漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

エドワード・エルリックとジョルノ・ジョバーナ同一人物説!?

 鋼の錬金術師(以下ハガレン)の主人公エドワード・エルリック(以下エド)と、ジョジョの奇妙な冒険第五部(以下ジョジョ5部)の主人公ジョルノ・ジョバーナ(以下ジョルノ)には、沢山の共通点があるのではないか??もしかすると同一人物だったりするのではないか??と天啓のように気づいてしまいました。

 なので、その共通点や、とはいえ、やはり存在する相違点についてまとめていこうと思います。

 

共通点1:金

 エドとジョルノには金髪という共通点があります。さらには後ろ髪を三つ編みにしているのです。これはかなり似ていますね。さらには、錬金術師であるエドと、スタンド能力ゴールドエクスペリエンスを使う、「金」「ゴールド」の共通点も見逃せません。これはほぼ同一人物と言ってもいいのではないでしょうか?

 

相違点1:人体錬成や等価交換の扱い

 ハガレンエド錬金術の禁忌とされる人体錬成をしてしまうことで、その代償として片腕と片足を失ってしまいます。

 しかし、ジョルノはスタンド能力ゴールドエクスペリエンスの力により、無機物から気軽に容易に生命を生み出すことができます。また、戦いで欠損した人体の一部も、パーツを作り出すことで補填し回復するというようなこともやります。これはまさしくある種の人体錬成であり、しかも、ハガレンがこだわっている等価交換の原則に縛られることがありません。この辺りはかなり違います。

 ただ、語られていないだけでジョルノの中にハガレンにおける賢者の石に相当する何かがあるのであれば、辻褄は合うかもしれません。

 

共通点2:声が朴璐美

 ジョジョ5部のPS2のゲームにおいて、ジョルノの声を担当したのは声優の朴璐美でした。また、ハガレンのアニメでエドの声を担当したのも朴璐美です。これはすごく同一人物感が高まってきました。

 

共通点3:兄弟の有無

 エドには弟のアルフォンスがいます。ジョルノにも異母兄弟が沢山います。似ていますね。

 

共通点4:父が不老不死

 エドの父、ヴァン・ホーエンハイムは、ホムンクルスに血液を提供したことをきっかけに賢者の石と融合してしまい、結果的に不老不死の肉体を得ることになりました。一方、ジョルノの父、DIOは、南米で発掘された石仮面に血を与えることにより、吸血鬼としての不老不死の肉体を獲得しました。

 2人はそれぞれ、血をきっかけに不老不死で数百年生きている父を持つ子供であるのです。こんな共通点ってあります??かなり同一人物っぽいと思いました。

 

共通点5:姓名の頭文字が同じ名前

 「エ」ドワード・「エ」ルリックと「ジョ」ルノ・「ジョ」バーナというように名字と名前の頭文字が同じです。似ています。

 

相違点2:

 エドたち錬金術師は、「真理」に到達することを目標に研究を重ねています。しかし、ジョルノのゴールドエクスペリエンスレクイエムは、攻撃した相手を永遠に「真実」に到達することができなくなることを特徴としています。その意味で、追うエドと遠ざけるジョルノという感じの相違点がある気がします。

 

 このように比較してみると、エドとジョルノはかなり似ているものの、やはり違うところもあるので、同一人物説には無理があるように思いました。誰だ?同一人物とか言い出したのは!!

「キン肉マン超人大全集」を一日聞いていました

 今日は昼過ぎからファミレスでオヤツを食べつつ、最近買った漫画をまた一通り読み直したりしていたんですが、その間、「キン肉マン超人大全集」というキン肉マン関係の歌がたくさん収録されているCDを聞いていました。

 

columbia.jp

 

 このCD、色んな超人のキャラクターソングが収録されていて、めちゃくちゃいいんですが、曲の歌詞や途中に挿入される台詞にクセがあって、活躍の場が少ない超人はWikipediaの記述の羅列みたいな感じになっていて(もちろん当時はWikipediaはありませんが)、それも独特の味があって面白いです。想像するに、作詞家にキャラクターのデータシートのようなものが渡されて、それをもとに歌詞を書いているような感じではないでしょうか?

 さて、僕が特に気になっているのは、超人たちの台詞に「食べ物を異常な量食べる」というものが含まれているのが多く、これがどういった事情でそうなっているのかは分かりませんが、すごく好きなので、その情報をまとめておきます。

 

 具体的に言うと、Disc2の5番目から12番目の曲から8番目のキン肉マングレートの歌と10番目のスクリューキッドの歌を除く以下6曲が該当しているので、何らかの意図というか歌詞を書く上でのレギュレーションが関係しているんじゃないかと想像します(ちなみに作詞家も確認しましたが全部が同じ人というわけではありません)。

  • アジアの狼(モンゴルマンのテーマ)「焼肉百人前食う」
  • 無冠の帝王(ネプチューンマンのテーマ)「優勝したら牛の丸焼き十頭食うぞ」
  • 覆面(マスク)の狩人(ビッグ・ザ・武道のテーマ)「お寿司百人分を頂こう」
  • ストップ ザ タイム(ペンタゴンのテーマ)「私が好きな食べ物はハンバーガーだ、二百個は食うぞ」
  • 魂のおたけび(ジェロニモのテーマ)「なぜかオラ、訳もなく稲荷寿司が好きなんだ、千個食うぞ」
  • キケンだキケンだケンダマン(ケンダマンのテーマ)「タイトルはいらんが鯛焼き一万個食ってやる」

 

 ちなみに、異常な量を食うものではないんですけど、キン肉マングレートとスクリューキッドの歌にも以下のような食べ物に言及する台詞があります。

  • 偉大な魂(キン肉マングレートのテーマ)「早く食いたい、本場日本の醤油ラーメンを」
  • 恐怖の回転ドリル(スクリュー・キッドのテーマ)「俺の好きな食い物はワニの蒲焼きだ」

  

 とにかく、異常な量を食べることを言ったあとに高笑いして歌が終わったりするのが何で今急にそれ言ったの??とめちゃくちゃ面白く感じるので、僕も人と会ったとき、別れ際に「焼肉百人前食う!ハッハッハッハッハッハッハッハッハ!クヮーッ!!」とか言いながら去って行きたい気持ちになりました(面白いので)。

 あとジェロニモの台詞は「訳もなく」の部分がちょっと面白過ぎますね。

 

 ちなみに、超人大全集に収録されている中で僕が特に好きな曲は、カンフーファイター(ラーメンマンのテーマ)と悲しみのベアー・クロー(ウォーズマンのテーマ)なんですけど、理由はカッコいいからです。あと幼稚園児ぐらいのときに、これらの曲が収録されていた絵本とカセットテープが一緒になった「コロちゃんパック」というやつを持っていたので、当時めちゃくちゃ聞いてたという思い入れもあります。

