量食べる」というものが含まれているのが多く、これがどういった事情でそうなっているのかは分かりませんが、すごく好きなので、その情報をまとめておきます。

 

 具体的に言うと、Disc2の5番目から12番目の曲から8番目のキン肉マングレートの歌と10番目のスクリューキッドの歌を除く以下6曲が該当しているので、何らかの意図というか歌詞を書く上でのレギュレーションが関係しているんじゃないかと想像します(ちなみに作詞家も確認しましたが全部が同じ人というわけではありません)。

  • アジアの狼(モンゴルマンのテーマ)「焼肉百人前食う」
  • 無冠の帝王(ネプチューンマンのテーマ)「優勝したら牛の丸焼き十頭食うぞ」
  • 覆面(マスク)の狩人(ビッグ・ザ・武道のテーマ)「お寿司百人分を頂こう」
  • ストップ ザ タイム(ペンタゴンのテーマ)「私が好きな食べ物はハンバーガーだ、二百個は食うぞ」
  • 魂のおたけび(ジェロニモのテーマ)「なぜかオラ、訳もなく稲荷寿司が好きなんだ、千個食うぞ」
  • キケンだキケンだケンダマン(ケンダマンのテーマ)「タイトルはいらんが鯛焼き一万個食ってやる」

 

 ちなみに、異常な量を食うものではないんですけど、キン肉マングレートとスクリューキッドの歌にも以下のような食べ物に言及する台詞があります。

  • 偉大な魂(キン肉マングレートのテーマ)「早く食いたい、本場日本の醤油ラーメンを」
  • 恐怖の回転ドリル(スクリュー・キッドのテーマ)「俺の好きな食い物はワニの蒲焼きだ」

  

 とにかく、異常な量を食べることを言ったあとに高笑いして歌が終わったりするのが何で今急にそれ言ったの??とめちゃくちゃ面白く感じるので、僕も人と会ったとき、別れ際に「焼肉百人前食う!ハッハッハッハッハッハッハッハッハ!クヮーッ!!」とか言いながら去って行きたい気持ちになりました(面白いので)。

 あとジェロニモの台詞は「訳もなく」の部分がちょっと面白過ぎますね。

 

 ちなみに、超人大全集に収録されている中で僕が特に好きな曲は、カンフーファイター(ラーメンマンのテーマ)と悲しみのベアー・クロー(ウォーズマンのテーマ)なんですけど、理由はカッコいいからです。あと幼稚園児ぐらいのときに、これらの曲が収録されていた絵本とカセットテープが一緒になった「コロちゃんパック」というやつを持っていたので、当時めちゃくちゃ聞いてたという思い入れもあります。

 

 今連載されてるキン肉マンもめちゃくちゃ面白いじゃないですか。当時好きだったものを、現代の解像度で見せてもらえつつ、心に種が植わってから、十分に花開くまでの時間の流れもあるわけじゃないですか。それがめちゃくちゃいいなと思いながら、毎回連載を読んでます。

 とは言いつつ、僕はキン肉マンは、漫画は物心ついた頃には連載終了していて、無印のアニメは再放送世代、リアルタイムだったのは王位争奪戦のアニメ(関西では日曜朝7時半にやってたのでちゃんと起きて見ていた)ぐらいなんですが、当時は再放送をよくやっていたので、世代が少しずれているのにちゃんと思い入れはあるんですよ。

 今の連載を読みつつ、合わせて昔の単行本の関連する部分を読み返すというようなこともよくやってますし、日曜の夜の日付が変わる付近になるとTwitterのタイムラインがキン肉マンの話題に染まってくるんので、連載をみんなで読んでる感じがすごくいいなと思って毎週過ごしています。

「俺たちのフィールド」における現実とフィクションの交錯関連

 僕は現実のスポーツについては全然詳しくなく、詳しくないために熱狂的に観戦することもできないのですが、一方、漫画の中のスポーツは大好きで、その試合結果に一喜一憂したりします。不思議な話ですよね。逆じゃないのか?って気もします。だって、漫画の中の試合は作者の考えた通りに書かれるもので、現実のスポーツこそ先が見えずに手に汗握る興奮がありそうなものだからです。

 悪い言い方をすれば、漫画の中のスポーツの試合はある種の八百長の試合とも言えるかもしれません。シナリオが誰かによって決められるからです。でも、そんなフィクションの中の試合に、読者としての僕は本当に心から一喜一憂していたりするんですよ。本当に不思議なことです。