 

 今連載されてるキン肉マンもめちゃくちゃ面白いじゃないですか。当時好きだったものを、現代の解像度で見せてもらえつつ、心に種が植わってから、十分に花開くまでの時間の流れもあるわけじゃないですか。それがめちゃくちゃいいなと思いながら、毎回連載を読んでます。

 とは言いつつ、僕はキン肉マンは、漫画は物心ついた頃には連載終了していて、無印のアニメは再放送世代、リアルタイムだったのは王位争奪戦のアニメ(関西では日曜朝7時半にやってたのでちゃんと起きて見ていた)ぐらいなんですが、当時は再放送をよくやっていたので、世代が少しずれているのにちゃんと思い入れはあるんですよ。

 今の連載を読みつつ、合わせて昔の単行本の関連する部分を読み返すというようなこともよくやってますし、日曜の夜の日付が変わる付近になるとTwitterのタイムラインがキン肉マンの話題に染まってくるんので、連載をみんなで読んでる感じがすごくいいなと思って毎週過ごしています。

「俺たちのフィールド」における現実とフィクションの交錯関連

 僕は現実のスポーツについては全然詳しくなく、詳しくないために熱狂的に観戦することもできないのですが、一方、漫画の中のスポーツは大好きで、その試合結果に一喜一憂したりします。不思議な話ですよね。逆じゃないのか?って気もします。だって、漫画の中の試合は作者の考えた通りに書かれるもので、現実のスポーツこそ先が見えずに手に汗握る興奮がありそうなものだからです。

 悪い言い方をすれば、漫画の中のスポーツの試合はある種の八百長の試合とも言えるかもしれません。シナリオが誰かによって決められるからです。でも、そんなフィクションの中の試合に、読者としての僕は本当に心から一喜一憂していたりするんですよ。本当に不思議なことです。

 

 今ちょうどワールドカップをやっていて、僕も日本の試合は見ていたりします。ただ、各選手についてもよく知りませんし、日本のサッカーを取り巻く色んな状況もあるんでしょうが、それもよく分かっていません。なので、よく知らない自国の選手と、よく知らない他国の選手が試合をしているのを見ているというだけという感じです。でも、点が入ったり点を取られたり、追いついたり追いつかれたり、逆転したり逆転されたり、1点だけ勝っているのがひっくり返されやしないかハラハラしてゴール前を見守ったり、なんかそういうことをしているだけでも、意外と面白く見れているなと思いました。そしてサッカーが好きな人たちにとってはもっと解像度の高い風景が広がっていて、きっともっと面白く感じるんだろうなと想像します。

 

 さて、僕が好きなサッカー漫画といえば結構色々あるんですけど、その中のひとつが村枝賢一の「俺たちのフィールド」です。

 この漫画は今読んでも面白いとは思うんですけど、連載されていた時期の時代性との関わり方がよかったという部分もすごくあると思っていて、それは時代時代の現実とのリンクから面白さがさらに増した体験であったように思います。

 本作の連載開始は1992年、これはJリーグの開幕前夜です。そしてこの物語は、主人公の高杉和也の成長や立場の変化とともに、日本のサッカーを取り巻く状況の変遷もあったという体験だと思うのです。Jリーグの開幕から盛り上がり、ドーハの悲劇、それを踏まえた上での1997年のフランスワールドカップへの日本初出場、それらの状況とともにこの漫画はありました。そしてエンディングはその当時は未来の話であった日韓ワールドカップが、その先の広がりと希望として描かれるのです。

 

 この物語のひとつの見方は、「現実とフィクションが交錯する物語」だと思います。最も印象的なもののひとつは、現実のフランスワールドカップの予選リーグで、日本がアルゼンチンと同じ組になったということでしょう。なぜならば、この物語においてアルゼンチンは特別な意味をもつ国であるからです。和也は高校サッカー生活の終了後、アルゼンチンへサッカー留学し、そこでは現地のサッカースターであるダミアン・ロペスとの運命的な邂逅がありました。つまり、その全ての因縁の決着となるべき舞台がワールドカップに用意されたことになるのです。それは作者の手ではなく、現実のワールドカップの組み合わせが生んだ奇跡です。

 それに当時の僕はめちゃくちゃ興奮したわけなんですよ。現実と同じように、漫画の中でもアルゼンチンとの試合が生まれたことに。そして、現実とは異なり、漫画の中にはアルゼンチンとの強い因縁があります。そしてその結果、日本の予選リーグでの敗退は現実と変わらないものの、その内訳は現実とは少し異なる結果となりました。

 

 僕はダミアンと和也の関係性がすごく好きで、中でも好きなシーンは、Jリーグで頭角を現し始めた和也のもとに、ダミアンがやってくるところです。極東の島国で活躍していい気になっていた男に、圧倒的な世界のレベルを見せつけに現れるシーンがめちゃくちゃカッコいいんですよ。これはスポーツ漫画というよりは、格闘漫画にあるような演出です。日本で実力者として認めらた若手の選手たちが、ダミアンには全く歯が立たない。ダミアンの長い髪が緩やかに揺れる様子が、まるで彼だけ別の時間軸にいるようにその違いを見せつけます。

 そして、その時点ではあったそれだけの力の差を、その先埋めるという成長の物語なんですよ。和也だけでなく、まだ世界に及ばない日本のサッカーがということです。この物語が描かれていたのはドーハの悲劇の後、フランスワールドカップの前、まだ日本はワールドカップに出場したことがありません。それは同じ内容が今描かれるのは違うニュアンスがあるわけでしょう?

 

 漫画の中でも日本サッカーの監督が、悔し涙を流しながら言うわけですよ。フランスのワールドカップに出場できなければ、日本はどうなるか?と。次の日韓ワールドカップで開催国特権で初出場ということになるのだと。それは実力ではなく、金の力で初出場となった歴史に刻まれるのだと。だからこそ、我々は何としてでも勝たなければならないのだと。

 当時の僕も、実際のワールドカップにはそんなに大きな興味もなかったような気がしますが、これは漫画の話であり、連載の時点では、現実の話でもあったわけですよ。僕が漫画に抱いた感情が、現実にもフィードバックされるわけです。現実とフィクションの狭間で、それらを混同してしまうような体験がそこにありました。

 

 また、俺フィーにおける現実とフィクションの交錯という点では、種類の異なるキャラクター同士の対比も重要なところでしょう。小学生編や高校生編には様々な個性的なキャラクターが登場しました。しかし、Jリーグ編になってからは、そこに実在のサッカー選手をモデルにしたキャラクターも混ざるのです。現実離れしたようなキャラクターたちと実在のモデルが同時に存在するその空間にはキャラクターの対比が生まれます。それは、リザーブドックズの話でより強調されて描かれます。

 リザーブドッグズとは、ワールドカップに是が非でも出場すると誓った人々が生み出した作戦で、これまで物語に登場した数々の個性的な若手のサッカー選手を海外に長期遠征させて鍛えた集団です。もちろんその中には和也もいます。そして、鍛え上げられた彼らは、実在のモデルも多々いる旧代表とぶつけられ、競わされるのです。伸びしろの大きい若手をビシバシ鍛えた結果の集団と、現実的な選手を元にした集団がミックスされ、競合と協調によって混沌とした力の湧き出るチームが生まれます。

 

 これは結構、色々な漫画で問題となるところだと思っていて、漫画では主人公は高校生だったりするのに、超人的な能力を発揮したりするわけじゃないですか。それがいざプロと戦ったときに、プロはどの立場にいるのか?という疑問があるわけです。

 例えばリングにかけろにあったように、プロはそれ以上のすごい力を見せつけてくれるかもしれません。リベロの武田にあったように、高校生たちのあまりの現実離れっぷりにプロが困惑したりするかもしれません。魁男塾にあったように、ヤクザは現実的なレベルのままで主人公が弱くなってやしないか?と疑問を抱いたりするかもしれません。超人性を描きやすい漫画という媒体が、現実的なものと接点を持つとき、その疑問の答えるための何かしらが必要とされるのではないでしょうか?

 

 この超人的で現実離れしたサッカーと現実的なサッカーの切り替わりの潮目というものがあります。それは俺フィーでは末次という男が示すものです。この末次、和也が少年期にサッカーを一時辞めるきっかけになった男で、なぜなら、彼を助けるために和也の父が交通事故で亡くなってしまったんですよね。日本のサッカーがまだプロ化される前に、誰よりもサッカーを愛した男、高杉貫一は交通事故であっけなく亡くなりました(サンデー漫画に何故かよくある父の死)。

 彼の背を追いかけていた和也は、そのショックでサッカーの足を止め、命を救われた末次は、その背を追うためにサッカーを始めることになります。そして、高校生になった和也と末次の出会いがあるわけですよ。和也はサッカーを再び始め、ストライカーとして、キーパーの末次と戦います。

 

 さて、高校生の頃の末次はとてもすごいキーパーで、とてもじゃないけれど止められなさそうなコースへのシュートを、アクロバティックな動きでなんなく止めてしまいます。これは漫画的です。どんなコースも止められるようなキーパーというものは現実的にはあり得ません。なぜなら、そんなキーパーがいれば、絶対に試合に負けないからです。しかしながら、和也に敗れ、姿を消していた末次はリザーブドッグズの一員として再登場します。そのときの末次は、違うんですよ。「取れないコースは取れない」とこともなげに言ってのけます。これを読んだとき、僕はこの漫画の中の世界の常識が切り替わったのだと感じました。

 これまでは漫画的で現実離れしていてもオッケーだった常識の線引きを、より現実的な場所に引き直したのだと思ったのです。それは物語が、ワールドカップという現実でも動いている流れに沿うように舵を切ったことと無関係ではないでしょう。

 

 スラムダンクだって、最後は「左手はそえるだけ」です。決して「フンフンディフェンス」じゃないんですよ。連載中にそのような世界に変わったのだと思います。

 

 僕は現実のサッカーをあんまりよく知らなかったわけですが、例えば俺フィーなどの漫画によって間接的にその空気に触れていましたし、その流れで試合のテレビ中継なんかも観ていたと思います。観る目的としては邪道なのかもしれませんし、「お前は全然サッカー分かってないだろ」と言われたら「そうですね」って話なんですが、でもそういう接点があったということ自体は僕にとって有益だったと思うところがあるわけです。漫画は作り事なので、現実と接点が全くなくたっていいですが、あってもいいじゃないですか。

 少なくとも僕が色んなスポーツの基本的なルールを把握しているのは、そのスポーツを取り上げた漫画を読んでいたからで、それは結構いいことだったなと思うわけです。
今やってるワールドカップだって結構楽しく思いながら観ているわけですし、できることならもっと楽しく観たいなって気持ちもあるんですよねー。

 今日またポーランド戦があるじゃないですか。観たい気持ちはあるんですけど、明日健康診断に行く予定を入れてしまったので、夜更かしよくないかもだし、リアルタイムで観るかどうするか…。

統計多重化されている社会とその限界関連

 電気通信には統計多重化という考えがあり、これはざっくり言うと「通信のために据え付けられた伝送路を複数の通信者で共有することでなんだかいい感じになる」というようなことを言います。ざっくりし過ぎました。

 

 例えば同じ家にある100Mbpsの通信ができるパソコンAとパソコンBがあったとします。その両方がインターネットに繋がる100Mbpsの通信サービスに繋がっているのを考えてください。インターネットへの出入り口が100Mbpsなので、パソコンAとBは理想的に譲り合えたとしても50Mbpsずつしか同時に使うことができません。これではせっかく100Mbpsの通信が使えるパソコンなのに半分の力しか出すことができないじゃないですか。もったいない。

 しかし、実際はパソコンAとBは常に全力で通信をし続けているとは限りませんから、Aが通信していないときにはBは100Mbps使え、Bが通信していないときにはAが100Mbps使えます。そんなに極端でなくても、100Mbpsの通信の土管に小分けにされたデータの塊(ご存知!パケット)が上手い具合に詰め込まれることで、実質的にそれぞれに別々の100Mbpsの通信サービスを契約するのとさほど変わらない効率で通信することができたりします。これはパソコンAとBにそれぞれ専用の100Mbpsのサービス契約をする場合と比べて、契約数を2本から1本に減らすことができますからお得ですよね?こういうのを統計多重効果と呼んだりします。

 

 統計多重効果は、同じ通信サービスにぶら下がるパソコンの数が増えれば増えるほど効果的になります。つまり、その通信のピークを賄えるだけの通信の土管があれば、本当は存在しないそれぞれ専用の土管を用意しているのと実質的に同じということになるからです。通信設備は基本的にそのような思想で設計されています。それはいいことばかりではなく、弱点としては、設計時に想定した以上のデータを流そうとしてしまうと、土管の太さがボトルネックとなってしまい、通信が遅くなるということがあります。

 このように、それぞれの利用者に個別で専用の土管が用意されていないため、常に全力で通信できることは保証されておらず、仕方ないので今の土管に流せる範囲で出来るだけ頑張るよというのを、ベストエフォート通信(出来るだけ頑張るよ通信)と呼びます。スペック上出るはずの通信速度がでないとき、インターネットを経由して繋げようとしている場所までのどこかの土管に設計で想定している以上のデータが流れて詰まってしまっている可能性が高いわけですね。