 

 今ちょうどワールドカップをやっていて、僕も日本の試合は見ていたりします。ただ、各選手についてもよく知りませんし、日本のサッカーを取り巻く色んな状況もあるんでしょうが、それもよく分かっていません。なので、よく知らない自国の選手と、よく知らない他国の選手が試合をしているのを見ているというだけという感じです。でも、点が入ったり点を取られたり、追いついたり追いつかれたり、逆転したり逆転されたり、1点だけ勝っているのがひっくり返されやしないかハラハラしてゴール前を見守ったり、なんかそういうことをしているだけでも、意外と面白く見れているなと思いました。そしてサッカーが好きな人たちにとってはもっと解像度の高い風景が広がっていて、きっともっと面白く感じるんだろうなと想像します。

 

 さて、僕が好きなサッカー漫画といえば結構色々あるんですけど、その中のひとつが村枝賢一の「俺たちのフィールド」です。

 この漫画は今読んでも面白いとは思うんですけど、連載されていた時期の時代性との関わり方がよかったという部分もすごくあると思っていて、それは時代時代の現実とのリンクから面白さがさらに増した体験であったように思います。

 本作の連載開始は1992年、これはJリーグの開幕前夜です。そしてこの物語は、主人公の高杉和也の成長や立場の変化とともに、日本のサッカーを取り巻く状況の変遷もあったという体験だと思うのです。Jリーグの開幕から盛り上がり、ドーハの悲劇、それを踏まえた上での1997年のフランスワールドカップへの日本初出場、それらの状況とともにこの漫画はありました。そしてエンディングはその当時は未来の話であった日韓ワールドカップが、その先の広がりと希望として描かれるのです。

 

 この物語のひとつの見方は、「現実とフィクションが交錯する物語」だと思います。最も印象的なもののひとつは、現実のフランスワールドカップの予選リーグで、日本がアルゼンチンと同じ組になったということでしょう。なぜならば、この物語においてアルゼンチンは特別な意味をもつ国であるからです。和也は高校サッカー生活の終了後、アルゼンチンへサッカー留学し、そこでは現地のサッカースターであるダミアン・ロペスとの運命的な邂逅がありました。つまり、その全ての因縁の決着となるべき舞台がワールドカップに用意されたことになるのです。それは作者の手ではなく、現実のワールドカップの組み合わせが生んだ奇跡です。

 それに当時の僕はめちゃくちゃ興奮したわけなんですよ。現実と同じように、漫画の中でもアルゼンチンとの試合が生まれたことに。そして、現実とは異なり、漫画の中にはアルゼンチンとの強い因縁があります。そしてその結果、日本の予選リーグでの敗退は現実と変わらないものの、その内訳は現実とは少し異なる結果となりました。

 

 僕はダミアンと和也の関係性がすごく好きで、中でも好きなシーンは、Jリーグで頭角を現し始めた和也のもとに、ダミアンがやってくるところです。極東の島国で活躍していい気になっていた男に、圧倒的な世界のレベルを見せつけに現れるシーンがめちゃくちゃカッコいいんですよ。これはスポーツ漫画というよりは、格闘漫画にあるような演出です。日本で実力者として認めらた若手の選手たちが、ダミアンには全く歯が立たない。ダミアンの長い髪が緩やかに揺れる様子が、まるで彼だけ別の時間軸にいるようにその違いを見せつけます。

 そして、その時点ではあったそれだけの力の差を、その先埋めるという成長の物語なんですよ。和也だけでなく、まだ世界に及ばない日本のサッカーがということです。この物語が描かれていたのはドーハの悲劇の後、フランスワールドカップの前、まだ日本はワールドカップに出場したことがありません。それは同じ内容が今描かれるのは違うニュアンスがあるわけでしょう?

 

 漫画の中でも日本サッカーの監督が、悔し涙を流しながら言うわけですよ。フランスのワールドカップに出場できなければ、日本はどうなるか?と。次の日韓ワールドカップで開催国特権で初出場ということになるのだと。それは実力ではなく、金の力で初出場となった歴史に刻まれるのだと。だからこそ、我々は何としてでも勝たなければならないのだと。

 当時の僕も、実際のワールドカップにはそんなに大きな興味もなかったような気がしますが、これは漫画の話であり、連載の時点では、現実の話でもあったわけですよ。僕が漫画に抱いた感情が、現実にもフィードバックされるわけです。現実とフィクションの狭間で、それらを混同してしまうような体験がそこにありました。

 

 また、俺フィーにおける現実とフィクションの交錯という点では、種類の異なるキャラクター同士の対比も重要なところでしょう。小学生編や高校生編には様々な個性的なキャラクターが登場しました。しかし、Jリーグ編になってからは、そこに実在のサッカー選手をモデルにしたキャラクターも混ざるのです。現実離れしたようなキャラクターたちと実在のモデルが同時に存在するその空間にはキャラクターの対比が生まれます。それは、リザーブドックズの話でより強調されて描かれます。

 リザーブドッグズとは、ワールドカップに是が非でも出場すると誓った人々が生み出した作戦で、これまで物語に登場した数々の個性的な若手のサッカー選手を海外に長期遠征させて鍛えた集団です。もちろんその中には和也もいます。そして、鍛え上げられた彼らは、実在のモデルも多々いる旧代表とぶつけられ、競わされるのです。伸びしろの大きい若手をビシバシ鍛えた結果の集団と、現実的な選手を元にした集団がミックスされ、競合と協調によって混沌とした力の湧き出るチームが生まれます。

 

 これは結構、色々な漫画で問題となるところだと思っていて、漫画では主人公は高校生だったりするのに、超人的な能力を発揮したりするわけじゃないですか。それがいざプロと戦ったときに、プロはどの立場にいるのか?という疑問があるわけです。

 例えばリングにかけろにあったように、プロはそれ以上のすごい力を見せつけてくれるかもしれません。リベロの武田にあったように、高校生たちのあまりの現実離れっぷりにプロが困惑したりするかもしれません。魁男塾にあったように、ヤクザは現実的なレベルのままで主人公が弱くなってやしないか?と疑問を抱いたりするかもしれません。超人性を描きやすい漫画という媒体が、現実的なものと接点を持つとき、その疑問の答えるための何かしらが必要とされるのではないでしょうか?

 

 この超人的で現実離れしたサッカーと現実的なサッカーの切り替わりの潮目というものがあります。それは俺フィーでは末次という男が示すものです。この末次、和也が少年期にサッカーを一時辞めるきっかけになった男で、なぜなら、彼を助けるために和也の父が交通事故で亡くなってしまったんですよね。日本のサッカーがまだプロ化される前に、誰よりもサッカーを愛した男、高杉貫一は交通事故であっけなく亡くなりました(サンデー漫画に何故かよくある父の死)。

 彼の背を追いかけていた和也は、そのショックでサッカーの足を止め、命を救われた末次は、その背を追うためにサッカーを始めることになります。そして、高校生になった和也と末次の出会いがあるわけですよ。和也はサッカーを再び始め、ストライカーとして、キーパーの末次と戦います。

 

 さて、高校生の頃の末次はとてもすごいキーパーで、とてもじゃないけれど止められなさそうなコースへのシュートを、アクロバティックな動きでなんなく止めてしまいます。これは漫画的です。どんなコースも止められるようなキーパーというものは現実的にはあり得ません。なぜなら、そんなキーパーがいれば、絶対に試合に負けないからです。しかしながら、和也に敗れ、姿を消していた末次はリザーブドッグズの一員として再登場します。そのときの末次は、違うんですよ。「取れないコースは取れない」とこともなげに言ってのけます。これを読んだとき、僕はこの漫画の中の世界の常識が切り替わったのだと感じました。

 これまでは漫画的で現実離れしていてもオッケーだった常識の線引きを、より現実的な場所に引き直したのだと思ったのです。それは物語が、ワールドカップという現実でも動いている流れに沿うように舵を切ったことと無関係ではないでしょう。

 

 スラムダンクだって、最後は「左手はそえるだけ」です。決して「フンフンディフェンス」じゃないんですよ。連載中にそのような世界に変わったのだと思います。

 

 僕は現実のサッカーをあんまりよく知らなかったわけですが、例えば俺フィーなどの漫画によって間接的にその空気に触れていましたし、その流れで試合のテレビ中継なんかも観ていたと思います。観る目的としては邪道なのかもしれませんし、「お前は全然サッカー分かってないだろ」と言われたら「そうですね」って話なんですが、でもそういう接点があったということ自体は僕にとって有益だったと思うところがあるわけです。漫画は作り事なので、現実と接点が全くなくたっていいですが、あってもいいじゃないですか。