 

 これは具体的に例示すると、格安SIMなどとも呼ばれるMVNO事業者のビジネスがこの作りになっています。通信回線を自前で構築するMNO事業者と異なり、その中から必要な太さの土管を借り受けているMVNO事業者は、ピーク性能さえ上手く設計し凌ぎ切れば、MNO事業者と直接契約しているのと変わらない速度でお客さんに通信サービスを提供することができます。しかし、実際はお昼休みや夜などの、通信が集中してしまう時間帯には、すごく遅くなったりしますね。それはそういう設計になっているからです。遅くなることは原理的に仕方がないことで、MNOと同じぐらいの性能を出せるだけの太さの土管をMVNO事業者が借りようとすると、その分お金も必要になりますから、格安を維持することが困難になります。

 

 さて、話は少し変わって、このような「全員にそれができるかのように謳われているにもかかわらず、実際には全員同時にはできないもの」は電気通信の話だけではなく他にもいろいろあることに気づきます。例えば「権利」の話です。ある権利がその場にいる誰にでも付与されると謳われているものの、実は全員が行使することができるものではないことも多いのではないでしょうか。

 例えば、好きなタイミングで仕事のお休みを取る権利は「ある」と言われていますが、同じ職場の全員が同じ平日に休むことは認められないことも多いと思います。なぜなら、全員が同時に休むとその日の仕事をする人が一人もいなくなるからです。それができるかどうかは職場の業態によりますが、例えばお店ならその日は閉めなければならなくなりますし、サポートの電話窓口なら、その日は契約の履行上繋がらなくてはならないものが繋がらなくなってしまったりします。公共インフラもそうでしょう。全員が休みをとっているから、停電の対応は明日以降になりますで許されればいいですがそうではありません。今日は皆がたまたま同時にお休みをとったので、電車が一日動きませんということも認められません。漫画雑誌もそうですね。全部の連載が同時に休載をすること、雑誌自体を成り立たせるのが難しくなります。このようにたとえ権利があったとしても、その行使には実際は制限があります。

 

 全員が全員同時に休みをとることができないのであるならば、「いつでも休みをとっていい」という話は「嘘」であるということです。ただし、その休みをとるタイミングが統計多重っぽく上手い具合に分散してくれれば、実質的には「いつでも休みをとっていい」ということに限りなく近くはできるはずです。世の中はそのように動いていることが多いのではないでしょうか?

 つまり、世の中の制度や契約条件は、どれだけ同時にその権利を使っても成り立つように設計しているかという話があって、とりわけ同じ条件での運用年数が長くなると、仮に当初は十分余裕がある形で設計していたとしても、状況の変化によってそれを超過しまくってしまうこともあります。それにより、ついには権利を保証する制度自体が成り立たなくなってしまうケースもあるのです。

 

 そのようなときに発生してしまいがちなのが、権利の行使のさりげない制限でしょう。権利はあるが、その行使に負い目を持たせることで、できるだけ行使しないように仕向けるという人間的な状況が発生します。これは、僕が以前いた仕事場でのひとつの事例ですが、独身者が家族持ちに比べて超過勤務状態が常態化するということがあり、なぜかというと、家族を持っている人が家族の行事や病気などで休む頻度が高く、その穴埋めを自分以外の事情にあまり左右されない独身者がしていたからです。家族を持っている人にせよ、独身者にせよ、好きな事情で休んでいいはずですが、家族の病気や一生一度の行事などと比べて、自分の都合というのもはそれほど重大だろうか?と考え、素直に休まなくていいですよと答える感じの人の好い人が多かったので、その労働時間に目に見えて差がついており(なお裁量労働なので給料は変わらず)、バランス的には良くない状態になっていました。

 これは家族持ちの人が悪いのかと言えば、そうでないでしょう。当然の権利だからです。そして、独身者側もそれでも休むとか、代わりに働くのが嫌だと言えばよかった話なのかもしれませんが、そこでごたつくよりも、自分が我慢した方が楽だと思ってしまうわけですよ。なぜそう思うというと、まさしく僕がそれをしていた側だからです。それにより、ある年は夏休みもゼロになり、正月もリモート待機し、年休は20日付与された中の3日だけなんとか使いました。それを他の休みをとりたい人に対して「僕がやっておくので大丈夫ですよ」と良い人面して、自主的な判断でやっていたわけですね。これは正しいことでしょうか?たぶん正しくはないですよね。

 でも、自分以外の人に理不尽があってはいけないという正しい考えから、自分が正しくない行動をしてしまっていたというわけなんですよ。そういうことがあるわけじゃないですか。

 

 これはそもそも論としては、その仕事場に十分な人数が足りていないという話になります。ピークの設計が間違っていたということですね。であるために、制度を十分に成り立たせるための土壌が整っていないわけです。ならば、それを解決するのはマネジメントの仕事です。労働者の中だけの上手い辻褄合わせでごまかすこと自体がおかしなことだというのが筋でしょう。

 しかしながら、人をすぐに増やせるかというと、まあ増やせないじゃないですか。採用や訓練が全く必要なく、明日からすぐにというわけにもいかないからです。また、自分が今関わっているビジネスが、裏方の人数が倍になってもその人件費を賄える規模感であるかということについては、まあ分かるわけじゃないですか。固定的な人件費が倍になっては、採算性が低下し、仕事自体が崩壊してしまうかもしれません。なら、顧客数を増やしたり、客単価を上げて収入を増やすべきですが、顧客の数を増やせば労働量も増えますし、単価を上げれば、他所にお客さんをとられて余計に採算性が崩れるかもしれません。

 結局のところ、その場で誰かが我慢してギリギリ辻褄を合わせることが、最もリスクが少なく感じてしまうという辛さがあり、それでもなんとかしようと色んな仕事を自動化したり業務整理をすることで、なんとかしのぎましたが、まあそこを抜けるまでは辛かったですよね。

 どうですか?世の中にはこういうことがよくありませんか?