 少なくとも僕が色んなスポーツの基本的なルールを把握しているのは、そのスポーツを取り上げた漫画を読んでいたからで、それは結構いいことだったなと思うわけです。
今やってるワールドカップだって結構楽しく思いながら観ているわけですし、できることならもっと楽しく観たいなって気持ちもあるんですよねー。

 今日またポーランド戦があるじゃないですか。観たい気持ちはあるんですけど、明日健康診断に行く予定を入れてしまったので、夜更かしよくないかもだし、リアルタイムで観るかどうするか…。

統計多重化されている社会とその限界関連

 電気通信には統計多重化という考えがあり、これはざっくり言うと「通信のために据え付けられた伝送路を複数の通信者で共有することでなんだかいい感じになる」というようなことを言います。ざっくりし過ぎました。

 

 例えば同じ家にある100Mbpsの通信ができるパソコンAとパソコンBがあったとします。その両方がインターネットに繋がる100Mbpsの通信サービスに繋がっているのを考えてください。インターネットへの出入り口が100Mbpsなので、パソコンAとBは理想的に譲り合えたとしても50Mbpsずつしか同時に使うことができません。これではせっかく100Mbpsの通信が使えるパソコンなのに半分の力しか出すことができないじゃないですか。もったいない。

 しかし、実際はパソコンAとBは常に全力で通信をし続けているとは限りませんから、Aが通信していないときにはBは100Mbps使え、Bが通信していないときにはAが100Mbps使えます。そんなに極端でなくても、100Mbpsの通信の土管に小分けにされたデータの塊(ご存知!パケット)が上手い具合に詰め込まれることで、実質的にそれぞれに別々の100Mbpsの通信サービスを契約するのとさほど変わらない効率で通信することができたりします。これはパソコンAとBにそれぞれ専用の100Mbpsのサービス契約をする場合と比べて、契約数を2本から1本に減らすことができますからお得ですよね?こういうのを統計多重効果と呼んだりします。

 

 統計多重効果は、同じ通信サービスにぶら下がるパソコンの数が増えれば増えるほど効果的になります。つまり、その通信のピークを賄えるだけの通信の土管があれば、本当は存在しないそれぞれ専用の土管を用意しているのと実質的に同じということになるからです。通信設備は基本的にそのような思想で設計されています。それはいいことばかりではなく、弱点としては、設計時に想定した以上のデータを流そうとしてしまうと、土管の太さがボトルネックとなってしまい、通信が遅くなるということがあります。

 このように、それぞれの利用者に個別で専用の土管が用意されていないため、常に全力で通信できることは保証されておらず、仕方ないので今の土管に流せる範囲で出来るだけ頑張るよというのを、ベストエフォート通信(出来るだけ頑張るよ通信)と呼びます。スペック上出るはずの通信速度がでないとき、インターネットを経由して繋げようとしている場所までのどこかの土管に設計で想定している以上のデータが流れて詰まってしまっている可能性が高いわけですね。

 

 これは具体的に例示すると、格安SIMなどとも呼ばれるMVNO事業者のビジネスがこの作りになっています。通信回線を自前で構築するMNO事業者と異なり、その中から必要な太さの土管を借り受けているMVNO事業者は、ピーク性能さえ上手く設計し凌ぎ切れば、MNO事業者と直接契約しているのと変わらない速度でお客さんに通信サービスを提供することができます。しかし、実際はお昼休みや夜などの、通信が集中してしまう時間帯には、すごく遅くなったりしますね。それはそういう設計になっているからです。遅くなることは原理的に仕方がないことで、MNOと同じぐらいの性能を出せるだけの太さの土管をMVNO事業者が借りようとすると、その分お金も必要になりますから、格安を維持することが困難になります。

 

 さて、話は少し変わって、このような「全員にそれができるかのように謳われているにもかかわらず、実際には全員同時にはできないもの」は電気通信の話だけではなく他にもいろいろあることに気づきます。例えば「権利」の話です。ある権利がその場にいる誰にでも付与されると謳われているものの、実は全員が行使することができるものではないことも多いのではないでしょうか。

 例えば、好きなタイミングで仕事のお休みを取る権利は「ある」と言われていますが、同じ職場の全員が同じ平日に休むことは認められないことも多いと思います。なぜなら、全員が同時に休むとその日の仕事をする人が一人もいなくなるからです。それができるかどうかは職場の業態によりますが、例えばお店ならその日は閉めなければならなくなりますし、サポートの電話窓口なら、その日は契約の履行上繋がらなくてはならないものが繋がらなくなってしまったりします。公共インフラもそうでしょう。全員が休みをとっているから、停電の対応は明日以降になりますで許されればいいですがそうではありません。今日は皆がたまたま同時にお休みをとったので、電車が一日動きませんということも認められません。漫画雑誌もそうですね。全部の連載が同時に休載をすること、雑誌自体を成り立たせるのが難しくなります。このようにたとえ権利があったとしても、その行使には実際は制限があります。

 

 全員が全員同時に休みをとることができないのであるならば、「いつでも休みをとっていい」という話は「嘘」であるということです。ただし、その休みをとるタイミングが統計多重っぽく上手い具合に分散してくれれば、実質的には「いつでも休みをとっていい」ということに限りなく近くはできるはずです。世の中はそのように動いていることが多いのではないでしょうか?

 つまり、世の中の制度や契約条件は、どれだけ同時にその権利を使っても成り立つように設計しているかという話があって、とりわけ同じ条件での運用年数が長くなると、仮に当初は十分余裕がある形で設計していたとしても、状況の変化によってそれを超過しまくってしまうこともあります。それにより、ついには権利を保証する制度自体が成り立たなくなってしまうケースもあるのです。

 

 そのようなときに発生してしまいがちなのが、権利の行使のさりげない制限でしょう。権利はあるが、その行使に負い目を持たせることで、できるだけ行使しないように仕向けるという人間的な状況が発生します。これは、僕が以前いた仕事場でのひとつの事例ですが、独身者が家族持ちに比べて超過勤務状態が常態化するということがあり、なぜかというと、家族を持っている人が家族の行事や病気などで休む頻度が高く、その穴埋めを自分以外の事情にあまり左右されない独身者がしていたからです。家族を持っている人にせよ、独身者にせよ、好きな事情で休んでいいはずですが、家族の病気や一生一度の行事などと比べて、自分の都合というのもはそれほど重大だろうか?と考え、素直に休まなくていいですよと答える感じの人の好い人が多かったので、その労働時間に目に見えて差がついており(なお裁量労働なので給料は変わらず)、バランス的には良くない状態になっていました。

 これは家族持ちの人が悪いのかと言えば、そうでないでしょう。当然の権利だからです。そして、独身者側もそれでも休むとか、代わりに働くのが嫌だと言えばよかった話なのかもしれませんが、そこでごたつくよりも、自分が我慢した方が楽だと思ってしまうわけですよ。なぜそう思うというと、まさしく僕がそれをしていた側だからです。それにより、ある年は夏休みもゼロになり、正月もリモート待機し、年休は20日付与された中の3日だけなんとか使いました。それを他の休みをとりたい人に対して「僕がやっておくので大丈夫ですよ」と良い人面して、自主的な判断でやっていたわけですね。これは正しいことでしょうか?たぶん正しくはないですよね。

 でも、自分以外の人に理不尽があってはいけないという正しい考えから、自分が正しくない行動をしてしまっていたというわけなんですよ。そういうことがあるわけじゃないですか。

 

 これはそもそも論としては、その仕事場に十分な人数が足りていないという話になります。ピークの設計が間違っていたということですね。であるために、制度を十分に成り立たせるための土壌が整っていないわけです。ならば、それを解決するのはマネジメントの仕事です。労働者の中だけの上手い辻褄合わせでごまかすこと自体がおかしなことだというのが筋でしょう。

 しかしながら、人をすぐに増やせるかというと、まあ増やせないじゃないですか。採用や訓練が全く必要なく、明日からすぐにというわけにもいかないからです。また、自分が今関わっているビジネスが、裏方の人数が倍になってもその人件費を賄える規模感であるかということについては、まあ分かるわけじゃないですか。固定的な人件費が倍になっては、採算性が低下し、仕事自体が崩壊してしまうかもしれません。なら、顧客数を増やしたり、客単価を上げて収入を増やすべきですが、顧客の数を増やせば労働量も増えますし、単価を上げれば、他所にお客さんをとられて余計に採算性が崩れるかもしれません。

 結局のところ、その場で誰かが我慢してギリギリ辻褄を合わせることが、最もリスクが少なく感じてしまうという辛さがあり、それでもなんとかしようと色んな仕事を自動化したり業務整理をすることで、なんとかしのぎましたが、まあそこを抜けるまでは辛かったですよね。

 どうですか?世の中にはこういうことがよくありませんか?