 

 僕が思うに、色んなところで認められていることになっているはずの権利が、実際のところは規定以外の部分で行使を制限されていることが多々あります。生活保護の申請に行ったときに、なんとかして給付しない方向に話を進めようとする職員とかもそのたぐいです。お金が無限に湧いて出るものでない以上、想定している以上の人数が利用すると成り立たなくなってしまうのでしょう。それは根本的には窓口に立っている人間の悪辣さから来ているのではなく、設計上の不備であり、どうにかして帳尻を合わせるために、本来のルールでは使えるはずのものを使えなくしてしまうということです。

 少人数で回しているバイトで休みがとれないとか、辞めるときには別の誰かを紹介しろと言われたりとかもよくないことですが、そうでないと回らないという追い詰められ方があるんじゃないかと思います。必要な人数を下回った状態で回さなければならなくなったとき、何かしら立場が弱い人や責任をとらされる立場の人ばかりがその役目を背負わされてしまい、集中した応力で心を壊してしまうことだってあります。

 これはマネジメントが悪いって話は、実際そうなんですけど、人事権も仕事のやるやらないの裁量権も限定的なタイプの弱い中間管理職には、あまり選択肢がないこともしばしばです。部下の権利を横暴な言い方や精神論、道徳などを説きながら制限するか、部下の権利を保証するために、そのための全ての業務を自分で肩代わりするぐらいしかできません。悪い人になるか良い人になって自身の過重労働で心をすり減らすかしかないのは悲しい立場です。実際中間管理職の人が過重労働で体を壊す事例も複数目にしました。
 じゃあそもそもどうすればいいのか?ということは常々思っているわけなんですよ。簡単に言うとスケジュールに余裕があって単価が高い仕事以外はやらないことにするって話なんですけど、それが簡単にできりゃ苦労しねえ…。

 

 世の中の制度は統計多重化を想定して設定されていることが多いはずです。ピークさえ賄えれば、本当はないものであるにも関わらず、実質あると思い込んでやっていけるので効率がよい話です。そして、想定しているピーク以上に大きな土管を作ることがピークが変動する場合のリスクを減らすやり方ですが、これを世間では何と呼ぶかご存知でしょうか?「無駄」です。

 過疎地に四車線の道路を作るようなものです。もしどこかの未来にそこを大量の車が走る事態になったとき、一車線の道路しかなければ渋滞してしまいます。そして、道路幅を拡張する工事は一朝一夕ではできません。ならば予め車線を増やしておく必要がありますが、じゃあ、今現在一日何台も車が通らない道に四車線必要ですか?という話で、それを人は無駄な投資と呼ぶでしょう。実際お金の無駄です。さらには作って終わりではなく、維持管理もしなければならないのですから。

 世の中の無駄を省き、効率的な社会を作ろうとする偏向が、その実、許容できるピークを限界ギリギリまで低く保つ力となり、なおかつ、ピークをそれ以上に上昇させないために、本当は必要な権利さえ、主張できないようにする社会的な圧力が生まれたりしているような気がします。そして、それについては、自分自身が権利を主張しようとするタイミングになるまで気づけなかったりするんですよ。普段はなんとなくあるんだろうなと思って生きていて、そしてそれはある種の幸福の在り方じゃないですか。

 銀行通帳に一億円の文字が見えたとき、それが存在するものだと信じて、いざとなったら引き出して使えばいいと思いながら、特段引き出す機会もなく一生を終えることができたとき、その一億円が本当に存在したものなのか、通帳の数字にだけ存在して、実は金庫に一円もなかったのかは同じ結果になります。ないものをあると信じたままで生きられる幸福感みたいなのもあるわけですよ。

 

 でも逆説的に、それが本当はないんだと気づいてしまうことによる不安もあります。引き出さなくてはならなくなった人がまずそれに気が付き、そして、そのことから雪崩を打ったように誰もが皆一度に引き出そうとすれば、銀行自体が破綻してしまうかもしれません。人間はないものをあるかのように信じることで上手く生きていたりもするんじゃないかなと思います。それは、神さまの力で来世の幸福を信じて生きるのと似たようなものかもしれません。

 

 これは、人がもっとずっと豊かになり、土管自体をより太くすること以外には、根本的な解決はできない話なのかもしれません。

 

 さて、最近ネットで目にした権利の行使の理不尽な制限を求めるものといえば著作権の話があります。日本の著作権法では、作者には著作者人格権として同一性保持権に関する規定があり、著作物について勝手な改変をされることを差し止める権利があります。つまり例えば、漫画のコマを勝手に抜き出して絵に修正を加えたり、セリフを改変したりする行為は(インターネットではよく目にするものの)、著作者の権利の侵害行為であり、申し立てがあれば差し止められるものです。

 ただし、商用利用されるなどでない限り、SNSなどで日常的に行われるそれが実際に訴えられたという事例はあまり耳にしません。ただ、それを差し止めるための権利は本当はちゃんとあるわけですよ。

 

 これに関してどうぞ好きに台詞改変して遊んでくださいと寛容な態度をとる作者もいて、それ自体も権利の範疇です。それを認めるか認めないかを判断する権利があるわけです。ただし、ネットのコメントなどを見ていると、そのような寛容な態度をとる作者を引き合いにして、それをしない作者を心が狭いというように表現するものを目にします。漫画なんかはある種の人気商売ですから、お客さんに嫌われるのは得策ではありません。そんな中でお客さん側の一部が言うわけですよね。「自分たちに嫌われたくなければ、お前は権利を行使してはならない」という主旨のことをです。そんなことを言ってしまうことこそが心が狭い話なんじゃないかと思います。

 僕自身、漫画のコラージュなどで好きなものも沢山あり(「幕末トランスフォーム」「ナンノブマイビジネス(夜に影を探すようなもの)」など)、それが面白いということも分かりますし、それを自由に楽しめなくなることが面倒くさい事態だなと思う気持ちもあります。でも、作者側がそれを嫌だなという権利もあると思うので、そうなったら、あちらの権利を尊重するのが筋だろいうという気持ちも僕にはあります。

 

 権利を認めるという話は自分に全く関係ないところであれば、全て認めてしかるべきだと簡単に言えますが、その他人が権利を主張することが自分にとって損になるとき、つまり他人の権利と自分の自由が衝突するときにどういう態度をとるかという話があると思います。

 そういうとき、概ねなんらか適当な理屈をつけて相手の権利の行使をできるだけしないようにするようなことを言ってしまったりしませんか?僕はそういうことを気にしているわけですよ。なぜ気にしているかというと、僕が他人にうっかりそういうことを言ってしまう可能性が十分あるからです。

 このように誰かの利が誰かの害になるというような矛盾してしまう権利同士は、そもそも統計多重することも難しくなります。立場上弱い側の権利の行使がただただ制限されて終わることもしばしばです。

 

 人間はそのような沢山の制約がある中でなんとかやっていて、技術や社会制度、規範意識の進歩により、昔に比べれば土管は太くなってきてはいるんじゃないかなと僕は思っています。しかしながら、それがあくまでまだまだ全員に同時に行使できるものではないということに気づいてしまっているきらいもあって、気づいてしまっているからこそ、自分がいざその権利を行使したいときには既にリソースが尽きてしまっているんじゃないか?という恐怖も付きまとってしまいます。

 そして、だからこそ、他人の権利行使を遮るようなローカルルールの押し付け合いもやってしまったりするじゃないですか。それだってある程度は仕方なくですよ。でも、そのあたりが、まだまだ豊かさが十分じゃないんだなと思います。

 

 気分のままに書いてたら、統計多重の話は最終的に全然関係なくなってしまったような気がしますが、本当は全員分ないものを、なんとなくあるような気になることで表面上は上手く回っているということが社会にはよくあると思います。でも、それを信じられているうちは上手く回っても、信じることができなくなった瞬間に、銀行の取り付け騒ぎのように瓦解してしまう気もします。

 ギリギリでやってることも多いんだよなあという気持ちがあって、それでもなんでか上手く行ってたり、上手く行かないところでは何かしら悲しいことが起こったりしつつ、根本的には、豊かさの土管を太くしていかにゃあならないよなあというような気持ちが生じたので、今日はその気持ちが生じたということを書き記しておくことにします。

「フラジャイル」の宮崎先生の独り立ちエピソードがめちゃくちゃ心にきた話

 アフタヌーンで連載中のフラジャイルはめちゃくちゃ好きな漫画なのですが、前回と今回の2ヶ月で描かれた宮崎先生の独り立ちエピソードが読んでいてめちゃくちゃ心にきてしまい、朝の電車で読みながらほろりほろりと泣いてしまいました。

 

 フラジャイルは病理医の漫画です。病理医とはドクターズドクターとも呼ばれる病理診断を行う専門医で、例えば患者の体組織や細胞片のサンプルを使った診断を行ったり、患者の死亡後に解剖してその診断が正しかったかの答え合わせを行ったり(剖検)します。患者と直接相対することは少なく、裏方のような役回りです。この物語の主人公は岸先生、独善的で傲慢に見える男で、十割の確定診断を行うと豪語する変わり者です。彼は正しいがゆえに他の臨床医を打ち負かし、正しいがゆえに疎まれます。

 なぜならば、臨床医や救急医にとって、正しさは常に正しくはないからです。それは例えばリソースの不足で、患者や緊急性に対して、十分な人数や時間がない場合、その正しさを正しく履行するための余力がない場合があります。あるいは、責任の問題です。病理医の診断はあくまで病理医の診断であって、最終的に患者への対応を決め、その責任があるのは臨床医や救急医です。その責任を抱えた医者は、他人の判断よりも、自分の判断をしたいこともあるでしょう。なぜなら、その責任は自分に返ってくるからです。

 

 この物語は「責任」の物語であるかもしれません。誰かの判断が、患者の生死を決定づけてしまうかもしれないからです。この物語は「覚悟」の物語であるかもしれません。その判断が常に成功するわけではなく、失敗してしまう場合もあるからです。その失敗を乗り越えて先に進まなければならないからです。

 

 (ここから先は未単行本化部分のネタバレが含まれますのでご注意)

 

 宮崎先生は、ある出来事から岸先生のもとで病理医になることを志すようになった女性です。彼女は、自分の正しさを背景に他人に強く当たる岸先生とは異なり、人の和を大切にしようとする人物です。彼女は岸先生を反面教師とし、臨床医ともスムーズに連携していこうとします。相手を立てるように、摩擦を減らすように、その中にさりげなく自分の意見を混ぜ込み、誰も否定しないように、伝え、共有し、自分が初めて独りで任された診断をやりとげようとします。

 あらゆる可能性を疑い、仮説を立て、検査し、エビデンスを元に診断し、寝る間も惜しんでの没頭の末に、誰も原因が分からなかった患者の病気の根本原因を探し当て、主張します。

 

 しかしながら、患者は死亡します。その最終的な診断が出るよりも前に生きる力が弱り果ててしまっていたからです。自分なりのベストを尽くし、自分の中でこれ以上ない正解だけを引き当てて辿り着いた結果が、遅すぎたということです。それを宮崎先生は自分の力不足だと思いました。そして、剖検によって自分の判断を答え合わせをすることになります。自分は本当に正しかったのか?それを自分自身で採点することになるのです。次のより良い診断のために、次の次のより良い診断のために。

 

 その結果、彼女が至った結論は自分の判断の間違いでした。継続を提案した投薬の効果は一切見られず、そのために患者は弱っていったのです。診断が出るまで耐えることもできずに。自分の持てる限りの精一杯の正解を出し続けて辿り着いた先が力不足です。自分のせいです。助けることができなかったのです。それは医者を続けていく以上、これから先に何度も遭遇するものかもしれません。しかし、彼女はそれに耐えられないかもしれない心持になりました。自分の判断が人を死なせてしまう。そんな自分の情けなさを、これから先もずっと経験し続けなければならないのかと。

 

 これはとても辛い話なわけですよ。因果関係には保存則はありません。過程を頑張ったという事実は、その結果が良いものであることを一切保証しないのです。でも、人の心は違うでしょう。求めますよ。人間なんだから。じゃなければ、どうやって次を頑張ればいいんですか??自分の頑張りが実を結ばない環境に居続けるには、その無力感に耐え続けるか、心を殺してひとつひとつに責任を感じることをやめてしまうぐらいしかないじゃないですか。それはとても悲しい話ですよ。病理専門医になろうとした彼女の心に、その決意を揺るがせるぐらいには重く苦しい出来事です。

 

 岸先生だけが気づいていました。患者の検体の様子のおかしさにです。宮崎先生が指示した投薬の継続をしていれば、こんなことになるはずがないということに。そう、彼女の提案を、臨床医は無視したのです。自分の判断で投薬を中止していたのです。それが継続されていれば、間に合ったかもしれないのに。

 患者をみすみす死なせたのは誰か?その臨床医は、目の前で自分の力不足に苛まれる宮崎先生を見ながら、諦めのような笑みを浮かべています。

 

 助けられたかもしれない命を、助けるためにマイナスの判断をその臨床医はしました。果たして彼は悪者でしょうか?どこかしら悪い部分はあるでしょう。しかし、その患者は、彼にとっての恩人でした。誰より助けたかったのは彼自身のはずです。そして自分の判断は副作用を恐れた投薬の中止です。それに反対したのは、宮崎先生です。北風と太陽などと言いながら、にこやかに接してきた、まだ専門医の資格も持っていない病理一年目のペーペーの女性です。彼はそれを信じることができなかったわけですよ。そこに賭けることができなかったわけですよ。患者は恩人なのだから。目の前の小娘の判断で恩人を死なせてしまう後悔よりも、自分が判断したという事実を得たかったわけですよ。そこには一切のエビデンスはありません。そこにあったのは、想いです。あまりに人間的な彼の判断は、宮崎先生を無視し、患者をみすみす死なせてしまいました。

 