 

 僕が思うに、色んなところで認められていることになっているはずの権利が、実際のところは規定以外の部分で行使を制限されていることが多々あります。生活保護の申請に行ったときに、なんとかして給付しない方向に話を進めようとする職員とかもそのたぐいです。お金が無限に湧いて出るものでない以上、想定している以上の人数が利用すると成り立たなくなってしまうのでしょう。それは根本的には窓口に立っている人間の悪辣さから来ているのではなく、設計上の不備であり、どうにかして帳尻を合わせるために、本来のルールでは使えるはずのものを使えなくしてしまうということです。

 少人数で回しているバイトで休みがとれないとか、辞めるときには別の誰かを紹介しろと言われたりとかもよくないことですが、そうでないと回らないという追い詰められ方があるんじゃないかと思います。必要な人数を下回った状態で回さなければならなくなったとき、何かしら立場が弱い人や責任をとらされる立場の人ばかりがその役目を背負わされてしまい、集中した応力で心を壊してしまうことだってあります。

 これはマネジメントが悪いって話は、実際そうなんですけど、人事権も仕事のやるやらないの裁量権も限定的なタイプの弱い中間管理職には、あまり選択肢がないこともしばしばです。部下の権利を横暴な言い方や精神論、道徳などを説きながら制限するか、部下の権利を保証するために、そのための全ての業務を自分で肩代わりするぐらいしかできません。悪い人になるか良い人になって自身の過重労働で心をすり減らすかしかないのは悲しい立場です。実際中間管理職の人が過重労働で体を壊す事例も複数目にしました。
 じゃあそもそもどうすればいいのか?ということは常々思っているわけなんですよ。簡単に言うとスケジュールに余裕があって単価が高い仕事以外はやらないことにするって話なんですけど、それが簡単にできりゃ苦労しねえ…。

 

 世の中の制度は統計多重化を想定して設定されていることが多いはずです。ピークさえ賄えれば、本当はないものであるにも関わらず、実質あると思い込んでやっていけるので効率がよい話です。そして、想定しているピーク以上に大きな土管を作ることがピークが変動する場合のリスクを減らすやり方ですが、これを世間では何と呼ぶかご存知でしょうか?「無駄」です。

 過疎地に四車線の道路を作るようなものです。もしどこかの未来にそこを大量の車が走る事態になったとき、一車線の道路しかなければ渋滞してしまいます。そして、道路幅を拡張する工事は一朝一夕ではできません。ならば予め車線を増やしておく必要がありますが、じゃあ、今現在一日何台も車が通らない道に四車線必要ですか?という話で、それを人は無駄な投資と呼ぶでしょう。実際お金の無駄です。さらには作って終わりではなく、維持管理もしなければならないのですから。

 世の中の無駄を省き、効率的な社会を作ろうとする偏向が、その実、許容できるピークを限界ギリギリまで低く保つ力となり、なおかつ、ピークをそれ以上に上昇させないために、本当は必要な権利さえ、主張できないようにする社会的な圧力が生まれたりしているような気がします。そして、それについては、自分自身が権利を主張しようとするタイミングになるまで気づけなかったりするんですよ。普段はなんとなくあるんだろうなと思って生きていて、そしてそれはある種の幸福の在り方じゃないですか。

 銀行通帳に一億円の文字が見えたとき、それが存在するものだと信じて、いざとなったら引き出して使えばいいと思いながら、特段引き出す機会もなく一生を終えることができたとき、その一億円が本当に存在したものなのか、通帳の数字にだけ存在して、実は金庫に一円もなかったのかは同じ結果になります。ないものをあると信じたままで生きられる幸福感みたいなのもあるわけですよ。

 

 でも逆説的に、それが本当はないんだと気づいてしまうことによる不安もあります。引き出さなくてはならなくなった人がまずそれに気が付き、そして、そのことから雪崩を打ったように誰もが皆一度に引き出そうとすれば、銀行自体が破綻してしまうかもしれません。人間はないものをあるかのように信じることで上手く生きていたりもするんじゃないかなと思います。それは、神さまの力で来世の幸福を信じて生きるのと似たようなものかもしれません。