 「仕方ない、わかるだろ」、吐き捨てるように言う臨床医の言葉に「わかるわけないだろ」と宮崎先生は答えます。

 

 それは岸先生のような北風ではなく太陽になろうと志していたはずの人間から出た言葉です。わかるわけがない。わかってはいけない。仕方がないと諦めることから何よりも遠かったのが、宮崎先生がこの診断にかけた姿だったわけじゃないですか。それは無駄になりました。次は無駄にしてはいけません。もし投薬継続の指示が彼女でなく、岸先生から出た言葉であったなら、その臨床医は投薬を再開したかもしれません。自分の言葉が、自分の言葉だったからこそ相手に届かなかったという事実に直面したわけです。だからこそ彼女はこう言い切ります。

 

 「今後、私の病理診断は絶対です」

 

 悔しさに涙を浮かべながら辿り着いた言葉がこれです。「絶対」、それは岸先生と同じ言葉じゃないですか。自分は岸先生とは違う道を歩もうとした結果、同じ場所に辿り着いてしまったわけです。ただ闇雲に自分の正義を押し付けるような岸先生の過去にも、同じようなことがあったのではないかということを示唆させたりもするわけですよ。

 人間の体にはメカニズムがあります。何かが起こっているということには、必ず原因があり、そこに辿り着くのが病理医の仕事です。診断は丁半博打をやっているわけではないわけですよ。確率の話ではなく、根拠を持った話をしなければなりません。それを調べてエビデンスのもとに辿り着くのが病理医の仕事であって、それが岸先生の言う十割の診断です。たまたま間違わないわけではなく、間違わないためにできる全てを行った背景があるから出てくるのが「十割」「絶対」という言葉じゃないですか。
彼女はこれから先、それをやることにしたわけじゃないですか。

 

 彼女がこの失敗で足を止めずに前に進むことを決意したことは救いですよ。躓いた一歩目の先に、二歩三歩と進んでいくことが見えたのが、読者である僕にとって救いのように感じました。仕方がないという言葉で諦めてしまう誘惑にかられるのが仕事です。お金や時間や人手から、実際に諦めざるを得ないこともありますよ。でも、それでいいのかという燻りがあるわけですよ。

 北風と太陽の作戦には失敗しても、宮崎先生の姿はそれはやはり太陽なんじゃないかと思っていて、僕はそこに、挫折と悲しさの先に、なんて強さと希望に満ち溢れたお話なんだろうと思いました。

 いやもう、ほんと好きな漫画なので、世の中でもめちゃくちゃ読まれてほしい~という気持ちです。

自分の子供に直接それを言えますか?への適切な回答とは何か?

 ツイッターを見てたらインターネットで盛り上がっている話題みたいなものが断片的に流れてきており、自分の子供に対してひどい感じの表現をした人がいて、その人に対して「その発言、自分の子供に対して直接言えますか?」という感じの詰め寄りが発生しているのを今さっき目にしました。

 問題になっている話の主題自体についてはちゃんと読んでもいないし特に興味がないのですが、この聞かれ方が気になります。つまりこのような聞かれ方をしたときには、人間はいったいどのように答えるのが正しいんだろうな?ということです。

 

 この問いに単純に答えることは難しくて、なぜなら、「はい」と答えたら、自分の子供になんてことを言うんだ!と叩かれ、「いいえ」と答えたら、なぜ言えないような発言をするんだ!と叩かれると思うからです。どっちにしても叩かれます。

 

 しかしながら、「HUNTER×HUNTER」を読んでいる僕らには正しい答えが分かります。細かいことは前書いた以下を参照してください。

mgkkk.hatenablog.com

 「沈黙」、クラピカさんが言うように、答えようのない質問には沈黙を守るということができるのです。ただし、現実はHUNTER×HUNTERではないので、沈黙すればするで、なんで質問に答えないんだ!と叩かれてしまうでしょう。そしてゴンのように、単純な答えの出ない問題だが、それでもいつか答えを出さないといけないときのために考え続けることはできる…と言っても今がその時だから答えろ!を叩かれる気がします。

 

 結局この問いを出された時点で、何を言っても叩かれるのだから、何を言っても同じなんじゃないの?みたいな気持ちがあり、質問に答えてほしいわけではなく、「今の発言はよくない発言だったので撤回します、ごめんなさい」と謝ることを求められていて、それ以外の行動は、全部相手に対するさらなる攻撃をする口実を与えるだけにしかならないんじゃないでしょうか?

 聞かれた時点で詰んでいるわけですよ。つまり、相手は貧者の薔薇(ミニチュアローズ)を携えたネテロですよ。

 

 しかし、HUNTER×HUNTERをよく思い返してみれば人間にはまだ可能性があり、レオリオだなと思うわけですよ。単純に答えを出せないドキドキ2択クイズを出されたときに、レオリオは何をしましたか?そう、クラピカに制止されはしたものの、そんなどちらか選べない質問に答えさせようとしたババアを殴ろうとしましたね。そんな問いを立てること自体に対する怒りがあるわけですよ。

 叩かれ続けたくもなく、謝りたくない人間には、もはやそんな問いを立てる相手を殴るしかありません。ああ、なんということでしょう。選ぶべき答えが限定された問いを投げかけられた人間には、虐げられるか、服従するか、争うかしか選択肢がないのです。

 

 さて、ここまで書いたのは冗談ですが、人間と付き合っていると相手に「はい」か「Yes」以外の答えを求められていない問いというものが時折発生し、ああ、しんどいなあと思うことがあります。結局のところ、自分の自由意志など認められておらず、相手の意志に従って動くだけの便利な道具と思われているんじゃないかと勘繰ってしまいます。それでいて、相手からすれば、選択肢を与えてやったみたいなツラをしてたりするわけですよ?

 何かあったときには「自分でちゃんと選んだだろ」と選択肢もなかったのに、自らの意志でそれをすることにしたみたいに言われたりして、ひでえ話だなあと思ったりします。やれ!と単純に命令されたほうがよっぽど筋が通っているじゃあないですか。

 

 そういう態度の人に対してウギャーって思う気持ちがあるので、誰かが揉めてるやつにそんな感じを感じとってしまって、フラッシュバックしてウギャーってなったので書きましたが、皆さんも他人を自分と同じ権利を持った人間だと尊重するなら、「Yes」と「No」を適切に選べる問いの立て方をできればしてやってくれよな!おいちゃんとの約束だぞ!!(Yes)でも別にしたくなかったらしなくてもいいぞ!(No)

黒田硫黄の絵のすごさ関連

 黒田硫黄の絵がめちゃくちゃ好きで(もちろん漫画としても好きです)、真似をしたいと常々思っていますが、上手く真似をできないという状況です。そのすごさを説明するための切り口は色々あると思うんですけど、その中で僕が好きなものの一つはベタの使い方です。ベタの使い方により、光と影を明確に描くところです。

 

 人間は反射した光を目で見て、その物体を認識しています。人間の目はその中でも明度の違いに敏感にできているそうで、例えば上手くない写真のコラージュや、昔の映画などにおける上手くない合成映像に見て取れる違和感は、合成されるもの同士の光の当たり方が異なるところにあったりします。なので、上手く合成するためには、最初から光の情報を合わせたり、追加で足したりするようなことをします。人間はそのように、どのように光が当たっているかに敏感に物を見ていて、それにより、物体の形状や距離感を仔細に判断しているように思います。

 一方、それを逆手にとることで簡単に騙されてしまったりします。例えばトリックアートなんかがそうですね。絵に平面で描かれたものが、まるで立体物であるかのように見えたりしてしまうとき、絵筆で描かれた影の描写が重要な部分を担っています。トリックアートには、現場で見るよりも写真で見る方がより騙されやすいでしょう。なぜなら、現場で見るなら視点を変更してその変化を見ることができますが、写真の場合は視点が固定されてしまうので、視点の差から追加情報を読み取ることができないからです。

 つまり、人間の目は物体への光の当たり方を見ることで多大な情報を読み取っていますが、一方、それを利用すれば、平面でしかないものに立体であるかのような情報を付与することができるのです。

 

 この応用は絵を描く上で非常に重要なテクニックのひとつです。

 

 僕が好きなデイリーポータルZでやっていた実験があります。それは、座禅を組んだ人の前に黒くて丸い布を置くと、それを影と誤認して、人が浮いているように見えるというものです。

portal.nifty.com

 絵を描くときもこれと同じ原理のことをするわけです。物の形を線として正確に捉えることができなくとも、その物体が存在する場合に、当然生じるはずの影をしっかり描きさえすれば、簡便に立体感を演出することができます。紙面という平面の中に立体を取り込むためには、影の描写が重要な意味を持つというわけです。

 

 黒田硫黄の絵は、その影の置き方が全くもってすごい。

 

 線とベタだけでスクリーントーンを貼らず、白黒ぱっきり分かれた絵でも、置くべき場所に黒ベタを置くことで空間に存在する数々の物体を位置が分かるように描くことができます。仮に同じ風景が実在したとしたら、その写真と同等の立体物としての情報量を、筆の線とベタだけのより少ない情報だけの絵で再現してしまうというすごさがここにあります。そこにはどれだけの情報を間引いても、空間の中にある物体を把握する上では十分な情報を残し続けられるかというテクニックであり、その情報を残しさえすれば、定規を使わず筆で引いた揺らぎのある線でも空間把握をする上で問題がなくなります。むしろ、直線に囚われすぎない自由な表現が可能になるとも言えるでしょう。

 つまり、黒田硫黄の絵は、光の表現が白黒の使い分けで非常に現実的であり、そうであるがゆえにむしろ線の在り方を解放できることによって、現実以上の自由な描写が可能になっているということです。これは、言葉にすれば簡単にですが、なかなかできないことというか、僕には全くできていません。

 

 この点において共通する部分がある絵として、僕は生賴範義の絵があるのではないかと思っています。先日、生賴範義展で原画をまじまじと見て来ましたが、あんなに精緻な描き込みがされていると思っていた絵が、間近で見ると意外と筆が太く、細かく描き重ねているわけではないことが分かりました。しかし、それでいて情報量は十分に大きいわけですよ。例えるなら、レンズによりボケた絵です。対象にピントを合わさずボケた絵は、物体の詳細に関する情報が失われてしまいますが、そのぼんやりとした先に、精緻なものがあったはずということを読み取ることができます。生賴範義の絵もそのように思っていて、この筆は太く大きく雑然と置かれたように見えて、その先に情報があることを十分に想像することができます。それはないのではなく、たまたまピントが合っていないだけであるのです。描かずして描いているのです。

 つまりそれは、絵単体ではなく、見る人間の想像力とのコラボレーションにより、ないはずの情報を読み取れるような形で描かれているということです。あるべきところに大胆に置かれた筆が、ないはずのものを生み出し、それを見る者の頭の中で展開されて大きな情報として受け止められます。これは、最初から精緻に描かれたものを見る場合と、同じ作用でありつつも、中間にある情報自体は少ないため、ものすごく直接的に脳に来る感じがします。いやもう、ほんと良かったんですよ。生賴範義展。

 

 さて、黒田硫黄の絵の話に戻りますが、そういった現実から間引かれた情報量でありながら、見る者にとっては現実と同等の情報量を持ち、さらに絵であることの自由さをも持っていることに憧れるわけですよ。ざっくりと描いているようでそこに空間があることがありありと読み取れるわけですよ。その方法は、黒くあるところを黒く描き、白くあるところを白く描くというだけです。なんと素晴らしい。どこを黒く描き、どこを白く描くべきかが正解です。それを正しく選ぶことが、普通はできないわけです。それがとても良く感じます。

 

 黒田硫黄の漫画で特にこのすごさが見て取れるのは逆光の表現です。僕なんかはそういうのを描くのが恐ろしいわけですよ。例えば、人間の顔を逆光の影で黒く描くのが怖いです。なぜならば、顔の部品について描き込めるならば盛り込むことができる情報量を、逆光で黒く塗りつぶしてしまう場合には失ってしまうからです。

 黒田硫黄の漫画では、それをいともたやすくやってのける。なぜならば、その場面のその光源ではその顔の絵は黒くあるべきだからでしょう。僕には分かっていてもなかなかできないわけですよ。憧れるわけですよ。筆を何度も重ねることでようやく成り立っている絵を、塗りつぶしたとして同じものをできるようになりたいわけですよ。

 

 これに加えて構図や時間の切り取り方もすごいですからね。複数の要素を同じ枠の中に収める大胆な構図をこともなげに選択し、その中で前と後の両方を想像できる必要な1フレームを切り取って見せてくれます。この辺りにあるのは、おそらく必要に応じた正しい選択を都度都度するということで、これも当たり前のように見えてそれを適切に選択するのは難しい。

 なぜならば、例えば僕なら、その拙さゆえに最適な選択ではなく、手元にある選びやすい選択をしてしまうからです。自分に安心して描ける絵というものは、あらゆる絵の可能性からすると、その中の非常に限定的なものでしかなく、安心して描くならその組み合わせだけで全てを再現しなければなりません。つまり、狭くて縛られているんですよ。そこをやるべきことをするために、広くて自由な選択を行うことができているのが黒田硫黄の漫画ということです。

 

 このようにとにかく黒田硫黄の絵はすごい。僕はそれを言いたいわけです。