 

 これは、人がもっとずっと豊かになり、土管自体をより太くすること以外には、根本的な解決はできない話なのかもしれません。

 

 さて、最近ネットで目にした権利の行使の理不尽な制限を求めるものといえば著作権の話があります。日本の著作権法では、作者には著作者人格権として同一性保持権に関する規定があり、著作物について勝手な改変をされることを差し止める権利があります。つまり例えば、漫画のコマを勝手に抜き出して絵に修正を加えたり、セリフを改変したりする行為は(インターネットではよく目にするものの)、著作者の権利の侵害行為であり、申し立てがあれば差し止められるものです。

 ただし、商用利用されるなどでない限り、SNSなどで日常的に行われるそれが実際に訴えられたという事例はあまり耳にしません。ただ、それを差し止めるための権利は本当はちゃんとあるわけですよ。

 

 これに関してどうぞ好きに台詞改変して遊んでくださいと寛容な態度をとる作者もいて、それ自体も権利の範疇です。それを認めるか認めないかを判断する権利があるわけです。ただし、ネットのコメントなどを見ていると、そのような寛容な態度をとる作者を引き合いにして、それをしない作者を心が狭いというように表現するものを目にします。漫画なんかはある種の人気商売ですから、お客さんに嫌われるのは得策ではありません。そんな中でお客さん側の一部が言うわけですよね。「自分たちに嫌われたくなければ、お前は権利を行使してはならない」という主旨のことをです。そんなことを言ってしまうことこそが心が狭い話なんじゃないかと思います。

 僕自身、漫画のコラージュなどで好きなものも沢山あり(「幕末トランスフォーム」「ナンノブマイビジネス(夜に影を探すようなもの)」など)、それが面白いということも分かりますし、それを自由に楽しめなくなることが面倒くさい事態だなと思う気持ちもあります。でも、作者側がそれを嫌だなという権利もあると思うので、そうなったら、あちらの権利を尊重するのが筋だろいうという気持ちも僕にはあります。

 

 権利を認めるという話は自分に全く関係ないところであれば、全て認めてしかるべきだと簡単に言えますが、その他人が権利を主張することが自分にとって損になるとき、つまり他人の権利と自分の自由が衝突するときにどういう態度をとるかという話があると思います。

 そういうとき、概ねなんらか適当な理屈をつけて相手の権利の行使をできるだけしないようにするようなことを言ってしまったりしませんか?僕はそういうことを気にしているわけですよ。なぜ気にしているかというと、僕が他人にうっかりそういうことを言ってしまう可能性が十分あるからです。

 このように誰かの利が誰かの害になるというような矛盾してしまう権利同士は、そもそも統計多重することも難しくなります。立場上弱い側の権利の行使がただただ制限されて終わることもしばしばです。

 

 人間はそのような沢山の制約がある中でなんとかやっていて、技術や社会制度、規範意識の進歩により、昔に比べれば土管は太くなってきてはいるんじゃないかなと僕は思っています。しかしながら、それがあくまでまだまだ全員に同時に行使できるものではないということに気づいてしまっているきらいもあって、気づいてしまっているからこそ、自分がいざその権利を行使したいときには既にリソースが尽きてしまっているんじゃないか?という恐怖も付きまとってしまいます。

 そして、だからこそ、他人の権利行使を遮るようなローカルルールの押し付け合いもやってしまったりするじゃないですか。それだってある程度は仕方なくですよ。でも、そのあたりが、まだまだ豊かさが十分じゃないんだなと思います。

 

 気分のままに書いてたら、統計多重の話は最終的に全然関係なくなってしまったような気がしますが、本当は全員分ないものを、なんとなくあるような気になることで表面上は上手く回っているということが社会にはよくあると思います。でも、それを信じられているうちは上手く回っても、信じることができなくなった瞬間に、銀行の取り付け騒ぎのように瓦解してしまう気もします。

 ギリギリでやってることも多いんだよなあという気持ちがあって、それでもなんでか上手く行ってたり、上手く行かないところでは何かしら悲しいことが起こったりしつつ、根本的には、豊かさの土管を太くしていかにゃあならないよなあというような気持ちが生じたので、今日はその気持ちが生じたということを書き記しておくことにします。